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2016年04月10日22:40

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古戦場に立つ5

『神流川』  埼玉県上里町および群馬県藤岡市

天正10年(1582年)、日本の過半を手に入れ権力の絶頂にあった織田信長が、本能寺にて自刃した。
信長横死の影響は全国に波及したのだが、ここ関東平野においては、戦国期を通じて最大規模の野戦を引き起こすに至った。
世に言う「神流川の戦い」である。

宿敵武田家を滅ぼした信長は、知将・滝川一益を総司令官とした関東方面軍を組織し、上州(現在の群馬県)に駐屯せしめた。
当時の関東地方は、覇者となりつつあった北条氏に、関東諸将が連携して当たるという状況にあったが、いずれの陣営も天下人信長に誼を通じ、自軍に有利な外交展開を志向していた。
が、突然の信長の死によって、北条氏の態度が一変する。
表面上は滝川一益に友好的な態度を装いながらも、数万もの大軍を率いて関東平野を北上し始めたのである。

これに対して滝川一益は決戦を決意、上州の諸将を率いて北条の大軍を迎え撃った。
この戦いが、神流川の戦いである。
緒戦は歴戦の滝川軍が数に勝る北条軍を押しまくり、北条方の城を陥落させたものの、やがて圧倒的な兵力差により戦況が逆転、頼みの上州諸将が日和見的な態度を取ったこともあって、滝川軍は総退陣へと追い込まれてしまった。

この敗戦により命からがら本拠地伊勢へ帰還した滝川一益は、清須会議への出席権も認められず、没落への道を進み始める。
一方の勝者北条氏は、関東の覇権を狙うものの、同じく東国への伸長を企む徳川家康との鍔迫り合いからは結局何も引き出せず、上州の獲得のみに留まった。
後年北条氏が秀吉に滅ぼされる前兆は、ここから始まっていたとも評価できよう。

現在の神流川は当時とは少々位置が異なるようだが、二日間に亘って、しかも広範囲に戦われた合戦であるから、画像に写っている場所でも軍事行動がなされていた可能性が高い。
左の画像は神流川から浅間山方向を眺めており、当初北条軍が攻撃目標とした倉賀野方面に当たる。
中央の画像は神流川から本流の烏川方向を眺めたもので、おそらく主戦場に近いのはこちらだろう。この川下にある金窪城が、滝川軍によって陥落させられた城である。
右側の画像はオマケ。美しい花が群生していたので、思わずパチリ。
辺りは鳥の囀りに満ちていながら、実に静かな空間が広がっていた。

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