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2016年01月28日06:02

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045 椋鳥の巣の下を 全

椋鳥の巣の下を
姥ヶ谷落とし暗渠異聞

――これは戯曲連作「風土と存在」第四十五番目の試みである





※本作の上演は禁止です。上演希望の方は「姥ヶ谷落とし」テキストをご利用ください。





時 初夏
所 東武伊勢崎線和戸駅東側
人 差鍋マキ
  蓮沼(身代台団地自治会長)





1.汝の家を建てよ

川音――。

蓮沼 ちょうどここんとこんなります。道からあちっとはずれっちゃって見えなかったけんど、踏切の向こうっかわからドブ板で蓋されたなりここまで来て、大っきな川に合流してます。なんでもこの備前堀川の備前の守(かみ)てのあここらいってえの普請してくれたえんれえお侍で、備前堤だの備前堀だの、近辺にゃいくらもあるって話ですわ。
マキ そうですか。
蓮沼 いやあ、受け売りですけどね。みいんな苧婆谷(おばだに)先生が絵画教室の合間々々に話してくれたこんで。
マキ どうもお送りいただきまして、ありがとうございました。
蓮沼 なんの。いがったです。みちる君もまだ二十歳かそこらでしょ、親族もねえ若すぎる喪主じゃあ助けてやらんことにゃ堪りませんわ、先生はまんず団地じゃ名士でしたからね。遠くから…、
マキ 妻沼です。
蓮沼 あ、そりゃまた遠い。来てくだすった方がいるだけでも報われるってもんだ。お帰りは羽生から秩父線ですけ?
マキ ええ。
蓮沼 遠いや。
マキ でも星川の上流ですから、結局この川と同じ水ですよ。初めてすゞねさんと会ったのもこの水系のほとりに建ってた公民館。なにか、ひと繋がりの縁でしょうね。
蓮沼 さすがにお弟子さんは言うことが違あね。この蓮沼、絵はからきし分かりませんが、こう平たい埼玉の景色を語り遺してゆごうちゅう先生のご遺志は引き受けてゆぐ所存でおりまさ。むさし堤の九穢(クノエ)とも相談しましてぜひとも顕彰をと思っております。
マキ どなた?
蓮沼 ああ、古利根を少し下ると杉戸の飛び地があるんでさ。先生そこの団地でも講座を持ってましてね。
マキ むさし堤って聞いたことあるような…。
蓮沼 それも苧婆谷先生が出かも知れません、ここ一年ぱかしよーう気になすってたっけがら。暮れ頃でしたか息せき切って自転車で集会所にらっしゃるなり「やっと分かったのよ」ておっしゃいました。
マキ なにが分かったと?
蓮沼 そこまでは。
マキ そうですか…。
蓮沼 憑きものが落ちたみたいだってね。
マキ え。
蓮沼 そんで今年にへえってからかどっかこうフワーッてなさってたのが、おっかしなーと思ってるうちに、今度の始末です。なんかやり切ったのかも知れませんですね。あーすいません、通夜の続きみてえになっちゃって。なんにしても、歴史ってなあなさそうなところにこそあるってえ教えはガツンとあたしらにゃ響きましたわ。気づかなけりゃあこんな川、ただの団地のドブですからね。合流だってザブザブ騒がしいだけで。
マキ あら?
蓮沼 ?
マキ なにか聞こえません…?
蓮沼 ああ。ヒナです。
マキ ヒナ。
蓮沼 あっち岸のくねくねの道の入口んとこ、あすこに物置小屋あるでしょ。土台石んとこの鉄板がちょっとめくれて、中にムクが巣作ってんです。
マキ ムクドリですか。
蓮沼 へえ。ジャージャーうるせえんでみんな気にかけてます。来週にも巣立ちくれえじゃねえかな。
マキ そんな低いところに作ってネコとか大丈夫なのかしら。
蓮沼 めくれてるってもホンちょっとぱっかしのやっとくちばしがへえるくれえで、あれじゃネコどころかヘビだって襲えやしねえです。人通りも多いしね。
マキ それじゃあ、巣立っても出てこられないんじゃないですか?
蓮沼 そこが親鳥の賢いとこで、自分は屋根きわの換気扇からへえって営巣したみてえです。飛べるようんなったら上からゾロゾロ出て来んでしょう。
マキ なるほど。まず汝の家を建てよ、ですね。
蓮沼 身代(このしろ)台団地が出来たのが一九七〇年、亡くなった親父は第一世代で、沼の埋め立てから見ながら越してきたっていいます。まずはうちですね。
マキ 対岸のうちも団地ですか。
蓮沼 いえ、団地はここまでで、向こうっ方はまっと古い集落で、正直もうあんまり人はいません。物置のうちも空き家でさ。
マキ もう、行きます。
蓮沼 はい。お達者で。差鍋(さすなべ)さん、先生を覚えててやってくだせえ。
マキ もちろんです。
蓮沼 きっとお頼ん申します。では、お豆に。本日ははるばるありがとうごぜえました。
マキ こちらこそありがとうございます。皆様によろしく。
蓮沼 失礼します。(のんびり去りつつ)♪五方ォー塵もォーなくうゥーー…、

ひとり――。川音。マキ、何気なく暗渠を振り返り、前を向いて対岸を眺め、やがてまた振り返り、また対岸を眺める…。

マキ あれ…?(同じ動作を何度か繰り返し…)対岸のくねくねした道って…。おかしいな。なんか不自然じゃないかな。川からいきなりくねくねした道が始まるもんかな…?

眼下の小さな合流を見下ろし、また振り返り、また対岸を見る。

マキ これ…、

浮かんだ仮説にとまどい、額に指当てて落ち着こうとする。

マキ もしかしてあの道、道じゃなくて、川じゃないの…?

ジャッジャッジャッとひな鳥たちの鳴き声――。


2.汝の川を忘れよ

マキ 暗渠、というものであることはのちに知りました。その時はただ、闇雲にヘビのようにくねる道を追ってみただけでした。喪服で私、何やってるんだろう…。でも、自治会長さんが案内して下さった姥ヶ谷(うばがや)落としは、確かに以前すゞねさんが書かれた通りの「生きた川」でした。万年堰導水路から一帯の田んぼと今は住宅地になった旧蓮沼の字(あざ)沼端を潤し備前堀川に落ちる、かすかながらも確かに脈づく川でしたから、もしやの可能性――この川の本来の河口は備前堀川合流ではなく、あのくねる道の先にあったのじゃないか、という仮説――に私は抵抗できませんでした。川向こうすぐにある和戸駅の開設は実に一八九九年まで遡るそうですが、今の駅前には一軒のお店も一筋の流れもありません。この乾いた感じは何がどうして出来たのだろう、と、あとから思えば改札を降り立ったその時にまず感じ取っていたのかと思います。

ただひとつの改札口からは三方に小さな通りが延びていますが、くねる道は通りを無造作に無視し勝手に交叉しては進んでいきます。並んだマンホールには時折「雨水」と表示があるものの晴れているためか水音は聞かれません。わずか数百メートル進むあいだに道は折り畳むようにカーブを重ね、砂利道になったかと思うとすぐ舗装に戻り、忽然と町営の駐輪場になって途切れ、そのまま県道を渡って住宅街の遊歩道へとめまぐるしく姿を変えます。何だろうこれは。こんなに寸断されながら、しかも何かのまとまった雰囲気を遺している…。この宅地なんかさっきの身代台よりはずいぶん新しくアスファルトも赤くてせいぜい出来て二〇年ほどしか経っていないように見えるのに、そういう表層ではなくもっと風景に根づいた何かが感ぜられる…。ああ、これはすゞねさんの好きな景色だ、ということはすぐ分かりました。モンドリアンの抽象絵画からオランダの水郷における宗教画を読み取るような人でしたから、彼女の鑑賞眼がこの道を見逃すはずはない、と思いました。どうやら、葬儀からいきなり彼女の魂をたどり直す羽目に私はなったらしいのでした。くねくねと真新しい団地を抜けると辺りの地面はわずかに下がって畑地になり、道は――、

解渠しました。用水路でした! 普通に川でした。今の今まで私、川の上を歩いてきたのでした。

水はほぼ涸れています。田植え過ぎですが周りは放棄されかけたような畑ばかりだし川にも水源がないので、満々と湛えた沼端の田んぼとは打って変わって一面カサカサした景色です。水路の側道は荒れて藪のようになっていました。それでも少しは追ったのですがヒールではとてもしんどく、やむなく少し離れて併走する農道を歩きながらコの字型を重ねて追いかけるしかありません。自転車があれば簡単なのに。水路と道のあいだに大きな林など挟まると、もう巡り会えないのじゃないかと不安になってひとりでに足が速まります。自転車――? もしかしたら、すゞねさんの通ったむさし堤って、この先にあるのじゃないかしら…? 林を大回りすると、初めて車の通れるほどの橋が水路を越えて、静かな住宅地が現れました。取っつきの戸建ての表札に、九穢とありました。街路表示に「杉戸町むさし堤団地」ともあります。やっぱりここだ。なお追いましょう。ようやく、水音が聞こえます。先を急ぐと、田んぼからの落とし水らしい流れが豪快に合流していました。先程まで歩いてきた対岸はいつしかあるかなきかの低い丘になって流れに迫ってきています。こちら側も造成地ですからわずかに高くなっていて、しぜん川はにわかに小さな谷のようになり、心なしか流れもせせらいで速まっているようです。宅地はやがて途切れ、途切れた向こうの荒れ地に意外なほど近く土堤が現れました。あの土手の向こうが古利根川に違いない。もうままよと、藪みたいな野を進みます。そして、たどり着きました――。合流です。小規模だけれど河口です。これだ、ここが本来の河口なんだ。いま追ってきたのは姥ヶ谷落としの本流だったんだ。サラサラと気持ちよく鳴る小流れ。萌え立つイネ科の草藪とひらひら舞うカワトンボ。古利根川の水面に映る五月の積雲。なんという爛漫…。

その爛漫に打ちのめされて、どこかトボトボと、今度は古利根川の土手の上を戻ります。あまりに幸せな景色を見ると却ってなにか寂しいような気持ちになるものです。ふと、予期せぬものが目に入り、立ち止まります。橋でした。近づくとそれは、古利根川に架けられた人道橋でした。原付までオーケーと書いてあります。ああ、そうか。この三角形に土手から突きだした宅地だけ川向こうの町の飛び地だから、子どもが登校するために橋を架けたんだ。低い土地だから川の蛇行に取り残されてここだけ対岸になっちゃったんだ、と考えましたが…何か…自分の中で何かがモヤモヤしていることに気がつきました。何かを見落としている気がします…。なんだろう…。たぶんピースは全部揃っています。一本の川の水源から河口までたったいま歩きとおしたんだからあったものはすべて見た筈…。でも、じつはまだ、分かっていない。何が分かっていないって、姥ヶ谷落としがどうして上下に分断されているのかがまだちっとも分からない。あんな素敵な河口があることを、おそらく自治会長さん初め身代台の人たちの大半が生涯知ることもなく暮らしている。団地から河口までおそらくわずか一キロかそこいらなのにこの一帯はまったく見えないように隠されている。これはいったい何なのか。分からない。分からないなあと思いながら歩くうちにいつか再び宅地は途切れます。そうね、途切れたあとは昔の蛇行の跡に沿って三日月湖みたいな窪地があるはずだから、そこを眺めてそろそろ帰ろう、そうぼんやり考えながら畑地に戻ると、これはどうしたことでしょう――、

ないのです。窪地が。水まではなくとも川筋の名残りくらいはあるものでしょう? 何もない。スーパーフラットな畑です。畑というか、改めて見直すとそこは畑とも呼びがたい陰気な荒れ地で、区画貸しで貸し出されているレジャー農園みたいなものが点在するに過ぎず、端的に申して「沼の跡」としか見えないのでした。川の跡ならこう平らにはならないはず。団地を囲む輪住のように土手がある。でも団地が出来たのなぞホンの数十年前のことでしかないでしょう。そうするとこの「むさし堤」というものは――人為的に盛ったものか…! なぜ…!

いや、待ってよ私。何かがおかしくなかったか? こんな所にわざわざ盛り土をするわけは? 流れの対岸は丘なのに、これじゃますます流れが悪くなるじゃないの…。狭いとこを通り抜けるから急に清流みたいな音立てて。…清流…? このだだっ広い平原でせせらぎって何よ。だいたい谷川が段々緩い流れに変わって河口にたどり着くのが普通でしょう、河口の直前で谷が出来るなんてあり得ることなのか…しかもわざわざ土盛って。

いやいやいや、違う、違う! 違うよ。これは、わざと河口を塞いでるんじゃん! 向こう岸の丘にグイグイ寄せて土堤を築いて水を堰きとめてるんだ。洪水になるって? そう、するんだよ洪水に! 昔、姥ヶ谷落としが上下に分かれない頃は備前堀川の河口は存在せず、姥ヶ谷落としの水だけでなく備前堀川の水までもこの河口に流れ込んでたはず。つまりあの河口はむしろ備前堀川の河口だとする方が正しいのかも知れない。だとするとそれって相当な水量で、台風のあとなんか膨大な水量が古利根川にのし込もうとする。古利根の下流には何がある? 江戸だ! つまりこのむさし堤、利根川支流の水を河口で堰きとめ上流側にわざと洪水を起こし湛水させて、下流の大水を防ぐ目的で作られたんだ。毎度毎度洪水になったら農民は堪らない。堪らないけどその不満を抑え込める強権政治があった時代。明治以降じゃあり得ないからやっぱりこれは江戸期の、それも天明噴火の火山灰で川が埋まって洪水が頻発しだした後期江戸の普請でしょう。武蔵国にあるからじゃなくて、なんとか武蔵の守の号令で作られたから武蔵堤って言うんだこれ! ひどい話があったもんだ…。

その時、雲が動いて、陽光がサアッと沼の跡を照らし、忘れられた土地は人知れず銀板のように立派に光りました。

私はちょっと落ち着きを取り戻しながら、最後のピースをこうでもああでもないと玩んでいました。たぶんもう答えは分かっていたんですがなかなか言葉にまとまらなかったのです。

しからば。なぜに備前堀川の河口は新設されたのか。おそらく理由は鉄道です。和戸駅開業は一八九九年、明治二十九年。東武鉄道は上州方面からの労働力を東京に移送することを主目的に異例の早期に敷かれています。沿線開発の一環として、和戸の駅前を沼地のまま放置するわけにはいかなかった。そこで駅前すぐを流れていた備前堀川と姥ヶ谷落としの旧流路を、駅より上流で掘り抜いて最短距離で古利根川に付け替える工事が行われた。大事業のようでもありますが実際にはその距離わずかに四〇〇メートル。人足を注ぎ込めば数ヶ月とはかかりますまい。それによりそれまでひと続きの文化圏だったろう姥ヶ谷落としの上流集落と下流集落は永久に分断され、世代が変わるうちに一体感はすっかり消え果ててしまった。悲しいことのようでもありますが、でも付け替え工事のお陰で下流側集落の慢性的な沼地状態と貧困と被抑圧的な精神状態とはかなり解消されたはずです。来ないと諦めていた幸せが降って湧いた過去を、下流部の人々は経験している。もちろん昔の話です、彼らの孫さえもう生きてはいない。町も正直寂れている。それでも。ろくに住めなかったはずの沼地にいまや新しく家は建ち、毎年のようにムクドリは巣立ち、暗渠は静かに雨水を流しています。忘れられても、当たり前のように。これはすごいことではないでしょうか。

そうか…すゞねさんがたどり着いたのはこの安寧なのか…。フワーッと楽ちんに死んでいったのは、この景色を読み取ったからなのか…。

暗渠なんて、川じゃなくて川の名残りにすぎないじゃん、用済みだから蓋されちゃってるんじゃん、という見方はあるとは思います。思いますが、歴史なるものが浜に打ち寄せる波の描く文様のごとき多層のものであるなら、町の表層に見えているものは、歴史が多重に刻んだ土地の上に載っているわけですよね。用済みなら用済みで構わない。でもね、そんなら川を必要としなくなったこの文化は、どうやって生まれたのですか。この町はどのように誕生したんでしょうか。その密かな問いかけとヒントのコードとして暗渠はひっそり流れている。町は水のない水辺です。ムクの巣の下を静かに流れる姥ヶ谷落としのせせらぎが、今も胸を離れずにいます。










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