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2015年06月22日17:34
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017 開放フードはずし2 3/
オノレ 称号だ。アンチ・ヒーローの。いつ表面化するか分からない、誰もが嫌悪感を抱く人非人への尊称なのさ。
コウ ――おれ、それになりたい！（と、意外な宣言）
オノレ おまえが？ はん！（とニベもない）
コウ 何だよ。おれならなれる、夜々見つづけた、罪の夢々にかけて。
オノレ 無理だ。
コウ なぜ。おれのフェチは人並み以上にエロく罪深いんだぜ。人類などは滅びていい、ただ何人かの好みのオンナだけが生き残り、ハダカでおれにかしずいてさえくれれば、おれはあの子らに――それ以上は恥ずかしくていえないけど――要するにそういうことだ。
オノレ ガキの望みだ。自瀆過多で貧血になっている自称詩人のいいぐさだ。
コウ そうさ！ だから、妄想で犯したすべての女にかけて、おれの悪は本物だ。
オノレ そんなものは悪ではない。
コウ ナニ？
オノレ それは単なる堕落だろう。精子を振りまきたいオスという性が、多くのメスを思うたとてそれがなぜ悪だろう。百頭の牝牛と掛けあわせるためにたった一頭の種牛を飼う牧場主が悪でないならば、同じレヴェルでお前も悪ではない。そんな悪はすでに社会が規定した「倫理」に過ぎない。
コウ 違う。社会に規定されてるわけではない。おれのフェチはもっと特殊で悪質なんだ、（どこか喜々として）たとえばだねぇ――
オノレ うるせえよ。そりゃ悪じゃなく、露悪趣味だ。いいかコウ、フェチで世の中は覆らないのだ。なぜなら君のリビドーが抑えられないように誰しもリビドーの抑え方を知らないのであれば、そこには何がしかの共有感覚が生まれてくるだろう。で、もしも内輪うけできる仲間が見つかったらどうするんだね、それでも大規模な破壊を続ける気になるかね。まして、その仲間を紹介するために国権が動いたとなれば、むしろ国力にあやかりたいと思うのではないのかね。
コウ それは…。
オノレ フェチといったが、ヘンタイならばもう少し黙っているものだ。おそらく何かのメディアを通して知ったのだろうが、君はある程度の集合名詞でありそうな「フェチ」ということばを使った。それがどのメディアであれ、これまで弾圧されずに町で買えるメディアであるのなら、いかにヘンタイを宣伝したとて詰まるところはヘンタイを売りにした商品じゃないか。そんなインプット手段を保持したままでいったいどうやって国権を否定し、破壊行動に走ることができるのか、教えてもらいたいものだ。湯舟で背後からざんばらに斬られ果てた幡随(ばんずいん)長兵衛、屋根を跳んで走り小判を撒く義賊・鼠小僧次郎吉。そんなありふれたイメージと共に、安手な商品カタログから選んできたのではないのかね？
コウ それは…。
オノレ 性的嗜好は治らないし、それゆえ性犯罪は再発する、それは本当だ。だから厳罰を持って処するしかない、それも本当で、だからヘンタイの所業は悪人のそれに見えかねないのも確かだ。が、病とは所詮、世を破壊するほどの悪には育たないのだよ。残念だったなコウ、おまえより、ゆう、あの子の方がまだずっと邪悪な資質を持っているよ。
コウ ゆうが？ あのいい子が？ どういうことだ。
オノレ 天賦の才能だ。自分の邪悪さを思ってみることもないのだ。称号を与えてもいい。（架空のゆうに呼びかけ）――マックイイーン君。ワタシハ君ノソーユー所ガ好きだし…気ニ入ッテイル。本当、君ノ事ヲ。一見シテ君ハチッポケダガ…実ハトテモ邪悪なヤツダ。【Ｍ��、徐々に入る】マックイイーン。君ニハ他人ヲ道ヅレニスル邪悪サガアル。私ニ協力シテクレナイカ…？ 仲間トシテ。マックイイーン。君こそ真ノ邪悪ダ。君には「敵意」がナイ。「敵意」…「敵意」には力(パワー)が向カッテ来ル。ヨリ強い力が「敵意」を必ずタタキにヤッテ来ル…「敵意」はイツカ倒サレル。実に単純ダ。ダガ君は違ウ…君には敵意もナケレバ悪気もナイシ、誰にも迷惑ナンカかけてナイと思っテイル。自分ヲ被害者ダト思っているし、他人に無関心のクセに誰カガイツカ自分を助けてクレルト望ンデイル。だがソレコソ悪より悪い「最悪」と呼バレルものダ。他人を不幸に巻き込んで道づれにスル「真の邪悪」ダ。本当に君のコトが好キダよマックイイーン。
ヤケドが顔や腕にまで拡がったゆうが、揺らめき出る。時代錯誤の格好（モンペとか）。夢の映像のように、手が届かない。
ゆう …ええ。父さんは病気なんです。
オノレ 優しい子だね、君は。
ゆう そうでしょうか。
オノレ 今どきめずらしい、付きっきりで面倒みるなんてね。
ゆう そうでしょうか…。（音楽に乗りスローモーションで舞う）
コウ 何だこれは…いつの映像だ。
オノレ 目を逸らしたければ逸らすがいい。もう一つのものがたりさ。
コウ そんな空間があるもんか。
オノレ 何を勘違いしている？ おまえが、もうひとつのものがたりなのさ。そうしてゆう、あの子もおまえという妄想につきあってくれてるわけだ。
コウ なに…じゃあ、ここは…。何だこの、曖昧な映像は。――手が届かない！
オノレ 充分リアリズムで妄想し切れていない証拠さ。
コウ ゆうに何をした。
オノレ 私ではない。私はただ見る者、マン・イン・ザ・ミラーだ。
コウ ――それじゃあ、おれが…？
オノレ （意外に）それも違う。
コウ 違う？
オノレ おまえに邪悪は無理だというんだ。貴様はただ、体いっぱいの美学を生きて、突っ走ってぶっ倒れてくたばればそれでいい。それがおまえの精一杯だな。ああ、おまえの寿命が見える――三十七歳でくたばるとよ。お幸せなことだ。
コウ おれのことはいい。ゆうを救わないと。
オノレ 必要ない。
コウ なんでっ。
オノレ ものがたりを紡いだのはあの子なのだ。
コウ は？
オノレ これはおまえの妄想ではない。おまえにつきあって二重の夢を見ることを選んだあの子の夢なのだ。
コウ なにいってんだ！
オノレ つべこべ抜かすな、受けいれろっ。さて問題です。次のセンテンスのうち、「私」に当たるのは、誰でしょう。「私のユートピア」。
ゆう （思わず）ワタシノユウトピア。
コウ 私のユートピア？
オノレ ワタシノユウトピア。
ゆう ワタシノユウトピア。
コウ なに…何だ…？ ゆうしっかりするんだ。
オノレ クククク…。その娘はもう聞いていない。私もお前も目に入ってはいないのだ。ただひたすら我(おのれ)の憎悪に、深く深く沈んでいこうというわけさ。
コウ 憎悪。この子に憎悪があるもんか。
オノレ あるね。しかも、語るね。
ゆう ウウウウウウウ…（呻く…！）
コウ ちくしょう、彼女に何をしたんだ！
オノレ 何もしやせん。ただ見ているだけだ、合わせ鏡のトンネルを。
コウ タワゴトはいいっ。
オノレ いいから聞けっ。【Ｍ��】
ゆう ダメナンデス ワタシ ドウシテモダメナンデス コワインデス オモテヲアルケナインデス ミンナガ ワタシヲ ミテイルノ ジロジロミテ ヤメテッテ イッテモ キコエナイフリ シテネ ソノクセ ハナシカケテモ ワライナガラ スルッテ ドコカヘ キエテシマッテ ドコカ トオクデ ニヤニヤシナガラ マタミテイルノ ガッコウヘ イッテルコロハ キガエナンテ デキナカッタ ヒャクニンデ ミルノヨ アタシ シニソウ ダメナノソレ クスリヲネ クスリ ノンダ ゼンブワスレテ セカイガ オンガクミタイニ ナルッテ ダメダッタ バカネ カーテンニクルマッテ ヨナカネ スイドウノ シズクノ オトキクノ ダレカガ ミテルノ アタシヲネ トビオリタイ シンジャイタイ タスケテ シンデモイイノ？ ダレモ コマラナイ ダレモ カナシマナイ アタシ イナイ ドコニモ アタシ モウ シンジャイタイ オソウシキ シナイデネ ソノママ ワスレテネ イキテタ ナンテ オモワレタクナイ ツマンナイ ヒトダモン トウサンモ カアサンモ ナクヨネ ミッカクライ デモ ワスレルスグ ダッテ アタシナンテ イナクテモ ナニモ カワラナイ ダカラ シヌ コワイケド イキテルヨリ イイ ジャアネ オトウサン カミソリカリルネ ヨゴシテゴメン バイ バイ
コウ ゆう…！
オノレ 確かに私は悪人だ。だが悪と邪悪は違うのだ。悪を公言する私とつきあう者はむしろ幸いさ、なぜなら私の悪の程度を量ることができようからだ。が、この娘はどうだ。掛け値なしの善意と、愛情と、かなりな程度の意志の力とで君を思ってきたし、これからもそれを続けるだろう。が、一方では今の通りさ。こんな戯れごとを押しかくして、君に尽くして美しく生きていく。そうして君は不幸になる。生きることへの意欲が根柢から失われていく。いいか邪悪とはそういうことだ、善意と愛とが人を滅ぼすのさ。
コウ 勝手なことを！
オノレ ざっくばらんにいえばこうだ。人は土だ。精神は種だ。そして大事なのは土の方で、どんな種を宿すかなどはどうでもいい。どんな種でも、土の成分の導くままに育つのさ。すなわち善の種も、死の苗床に植わればっ。
コウ いったい何いって――
ゆう （突然、憎しみに充ちて）死んじゃえ、人間なんて死んじゃえっ。
オノレ （高笑い）ハハハハハ…！ どうだね、善意と憎悪の、オン・ステージだッ。
コウ しっかりするんだ。おれはここさ。（と、ゆう抱くが…【Ｍ��、暗い軍歌調】）
ゆう （ぼんやり）見えてる…。
コウ そうかい…？
ゆう 見えてる…。
コウ 俺が？
ゆう （聞かず）――あの、砂漠…！
ふたり同時に、その砂漠にトリップする。
先の鞍には王子様
後の鞍にはお姫様
乗ったふたりはお揃いの
白い上着を着てました
広い砂漠をひとすじに
ふたりは何処へ行くのでしょう
砂丘を越えて往きました
黙って越えて往きました
――――
音楽遠ざかり、風。ふたり、こちら側に戻ってこられない。オノレ、高らかに宣言する。
オノレ 今こそ語れ、渡り鳥。前回までのあらすじだ。
コウ （かすれて、やっと）何で…君がそんな…ことを…知って…
オノレ オノレは何でも知っているのさ。
――某中学校の写真部員だった娘、有薗(アリゾノ)三月(・ミツキ)。彼女の没頭の形式は初め「写真はチャンスだ」「チャンスに遭遇するためには、常にシャッターを押していなければ」「そのためには、ファインダーなんか覗かない」の三つに収斂された。日に三千回のレリーズ・ノックを自分に課し、「あっ」と思ってからカメラを目に持っていくまでに最低三コマを撮影していることを日常と定義した。そこに生まれたのは、停止という形態をとった時間芸術である写真が、アングルとチャンスのない交ぜになった「動」の領域に到達した姿であった。が、この営為は周囲から「隠し撮り」としか捉えられなかった。彼女は学校側より本当に隠し撮りの常習者であるヘンタイ男子生徒らとひと並びの処分を受けかかり怒って、断乎自分の芸術を語ること、また実践することによって大方の批判をかわしてゆくのだが…ここに退廃的ないち風紀指導教諭がおり、芸術の存在自体を軽侮しつつ真っ向から彼女を屈服させるべく管理主義を実行してゆく。あたかも時は一九八一年、都市部の中高生による「校内暴力」が新聞の社会面を賑わせていた折も折、ここ北関東の田舎では生徒の反抗はさほどになけれども教師の暴力ばかりはＰＴＡの母親たちからさえ「男らしい先生ね」と無防備に肯定されていたような時代であった。そんな中、有薗三月と反面教師飯塚和男との戦いは、青筋たてた教師によるカメラの粉砕という形でいったん終止符が打たれた。が――芸術の精神はメディアの剥奪によって抑えることはできない。アクロバットの妙手であった世阿弥が敢えて静の演戯に進んだごとく、三月の次の技法は「ピンホール写真」であったのだ。日に三千コマの日常から、ひとコマ三分の日常への転換。ただひとコマの撮影（というよりむしろ投影）が生む多重露光的効果、緩慢な時の流れを切りとることによって見えてくるアジア的実相、レンズに代わってアルミホイルにみずから穿つ針穴を通して光は暗箱に世界を描く、そのことは普段マイナス要因としてのみ捉えていた「収差」への積極的な関与を目覚めさせもし…。周囲はしかし彼女を理解しただろうか。転換ではなく転向。政治的な屈服と、芸術の正道からの逃避と見なされるのは過酷とはいえ止むをえないことだったかも知れない。彼女のもろさの面に、その評価は響いたともいえる。正面切って闘うよりも美学に没入する道を選んだことで、彼女の営為はにわかにオカルトの様相を帯びてくる。そしてある日、有薗三月は失踪した。――（去る）
ゆう （遠い空の、風）私方の西隣りにきみこさんという五十前後のおばさんが住んでいる。農家に生れ農家に嫁いで来たのだから、根っからの百姓のおばはんだが、謂ゆる百姓の野良声でわめき立てることもなく、どこか暗い表情の奥に物静かな微笑を湛えているような人である。そのきみこさんの家の納屋のそばに人の背丈の二倍ほどの桃の木があった。年々きれいな花を咲かせ、夏の掛かりになると、たわわに実った緑色の実の一つ一つに、新聞紙で作った虫除けを被せる作業などにも手抜きはなく、私は折あるごとに母とこの桃の木のことを話していた。それが今年の梅雨時のある晩、何者かによって伐り倒されてしまった。いや、あとで判ったことだが、かなり前に幹の太さの三分の二ぐらいのところまで鋸目が入れてあって、突風でも吹いたらあとは自然に根元から倒れるように仕組んであったのだ。それほどの鋸目が入れてあったのに、花は今年も見事に咲き、実も例年に劣ることなくよく実っていた。毎日一度は木の世話をしに行くきみこさんにさえ不信の念を抱かせないほど、この花の木が生命力の限りを尽して生きていたということだ。そして風のない晩、どさりと倒れた。
「人に見せびらかすようなとこに、桃や植えるさかい、こななことになるんや、桃作りやのうて罪作りや、おいしいおいしい言いまくるんは、さぞ心地がええやろけど、聞かされとう方へは一つも口へ入らへんがな」――晩餉(ばんげ)の時に、母が陰口叩いていた。十年も前に田んぼの西瓜を全部盗まれた口惜しさを未だに根に持って、村の人に泣きを言い立てる母である。いつぞやは人前できみこさんに「言いまんな」と咎められたものである。それも根に持っているのである。だからこの桃の木の事件は、母にとってはさもさも小気味いいことだったが、きみこさんはその後、嘆くようなことは片言も洩らさない。それが母にとってはまた癪の種で、先日もこんなことを言っていた。「あの木、いつまでも未練たらっそうに片付けんと」――さすがに母の物言いは私には聞きづらく、たしなめるようなことを口に出すと、逆にここぞとばかり、「一番なりのええ西瓜は全部な、二番なりのまだ小さいやつかて残らず叩き割って去(い)んどったんやがな、ほんまに」と得意の西瓜盗人の話を長々とやったあと、「きみこさんは性根のすわった人や、けど、うちはそうやないんや、情けないことは死ぬまで言うて言うて言いまくるんや、その方が気持がすっとするもん」とけろりと言った。――（風消え、去る）
コウ 一枚のカットには、どれだけの時間を凝縮することができるのだろう。結局、写真をやってて行きつく問題はそこなんではないだろうか。チャンスともいった、ピンホールともいった、正義ともいったしフェチともいった、だが、結局、静止画像という抑制が、抑制自体の作用によって、どれほどのものがたりを見せられるのか、という一点に尽きるだろう。下らないものがたりだってある、いや、大抵はろくなもんじゃないさ、そのことはいいんだ。だが分母の低レヴェルを見るのではなく、分子のたった一つのアトゥムがありえるとしたら、それはどんな写真で、あるいは写真では無理なのか、おれが考えたかったのはそこなんだ。まず分かってるのは、きれいな画像が欲しいのではないということ。カラーフィルムは排除しよう。デジカメ？ ＳＦのアイディアはどんどん実現されてるが、どこまでアナクロを通せるか、という方にしか気の向かない人間もいるんだ。排除。テクノロジーをバカにするなって？ 写真がそもそもテクノロジーだろうって？ そうさ。だが、自分の身体性が信じられる限りのアナクロまでさかのぼって何が悪い、少なくとも単なる消費ではなく、このふたつの手で、物事にとり組もうてんだから。なあ、ゆう。性能がいいなんて、大したことじゃないよ。撮りたいものを撮るには、性能がよければいいってもんじゃない。
声 「でも、いいに越したことはないんじゃない？」
コウ 違うんだ。それとこれとは全然関係ないことなんだ。いやむしろ、性能なんか悪い方がいいのが撮れることだって、あるかも知れない。
声 「ひねくれてんだ」
コウ 違う。時間を止めるにはレンズにどれだけの時間が染みついてるかが重要なんだ。非球面レンズはそりゃすごい発明だった。職人芸では到達できない技術力さ。でもさ、収差のないレンズを作ることはできないといわれていた時代、おれたちの美学は合理性とは無縁のものだったんだ。ボケもブレも画質の荒れもひと絡げに抱えこむことでおれたちの写真は撮られていった。おれたちはカラー写真すら撮らなかったんだ。制限された性能でしかたどり着けない森があるとおれには思える。その森に這いこみ這いだす一匹の虫におれはなりたかったんだ。ゆう、分かるかい、おれは写真で虫の目をもちたかったんだよ。それはおれにしか寄りそえない虫だ、アリゾナの送ってくれたハチではなかったんだ。ハチは確かに送られた。だが、贈与に対しては贈与の返信、詰まるところは贈与の自己増殖に過ぎない。Attack of the killer gift、殺人贈与の一撃だ！ 贈与が脹らみ、ありもしないハチの国を群馬の彼方に見ようとした、それがおれの踏み誤った穴だった。その国には彼女だけが行ったので、おれはおれで別の虫を――おれの虫は――たぶんそれは、ガムシだ…！【Ｍ��】アリゾナ、君の送ってくれたハチのターヤ、二重の夢で受けとりました。それは、西日の中をフラフラと飛びながら、僕の耳の穴に飛びこんできたのです。そして、ターヤは言いました。「あたしは女王蜂になるところでした。でも、女王蜂になる為の闘いに負けて、巣を追い出されてしまったのです。アラカワさん、あたしは、もう用のない蜂です。どうか、このままにして下さい。あたしは、もう死ぬのですから」。それ以来、僕は夢の中で、いつもターヤを背負って飛んでいます。「どうするの、アラカワさん、これからどうするの」という声に、僕はうかつにも、こんな約束をしてしまいました。「君と、もうひとつのハチの国を造るんだ」。こうして僕の中の気体は、フェロモンのエーテルにからめとられてきました。だが、おれの虫の目は、やっと行きつくところまで来た。高三の冬、定着液のバットをするりと抜けだした何枚かの六ツ切りプリントは、校舎裏の凍てついた流しに届くことなく行き場をなくしてもうひとつの隙間に流れこんでいった。当然といえば当然の行きつく先は、日に三千枚の世界とひとコマ三分間の世界とのはざまにあるわずかの隙間。そこにもうひとつのものがたりがあった。条件は整っていた。まず暗室だ。暗幕で目張りはしてあるので完全暗転ができる。とうに部員たちの逃げていった無人の階段下には、20名からの客を入れることができる。裸電球の他に、赤い照明もある。ラジカセくらいはある。あとはペンでほんの数枚、書きさえすればいい。そうして一晩で書きあげた、畸形によじれた何枚か。そいつをたったひとりの暗室で読みあげた時、始まったんだ…おれの体…おれの「演劇」が…！ タイトルは《闇に耳すます者たちよ》。階段下の、モノクロームの狭い空間から、おれはどこまでの世界を見通そうとしたのか。悪も堕落も一抱えに背負(しょ)いこんで、おれはどの闇に駆けこんでいこうとしたのか。時間を止めて、また動かす。この不遜、この快感、だが、突っ走りつんのめってぶっ倒れるまで生きていこう、そう、十八歳のおれは思ったっ。アリゾナ！ そうしておれは写真を捨てた。アリゾナ！ これでいいのか。おれはこの道を行く、行くしかない。初めての戯曲の、最後の一節はこうだ。「これは中東の出稼ぎで覚えたサバサンドってしろもんだぁ、コッペパン割ってサバの塩焼き挟んだだけのすこぶる安っぺえ御馳走さ、食え。はぁ…んむ、こらぁ旨えっすね！ だろ？ これから東京はダメになるぜ、こんなもんに大枚払ってカッコつける町にもなる、レタスだトマトだ挟んであったら注意しろ、味なんかすぐに麻痺するからな。てめえは時代に呑まれんなよ、貧乏臭えままでいろよ。なんだい貧乏臭いってそいつぁ励ましてんのかとちっとばかりムッとはしたが、しかし、サバサンドは旨かった。それにはやくも政は酔ってた。酒屋からここまでの間にもう、二本かそこら空けてきたようだ。客電が落ちる、と、いきなりの大音声、チムチムチェリーが鳴り渡る！ どぎつい化粧の男ども、半裸裸足で駆け出して、汗とよだれが客席に降る、四トントラがぐらぐら揺れて客席はドッと沸き返る。いってることは少しも分からん、ひとことたりとも聞き取れん。何だ、いったい何なんだこれは。日傘を差し差しごつい女優がアジアの海を謳いあげれば、五右衛門鬚に尻ぱしょり、赤褌(フン)なびかせ下駄履きのオカマを名乗る屈強なおやじ、ライオンのごとく咆吼す。飛び交う便器！ 花道駆けるネコ車、観客席にぶちまける砂利っ！ 貴婦人くるおしくシャンパンふり撒きゃ照明にかかってボンと鳴りまたシュウと鳴る。わけも分からずやがてフィナーレ、全員の遠い目、合唱するは日暮里の、あの森、《重力の花園》よっ！」ガムシのおれの、ここは重力の花園だ！
こだま 花園なんだ！
急激に戦闘ヘリの爆音戻る！ 大勢の男女、客席でそれぞれの「私の中の悪／悪の中の私」について激しく語る。近くの観客にだけ聞きとれるが、全体にけたたましいノイズとなる。やがてコウ、音をさえぎって止め――
コウ ガムシよ、おれよ、この地を、這え――！
全員 這いまわれ――！【Ｍ��、FOMALHAUT「重力の花園」】
メタセコイアの 木の蔭で
海峡に沈む シーラカンスよ
その影揺れれば ウナセラディ
爆撃 東京 焼け野原
千葉へ行く行く 貨物線
貨車も転覆 大暴風
寝ない子だれだ 終電は出た
忘れちゃいけない 子守唄
焦土 日暮里 夢枕 よおっ！
暗転！
上演記録
がむしテラス／二〇〇五年十一月二〇日／宮代町オンエアー／原作構成・高野竜／音楽監修・酒井康志／出演・武井友則、うに、３７５、ユーナ、西和恵、めぐみるく嬢、加藤ゴン太、熊谷清正、田代義昂／特殊効果・速水鷹司
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コウ ――おれ、それになりたい！（と、意外な宣言）
オノレ おまえが？ はん！（とニベもない）
コウ 何だよ。おれならなれる、夜々見つづけた、罪の夢々にかけて。
オノレ 無理だ。
コウ なぜ。おれのフェチは人並み以上にエロく罪深いんだぜ。人類などは滅びていい、ただ何人かの好みのオンナだけが生き残り、ハダカでおれにかしずいてさえくれれば、おれはあの子らに――それ以上は恥ずかしくていえないけど――要するにそういうことだ。
オノレ ガキの望みだ。自瀆過多で貧血になっている自称詩人のいいぐさだ。
コウ そうさ！ だから、妄想で犯したすべての女にかけて、おれの悪は本物だ。
オノレ そんなものは悪ではない。
コウ ナニ？
オノレ それは単なる堕落だろう。精子を振りまきたいオスという性が、多くのメスを思うたとてそれがなぜ悪だろう。百頭の牝牛と掛けあわせるためにたった一頭の種牛を飼う牧場主が悪でないならば、同じレヴェルでお前も悪ではない。そんな悪はすでに社会が規定した「倫理」に過ぎない。
コウ 違う。社会に規定されてるわけではない。おれのフェチはもっと特殊で悪質なんだ、（どこか喜々として）たとえばだねぇ――
オノレ うるせえよ。そりゃ悪じゃなく、露悪趣味だ。いいかコウ、フェチで世の中は覆らないのだ。なぜなら君のリビドーが抑えられないように誰しもリビドーの抑え方を知らないのであれば、そこには何がしかの共有感覚が生まれてくるだろう。で、もしも内輪うけできる仲間が見つかったらどうするんだね、それでも大規模な破壊を続ける気になるかね。まして、その仲間を紹介するために国権が動いたとなれば、むしろ国力にあやかりたいと思うのではないのかね。
コウ それは…。
オノレ フェチといったが、ヘンタイならばもう少し黙っているものだ。おそらく何かのメディアを通して知ったのだろうが、君はある程度の集合名詞でありそうな「フェチ」ということばを使った。それがどのメディアであれ、これまで弾圧されずに町で買えるメディアであるのなら、いかにヘンタイを宣伝したとて詰まるところはヘンタイを売りにした商品じゃないか。そんなインプット手段を保持したままでいったいどうやって国権を否定し、破壊行動に走ることができるのか、教えてもらいたいものだ。湯舟で背後からざんばらに斬られ果てた幡随(ばんずいん)長兵衛、屋根を跳んで走り小判を撒く義賊・鼠小僧次郎吉。そんなありふれたイメージと共に、安手な商品カタログから選んできたのではないのかね？
コウ それは…。
オノレ 性的嗜好は治らないし、それゆえ性犯罪は再発する、それは本当だ。だから厳罰を持って処するしかない、それも本当で、だからヘンタイの所業は悪人のそれに見えかねないのも確かだ。が、病とは所詮、世を破壊するほどの悪には育たないのだよ。残念だったなコウ、おまえより、ゆう、あの子の方がまだずっと邪悪な資質を持っているよ。
コウ ゆうが？ あのいい子が？ どういうことだ。
オノレ 天賦の才能だ。自分の邪悪さを思ってみることもないのだ。称号を与えてもいい。（架空のゆうに呼びかけ）――マックイイーン君。ワタシハ君ノソーユー所ガ好きだし…気ニ入ッテイル。本当、君ノ事ヲ。一見シテ君ハチッポケダガ…実ハトテモ邪悪なヤツダ。【Ｍ��、徐々に入る】マックイイーン。君ニハ他人ヲ道ヅレニスル邪悪サガアル。私ニ協力シテクレナイカ…？ 仲間トシテ。マックイイーン。君こそ真ノ邪悪ダ。君には「敵意」がナイ。「敵意」…「敵意」には力(パワー)が向カッテ来ル。ヨリ強い力が「敵意」を必ずタタキにヤッテ来ル…「敵意」はイツカ倒サレル。実に単純ダ。ダガ君は違ウ…君には敵意もナケレバ悪気もナイシ、誰にも迷惑ナンカかけてナイと思っテイル。自分ヲ被害者ダト思っているし、他人に無関心のクセに誰カガイツカ自分を助けてクレルト望ンデイル。だがソレコソ悪より悪い「最悪」と呼バレルものダ。他人を不幸に巻き込んで道づれにスル「真の邪悪」ダ。本当に君のコトが好キダよマックイイーン。
ヤケドが顔や腕にまで拡がったゆうが、揺らめき出る。時代錯誤の格好（モンペとか）。夢の映像のように、手が届かない。
ゆう …ええ。父さんは病気なんです。
オノレ 優しい子だね、君は。
ゆう そうでしょうか。
オノレ 今どきめずらしい、付きっきりで面倒みるなんてね。
ゆう そうでしょうか…。（音楽に乗りスローモーションで舞う）
コウ 何だこれは…いつの映像だ。
オノレ 目を逸らしたければ逸らすがいい。もう一つのものがたりさ。
コウ そんな空間があるもんか。
オノレ 何を勘違いしている？ おまえが、もうひとつのものがたりなのさ。そうしてゆう、あの子もおまえという妄想につきあってくれてるわけだ。
コウ なに…じゃあ、ここは…。何だこの、曖昧な映像は。――手が届かない！
オノレ 充分リアリズムで妄想し切れていない証拠さ。
コウ ゆうに何をした。
オノレ 私ではない。私はただ見る者、マン・イン・ザ・ミラーだ。
コウ ――それじゃあ、おれが…？
オノレ （意外に）それも違う。
コウ 違う？
オノレ おまえに邪悪は無理だというんだ。貴様はただ、体いっぱいの美学を生きて、突っ走ってぶっ倒れてくたばればそれでいい。それがおまえの精一杯だな。ああ、おまえの寿命が見える――三十七歳でくたばるとよ。お幸せなことだ。
コウ おれのことはいい。ゆうを救わないと。
オノレ 必要ない。
コウ なんでっ。
オノレ ものがたりを紡いだのはあの子なのだ。
コウ は？
オノレ これはおまえの妄想ではない。おまえにつきあって二重の夢を見ることを選んだあの子の夢なのだ。
コウ なにいってんだ！
オノレ つべこべ抜かすな、受けいれろっ。さて問題です。次のセンテンスのうち、「私」に当たるのは、誰でしょう。「私のユートピア」。
ゆう （思わず）ワタシノユウトピア。
コウ 私のユートピア？
オノレ ワタシノユウトピア。
ゆう ワタシノユウトピア。
コウ なに…何だ…？ ゆうしっかりするんだ。
オノレ クククク…。その娘はもう聞いていない。私もお前も目に入ってはいないのだ。ただひたすら我(おのれ)の憎悪に、深く深く沈んでいこうというわけさ。
コウ 憎悪。この子に憎悪があるもんか。
オノレ あるね。しかも、語るね。
ゆう ウウウウウウウ…（呻く…！）
コウ ちくしょう、彼女に何をしたんだ！
オノレ 何もしやせん。ただ見ているだけだ、合わせ鏡のトンネルを。
コウ タワゴトはいいっ。
オノレ いいから聞けっ。【Ｍ��】
ゆう ダメナンデス ワタシ ドウシテモダメナンデス コワインデス オモテヲアルケナインデス ミンナガ ワタシヲ ミテイルノ ジロジロミテ ヤメテッテ イッテモ キコエナイフリ シテネ ソノクセ ハナシカケテモ ワライナガラ スルッテ ドコカヘ キエテシマッテ ドコカ トオクデ ニヤニヤシナガラ マタミテイルノ ガッコウヘ イッテルコロハ キガエナンテ デキナカッタ ヒャクニンデ ミルノヨ アタシ シニソウ ダメナノソレ クスリヲネ クスリ ノンダ ゼンブワスレテ セカイガ オンガクミタイニ ナルッテ ダメダッタ バカネ カーテンニクルマッテ ヨナカネ スイドウノ シズクノ オトキクノ ダレカガ ミテルノ アタシヲネ トビオリタイ シンジャイタイ タスケテ シンデモイイノ？ ダレモ コマラナイ ダレモ カナシマナイ アタシ イナイ ドコニモ アタシ モウ シンジャイタイ オソウシキ シナイデネ ソノママ ワスレテネ イキテタ ナンテ オモワレタクナイ ツマンナイ ヒトダモン トウサンモ カアサンモ ナクヨネ ミッカクライ デモ ワスレルスグ ダッテ アタシナンテ イナクテモ ナニモ カワラナイ ダカラ シヌ コワイケド イキテルヨリ イイ ジャアネ オトウサン カミソリカリルネ ヨゴシテゴメン バイ バイ
コウ ゆう…！
オノレ 確かに私は悪人だ。だが悪と邪悪は違うのだ。悪を公言する私とつきあう者はむしろ幸いさ、なぜなら私の悪の程度を量ることができようからだ。が、この娘はどうだ。掛け値なしの善意と、愛情と、かなりな程度の意志の力とで君を思ってきたし、これからもそれを続けるだろう。が、一方では今の通りさ。こんな戯れごとを押しかくして、君に尽くして美しく生きていく。そうして君は不幸になる。生きることへの意欲が根柢から失われていく。いいか邪悪とはそういうことだ、善意と愛とが人を滅ぼすのさ。
コウ 勝手なことを！
オノレ ざっくばらんにいえばこうだ。人は土だ。精神は種だ。そして大事なのは土の方で、どんな種を宿すかなどはどうでもいい。どんな種でも、土の成分の導くままに育つのさ。すなわち善の種も、死の苗床に植わればっ。
コウ いったい何いって――
ゆう （突然、憎しみに充ちて）死んじゃえ、人間なんて死んじゃえっ。
オノレ （高笑い）ハハハハハ…！ どうだね、善意と憎悪の、オン・ステージだッ。
コウ しっかりするんだ。おれはここさ。（と、ゆう抱くが…【Ｍ��、暗い軍歌調】）
ゆう （ぼんやり）見えてる…。
コウ そうかい…？
ゆう 見えてる…。
コウ 俺が？
ゆう （聞かず）――あの、砂漠…！
ふたり同時に、その砂漠にトリップする。
先の鞍には王子様
後の鞍にはお姫様
乗ったふたりはお揃いの
白い上着を着てました
広い砂漠をひとすじに
ふたりは何処へ行くのでしょう
砂丘を越えて往きました
黙って越えて往きました
――――
音楽遠ざかり、風。ふたり、こちら側に戻ってこられない。オノレ、高らかに宣言する。
オノレ 今こそ語れ、渡り鳥。前回までのあらすじだ。
コウ （かすれて、やっと）何で…君がそんな…ことを…知って…
オノレ オノレは何でも知っているのさ。
――某中学校の写真部員だった娘、有薗(アリゾノ)三月(・ミツキ)。彼女の没頭の形式は初め「写真はチャンスだ」「チャンスに遭遇するためには、常にシャッターを押していなければ」「そのためには、ファインダーなんか覗かない」の三つに収斂された。日に三千回のレリーズ・ノックを自分に課し、「あっ」と思ってからカメラを目に持っていくまでに最低三コマを撮影していることを日常と定義した。そこに生まれたのは、停止という形態をとった時間芸術である写真が、アングルとチャンスのない交ぜになった「動」の領域に到達した姿であった。が、この営為は周囲から「隠し撮り」としか捉えられなかった。彼女は学校側より本当に隠し撮りの常習者であるヘンタイ男子生徒らとひと並びの処分を受けかかり怒って、断乎自分の芸術を語ること、また実践することによって大方の批判をかわしてゆくのだが…ここに退廃的ないち風紀指導教諭がおり、芸術の存在自体を軽侮しつつ真っ向から彼女を屈服させるべく管理主義を実行してゆく。あたかも時は一九八一年、都市部の中高生による「校内暴力」が新聞の社会面を賑わせていた折も折、ここ北関東の田舎では生徒の反抗はさほどになけれども教師の暴力ばかりはＰＴＡの母親たちからさえ「男らしい先生ね」と無防備に肯定されていたような時代であった。そんな中、有薗三月と反面教師飯塚和男との戦いは、青筋たてた教師によるカメラの粉砕という形でいったん終止符が打たれた。が――芸術の精神はメディアの剥奪によって抑えることはできない。アクロバットの妙手であった世阿弥が敢えて静の演戯に進んだごとく、三月の次の技法は「ピンホール写真」であったのだ。日に三千コマの日常から、ひとコマ三分の日常への転換。ただひとコマの撮影（というよりむしろ投影）が生む多重露光的効果、緩慢な時の流れを切りとることによって見えてくるアジア的実相、レンズに代わってアルミホイルにみずから穿つ針穴を通して光は暗箱に世界を描く、そのことは普段マイナス要因としてのみ捉えていた「収差」への積極的な関与を目覚めさせもし…。周囲はしかし彼女を理解しただろうか。転換ではなく転向。政治的な屈服と、芸術の正道からの逃避と見なされるのは過酷とはいえ止むをえないことだったかも知れない。彼女のもろさの面に、その評価は響いたともいえる。正面切って闘うよりも美学に没入する道を選んだことで、彼女の営為はにわかにオカルトの様相を帯びてくる。そしてある日、有薗三月は失踪した。――（去る）
ゆう （遠い空の、風）私方の西隣りにきみこさんという五十前後のおばさんが住んでいる。農家に生れ農家に嫁いで来たのだから、根っからの百姓のおばはんだが、謂ゆる百姓の野良声でわめき立てることもなく、どこか暗い表情の奥に物静かな微笑を湛えているような人である。そのきみこさんの家の納屋のそばに人の背丈の二倍ほどの桃の木があった。年々きれいな花を咲かせ、夏の掛かりになると、たわわに実った緑色の実の一つ一つに、新聞紙で作った虫除けを被せる作業などにも手抜きはなく、私は折あるごとに母とこの桃の木のことを話していた。それが今年の梅雨時のある晩、何者かによって伐り倒されてしまった。いや、あとで判ったことだが、かなり前に幹の太さの三分の二ぐらいのところまで鋸目が入れてあって、突風でも吹いたらあとは自然に根元から倒れるように仕組んであったのだ。それほどの鋸目が入れてあったのに、花は今年も見事に咲き、実も例年に劣ることなくよく実っていた。毎日一度は木の世話をしに行くきみこさんにさえ不信の念を抱かせないほど、この花の木が生命力の限りを尽して生きていたということだ。そして風のない晩、どさりと倒れた。
「人に見せびらかすようなとこに、桃や植えるさかい、こななことになるんや、桃作りやのうて罪作りや、おいしいおいしい言いまくるんは、さぞ心地がええやろけど、聞かされとう方へは一つも口へ入らへんがな」――晩餉(ばんげ)の時に、母が陰口叩いていた。十年も前に田んぼの西瓜を全部盗まれた口惜しさを未だに根に持って、村の人に泣きを言い立てる母である。いつぞやは人前できみこさんに「言いまんな」と咎められたものである。それも根に持っているのである。だからこの桃の木の事件は、母にとってはさもさも小気味いいことだったが、きみこさんはその後、嘆くようなことは片言も洩らさない。それが母にとってはまた癪の種で、先日もこんなことを言っていた。「あの木、いつまでも未練たらっそうに片付けんと」――さすがに母の物言いは私には聞きづらく、たしなめるようなことを口に出すと、逆にここぞとばかり、「一番なりのええ西瓜は全部な、二番なりのまだ小さいやつかて残らず叩き割って去(い)んどったんやがな、ほんまに」と得意の西瓜盗人の話を長々とやったあと、「きみこさんは性根のすわった人や、けど、うちはそうやないんや、情けないことは死ぬまで言うて言うて言いまくるんや、その方が気持がすっとするもん」とけろりと言った。――（風消え、去る）
コウ 一枚のカットには、どれだけの時間を凝縮することができるのだろう。結局、写真をやってて行きつく問題はそこなんではないだろうか。チャンスともいった、ピンホールともいった、正義ともいったしフェチともいった、だが、結局、静止画像という抑制が、抑制自体の作用によって、どれほどのものがたりを見せられるのか、という一点に尽きるだろう。下らないものがたりだってある、いや、大抵はろくなもんじゃないさ、そのことはいいんだ。だが分母の低レヴェルを見るのではなく、分子のたった一つのアトゥムがありえるとしたら、それはどんな写真で、あるいは写真では無理なのか、おれが考えたかったのはそこなんだ。まず分かってるのは、きれいな画像が欲しいのではないということ。カラーフィルムは排除しよう。デジカメ？ ＳＦのアイディアはどんどん実現されてるが、どこまでアナクロを通せるか、という方にしか気の向かない人間もいるんだ。排除。テクノロジーをバカにするなって？ 写真がそもそもテクノロジーだろうって？ そうさ。だが、自分の身体性が信じられる限りのアナクロまでさかのぼって何が悪い、少なくとも単なる消費ではなく、このふたつの手で、物事にとり組もうてんだから。なあ、ゆう。性能がいいなんて、大したことじゃないよ。撮りたいものを撮るには、性能がよければいいってもんじゃない。
声 「でも、いいに越したことはないんじゃない？」
コウ 違うんだ。それとこれとは全然関係ないことなんだ。いやむしろ、性能なんか悪い方がいいのが撮れることだって、あるかも知れない。
声 「ひねくれてんだ」
コウ 違う。時間を止めるにはレンズにどれだけの時間が染みついてるかが重要なんだ。非球面レンズはそりゃすごい発明だった。職人芸では到達できない技術力さ。でもさ、収差のないレンズを作ることはできないといわれていた時代、おれたちの美学は合理性とは無縁のものだったんだ。ボケもブレも画質の荒れもひと絡げに抱えこむことでおれたちの写真は撮られていった。おれたちはカラー写真すら撮らなかったんだ。制限された性能でしかたどり着けない森があるとおれには思える。その森に這いこみ這いだす一匹の虫におれはなりたかったんだ。ゆう、分かるかい、おれは写真で虫の目をもちたかったんだよ。それはおれにしか寄りそえない虫だ、アリゾナの送ってくれたハチではなかったんだ。ハチは確かに送られた。だが、贈与に対しては贈与の返信、詰まるところは贈与の自己増殖に過ぎない。Attack of the killer gift、殺人贈与の一撃だ！ 贈与が脹らみ、ありもしないハチの国を群馬の彼方に見ようとした、それがおれの踏み誤った穴だった。その国には彼女だけが行ったので、おれはおれで別の虫を――おれの虫は――たぶんそれは、ガムシだ…！【Ｍ��】アリゾナ、君の送ってくれたハチのターヤ、二重の夢で受けとりました。それは、西日の中をフラフラと飛びながら、僕の耳の穴に飛びこんできたのです。そして、ターヤは言いました。「あたしは女王蜂になるところでした。でも、女王蜂になる為の闘いに負けて、巣を追い出されてしまったのです。アラカワさん、あたしは、もう用のない蜂です。どうか、このままにして下さい。あたしは、もう死ぬのですから」。それ以来、僕は夢の中で、いつもターヤを背負って飛んでいます。「どうするの、アラカワさん、これからどうするの」という声に、僕はうかつにも、こんな約束をしてしまいました。「君と、もうひとつのハチの国を造るんだ」。こうして僕の中の気体は、フェロモンのエーテルにからめとられてきました。だが、おれの虫の目は、やっと行きつくところまで来た。高三の冬、定着液のバットをするりと抜けだした何枚かの六ツ切りプリントは、校舎裏の凍てついた流しに届くことなく行き場をなくしてもうひとつの隙間に流れこんでいった。当然といえば当然の行きつく先は、日に三千枚の世界とひとコマ三分間の世界とのはざまにあるわずかの隙間。そこにもうひとつのものがたりがあった。条件は整っていた。まず暗室だ。暗幕で目張りはしてあるので完全暗転ができる。とうに部員たちの逃げていった無人の階段下には、20名からの客を入れることができる。裸電球の他に、赤い照明もある。ラジカセくらいはある。あとはペンでほんの数枚、書きさえすればいい。そうして一晩で書きあげた、畸形によじれた何枚か。そいつをたったひとりの暗室で読みあげた時、始まったんだ…おれの体…おれの「演劇」が…！ タイトルは《闇に耳すます者たちよ》。階段下の、モノクロームの狭い空間から、おれはどこまでの世界を見通そうとしたのか。悪も堕落も一抱えに背負(しょ)いこんで、おれはどの闇に駆けこんでいこうとしたのか。時間を止めて、また動かす。この不遜、この快感、だが、突っ走りつんのめってぶっ倒れるまで生きていこう、そう、十八歳のおれは思ったっ。アリゾナ！ そうしておれは写真を捨てた。アリゾナ！ これでいいのか。おれはこの道を行く、行くしかない。初めての戯曲の、最後の一節はこうだ。「これは中東の出稼ぎで覚えたサバサンドってしろもんだぁ、コッペパン割ってサバの塩焼き挟んだだけのすこぶる安っぺえ御馳走さ、食え。はぁ…んむ、こらぁ旨えっすね！ だろ？ これから東京はダメになるぜ、こんなもんに大枚払ってカッコつける町にもなる、レタスだトマトだ挟んであったら注意しろ、味なんかすぐに麻痺するからな。てめえは時代に呑まれんなよ、貧乏臭えままでいろよ。なんだい貧乏臭いってそいつぁ励ましてんのかとちっとばかりムッとはしたが、しかし、サバサンドは旨かった。それにはやくも政は酔ってた。酒屋からここまでの間にもう、二本かそこら空けてきたようだ。客電が落ちる、と、いきなりの大音声、チムチムチェリーが鳴り渡る！ どぎつい化粧の男ども、半裸裸足で駆け出して、汗とよだれが客席に降る、四トントラがぐらぐら揺れて客席はドッと沸き返る。いってることは少しも分からん、ひとことたりとも聞き取れん。何だ、いったい何なんだこれは。日傘を差し差しごつい女優がアジアの海を謳いあげれば、五右衛門鬚に尻ぱしょり、赤褌(フン)なびかせ下駄履きのオカマを名乗る屈強なおやじ、ライオンのごとく咆吼す。飛び交う便器！ 花道駆けるネコ車、観客席にぶちまける砂利っ！ 貴婦人くるおしくシャンパンふり撒きゃ照明にかかってボンと鳴りまたシュウと鳴る。わけも分からずやがてフィナーレ、全員の遠い目、合唱するは日暮里の、あの森、《重力の花園》よっ！」ガムシのおれの、ここは重力の花園だ！
こだま 花園なんだ！
急激に戦闘ヘリの爆音戻る！ 大勢の男女、客席でそれぞれの「私の中の悪／悪の中の私」について激しく語る。近くの観客にだけ聞きとれるが、全体にけたたましいノイズとなる。やがてコウ、音をさえぎって止め――
コウ ガムシよ、おれよ、この地を、這え――！
全員 這いまわれ――！【Ｍ��、FOMALHAUT「重力の花園」】
メタセコイアの 木の蔭で
海峡に沈む シーラカンスよ
その影揺れれば ウナセラディ
爆撃 東京 焼け野原
千葉へ行く行く 貨物線
貨車も転覆 大暴風
寝ない子だれだ 終電は出た
忘れちゃいけない 子守唄
焦土 日暮里 夢枕 よおっ！
暗転！
上演記録
がむしテラス／二〇〇五年十一月二〇日／宮代町オンエアー／原作構成・高野竜／音楽監修・酒井康志／出演・武井友則、うに、３７５、ユーナ、西和恵、めぐみるく嬢、加藤ゴン太、熊谷清正、田代義昂／特殊効果・速水鷹司
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