mixiユーザー(id:63540513)

2016年03月12日07:21

342 view

大和へ難波へ


大和へ難波へ  2016-03-11

5世紀、6世紀と百済との交流は
ますます深まり、反対に朝鮮
南部との連合は弱まり、やがて
手放し、政権の中心は大和へと
移行した。しかし天皇家の支配
が確立するには曲折があり、強
い豪族を倒す必要があった。

646大化の改新は、飛鳥時代の孝
徳天皇2年(大化2年)春正月甲子
朔に発布された改新の詔に基づく
政治的改革。中大兄皇子(後の
天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原
鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我
氏本宗家を滅ぼし、権力を天皇家
に取り戻したと言われる。

天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在
の大阪市中央区)に移し、蘇我氏
など飛鳥の豪族を中心とした政治
から天皇中心の政治へと移り変わ
ったとされる。また「大化」は日
本最初の元号である。【Wikipedia】

海の都難波は、当然海外との交易
を目指したであろう。同時に時の
総理大臣に当たる中大兄皇子は国
防についても心を配った筈である。

歴史学者研究者でもない私が、日
本の初期のころの海外との交渉や
国防に関心が有るのは、この時、
大陸の強国に攻めてこられたら、
赤子を捻り潰すようにやられ、我
が国は日本でなくなっていたであ
ろう。と心配するからである。

幸いにも大海に守られた日本が、
そういう危機に見舞われるのは、
650年後の元寇になる。

1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する