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2016年05月10日22:26
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お題１８『都会』 タイトル『七時間の幸福』
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「意外に都会じゃないか、ここも」
北九州市にある小倉駅で、俺は新幹線から降りた。いつもは博多駅まで向かうのだが、この途中で下車したのは打ち合わせがあるからだ。打ち合わせを終えた後、一人で一杯やるのが今日の楽しみだ。
待ち合わせ場所は小倉駅の一階にあるトラベルカフェだ。今日の十五時に泊まるホテルにあるカフェで客と商談することになっている。
客は本を出したいと願っている若者だ。彼がうちのホームページを見て自費出版で本を出したいとメールで要望したため、俺はこの町に来た。もちろん彼だけでなく、次の日の博多での案件も兼ねているため、直接ここまで来たといった方が正しい。
メールで送られてくる作品は大概お粗末なもので、何を主題に置いているかわからないものばかりだが、彼の作品は一味違った。きちんと読めるものは投稿に対して一割もなかったため、久しぶりに心が疼き、夢中で読ませて貰った。
だからといって彼の内容がとてもいいかというとそうでもない。文章がしっかり書けているだけで全てを読もうとは思えない代物だった。要は磨かれていない原石で、その一部分が光っているだけに過ぎない。
「すいません、お待たせしました」
年の若い男が入ってきて俺に頭を下げた。彼の外見年齢を察するに２０代前半だろう。目に光が宿っており、顔つきも幼い。
「小郷（おごう）です、よろしく」
俺が手を出すと、彼は手をズボンで拭きながら両手で握ってきた。
「笠原（かさはら）といいます。今日は契約をしていないのに、わざわざこちらに来て頂いてありがとうございます。本当に、本当にこちらこそよろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
……俺はいつから、人を見下すようになったのだろう。
彼の媚びた目が気に入らず目を背ける。上の立場に成れば、こういう状況にしか出くわさないのだ。
冷めた目で彼を覗き見る。彼の目には変わらず熱い光が宿ったままだった。それが自分の心に青い炎を点けるようで、温度は高くても気持ちは沈んでいった。
「じゃあまず、君の作品の総評をいわせてもらう前に、わが社の方針を述べさせて頂きます」
俺は営業トークで彼に自分の会社のアピールをした。
自費出版の会社は俺が知っているだけで２０社以上ある。だがそのほとんどが作者を客と扱っているため、物語の校正には関与しないものがほとんどだ。要は自己満足の世界である。
ここから羽ばたこうとする者はほとんどおらず、井の中の蛙状態で、自分の作品を手に取りそれで満足する人間が大部分を占めているのだ。
「ということは、自費出版がきっかけで作家デビューということはできないのですか？」
「もちろん、できないことはないですが、可能性は低いです」珈琲を飲んで唇を舐めて告げる。「まずあなたが本を出したからといって、それが全てプラスにはならないのです。本が売れなければ絶版となってしまい、あなた自身に傷がつくのです」
書籍販売が諸刃の剣だということを彼に提示する。
大概の作者は本を本屋に売り込もうとする。当たり前の考えだが、世の中、一日新書が２００冊以上出ているのだ。その中で彼の本を取ろうとするのは砂漠の中で宝石を掴むことと同じくらい難しい。
またその人物が全て読むかといえば、そうでもない。要は最初の１０ページに勝負を掛けなければならないのだ。
「……なるほど、参考になります」
彼はそういってしっかり俺の言葉をメモ帳に書いていった。今時の若者なのに珍しい、彼くらいの年齢ならスマートフォンでメモする人が多いからだ。その携帯はテーブルの上に置かれたままになっている。
「じゃあ、僕が本を出したからといって何のメリットもないのですね。色々な本を出していけば、いつかは作家になれるものだと思っていました……」
彼のいっていることもわからなくはない。要はその作者にどれだけの客がつくかということだ。客を掴むためには本を出さなければならない。だがその第一歩で滑ったら、本屋の業界では傷物として扱われてしまうのだ。
「なのでうちの会社はその絶版を無くすことに力を入れています」
彼にわかりやすいように説明を加える。
アマゾンなら書籍販売を使わなくても売り出せること、最初は１００部でスタートして、徐々に売り上げていけば絶版は防げること、作家としてのスタートはマラソンのようなもので、地道に積み上げていけば必ず客がついてくれること。
「なるほど、ありがとうございます。ここで出版しても僕にも希望があるのですね」
彼はそういって笑った。彼なら契約してくれるのではないかという希望が出る。
わが社では九十万円で自費出版を請け負うことになっている。それは安い金額ではないが、俺達にとってもリスクを背負うことになっているのだ。本が増刷されることになっても、作者には一切の負担がなく少なからず印税入ることが一つのポイントだ。
それは偏（ひとえ）に作者が安定した中で推敲できるようにするためだ。
どんなにいい作品でも、校正・推敲が入らなければ駄作になってしまう。どんなに有名な作家の物語でも校正は必要なのだ。だからこそ作者個人で本を出すことはなく、編集者の俺達がいる。
売れるための本を出すためには必ず二人三脚以上の足が必要なのだ。
「それでですね、まずあなたの作品の総評をいわせて貰いますと、いいものは持っていますが、このままでは絶対に売れません。なぜなら、あなたには基礎がない」
俺はきちんと自分の意見をいった、彼は小説家を目指しているからだ。その熱意を作品に感じたので、こちらも真剣に取り組まなければいけない。
普通の客に対してならこんなことをいう必要はない。服屋に行ってその着こなしでは駄目だ、これをつけろ、という店員がいるだろうか？ いるはずがない。
客が自分で好きなものを選べるから楽しめるのであって、皆、ファッションモデルになるために服屋に来ているわけではないからだ。
「……そうですね」俺の一言で彼の顔が曇り出した。「……僕も人に教えて貰った経験がないので、浅いと思っています……」
悔しそうに告げる彼に俺は自分の心境を重ねた。俺も若い頃、ライターとして働いていた時、年上の先輩に小言をいわれ歯がゆい思いをした。もちろんその後、営業成績で俺が勝ちこき使うことにしたのだが。
彼のように素直な時期が自分にもあったのだと今頃気づく。
「いえいえ、それでも凄いですよ」俺は営業トークで彼を褒めた。若者は繊細で傷つきやすいからだ。「人に教わらずにここまでの文章を４００ページも書ける人はほとんどいません。あなたの内容なら、きっと上を目指せますよ」
自分と組めば、という言葉を省略して――。
今の彼ではとてもじゃないが、紐で縛った筏（いかだ）レベルだ。タイタニックのような豪華客船が横を通れば、それだけで潰される。小説界は荒波の中にあるのだ、彼の力量のままでは進むことはできない。
お世辞をいったつもりだったのだが、逆効果で彼は涙を見せ始めた。
「正直、悔しいです……僕の中でこれが限界だといわれるほど煮詰めてきたので……」彼は涙をにじませるようにズボンの袖を掴みながら思いを吐露するようにいった。「推敲も１００回以上やっています。それでもまだ足りないといわれると、やっぱり悔しいです……僕の作品ではプロにはなれないのですね、それが本当に悔しくて」
……きっと彼なら自費出版でなくても成功する。
俺は彼の姿を見て心を打たれた。悔しいという思いがない人間は絶対に成長しない。それを人前で出すということは彼は真剣に取り組んできたということだ。
「何度も色んな出版社に投稿しました……どこからも返事がなくて、それでもこの作品で勝負したくて……自費出版ならきちんと意見が頂けると思っていたんです。やっぱり僕の作品じゃ……」
鼻水を垂らす彼に共感する。
編集者である俺は一人のライターでもある。小説を書いていて一番の苦悩は孤独だ。誰にも打ち明けることができず、ひたすら自分の道を行く。迷った挙句、何も返ってこない代物だ。それでも書かずにいられないのだから、小説家を目指すというのは修羅の道でしかない。
だが満足している人間に先はない。俺のように人生を達観しているものにはある一定の作品は書けるが、ヒット作は絶対に生まれない。
彼のように血に飢えた狂犬でなければ、ベストセラー作家になることはできないのだ。その最果てにある狂気こそが物語を狂わせ、読者をも狂わせることができるのだから――。
気づけば三時間が経っていた。いつもの打ち合わせなら二時間もあれば大概終わるのだが、今日は熱が入ってしまったらしい。外を見ると、タクシーのライトが眩しいくらいに夜が訪れていた。
「君、ここら辺の店に詳しい？」
「え、あ、はい。地元ですので一応」
「もし君がよければだけど、一緒にご飯でもどう？ 経費で落とすよ」
「え、いいんですか？」彼の笑顔がぱっと咲く。「でもせっかく来て貰ったので、僕に奢らせて下さい」
「経費で落ちるけど……」
「それでも出したいのです。あなたと話したという証が欲しいのです」
彼の情熱に心が傾く。俺の冷めた心が解けていく。
「……そうか、わかったよ。なら荷物を置いてくるからロビーで待っていてくれないか」
ホテルの部屋に入り、荷物を置いて鏡を見る。いつも通り、５０を過ぎた中年がそこにいる。だが心の中は童心に戻っているようで、胸のトキメキは抑えられない。
……どうかしている、仕事以外でこんなことをするとは。
「そうなんですね、やっぱり小郷さんは社会経験が豊富なんですね」笠原君は俺のおちょこにお酌をしながら真剣に頷く。「自分は福岡から出ていないので、東京に行ったことがないのですが……」
俺達は身の上話をしながら料理を摘まんだ。俺は酒を飲み、彼は驚くような食欲で目の前の皿を食べていった。もちろん今までの商談の中で酒を飲んだことなどない。
……まさか一緒に飯を食うことになるとはな。
自分で誘っておいて自分の状況を理解できていない。やはり都会から離れると、気持ちが変わるのかもしれない。都会には金の亡者しかいないのだ。だからこそ、俺は気を張り続けて今までやってきた。
……それも、もう少しの辛抱だが。
「君は東京に行きたいの？」
「もちろんですよ。出版社は東京に集中しているじゃないですか、それだけ素晴らしい作品が集まっている所で自分の力を試したいです」
彼の熱意に親心まで沸いていく。
「……そんなにいい所でもないけどね」おちょこを傾けながらいう。
彼は都会に憧れ、作家になるという夢を持っている。もちろん今の俺にはどちらもない。小説家でもある俺が夢を持っておらず、小説家ではない彼が夢を持っている。
……まったく、皮肉な関係だ。
「それにしても凄いですよね、小郷さんはずっと東京で働いて成功しているなんて」
大手の出版社で働きづめだった俺は独立し会社を立ち上げた。苦労もあったが、会社は水を得た木のようにぐんぐんと急成長した。そして今、社長業を引退し、一人のライターとして若手の育成に力を入れている。
それは自由を欲したからかもしれない。
「君はお酒飲まないの？」
「……小郷さんと話したことを覚えておきたいんです」
「……そうか」
彼と会って俺の心はどんどんと若くなっていく。時間が経っても彼の姿勢は崩れず、俺の一言一句逃すまいとメモしている。彼の携帯はずっとテーブルの上で静かに止まっている。
再び時計を見ると、二十時を回っていた。すでに彼と出会って五時間が経過している。
「どうします？ もう一件いきますか？」
「しかし君は飲んでないだろう？」
「次はよかったら奢って下さいよ」彼ははみかみながらいう。「安い所でいいです。一緒に飲みたいです」
俺も彼のことを忘れたくない、と思っていた。彼には自分にはない魅力を備えているのだ。
金では買えなかったものを、彼は確かに持っている。
「よかったら友達の店があるんです、そこにいきませんか？」
「いいよ、じゃあ次に行こう」
俺達は店を変える度に、関係がコロコロ変わっていく。編集長としての俺が、たった一人のための編集者となり、今では彼と肩を並べる友人となっている。
正直彼とは仕事関係になりたくないと思い始めていた。仕事の話になれば、いいたくないこともたくさんあるのだ。金が絡むと友情は生まれないというが、まさにその通りだと思う。
次の店に向かうまでに彼に自分の秘密を漏らしていく。
誰にもいわずに造園免許を取ったこと。密かにサックスを習っていること、彼は本当に聞き上手で俺の話を楽しそうに全て聞いてくれた。
……妻にも秘密にしていることをいってみようか。
俺は内心の葛藤に対峙しながら笠原君を見た。彼にならいっても受け止めて貰えるような気がする。
その時は友人として、彼の力になりたい。
次の店につき、笠原君と乾杯を交わす。先ほどと何も変わらない応対に俺は安堵する。彼になら最大級の秘密を告白してもいいだろう。誰にもいっていない秘密を伝えたい。
「実は俺には秘密があるんだが、訊いて貰ってもいいだろうか？」
「ええ、いいですよ。ゲイとかでなければ」
彼は酒を含み、人懐っこい笑顔を見せていた。ゲイでなくとも彼を抱き枕として寝たいという欲求が働く。
「実は……俺の体はあと、２年持たない」
「え？」
「仕事尽くめで俺の体は癌になっていたことに気づかなかったんだ」本心を吐露する。「それで俺は今、社長業を降りて一人のライターとして働いている。正直働かなくても食っていくだけの金はある」
「……じゃあなぜ、働いているのですか？」
「もちろん、夢があるからだ」俺は彼を見ていった。「いや、夢ができたといった方が正しい。俺は君のような若者に自分の技術を教えたい。俺には子供がいないからな」
なんとなく社長業を降りてライターになったのは自分の経験を誰かに託したかったのだ。死ぬことに恐れはないが、死ぬことで全てを失うことを恐れているのだと、俺は今、気づいた。
「そうだったのですか……」彼は急に黙り込み携帯を掴んだ。
「でも君に会えてよかった。どうだ、俺の最後の仕事、君にさせてくれないか？ 正直、君とは金の話をしたくないが、君がよければ俺の技術を盗んで欲しいと思う」
「小郷さん、ありがとうございます。でもすいません」彼は急に頭を下げた。「実は僕、お金ないんです」
「え？」
聞いていない話だった。最初に定義していたはずなのだが、彼はどうやって契約するつもりだったのだろうか。
「正直にいわせて下さい。最初、あなたが来てくれるとわかってこれは詐欺だと思っていたのです」彼は頭を下げながらスマートフォンを取り出した。「電話の対応も怪しかったので、僕は今日警戒してきました。実はスマートフォンであなたとの会話を録音していたのです」
電話の対応を思い出す。確かに俺が電話をした時は興奮していた。それは迷惑メールの中に本物が紛れているような幸運を掴みとったように感じたからだ。
「つまり、俺がここに来たのは大金を得るために来たと？」
「そうです。だから最初のご飯代を出しました。お酒を飲まなかったのもそのためです」
「はははっ」
俺は大笑いした。まさかスマートフォンをメモに使わず録音していたなど夢にも思わなかった。確かに俺の会社は有名だが、業界を知らない彼にとって俺は怪しい詐欺師だったのだ。
……面白い、本当に純粋だったのは俺だったわけか。
「それでもあなたの話を聞いていて、どこにも矛盾がなくて……どんどんあなたに魅力を感じるようになりました。今すぐには用意できませんが、自費出版で出すのならあなたの所で出したいです」
「ちなみにどれくらいで溜まりそう？」
「……二年後くらいに」
「俺の体がないじゃないか」
俺は彼に突っ込んだ。彼の分なら払ってもいいと思うが、それでは彼のためにならない。彼は原石だ。ここで磨かなければ、ただの石ころで終わってしまう。
「じゃあ仕方ないな。今回の契約はなしにしよう」
俺はきつくいった。編集者としてだ。
「だが友人としてならアドバイスができる。授業料は俺の本を読むことだ。それでいいか？」
「え、いいのですか」彼は目を大きく開けていった。
「当たり前だ。これは友人としてだからな」溜息をつきながら彼を見る。そこには俺が求めている瞳がある。「だからそれ以上、それ以下でも話すことはできない。これは契約ではなく誓約だ」
「もちろんそれで構いません、ありがとうございます」
俺達は手を取り合って誓い合う。
彼の熱意なら、必ず小説家として成功するだろう。彼の飢えた瞳に自分と同じものを感じたからだ。
……そうか、俺はこの瞳を見たいがためにこの世界に入ったのだった。
編集者として、作家のエネルギーを貰い、俺は気づけば人任せにしていた。
……俺は彼になりたかったのだ。一つの目的に迷いなく走る猪に、俺はなりたかったのだ。
時計を見ると、二十二時を迎えていた。編集者としては失格だが、彼と共にいた七時間は俺にとって確かに幸福な時間だった。縁起のいい時間に再び胸が熱くなる。
「僕があなたの小説を全て読むまでは死なないで下さいね。ところで何の癌なんです？」
「ん？ 俺の病気か？」俺は口角を上げながらいった。「咽頭癌だよ。だから酒を飲めば、その分死期が早まるな」
「え？ マジですか」
「ああ、マジだよ」
俺はおちょこに残っている酒を全て飲み干していった。
「だから今日から酒は止める。俺はもう一度、この七時間の幸福を味わいたいからね」
タイトルへ→http://
お題が同じで『別の作者様』の作品です。もしあなたのお時間があれば、こちらもお願いします。
� 攵己埔�説】都会に呑まれた少女【前編】 作者：藍沢篠様
http://
田舎で暮らしてきた幼馴染との約束をきっかけに、少年が奔走する話です。
北九州市にある小倉駅で、俺は新幹線から降りた。いつもは博多駅まで向かうのだが、この途中で下車したのは打ち合わせがあるからだ。打ち合わせを終えた後、一人で一杯やるのが今日の楽しみだ。
待ち合わせ場所は小倉駅の一階にあるトラベルカフェだ。今日の十五時に泊まるホテルにあるカフェで客と商談することになっている。
客は本を出したいと願っている若者だ。彼がうちのホームページを見て自費出版で本を出したいとメールで要望したため、俺はこの町に来た。もちろん彼だけでなく、次の日の博多での案件も兼ねているため、直接ここまで来たといった方が正しい。
メールで送られてくる作品は大概お粗末なもので、何を主題に置いているかわからないものばかりだが、彼の作品は一味違った。きちんと読めるものは投稿に対して一割もなかったため、久しぶりに心が疼き、夢中で読ませて貰った。
だからといって彼の内容がとてもいいかというとそうでもない。文章がしっかり書けているだけで全てを読もうとは思えない代物だった。要は磨かれていない原石で、その一部分が光っているだけに過ぎない。
「すいません、お待たせしました」
年の若い男が入ってきて俺に頭を下げた。彼の外見年齢を察するに２０代前半だろう。目に光が宿っており、顔つきも幼い。
「小郷（おごう）です、よろしく」
俺が手を出すと、彼は手をズボンで拭きながら両手で握ってきた。
「笠原（かさはら）といいます。今日は契約をしていないのに、わざわざこちらに来て頂いてありがとうございます。本当に、本当にこちらこそよろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
……俺はいつから、人を見下すようになったのだろう。
彼の媚びた目が気に入らず目を背ける。上の立場に成れば、こういう状況にしか出くわさないのだ。
冷めた目で彼を覗き見る。彼の目には変わらず熱い光が宿ったままだった。それが自分の心に青い炎を点けるようで、温度は高くても気持ちは沈んでいった。
「じゃあまず、君の作品の総評をいわせてもらう前に、わが社の方針を述べさせて頂きます」
俺は営業トークで彼に自分の会社のアピールをした。
自費出版の会社は俺が知っているだけで２０社以上ある。だがそのほとんどが作者を客と扱っているため、物語の校正には関与しないものがほとんどだ。要は自己満足の世界である。
ここから羽ばたこうとする者はほとんどおらず、井の中の蛙状態で、自分の作品を手に取りそれで満足する人間が大部分を占めているのだ。
「ということは、自費出版がきっかけで作家デビューということはできないのですか？」
「もちろん、できないことはないですが、可能性は低いです」珈琲を飲んで唇を舐めて告げる。「まずあなたが本を出したからといって、それが全てプラスにはならないのです。本が売れなければ絶版となってしまい、あなた自身に傷がつくのです」
書籍販売が諸刃の剣だということを彼に提示する。
大概の作者は本を本屋に売り込もうとする。当たり前の考えだが、世の中、一日新書が２００冊以上出ているのだ。その中で彼の本を取ろうとするのは砂漠の中で宝石を掴むことと同じくらい難しい。
またその人物が全て読むかといえば、そうでもない。要は最初の１０ページに勝負を掛けなければならないのだ。
「……なるほど、参考になります」
彼はそういってしっかり俺の言葉をメモ帳に書いていった。今時の若者なのに珍しい、彼くらいの年齢ならスマートフォンでメモする人が多いからだ。その携帯はテーブルの上に置かれたままになっている。
「じゃあ、僕が本を出したからといって何のメリットもないのですね。色々な本を出していけば、いつかは作家になれるものだと思っていました……」
彼のいっていることもわからなくはない。要はその作者にどれだけの客がつくかということだ。客を掴むためには本を出さなければならない。だがその第一歩で滑ったら、本屋の業界では傷物として扱われてしまうのだ。
「なのでうちの会社はその絶版を無くすことに力を入れています」
彼にわかりやすいように説明を加える。
アマゾンなら書籍販売を使わなくても売り出せること、最初は１００部でスタートして、徐々に売り上げていけば絶版は防げること、作家としてのスタートはマラソンのようなもので、地道に積み上げていけば必ず客がついてくれること。
「なるほど、ありがとうございます。ここで出版しても僕にも希望があるのですね」
彼はそういって笑った。彼なら契約してくれるのではないかという希望が出る。
わが社では九十万円で自費出版を請け負うことになっている。それは安い金額ではないが、俺達にとってもリスクを背負うことになっているのだ。本が増刷されることになっても、作者には一切の負担がなく少なからず印税入ることが一つのポイントだ。
それは偏（ひとえ）に作者が安定した中で推敲できるようにするためだ。
どんなにいい作品でも、校正・推敲が入らなければ駄作になってしまう。どんなに有名な作家の物語でも校正は必要なのだ。だからこそ作者個人で本を出すことはなく、編集者の俺達がいる。
売れるための本を出すためには必ず二人三脚以上の足が必要なのだ。
「それでですね、まずあなたの作品の総評をいわせて貰いますと、いいものは持っていますが、このままでは絶対に売れません。なぜなら、あなたには基礎がない」
俺はきちんと自分の意見をいった、彼は小説家を目指しているからだ。その熱意を作品に感じたので、こちらも真剣に取り組まなければいけない。
普通の客に対してならこんなことをいう必要はない。服屋に行ってその着こなしでは駄目だ、これをつけろ、という店員がいるだろうか？ いるはずがない。
客が自分で好きなものを選べるから楽しめるのであって、皆、ファッションモデルになるために服屋に来ているわけではないからだ。
「……そうですね」俺の一言で彼の顔が曇り出した。「……僕も人に教えて貰った経験がないので、浅いと思っています……」
悔しそうに告げる彼に俺は自分の心境を重ねた。俺も若い頃、ライターとして働いていた時、年上の先輩に小言をいわれ歯がゆい思いをした。もちろんその後、営業成績で俺が勝ちこき使うことにしたのだが。
彼のように素直な時期が自分にもあったのだと今頃気づく。
「いえいえ、それでも凄いですよ」俺は営業トークで彼を褒めた。若者は繊細で傷つきやすいからだ。「人に教わらずにここまでの文章を４００ページも書ける人はほとんどいません。あなたの内容なら、きっと上を目指せますよ」
自分と組めば、という言葉を省略して――。
今の彼ではとてもじゃないが、紐で縛った筏（いかだ）レベルだ。タイタニックのような豪華客船が横を通れば、それだけで潰される。小説界は荒波の中にあるのだ、彼の力量のままでは進むことはできない。
お世辞をいったつもりだったのだが、逆効果で彼は涙を見せ始めた。
「正直、悔しいです……僕の中でこれが限界だといわれるほど煮詰めてきたので……」彼は涙をにじませるようにズボンの袖を掴みながら思いを吐露するようにいった。「推敲も１００回以上やっています。それでもまだ足りないといわれると、やっぱり悔しいです……僕の作品ではプロにはなれないのですね、それが本当に悔しくて」
……きっと彼なら自費出版でなくても成功する。
俺は彼の姿を見て心を打たれた。悔しいという思いがない人間は絶対に成長しない。それを人前で出すということは彼は真剣に取り組んできたということだ。
「何度も色んな出版社に投稿しました……どこからも返事がなくて、それでもこの作品で勝負したくて……自費出版ならきちんと意見が頂けると思っていたんです。やっぱり僕の作品じゃ……」
鼻水を垂らす彼に共感する。
編集者である俺は一人のライターでもある。小説を書いていて一番の苦悩は孤独だ。誰にも打ち明けることができず、ひたすら自分の道を行く。迷った挙句、何も返ってこない代物だ。それでも書かずにいられないのだから、小説家を目指すというのは修羅の道でしかない。
だが満足している人間に先はない。俺のように人生を達観しているものにはある一定の作品は書けるが、ヒット作は絶対に生まれない。
彼のように血に飢えた狂犬でなければ、ベストセラー作家になることはできないのだ。その最果てにある狂気こそが物語を狂わせ、読者をも狂わせることができるのだから――。
気づけば三時間が経っていた。いつもの打ち合わせなら二時間もあれば大概終わるのだが、今日は熱が入ってしまったらしい。外を見ると、タクシーのライトが眩しいくらいに夜が訪れていた。
「君、ここら辺の店に詳しい？」
「え、あ、はい。地元ですので一応」
「もし君がよければだけど、一緒にご飯でもどう？ 経費で落とすよ」
「え、いいんですか？」彼の笑顔がぱっと咲く。「でもせっかく来て貰ったので、僕に奢らせて下さい」
「経費で落ちるけど……」
「それでも出したいのです。あなたと話したという証が欲しいのです」
彼の情熱に心が傾く。俺の冷めた心が解けていく。
「……そうか、わかったよ。なら荷物を置いてくるからロビーで待っていてくれないか」
ホテルの部屋に入り、荷物を置いて鏡を見る。いつも通り、５０を過ぎた中年がそこにいる。だが心の中は童心に戻っているようで、胸のトキメキは抑えられない。
……どうかしている、仕事以外でこんなことをするとは。
「そうなんですね、やっぱり小郷さんは社会経験が豊富なんですね」笠原君は俺のおちょこにお酌をしながら真剣に頷く。「自分は福岡から出ていないので、東京に行ったことがないのですが……」
俺達は身の上話をしながら料理を摘まんだ。俺は酒を飲み、彼は驚くような食欲で目の前の皿を食べていった。もちろん今までの商談の中で酒を飲んだことなどない。
……まさか一緒に飯を食うことになるとはな。
自分で誘っておいて自分の状況を理解できていない。やはり都会から離れると、気持ちが変わるのかもしれない。都会には金の亡者しかいないのだ。だからこそ、俺は気を張り続けて今までやってきた。
……それも、もう少しの辛抱だが。
「君は東京に行きたいの？」
「もちろんですよ。出版社は東京に集中しているじゃないですか、それだけ素晴らしい作品が集まっている所で自分の力を試したいです」
彼の熱意に親心まで沸いていく。
「……そんなにいい所でもないけどね」おちょこを傾けながらいう。
彼は都会に憧れ、作家になるという夢を持っている。もちろん今の俺にはどちらもない。小説家でもある俺が夢を持っておらず、小説家ではない彼が夢を持っている。
……まったく、皮肉な関係だ。
「それにしても凄いですよね、小郷さんはずっと東京で働いて成功しているなんて」
大手の出版社で働きづめだった俺は独立し会社を立ち上げた。苦労もあったが、会社は水を得た木のようにぐんぐんと急成長した。そして今、社長業を引退し、一人のライターとして若手の育成に力を入れている。
それは自由を欲したからかもしれない。
「君はお酒飲まないの？」
「……小郷さんと話したことを覚えておきたいんです」
「……そうか」
彼と会って俺の心はどんどんと若くなっていく。時間が経っても彼の姿勢は崩れず、俺の一言一句逃すまいとメモしている。彼の携帯はずっとテーブルの上で静かに止まっている。
再び時計を見ると、二十時を回っていた。すでに彼と出会って五時間が経過している。
「どうします？ もう一件いきますか？」
「しかし君は飲んでないだろう？」
「次はよかったら奢って下さいよ」彼ははみかみながらいう。「安い所でいいです。一緒に飲みたいです」
俺も彼のことを忘れたくない、と思っていた。彼には自分にはない魅力を備えているのだ。
金では買えなかったものを、彼は確かに持っている。
「よかったら友達の店があるんです、そこにいきませんか？」
「いいよ、じゃあ次に行こう」
俺達は店を変える度に、関係がコロコロ変わっていく。編集長としての俺が、たった一人のための編集者となり、今では彼と肩を並べる友人となっている。
正直彼とは仕事関係になりたくないと思い始めていた。仕事の話になれば、いいたくないこともたくさんあるのだ。金が絡むと友情は生まれないというが、まさにその通りだと思う。
次の店に向かうまでに彼に自分の秘密を漏らしていく。
誰にもいわずに造園免許を取ったこと。密かにサックスを習っていること、彼は本当に聞き上手で俺の話を楽しそうに全て聞いてくれた。
……妻にも秘密にしていることをいってみようか。
俺は内心の葛藤に対峙しながら笠原君を見た。彼にならいっても受け止めて貰えるような気がする。
その時は友人として、彼の力になりたい。
次の店につき、笠原君と乾杯を交わす。先ほどと何も変わらない応対に俺は安堵する。彼になら最大級の秘密を告白してもいいだろう。誰にもいっていない秘密を伝えたい。
「実は俺には秘密があるんだが、訊いて貰ってもいいだろうか？」
「ええ、いいですよ。ゲイとかでなければ」
彼は酒を含み、人懐っこい笑顔を見せていた。ゲイでなくとも彼を抱き枕として寝たいという欲求が働く。
「実は……俺の体はあと、２年持たない」
「え？」
「仕事尽くめで俺の体は癌になっていたことに気づかなかったんだ」本心を吐露する。「それで俺は今、社長業を降りて一人のライターとして働いている。正直働かなくても食っていくだけの金はある」
「……じゃあなぜ、働いているのですか？」
「もちろん、夢があるからだ」俺は彼を見ていった。「いや、夢ができたといった方が正しい。俺は君のような若者に自分の技術を教えたい。俺には子供がいないからな」
なんとなく社長業を降りてライターになったのは自分の経験を誰かに託したかったのだ。死ぬことに恐れはないが、死ぬことで全てを失うことを恐れているのだと、俺は今、気づいた。
「そうだったのですか……」彼は急に黙り込み携帯を掴んだ。
「でも君に会えてよかった。どうだ、俺の最後の仕事、君にさせてくれないか？ 正直、君とは金の話をしたくないが、君がよければ俺の技術を盗んで欲しいと思う」
「小郷さん、ありがとうございます。でもすいません」彼は急に頭を下げた。「実は僕、お金ないんです」
「え？」
聞いていない話だった。最初に定義していたはずなのだが、彼はどうやって契約するつもりだったのだろうか。
「正直にいわせて下さい。最初、あなたが来てくれるとわかってこれは詐欺だと思っていたのです」彼は頭を下げながらスマートフォンを取り出した。「電話の対応も怪しかったので、僕は今日警戒してきました。実はスマートフォンであなたとの会話を録音していたのです」
電話の対応を思い出す。確かに俺が電話をした時は興奮していた。それは迷惑メールの中に本物が紛れているような幸運を掴みとったように感じたからだ。
「つまり、俺がここに来たのは大金を得るために来たと？」
「そうです。だから最初のご飯代を出しました。お酒を飲まなかったのもそのためです」
「はははっ」
俺は大笑いした。まさかスマートフォンをメモに使わず録音していたなど夢にも思わなかった。確かに俺の会社は有名だが、業界を知らない彼にとって俺は怪しい詐欺師だったのだ。
……面白い、本当に純粋だったのは俺だったわけか。
「それでもあなたの話を聞いていて、どこにも矛盾がなくて……どんどんあなたに魅力を感じるようになりました。今すぐには用意できませんが、自費出版で出すのならあなたの所で出したいです」
「ちなみにどれくらいで溜まりそう？」
「……二年後くらいに」
「俺の体がないじゃないか」
俺は彼に突っ込んだ。彼の分なら払ってもいいと思うが、それでは彼のためにならない。彼は原石だ。ここで磨かなければ、ただの石ころで終わってしまう。
「じゃあ仕方ないな。今回の契約はなしにしよう」
俺はきつくいった。編集者としてだ。
「だが友人としてならアドバイスができる。授業料は俺の本を読むことだ。それでいいか？」
「え、いいのですか」彼は目を大きく開けていった。
「当たり前だ。これは友人としてだからな」溜息をつきながら彼を見る。そこには俺が求めている瞳がある。「だからそれ以上、それ以下でも話すことはできない。これは契約ではなく誓約だ」
「もちろんそれで構いません、ありがとうございます」
俺達は手を取り合って誓い合う。
彼の熱意なら、必ず小説家として成功するだろう。彼の飢えた瞳に自分と同じものを感じたからだ。
……そうか、俺はこの瞳を見たいがためにこの世界に入ったのだった。
編集者として、作家のエネルギーを貰い、俺は気づけば人任せにしていた。
……俺は彼になりたかったのだ。一つの目的に迷いなく走る猪に、俺はなりたかったのだ。
時計を見ると、二十二時を迎えていた。編集者としては失格だが、彼と共にいた七時間は俺にとって確かに幸福な時間だった。縁起のいい時間に再び胸が熱くなる。
「僕があなたの小説を全て読むまでは死なないで下さいね。ところで何の癌なんです？」
「ん？ 俺の病気か？」俺は口角を上げながらいった。「咽頭癌だよ。だから酒を飲めば、その分死期が早まるな」
「え？ マジですか」
「ああ、マジだよ」
俺はおちょこに残っている酒を全て飲み干していった。
「だから今日から酒は止める。俺はもう一度、この七時間の幸福を味わいたいからね」
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お題が同じで『別の作者様』の作品です。もしあなたのお時間があれば、こちらもお願いします。
� 攵己埔�説】都会に呑まれた少女【前編】 作者：藍沢篠様
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田舎で暮らしてきた幼馴染との約束をきっかけに、少年が奔走する話です。
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