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2015年06月23日10:37
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007 神曲 8/
稲 （ややはしゃいで）芝居だと思ってんでしょう、あんた、疑い過ぎよ。
不二男 それが俺への一番の誤認識だよ。いい加減分かったらどうだい、稲？ いちどだって俺は嫉妬に身を焦がされたことなんかなかった。愛情が嫉妬をともなわないのは異常だろうか？ 異常だって仕方がない、怒るかも知れないがそれが俺なんだ。君の浮気性は俺といるときにも苛々と過剰に燃えさかったな。たぶん君は俺から離れてどんな男と絡んでも、毎夜嵐の様なセックスを繰り返しても、理性で語れる自分の領域を全て見失ったとて、最後には俺の顔を、ひたっと見詰めざるを得ないのさ。
稲 図々しい。ひょろひょろのサディスト！
不二男 なら切ればいい。それで終いだ。
稲 憎んでやるわ！ それが大きな重荷だとて。
不二男 俺もよりを戻そうとは思ってないから安心おしよ。
稲 へん？ じゃ、何のために電話したのさ。
不二男 だから、まるきりの偶然だよ。
稲 何いってんだ、明らかに求めた結果じゃんか。格好つけたってあんた、要するに妬いてんのよ、プライド高くて認めたくないだけじゃんか。
不二男 そうじゃない。
稲 嫉妬のない人間がいるもんか。執念深いあんたがいうなあ、悪い冗談ね！
駆 何だよ稲ェ、まだ五時だぜ…。
駆、やつれた自堕落な姿で下りて来た。やや控えめに小さくなったラスコ人形、背負い。
稲 幻だと思うでしょ、昔の恋人。
駆、ハッとして、受話器もぎり取る。悪い稲、笑って見ている。
稲 がっついちゃって、ボウヤ！
駆 （酔った如く）もしもし…。
不二男 はいよ。
駆 待ってたよ！
不二男 ほう、そうかい？ 嬉しいね、こんなところにまだ世間との回路が残っていたか。君がその十五才のドーテー君だな。
駆 違うよもう。笑うのか？
不二男 別に。
駆 あんたのせいだぜ。あんたが捨てたんで、この女は俺んところに転げ込んだんだ。俺がどんな目に会ってるか、来て、見てほしいよ。
不二男 遠慮しとくね。どうだ、イケルだろう？
駆 ば、ばかいってんじゃないよっ、吸い取られちまうよっ。（小声で）あの唇、ほおずり、手のひら、指の一本々々、その爪、まるで魔法だ。僕の体は欲情は、理性の壁をひとまたぎに踏み越えちゃう。肉体は理性より十倍も原始的で荒くれだ！ どうしたらあのみだらな誘惑に勝てるんだろう。それともあんたもやっぱり吸い倒された蜘蛛の餌だったのかい、不二男さん！
不二男 ほう、名まで知ってるのか。
駆 知らいでか。ねえかつての僕。僕はどうすればいいんだ？
不二男 幸福も不幸もはかって手に入れることはできないさ。成り行きにまかせといたらどうだい？ 忠告が聞きたいならいおう、リスクなんてことを、眼中に置くな。すべては君のためにある、君の、快楽の中にある。そう考えれば後は全て、停滞か進歩の二者択一だぜ。
駆 僕は怖いんだ。男を尊敬したとき僕は、限りなくそれに近付きたかった。猿真似だろうが気にならなかった。Ｚ�兇慮紊蹐任靴�みつく体のへりで風がキンキン鳴っていた！ 今はまったく逆だ、自分の体がいとわしい。性欲はやっぱり汚いもんだよね。僕は今、不潔な匂いでムンムンだ。どうしてくれるんだよう。
不二男 知るか。自分で始末しろっ。
駆 踏みはずしちまった。（ひとり）戻れるのかな、いざよい街道に…。
不二男 は、弱いなあ。時が解決してくれるさ。
駆 待てってか？ 真平だ！
不二男 （冷笑して）ふん、何を待つのが真平か分かれば、どうすればいいかも分かるだろ。そのためにもちょっと待っといたらどうだい。
稲 （うばって）不二男。少し見ない間に、ずいぶん偉くなったんだねえ、だらけた訓辞なんか吐いてさ？ 熱でもあんじゃないの。
不二男 いやあ、この頃少し、気が軽くなってね。ゆとりができたのかな。
稲 池子のガオリンていったわね。つまり、役場に就職しちゃったんだ。ふーん、あんなに悩んでた結果がそれか。これは、不二男、裏切りよ？
不二男 君が俺に裏切りというか。
稲 あ・た・し？ あたしのことなら、あんたとの絡み合いがこうしていっそうややこしくなっただけだけど、那山さんや曽根さんとの乾杯は、あの砕いた誓いの杯とやらは、どのチリ紙に書きつけた反故だったっていい抜けるつもり？ 不二男、あんた処世術だけは憎んでたじゃない。生活が苦しいからって拡大再生産を正当化する工員たちへも過剰生産を戒める必要はあるんだ、悪いが一喝しなきゃならないんだとまで、そんなことさえいったじゃない。それは脆い思想だったかも知んないけど、なけなしの正義だけはあったよね？ グループの急先鋒だった那山さんは今じゃバタ屋の長老に弟子入りして、自分の死に体を洗い直すんだって働いてるよ。曽根さんは今、大陸にいるわ。勤勉で資本主義を離れた生き方のために砂漠の民に奉仕するって、あの端正な字で葉書を送ってくれたけど、それが受け取った最後の連絡、あたしも部屋を捨てたから。みんなに去られて、しかも死産の後のいちばん辛い時にどこほっつき歩いてたんだかいっかな戻らなかったあんたがどうやって自分をごまかしたのか知らないけど、不二男、あたしは痛めつけられて今、ここにいるんだ。
不二男 若いイワシと暮しておいて、目の前に俺ばかりがうろつくのか。稲、俺たちの愛は案外本物かも知れないな。
稲 酷い人…。愛なもんか、憎いよっ。
不二男 同じことだっ。（静かに、異常に）聞いてくれ、稲。愛と憎しみは同じことみたいだ。同じ人間同士が愛し、憎しみ合うんだ。違うこと、違うことがあるとすればそれは──それは何だか分からないが、俺はここへ来て、一歩進んだ考え方をするようになった。
稲 退化よ！ 妥協から生まれるものは、手足のよじれた白い赤ん坊だけよっ。結局あきらめてるだけじゃないかっ。
不二男 聞いてくれ稲。俺は君だけには、こんな偏執から逃げだしてほしいんだ…。
稲 聞かないっ、恋人と一緒に工員を軽蔑した女は工員に耳を貸さないっ。あんたみたいにマニアなために簡単になま身の過去を棄てられる奴には、用はないんだあたしの人生は！ バカッ。
不二男 （諦めて）そのうち又話そう。分かってほしい。俺たちが再び愛し合えるとしたら、それは、その愛とは…。
稲 いらねえっていってんだろっ、テメエなんか勝手に生きてろ！
稲、ガシャッと受話器置いて「畜生、ばかやろおっ」と叫ぶと、近所のドンブラコ「神乞(おも) 獣塊君潤(しっくろっそ)（っさいわね、もうっ）」「益(く) 叶精(のむん) 脊生稽亀(いぶろど) 極姥雇生稽亀(とんくもんぐろど) 源拝(まらる) 叶焼(のま)！（あの野郎、口どころかケツの穴でもくっちゃべりやがる）」と怒鳴り、バケツの飛ぶ音、犬の声。稲「放っといてよ、ごめんよっ」ともう一声あげて、泣き伏した。
駆 複雑なんだね。
稲 最低ね、見せられたもんじゃないわ。
駆 あんたの乾いた心は愛情なんてものを持ってないのかと思ってたけど、案外そうでもないみたいだな。
稲 君までそんなこというの。
駆 君って呼ぶな。
稲 カケル。
駆 近来にない寒波の中、屋外同然の僕の部屋に蟄居して、それでも素足でいるあんた。あんたは靴を捨てる度胸と次を履かない節操を持ってる人なんだ。
稲 気をつけな。あたしを褒めると目に会うよ。あいつから媚態の振りまき方を教わったのはどう考えてもあたしをダラクさせるだけだったわ。
駆 安心してくれ。あんたを嫌いなことに変わりはない。あんたを好いてるのは僕じゃなくて僕の体と体の中の迷惑な何かだから。
稲 君の体はあたしの体にまだ魅かれる？
駆 残念ながらね。
稲 （抱きつき）そうでなくなる日が怖いの。ゴム手袋の日々。君の手の、愛撫にさえ肉体がよろこばなくなったら、他にあたしたち何のきずなでつながっていられるだろう。それに君と別れたあたしにもう誰が残されているだろう？
駆 また男を拾うさ。
稲 そんな風に見てるの。
駆 うん。
稲 枯葉みたいなあたしの心。あたしはまだ確かかしら。駆、触ってみて。ああ、そう。この感じ。なぜまわして。冬の晩、湯につけた体に走る見えないひび割れの快感。離れないで。離さないでいて。
抵抗を試みる駆の理性、あえなく消えようとする。その時、割れる如きクラクションが鳴り、はっとしたふたりの顔をヘッドライトが真っ向から射る。
稲 露地男?!
駆 いや、排気音が違う。
ペコペコと排気音あって、小さな小さなボルボに乗った渦野が進み出る。あの服装に加え、おそろしく大きなポラロイドカメラを首に掛けて。
渦野 やあ、小僧の君。
駆 ライターの！ 何さ、今頃？
渦野 君の精神も以前の通りなら見られただろう不思議なものを、今、海辺で目撃してきた。
駆 あんたの方がよっぽど不思議だ。
渦野 突っ込みありがとう。正体なく眠ってるのかと思えばそうでもないらしいな。バイクのかわりに夜中は、女に乗ることにしたんだね。
稲 （身づくろいし）挨拶がわりの憎まれ口、誰よあんた。
渦野 （気にせず）一寸法師の君。あれは君が見るべき天の予言だったよ。
駆 何見たのよ。
渦野 東京湾に架けられた八つの大橋のあつまる先、人工島テンペルホフの探照灯に照らし出された雲の腹は、巨大なおろちの下腹みたいに、赤錆色にうごめいていた。私は見た、その雲から、二〇メートルはあろうかという爬虫の口吻が突き下ろされるのを。
駆 ええ？
渦野 嘴の向こうを見透かすと、攻め寄せるガスの絨毯みたいに途方もない図体が、雲の底から沈んで出て、ペキンパーのスローモーションらしく圧倒的な印象を置き去りに、再びあの天の泥沼へ潜り上がって行った。実際のところ、あれは龍だ。地獄の運搬獣、ゲリュオンだ。あやしい東京湾のポロロッカだ。
駆 記者さん、あんた何キメてラリってるんだ？
渦野 見くびるな、ドラッグに頼るほど堕ちちゃあいないさ、頭はいつも明晰だ。
駆 じゃ何でそんなあり得ないもの、疑わないのさ。
渦野 見たからだ。
駆 蜃気楼だったら？
渦野 夜中だぜ？ それに蜃気楼だってないものは見せない、対象は遠くにだが存在するのさ。俺には信じる自由も能力もある。幻のメールストロームは信じることによって顕在化するんだ、どの渦を認めるかは私の勝手だ。それにしても君、何故そう無雑作に信じないなんていえるんだ？ あの夜、露地男たちが渡っていったという橋だ。俺も現場まで駆けつけて、確かに、厳重な黒カブト隊のバリケードの彼方に一夜にして出現したのを目撃したあの橋が、翌る朝には煙とかき消えてしまった戦慄をだ、何故無視するのだい。
駆 だって僕ぁ見なかったし、非常識じゃない。
渦野 常識？ ふん、起こってしまったことがやがて常識になるのさ。見たまえ、北斗が西にめぐってゆく。世界は多分、中々大したものなのに違いない。同位なんだ、皆。この世界もあの世界も同じに不確かなんだ。人間と植物も同じなんだ。血液と骨も変わらないんだ。歴史と数学も同位なんだ。夢と現実なんて入れかわれるんだ。別の遊星にゆけば、石は生きてるかも知れないし、空をゆく動物がいるかも知れないし、時間は逆戻りするかも知れないし、闇は光より明るいかも知れないんだ。
駆 そんなこといってみて、何になるのさ。
渦野 なるとも、面白いじゃないか。
駆 面白くたって、生きては行けないよ。
渦野 違うね、面白いところでしか、生きていても仕方がないんだ。かぁ老けとる、老けとるなあ坊主。
駆 いっとくけど駆って名前があるんだ、小僧だの坊主だの…、
渦野 小坊主かもんじゃ焼きで充分さ！ 君ごときが一寸法師ただひとりの残党とは、このロードムービーもどうやら見込みはないな。私のボルボの切る風は、もう君なぞには届くまい。
駆 この女の故だ…！
稲 （笑って）はん？ その通りさ、厭なら逃げな。
駆 蟯(ギョウ)虫め…。（やがて）全部は否定しない。でも記者さん、これだけはいうぞ。僕はあんた程の八方美人じゃない。露地男と、一寸法師と、あのそう、体を引き裂く風とだけが、僕の信じていた三位一体だった。それが海水に失われてしまった今、僕には次の渦巻なんてそうそう見付けられやしない。露地男が死んだって一寸法師は僕が引きつぐさ。一寸法師は露地男の別名じゃないんだから！
渦野 えらい鼻息だな。その割には邪魔者を叩き出しもせずのうのう暮してるようじゃないか。
駆 （さえぎって）違うっ、この体は、僕じゃない、僕の中の悪魔だっ。
渦野 （聞かず、熱心に）ここに、一枚の写真がある。君があのいびつな部屋から出奔するための旅券に、これはなるだろう。
駆、その大判の写真を受け取って見る。ぎょっとする。
稲 何、それ？
駆 こいつは…！
渦野 橋だ、あの晩の。金沢大橋、正しくは二年後に竣工される筈の東京湾テンペルホフ島第一連絡橋の、早すぎた映像だ。
駆 でも、これは、ないはずだ…。
渦野 事実は既に寝返ったのさ。
駆 すると露地男は、トマトゲームで死んだわけじゃない。建設中の高架の突っ外れから海に墜落したわけじゃない。本当に渡っていったんだ！ でも、それならなぜ戻らないんだろう？
渦野 さてね。帰り道は、まだないのかも知れないぜ。
駆 謎のようなことをいう。あんたっ、どれだけ何を、知ってるんだ？
渦野 知っていることは幾つかあるさ、これでもルポルタージュ畑の端くれに住んでるんでね。あいにくと露地男たちの行方は皆目見当つかん。だが島で何が行われようとしているかには興味があってね、潜り込むことは恐らく可能だ。
駆 船で？
渦野 秘密、秘密。
駆 僕も行く。
稲 あたしも。
駆 あんたは来るな。
稲 まっ、どうして？
駆 来るなったら来るな。
稲 失礼な奴だわあ、露地男を独占したいのね。
駆 あんたで露地男を汚したくないんだっ。
稲 いうわね、このクソがき。
駆 （渦野に）どう入る？
渦野 （ヒソヒソと）地下を通る。
駆 地下っ?!
渦野 （あわてて駆の口ふさぎ）チカって、嘘は、申しません。
駆 だって、どういう？ 八本もの橋を架けようっていうのに、その他にまだ地下道があるのかい？
渦野 そう、未公表のね。
駆 トンネルの入口はどこに？
渦野 時期が来たら教えよう。君、いま人工島に何が建造されているか想像がつくかい？ 第一次大戦以来百有余年、世界政治が禁じ続けてきた「空港」だ。
駆 クウコウ？ 何、それ。
渦野 フォッケウルフにメッサーシュミット、それにソ連のシコルスキーといった工業技術の粋を結集させて、ナチス政権はあの頃、世界に先駆けて空をゆく殺人兵器を開発しようとしていた。砲弾が回転しながらゆくと効率がいいことに着目してね、何枚かの薄い板を弾丸のまわりに配置しある角度で高速回転させることによって空に浮き、上空経由で敵地を攻撃しようという武器だ。トリーブ・フリューゲルと名付けられたプロトタイプまで完成していたという。
駆 何だそれ？ 大砲の弾のすごいやつ？
渦野 まあそうだ。すごさの桁が違うがな。ここから上海あたりまでは届くといったら驚くだろう？
駆 まさか！
渦野 それも一九四四年、八〇年前の時点でだ。歴史の教科書からも長いこと抹消されてきた事実だが、事実であることは間違いないさ。考えてもみろ、船や鉄道で軍備を運び、勝てば勝ったで輜重の労苦に頭を悩ませ、補給線上が真っ先に飢える。そんな非効率をヨーロッパの合理主義がいつまでも放っておくわけはないだろう。自分は居ながらにして、武器だけが相手を攻撃、滅ぼせば、こんなに楽なことはない。ただ人類の信仰だけが空を畏れ、空に向かうことを禁じてきたんだ。そしていよいよ無信仰の時代がやってきたのさ。
駆 それじゃ軍人は失業するね。
渦野 そうかな？ いやむしろ、戦地に行かなくて済むならば軍人のなり手は増えるんじゃないか。あるいはそう、陸海の他に空軍なんてものでも作るか。
駆 それを、あの島に？
渦野 ああ。いま作られているのは恐らく空をゆく武器の発着場なんだ。自軍は一兵も失わず、敵の拠点に外科手術をほどこす「きれいな戦争」が奴らの売りだ。航空魚雷を打ち出す施設を、ドイツ語から訳せば空港というわけさ、テンペルホフ空港。
駆 奴らって？
渦野 黒兜の、親玉さ。…
と、そこは満州、曽根たちのアジト。五燭の暗い電球の明かり。
ハイホァ 戦局はどうしても三つ巴にならざるを得ないわ。戦力で劣る私たちにはとりわけきちんとした作戦が必要ね。第一、これが信用できるチームなのかも、まだ分からないわけだし。
ムスタファ うん。では今一度現況の確認をしよう。呑気なようだが、こう呑気にしていられるのも満州圏にいるうちだけだからな。
ハイホァ 今のところ目立った戦闘は起きてはいないようね。去年あたりまでみたいな、一気に中共政府が崩壊して、アメリカが国軍に乗り換えるっていうシナリオは一応、消えたと思っていいのかしら。
ムスタファ うーん、それはまだ微妙だろう。国共両軍の力はあぶないところで拮抗しているというところだろうな。いずれにしろこの長春は情報収集にはうってつけの町だ。レポはほぼ毎日届いてる、すぐと戦端が開かれることはないと思うね。
ハイホァ でも時間の問題でしょう。海岸地方はすべて中共が押さえてるわけだから、内陸の勢力はどうしても補給線を確保しなければならないわ。それに国軍は多民族軍とはいえ所詮は漢族の軍隊ではっきりとした敵を想定しなければ統制を保つことすらできはしないけれど、そうすればするほど地方の民族部隊は離反思想の温床になっていく。現に新疆のトルコ側とはちっともうまくやれてないみたいじゃない。馬倒懸の外交技術で何とか敵同士にはならないでいるとはいえ。
ムスタファ ハイホァ、君ら甘粛方面部隊の働きには感謝している。
ハイホァ （厳しく）そんなことはいいんだ。私の出身は銀川だけど、回族の軍閥とは犬猿の仲だからね。いずれ故国を失った者でなけりゃあ、この戦争は戦えないよ。滅びかけた満州族の末裔としては、溥儀の住んだこの町にいるのは実に喜劇的ね。
ムスタファ …済まなかった。
ベニート 俺は昨日着いたばっかりでよくは分からねえが、何しろはっきりしてるのはここが中共勢力の限界だってことだろ？ 旅順いらい随分ものものしい警備だったが、この町じゃあ酒場で国軍の噂をしても平気なようだな、それもいい方の噂をよ。
曽根 そうだ。丁度、義和団前夜の上海といったところかな。何でもありさ。満州なんぞに縁もゆかりもない上に、これからだって地元農民のためになんかなろうともしない俺たちの侵入を許してるんだからな。
9/→ http://
不二男 それが俺への一番の誤認識だよ。いい加減分かったらどうだい、稲？ いちどだって俺は嫉妬に身を焦がされたことなんかなかった。愛情が嫉妬をともなわないのは異常だろうか？ 異常だって仕方がない、怒るかも知れないがそれが俺なんだ。君の浮気性は俺といるときにも苛々と過剰に燃えさかったな。たぶん君は俺から離れてどんな男と絡んでも、毎夜嵐の様なセックスを繰り返しても、理性で語れる自分の領域を全て見失ったとて、最後には俺の顔を、ひたっと見詰めざるを得ないのさ。
稲 図々しい。ひょろひょろのサディスト！
不二男 なら切ればいい。それで終いだ。
稲 憎んでやるわ！ それが大きな重荷だとて。
不二男 俺もよりを戻そうとは思ってないから安心おしよ。
稲 へん？ じゃ、何のために電話したのさ。
不二男 だから、まるきりの偶然だよ。
稲 何いってんだ、明らかに求めた結果じゃんか。格好つけたってあんた、要するに妬いてんのよ、プライド高くて認めたくないだけじゃんか。
不二男 そうじゃない。
稲 嫉妬のない人間がいるもんか。執念深いあんたがいうなあ、悪い冗談ね！
駆 何だよ稲ェ、まだ五時だぜ…。
駆、やつれた自堕落な姿で下りて来た。やや控えめに小さくなったラスコ人形、背負い。
稲 幻だと思うでしょ、昔の恋人。
駆、ハッとして、受話器もぎり取る。悪い稲、笑って見ている。
稲 がっついちゃって、ボウヤ！
駆 （酔った如く）もしもし…。
不二男 はいよ。
駆 待ってたよ！
不二男 ほう、そうかい？ 嬉しいね、こんなところにまだ世間との回路が残っていたか。君がその十五才のドーテー君だな。
駆 違うよもう。笑うのか？
不二男 別に。
駆 あんたのせいだぜ。あんたが捨てたんで、この女は俺んところに転げ込んだんだ。俺がどんな目に会ってるか、来て、見てほしいよ。
不二男 遠慮しとくね。どうだ、イケルだろう？
駆 ば、ばかいってんじゃないよっ、吸い取られちまうよっ。（小声で）あの唇、ほおずり、手のひら、指の一本々々、その爪、まるで魔法だ。僕の体は欲情は、理性の壁をひとまたぎに踏み越えちゃう。肉体は理性より十倍も原始的で荒くれだ！ どうしたらあのみだらな誘惑に勝てるんだろう。それともあんたもやっぱり吸い倒された蜘蛛の餌だったのかい、不二男さん！
不二男 ほう、名まで知ってるのか。
駆 知らいでか。ねえかつての僕。僕はどうすればいいんだ？
不二男 幸福も不幸もはかって手に入れることはできないさ。成り行きにまかせといたらどうだい？ 忠告が聞きたいならいおう、リスクなんてことを、眼中に置くな。すべては君のためにある、君の、快楽の中にある。そう考えれば後は全て、停滞か進歩の二者択一だぜ。
駆 僕は怖いんだ。男を尊敬したとき僕は、限りなくそれに近付きたかった。猿真似だろうが気にならなかった。Ｚ�兇慮紊蹐任靴�みつく体のへりで風がキンキン鳴っていた！ 今はまったく逆だ、自分の体がいとわしい。性欲はやっぱり汚いもんだよね。僕は今、不潔な匂いでムンムンだ。どうしてくれるんだよう。
不二男 知るか。自分で始末しろっ。
駆 踏みはずしちまった。（ひとり）戻れるのかな、いざよい街道に…。
不二男 は、弱いなあ。時が解決してくれるさ。
駆 待てってか？ 真平だ！
不二男 （冷笑して）ふん、何を待つのが真平か分かれば、どうすればいいかも分かるだろ。そのためにもちょっと待っといたらどうだい。
稲 （うばって）不二男。少し見ない間に、ずいぶん偉くなったんだねえ、だらけた訓辞なんか吐いてさ？ 熱でもあんじゃないの。
不二男 いやあ、この頃少し、気が軽くなってね。ゆとりができたのかな。
稲 池子のガオリンていったわね。つまり、役場に就職しちゃったんだ。ふーん、あんなに悩んでた結果がそれか。これは、不二男、裏切りよ？
不二男 君が俺に裏切りというか。
稲 あ・た・し？ あたしのことなら、あんたとの絡み合いがこうしていっそうややこしくなっただけだけど、那山さんや曽根さんとの乾杯は、あの砕いた誓いの杯とやらは、どのチリ紙に書きつけた反故だったっていい抜けるつもり？ 不二男、あんた処世術だけは憎んでたじゃない。生活が苦しいからって拡大再生産を正当化する工員たちへも過剰生産を戒める必要はあるんだ、悪いが一喝しなきゃならないんだとまで、そんなことさえいったじゃない。それは脆い思想だったかも知んないけど、なけなしの正義だけはあったよね？ グループの急先鋒だった那山さんは今じゃバタ屋の長老に弟子入りして、自分の死に体を洗い直すんだって働いてるよ。曽根さんは今、大陸にいるわ。勤勉で資本主義を離れた生き方のために砂漠の民に奉仕するって、あの端正な字で葉書を送ってくれたけど、それが受け取った最後の連絡、あたしも部屋を捨てたから。みんなに去られて、しかも死産の後のいちばん辛い時にどこほっつき歩いてたんだかいっかな戻らなかったあんたがどうやって自分をごまかしたのか知らないけど、不二男、あたしは痛めつけられて今、ここにいるんだ。
不二男 若いイワシと暮しておいて、目の前に俺ばかりがうろつくのか。稲、俺たちの愛は案外本物かも知れないな。
稲 酷い人…。愛なもんか、憎いよっ。
不二男 同じことだっ。（静かに、異常に）聞いてくれ、稲。愛と憎しみは同じことみたいだ。同じ人間同士が愛し、憎しみ合うんだ。違うこと、違うことがあるとすればそれは──それは何だか分からないが、俺はここへ来て、一歩進んだ考え方をするようになった。
稲 退化よ！ 妥協から生まれるものは、手足のよじれた白い赤ん坊だけよっ。結局あきらめてるだけじゃないかっ。
不二男 聞いてくれ稲。俺は君だけには、こんな偏執から逃げだしてほしいんだ…。
稲 聞かないっ、恋人と一緒に工員を軽蔑した女は工員に耳を貸さないっ。あんたみたいにマニアなために簡単になま身の過去を棄てられる奴には、用はないんだあたしの人生は！ バカッ。
不二男 （諦めて）そのうち又話そう。分かってほしい。俺たちが再び愛し合えるとしたら、それは、その愛とは…。
稲 いらねえっていってんだろっ、テメエなんか勝手に生きてろ！
稲、ガシャッと受話器置いて「畜生、ばかやろおっ」と叫ぶと、近所のドンブラコ「神乞(おも) 獣塊君潤(しっくろっそ)（っさいわね、もうっ）」「益(く) 叶精(のむん) 脊生稽亀(いぶろど) 極姥雇生稽亀(とんくもんぐろど) 源拝(まらる) 叶焼(のま)！（あの野郎、口どころかケツの穴でもくっちゃべりやがる）」と怒鳴り、バケツの飛ぶ音、犬の声。稲「放っといてよ、ごめんよっ」ともう一声あげて、泣き伏した。
駆 複雑なんだね。
稲 最低ね、見せられたもんじゃないわ。
駆 あんたの乾いた心は愛情なんてものを持ってないのかと思ってたけど、案外そうでもないみたいだな。
稲 君までそんなこというの。
駆 君って呼ぶな。
稲 カケル。
駆 近来にない寒波の中、屋外同然の僕の部屋に蟄居して、それでも素足でいるあんた。あんたは靴を捨てる度胸と次を履かない節操を持ってる人なんだ。
稲 気をつけな。あたしを褒めると目に会うよ。あいつから媚態の振りまき方を教わったのはどう考えてもあたしをダラクさせるだけだったわ。
駆 安心してくれ。あんたを嫌いなことに変わりはない。あんたを好いてるのは僕じゃなくて僕の体と体の中の迷惑な何かだから。
稲 君の体はあたしの体にまだ魅かれる？
駆 残念ながらね。
稲 （抱きつき）そうでなくなる日が怖いの。ゴム手袋の日々。君の手の、愛撫にさえ肉体がよろこばなくなったら、他にあたしたち何のきずなでつながっていられるだろう。それに君と別れたあたしにもう誰が残されているだろう？
駆 また男を拾うさ。
稲 そんな風に見てるの。
駆 うん。
稲 枯葉みたいなあたしの心。あたしはまだ確かかしら。駆、触ってみて。ああ、そう。この感じ。なぜまわして。冬の晩、湯につけた体に走る見えないひび割れの快感。離れないで。離さないでいて。
抵抗を試みる駆の理性、あえなく消えようとする。その時、割れる如きクラクションが鳴り、はっとしたふたりの顔をヘッドライトが真っ向から射る。
稲 露地男?!
駆 いや、排気音が違う。
ペコペコと排気音あって、小さな小さなボルボに乗った渦野が進み出る。あの服装に加え、おそろしく大きなポラロイドカメラを首に掛けて。
渦野 やあ、小僧の君。
駆 ライターの！ 何さ、今頃？
渦野 君の精神も以前の通りなら見られただろう不思議なものを、今、海辺で目撃してきた。
駆 あんたの方がよっぽど不思議だ。
渦野 突っ込みありがとう。正体なく眠ってるのかと思えばそうでもないらしいな。バイクのかわりに夜中は、女に乗ることにしたんだね。
稲 （身づくろいし）挨拶がわりの憎まれ口、誰よあんた。
渦野 （気にせず）一寸法師の君。あれは君が見るべき天の予言だったよ。
駆 何見たのよ。
渦野 東京湾に架けられた八つの大橋のあつまる先、人工島テンペルホフの探照灯に照らし出された雲の腹は、巨大なおろちの下腹みたいに、赤錆色にうごめいていた。私は見た、その雲から、二〇メートルはあろうかという爬虫の口吻が突き下ろされるのを。
駆 ええ？
渦野 嘴の向こうを見透かすと、攻め寄せるガスの絨毯みたいに途方もない図体が、雲の底から沈んで出て、ペキンパーのスローモーションらしく圧倒的な印象を置き去りに、再びあの天の泥沼へ潜り上がって行った。実際のところ、あれは龍だ。地獄の運搬獣、ゲリュオンだ。あやしい東京湾のポロロッカだ。
駆 記者さん、あんた何キメてラリってるんだ？
渦野 見くびるな、ドラッグに頼るほど堕ちちゃあいないさ、頭はいつも明晰だ。
駆 じゃ何でそんなあり得ないもの、疑わないのさ。
渦野 見たからだ。
駆 蜃気楼だったら？
渦野 夜中だぜ？ それに蜃気楼だってないものは見せない、対象は遠くにだが存在するのさ。俺には信じる自由も能力もある。幻のメールストロームは信じることによって顕在化するんだ、どの渦を認めるかは私の勝手だ。それにしても君、何故そう無雑作に信じないなんていえるんだ？ あの夜、露地男たちが渡っていったという橋だ。俺も現場まで駆けつけて、確かに、厳重な黒カブト隊のバリケードの彼方に一夜にして出現したのを目撃したあの橋が、翌る朝には煙とかき消えてしまった戦慄をだ、何故無視するのだい。
駆 だって僕ぁ見なかったし、非常識じゃない。
渦野 常識？ ふん、起こってしまったことがやがて常識になるのさ。見たまえ、北斗が西にめぐってゆく。世界は多分、中々大したものなのに違いない。同位なんだ、皆。この世界もあの世界も同じに不確かなんだ。人間と植物も同じなんだ。血液と骨も変わらないんだ。歴史と数学も同位なんだ。夢と現実なんて入れかわれるんだ。別の遊星にゆけば、石は生きてるかも知れないし、空をゆく動物がいるかも知れないし、時間は逆戻りするかも知れないし、闇は光より明るいかも知れないんだ。
駆 そんなこといってみて、何になるのさ。
渦野 なるとも、面白いじゃないか。
駆 面白くたって、生きては行けないよ。
渦野 違うね、面白いところでしか、生きていても仕方がないんだ。かぁ老けとる、老けとるなあ坊主。
駆 いっとくけど駆って名前があるんだ、小僧だの坊主だの…、
渦野 小坊主かもんじゃ焼きで充分さ！ 君ごときが一寸法師ただひとりの残党とは、このロードムービーもどうやら見込みはないな。私のボルボの切る風は、もう君なぞには届くまい。
駆 この女の故だ…！
稲 （笑って）はん？ その通りさ、厭なら逃げな。
駆 蟯(ギョウ)虫め…。（やがて）全部は否定しない。でも記者さん、これだけはいうぞ。僕はあんた程の八方美人じゃない。露地男と、一寸法師と、あのそう、体を引き裂く風とだけが、僕の信じていた三位一体だった。それが海水に失われてしまった今、僕には次の渦巻なんてそうそう見付けられやしない。露地男が死んだって一寸法師は僕が引きつぐさ。一寸法師は露地男の別名じゃないんだから！
渦野 えらい鼻息だな。その割には邪魔者を叩き出しもせずのうのう暮してるようじゃないか。
駆 （さえぎって）違うっ、この体は、僕じゃない、僕の中の悪魔だっ。
渦野 （聞かず、熱心に）ここに、一枚の写真がある。君があのいびつな部屋から出奔するための旅券に、これはなるだろう。
駆、その大判の写真を受け取って見る。ぎょっとする。
稲 何、それ？
駆 こいつは…！
渦野 橋だ、あの晩の。金沢大橋、正しくは二年後に竣工される筈の東京湾テンペルホフ島第一連絡橋の、早すぎた映像だ。
駆 でも、これは、ないはずだ…。
渦野 事実は既に寝返ったのさ。
駆 すると露地男は、トマトゲームで死んだわけじゃない。建設中の高架の突っ外れから海に墜落したわけじゃない。本当に渡っていったんだ！ でも、それならなぜ戻らないんだろう？
渦野 さてね。帰り道は、まだないのかも知れないぜ。
駆 謎のようなことをいう。あんたっ、どれだけ何を、知ってるんだ？
渦野 知っていることは幾つかあるさ、これでもルポルタージュ畑の端くれに住んでるんでね。あいにくと露地男たちの行方は皆目見当つかん。だが島で何が行われようとしているかには興味があってね、潜り込むことは恐らく可能だ。
駆 船で？
渦野 秘密、秘密。
駆 僕も行く。
稲 あたしも。
駆 あんたは来るな。
稲 まっ、どうして？
駆 来るなったら来るな。
稲 失礼な奴だわあ、露地男を独占したいのね。
駆 あんたで露地男を汚したくないんだっ。
稲 いうわね、このクソがき。
駆 （渦野に）どう入る？
渦野 （ヒソヒソと）地下を通る。
駆 地下っ?!
渦野 （あわてて駆の口ふさぎ）チカって、嘘は、申しません。
駆 だって、どういう？ 八本もの橋を架けようっていうのに、その他にまだ地下道があるのかい？
渦野 そう、未公表のね。
駆 トンネルの入口はどこに？
渦野 時期が来たら教えよう。君、いま人工島に何が建造されているか想像がつくかい？ 第一次大戦以来百有余年、世界政治が禁じ続けてきた「空港」だ。
駆 クウコウ？ 何、それ。
渦野 フォッケウルフにメッサーシュミット、それにソ連のシコルスキーといった工業技術の粋を結集させて、ナチス政権はあの頃、世界に先駆けて空をゆく殺人兵器を開発しようとしていた。砲弾が回転しながらゆくと効率がいいことに着目してね、何枚かの薄い板を弾丸のまわりに配置しある角度で高速回転させることによって空に浮き、上空経由で敵地を攻撃しようという武器だ。トリーブ・フリューゲルと名付けられたプロトタイプまで完成していたという。
駆 何だそれ？ 大砲の弾のすごいやつ？
渦野 まあそうだ。すごさの桁が違うがな。ここから上海あたりまでは届くといったら驚くだろう？
駆 まさか！
渦野 それも一九四四年、八〇年前の時点でだ。歴史の教科書からも長いこと抹消されてきた事実だが、事実であることは間違いないさ。考えてもみろ、船や鉄道で軍備を運び、勝てば勝ったで輜重の労苦に頭を悩ませ、補給線上が真っ先に飢える。そんな非効率をヨーロッパの合理主義がいつまでも放っておくわけはないだろう。自分は居ながらにして、武器だけが相手を攻撃、滅ぼせば、こんなに楽なことはない。ただ人類の信仰だけが空を畏れ、空に向かうことを禁じてきたんだ。そしていよいよ無信仰の時代がやってきたのさ。
駆 それじゃ軍人は失業するね。
渦野 そうかな？ いやむしろ、戦地に行かなくて済むならば軍人のなり手は増えるんじゃないか。あるいはそう、陸海の他に空軍なんてものでも作るか。
駆 それを、あの島に？
渦野 ああ。いま作られているのは恐らく空をゆく武器の発着場なんだ。自軍は一兵も失わず、敵の拠点に外科手術をほどこす「きれいな戦争」が奴らの売りだ。航空魚雷を打ち出す施設を、ドイツ語から訳せば空港というわけさ、テンペルホフ空港。
駆 奴らって？
渦野 黒兜の、親玉さ。…
と、そこは満州、曽根たちのアジト。五燭の暗い電球の明かり。
ハイホァ 戦局はどうしても三つ巴にならざるを得ないわ。戦力で劣る私たちにはとりわけきちんとした作戦が必要ね。第一、これが信用できるチームなのかも、まだ分からないわけだし。
ムスタファ うん。では今一度現況の確認をしよう。呑気なようだが、こう呑気にしていられるのも満州圏にいるうちだけだからな。
ハイホァ 今のところ目立った戦闘は起きてはいないようね。去年あたりまでみたいな、一気に中共政府が崩壊して、アメリカが国軍に乗り換えるっていうシナリオは一応、消えたと思っていいのかしら。
ムスタファ うーん、それはまだ微妙だろう。国共両軍の力はあぶないところで拮抗しているというところだろうな。いずれにしろこの長春は情報収集にはうってつけの町だ。レポはほぼ毎日届いてる、すぐと戦端が開かれることはないと思うね。
ハイホァ でも時間の問題でしょう。海岸地方はすべて中共が押さえてるわけだから、内陸の勢力はどうしても補給線を確保しなければならないわ。それに国軍は多民族軍とはいえ所詮は漢族の軍隊ではっきりとした敵を想定しなければ統制を保つことすらできはしないけれど、そうすればするほど地方の民族部隊は離反思想の温床になっていく。現に新疆のトルコ側とはちっともうまくやれてないみたいじゃない。馬倒懸の外交技術で何とか敵同士にはならないでいるとはいえ。
ムスタファ ハイホァ、君ら甘粛方面部隊の働きには感謝している。
ハイホァ （厳しく）そんなことはいいんだ。私の出身は銀川だけど、回族の軍閥とは犬猿の仲だからね。いずれ故国を失った者でなけりゃあ、この戦争は戦えないよ。滅びかけた満州族の末裔としては、溥儀の住んだこの町にいるのは実に喜劇的ね。
ムスタファ …済まなかった。
ベニート 俺は昨日着いたばっかりでよくは分からねえが、何しろはっきりしてるのはここが中共勢力の限界だってことだろ？ 旅順いらい随分ものものしい警備だったが、この町じゃあ酒場で国軍の噂をしても平気なようだな、それもいい方の噂をよ。
曽根 そうだ。丁度、義和団前夜の上海といったところかな。何でもありさ。満州なんぞに縁もゆかりもない上に、これからだって地元農民のためになんかなろうともしない俺たちの侵入を許してるんだからな。
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