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2015年06月03日14:33

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未稿 紅い兎 全

紅い兎(yappadae)





時 1203年(建仁3年)および2009年の秋彼岸

場 伊豆伊東崎大室山および小字「舞台」近在

人 節穴泰平
  地下鉄の「ゆ」
  火田飢(かつえ)(あるいは岩長姫)
  茨島(ばらしま)仲象(チュンサン)(あるいは蛸之丞)
  和田平太(わだのへいた)胤長(たねなが)(あるいは岩瀬平八)
  月




頌歌(ほぎうた) 黒河(ヘイホー)

こうりゃん畑 越えゆけば 矢のような道は不意に尽き
寂しさ果てなむ国境の黒河 湯気みつ町並 空はとおい

鷹はかけて 笛の音で鳴いた 荷台の麻ぶくろに寝れば
シベリアまぢかな森の気配して 焚き火の香りも漂うよ

ぼくはいま ただのりの旅

モミの葉ずえ黒く輝く冬 幹は裂けて空気ふるわせても
北を目指す僕の心持ちは ひと握りの熱い炭火みたいだ

凍てつく白いアムールを 乾いたエンジン音ひびかせて
黒熊トラック無理矢理に渡る 幌は破れて 空はのぞく

ぼくはまだ ただのりの旅

モミの葉ずえ黒く輝く冬 幹は裂けて空気ふるわせても
北を目指す僕の心持ちを 送りだした港ある町ヘイホー


第一場 ヤッパタ祀り

強い南風が街路をさらう。伊東駅前に記者たちの人だかりができている。

記者1 先生。茨島先生。どうぞ一言お願いします。
記者2 今回の事件でのあなたの立場と責任についてどう考えますか?
記者3 元売れっ子地図ドルとの愛人関係が取り沙汰されていますが真相は?
記者4 なぜあなた、こんな辺鄙なところに会社持ってるんです。まっぴーと会うためじゃないんですか、え、そうなんでしょ、このエロじじい。
記者5 いや、俺は不倫は文化だと思う!
記者4 なんだこのチョウチン記者がタレントの言葉パクりやがって。
記者5 なに? なんだとこの、バッテラ野郎。
記者4 バッテラ?
記者5 お上から押されて酸っぱく固まってる奴のことさ。
記者4 にゃにおう?
記者3 よせよせ(いざこざ)
記者2 あっ、逃げるぞ。
記者5 先生! バカ放せよ。
記者4 バッテラって言いやがった。俺だってな誰が好きでこんな仕事…(FO)
記者1 (追いすがり)茨島さん、いや、デー・チュンサン氏!
茨島 (振り向き)――なに?
記者1 本名ですよね。朝鮮系中国人、大仲象。五歳の時から神戸そして横浜と各地の中華街に住みついてるため日本語はペラペラだが、大和の血は一滴たりとも流れていない生粋の大陸人。芸能活動への支障を考え茨島仲象(ばらしまなかぞう)なる通名を名乗ってはいますがねえ。
茨島 それで。その中国人に何の用だね。
記者1 今回のまっぴーの逃走劇についてですがね。
茨島 まだそれか。それなら昼の記者会見でいやというほど話したろう。
記者1 不充分ですね。
茨島 不充分だろうといま表に出せるのはあの程度だよ。それとも何かね、またぞろ得意の「国民には知る権利がある」とでも、言うつもりかね?
記者1 いえ? 私は何も、彼女の薬物疑惑を叩こうなんてつもりは毛頭ありません。1週間の逃走が、毒抜きのためだろうが何だろうがそんなことは興味の外なんです。私が知りたいのはですね、彼女の、いや、彼女とあなたの、「旅」についてです。
茨島 なに? 旅?
記者 ええ。――申し遅れました。わたくし、節穴と申します(名刺を出す)
茨島 (読んで)節穴泰平…私立探偵?! なんだ、探偵が私に何の用がある。
節穴 あるんですよ。つまりあなた茨島さんと、火田飢(かつえ)すなわちまっぴーとの関係を追ってくれとね、ある筋から頼まれましてねえ。
茨島 そいつは残念だったねえ、どんな依頼をされたか知らないが、事態はもう警察沙汰になってしまった、つまり表舞台に乗ってしまったんだよ。探偵などの手の届かないところまでね、行ってしまったんだよ君。
節穴 あなたは勘違いしています。安相(やすそう)とかいうチンピラの一党が、あなたを探していたのは確かです。しかし私は奴らとはなんの関係もない。では誰が依頼をしたか? どうです、知りたかありませんか。
茨島 言いたいなら言いたまえ。
節穴 依頼者本人から了解を取っているので伝えましょう。大船在住の撃剣の先生です。「鎌倉三浦流居合術『瑜伽(ゆいが)会』師範 岩瀬平八」。
茨島 知らん。
節穴 はい? 知る人ぞ知る右翼の頭目ですよ。
茨島 知らんね。私のことを調べているなら分かるだろう、私は国粋主義とは何ら関係ないよ。
節穴 そうですよねえ。じつにコスモポリタンでいらっしゃる。
茨島 バカにしてるのかね?
節穴 いえ? その国際主義者のあなたが、なぜわざわざ土地に閉じ籠もる女、土着中の土着であるまっぴーなんかを担いで旅をさせたのか。発覚すれば、いやさかならず発覚するだろうのにあなたは敢えてやったんです。それはなぜなのか。私の興味はここにあります。
茨島 土着…旅…? おい、何を君は訳の分からないことを一体…、
節穴 今日はこの辺にしておきましょう。また現れますよ、乞乞(コルゴル)仲象(チュンサン)先生様(ソンセンニム)。
茨島 待ちたまえ!
節穴 あ、そうだ。お近づきのしるしに――先生あなた、ブラゴヴェヒチェンスクを知ってますか?
茨島 ロシアの。それが?
節穴 ご存知ですか、流石は「渤海マフィア」だ。
茨島 ぼ…ッ――!(絶句)
節穴 隠さなくてもいいです、その程度の調べはついてます。そこで、この写真を差し上げましょうか。
茨島 (見て)こ、これはッ――。
節穴 その娘さんもご存知で?
茨島 いや、知らん。知らん。知らんのだが、なぜこの顔が…。君、いったい誰だねこの人は?
節穴 知らないけれども顔は知っている…不思議な記憶をお持ちだぁ。いいでしょう、撮影は去年の冬、場所はアムール川のブラゴヴェヒチェンスク対岸、黒河(ヘイホー)の町からだいぶ西にはずれた、靺鞨(まっかつ)族自治区にあるタイガの中です。
茨島 (ひとり)靺鞨かッ…。う…、(動悸)
節穴 この女性は――女性というよりまだ少女ですが――冬場、凍りついた黒龍江をトラックで渡る材木密輸団の見習いです。自治区内は公安の取り締まりが甘いので分厚い氷の上をトラックでぎしぎし、みちみち、無理矢理に渡るんだそうです。この娘、通り名を、バンユエ…「半月」…。この瞳に見すくめられるとね、男たちは善悪の規範を失って…あッ、どうしました?!
茨島 いや、何でもない…、君、君は彼女に会ったのかね?
節穴 いえ、何人もの仲介者を通してますのでじかには…。大丈夫ですか、おい、タクシー! ち、行っちまった。家まで送りましょう。
茨島 いやいい。手を放したまえ。いいかね、君はこれからのち、敵として私と相対するかも知れないのだろう? 老人の忠告だ、今から踏み込みすぎるなよ…。
節穴 しかしこの場合は例外…、
茨島 バカもん。嵐を前にして退いていてはなにも仕事なぞ成せんよ! さあ、もういいだろう、クリンチを解いてコーナーポストに戻りたまえ。そして君のジャブに対しては…こうさ!(写真をビリビリと破る)
節穴 あッ、な、なにを――。
茨島 第一ラウンド! 第一ラウンドは君の先制攻撃に免じて私の負けだ。しかしヒントをやるがね、私の過去を洗った結果この娘にたどりついたと考えているうちは、君も、君の依頼者も、私らの謎の底にたどりつくことはできないな。そしてヒント2だ、大和の血が一滴も流れていないという指摘は正しいさ、しかしそれは節穴君、私だけではないのだよ。ハハハハハ。
節穴 なん、なにを言ってるんです?
茨島 ふふふ、お愉しみはこれからだよ、また会おうッ。タクシー!(去る)
節穴 ちょっと先生…。――ち、狒々じじいめ、行っちまった…。へっ、まあいいさ…。(タバコに火をつけ)ああ、うめえ…。ククク…うまく動きだしたぜ…。俺にはな、描いてる絵があるんだ。この娘、紅美旗(ホー・ミーチー)…。彼女がまもなく来日することも、まだ奴には伏せておこうかな。うまくすれば「渤海マフィア」を皮切りに、千年あまりのここいら一帯の歴史が描き起こせるかも知れねえんだ。ここらはどうも、妙すぎるんだよなあ。頼朝が流された先にしちゃあここはあまりに快適な南国で、住みやすいうえに街道からも近いときてる、遠流(おんる)というよりはまるで別荘を充てがわれたかのようにいい所じゃねえか? こんなところでよくクーデターの謀略ができたなあ、というのが俺のそもそもの疑問だったわけだが…。もしや後白河法皇は、このリゾート地を充てがうことで頼朝を政治オンチの怠け者に仕立てようとしたのではないのかな? だからこそ運良く政権を奪ったあとには、まるで釣瓶(つるべ)落としに夕日の墜ちるような速度で源氏の政権は崩壊し、成り上がりの北条氏に虚実ともども奪われちまったんだ。――伊豆の民はどう思っていたんだろう? 頼朝がくにを善くしてくれるなどと本気で思っていたんだろうか。思っていたなら、義経による平家追討の功績をいさい認めず終戦後ただちに味方の総大将を更迭、いや更迭どころか罪人として捕縛しようとした鎌倉殿のやりくちには、どれだけの驚きを覚えただろうな。
声 しょちょーーーう! 所長――!
節穴 あん、来たなうるさいのが。どうした「ゆ」、成果はあったのかな。
ゆ あ、いたいた。所長、そうそう、そのセイカですよ。あったもなにも、はいこれ、セイカノート。こっちはジャポニカ学習帳。
節穴 おまえなあ、小学校の自由研究か。
ゆ いんですよ、スタイルから入る所長と違って、おいらシャーロキアンじゃねぇもん、実質本意だかんね。
節穴 それにしちゃいかにも探偵助手ってかっこじゃねえか。
ゆ でしょ? でも本業はスリなんだぜ。見えないだろ、へへーん。
節穴 スリとかでかい声でいうなよ。
ゆ おいらぁ、スリだあぜえええ――! 人呼んで地下鉄の「ゆ」ぅぅぅ――!
節穴 よせ。それでセイカは。
ゆ だからそれだよ。
節穴 (ノート見て)なんだこりゃ、なんの筆写だ?
ゆ だからセイカ。
節穴 ああ、(かなり驚き)西夏文字か…。どこかで見たと思ったよ。それで?
ゆ それがね、この伊東の図書館て、なんでか文字に関する文献が豊富なんです。それもアジアの文字ばっかり。
節穴 ほう? なんでまた。
ゆ いや分かんないすけど、たぶんレタリングの練習とか、そういうのに使った人がいんじゃないかな。
節穴 レタリング? ほかにはどんな文字が。
ゆ 女真文字、トンパ文字、ビルマ文字、水文字そのた。
節穴 ふうん…。どうも無名すぎて、レタリングして需用があるとは思えんがねえ。
ゆ いや、でもさ、こないだヨコスカの基地で兵隊がね、向こうで買ったTシャツ着てたけど、背中に堂々と「二角形」て書いてあってさ、思わずおいら、オウ、ユア、ソークール! ウェアディデュバイイッ?訊いちゃったよお。つまりさ、意味なんてわりとどうでもいんかもよ?
節穴 単にデザインとしてか。みやげ物の柄にするのかな。ろうけつ染めか。
ゆ かもね。
節穴 ようし…「ゆ」…じゃ、一丁みやげ物屋のぞいてこいよ。
ゆ がってん!(でも行かない)
節穴 どうした?
ゆ お金。
節穴 ああ、そうか。あれ。(財布ない)
ゆ ここだぜ! じゃ行ってくら!(素速く消えた)
節穴 あ、おまえ財布ごとこのやろ! ふう、せわしない奴だ。しかしぼちぼち、助手としてサマになってはきたな。探偵家業は黙思熟考だけじゃ追っつかない場合もある、ああいうカンと反射だけで動くやつは意外と正解にたどり着くんだなあ。しかしレタリングとはまた突飛なことを…、
声 しょちょーーーう! 所長――!
節穴 もう帰ってきた!
声 はいこれ。
節穴 おおう! こりゃ…確かに西夏文字のジャケット! うむ「天・地・人」。
ゆ 読めんのかよっ。
節穴 こっちは女真文字のトートバッグか。ほらこれな、水戸光圀の「圀」は漢字じゃないんだぜ。
ゆ へえーーー。
節穴 そしてこれは珍しい。水文字をマーブリングで描いた麻のシャツだ。「道(タオ)」と書いてある。
ゆ それも読めんの! なにもんですか所長。
節穴 つうか、なんだこの町は…東南アジアの雑居市場か?
ゆ まぁね、そういうこと調べようとしてんだからね。
節穴 違えねえ。1210年の和田合戦において和田の平太胤長を介けたひとりの志能備(シノビ)がおったが、「蛸之丞(タコノヂャウ)」と名だけが伝わるこの男、どうやら渡来者らしいんだ。考えてみればこの伊豆の付け根から相模湘南に足を伸ばせば、高句麗移民の上陸地・大磯(オイソ)は目と鼻の先だ。どうも黒潮の流れのせいか知らんが、東伊豆は大陸文明の好んで寄りつくところ。そんな気がしてならないな。
ゆ それで? おいら分かんねーんだけど、それが茨島社長と何の関係が?
節穴 つまりな、まっぴーは、敢えて自分を「井の中のカワズ」として…「伊豆伊東の女」としてテレビに出てたわけだろう。生い立ちの記を語るならばだ、こっからすぐそこの乾物屋の店先に、秋の朝、捨て猫のように置かれていたんだそうだよ。ゆがんだ出生を恨みもしたろうが却ってそいつをバネに、気迫でのし上がっていったもんだ。印象を和らげようとしたのか、彼女の美貌は若い頃からどこかツクリモノのような厚化粧で、ちょっと怖かったもんだよ。地震予知なるものが多少なりともSFでない現実の科学として大衆から認知されるようになったのは、彼女の熱意にあずかるところが大きいんだ。地熱発電も、伊豆火山帯を擁する静岡が取り組まなくて一体どうするってキャンペーンを張ったのがまっぴーだった、お前はまだ小さかったから知らんだろうがね。歌も歌った、バラエティにも出た、しかし彼女の本念はおそらく地に根づく者としてのやむにやまれぬ啓蒙だったんだと俺は思う。
ゆ そんで。
節穴 だがまっぴーはそれほど器用な性格じゃあなかった。きつくて一本気なだけじゃあタレントにはなれん。気迫をおぎなうフットワークを、提供しつづけたのが茨島だったのさ。マネージャー以上にマネージャーだった男だよ。
ゆ 「裏」ってことですね。
節穴 そうだ。奴の潤沢な資金源は国内にはない。奴がやらかしてるのは脱税だの薬物の取引だの、中国マフィアのやりそうなことの範囲をどこか超えている。こんどの騒ぎで初めて表に出てきはしたが、まっぴーは捕まっても、共犯であるはずの奴は、ああやって大手を振って帰宅できるわけだ。どれだけ太いパイプがあるのかね、平成の怪物だよ。
ゆ そんなの暴いちゃって大丈夫なの?
節穴 (苦笑し)バカいえ、長いものに巻かれながらでも仕事はできるさ。簡単にいうならおそらく奴が目論んでるのは、最終的には再びの「移民」だ。――夕暮れてきたな…。「移民」、そう、これしかない。俺の直感がどこまで現実をトレースしてるか、これから見ものだぜ? そして俺はな、入植によってこの列島社会がモザイク化していくことには断然、賛成なのさ。
ゆ 入植? だれが入植するの。
節穴 それが…。それは、どうもまだよく分からんのだ。パズルのパーツがまだいくつか欠けている。渤海、すなわち高句麗の末裔であるところのあの男は、韓国に対してはなぜか意外と冷淡なんだよなあ。追いかけてみても九条鶴橋長田らへんの在日との関わりはひどく薄い。むしろ表向きの取引先は台湾や福建といった、つまり後期倭寇の裔(すえ)どもに色目を使ってるフシさえある。どうにも分からんよ、現時点ではね。
ゆ でもさっき会ったんだろ。なんか手掛かりないの。
節穴 リングサイドの切符をもらった。
ゆ え?
節穴 カンだがね、俺はどうやらあいつに嫌われはしないぜ。
ゆ ナニイッテンノ?
節穴 さ、「ゆ」。今日はもういいさ。休憩だ、メシでも食おうか。
ゆ うん! 熱いとこ一杯キュッとね!
節穴 未成年だろ。
ゆ 年齢不詳、性別だって分からない。そうやって地下鉄をかいくぐって生きてきたのさ。
節穴 そうだったなスリ君。さ、財布返しなよ。…返さねえと奢らねえぞ?
ゆ ちぇ。(渡す)

鳴り物。チンドン屋風の。サックスとか吹いてる。

節穴 なんだ?
ゆ ああ、お祭りらしいよ、今日明日と。ヤッパタ祭りってあちこちにポスターがあった。
節穴 ヤッパタ? なんだそれ。
ゆ いーからメシ食おうぜ。

屋台みたいなダンジリみたいなものが曳かれてくる。

座長 とざい東西。やあやあ、遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ。これより演じまするは、ここ伊豆高原に伝わりまする古き悲恋の物語。おろち退治のつわ者が、いかにしてかの大室山の噴火をおさえ、村を救った代償に、乱世の幕開けに連座したか。いにしえ秦の始皇帝、蘇我の入鹿と蝦夷(イミシ)の父子(フウシ)、ニッポン新皇平将門、逆賊足利尊氏の卿(ケウ)と敗北の歴史は死屍累々。されど国史は別(ベチ)のこと、地元土着の百姓ばらはひとりの勇(いさおし)をたたえてまいった。さあこの伊東を救うたのは、誰じゃ、誰じゃな。(鳴り物)そうそう、世界に名だたる火山群の危機をいなした大英雄、和田の小平太種長の介と申し候。
ゆ 胤長だって!
節穴 いちおう聞いておこう。
座長 吾妻鑑(アヅマカガミ)に記されし、時は建仁三年の条、鎌倉殿源頼朝公の命を受け、今日(こんに)った「池」と呼ばれるここな伊東崎のとある洞窟に馳せつけましたるますらお一人(いちにん)。黒毛なる太うたくましく月白ひいたる馬に、柏木にみみずく寄せたる螺鈿の鞍置き、これこそ保元のいくさの砌、頼朝公の乗せたる鞍なるぞ。









***

宵闇…。
和田ノ平太胤長、黒の紋付きで木の間よりそっと現れ、一丁の笛を取りだし、鼻に当てて、吹く…。かすかな音色、しばらく聞こゆ…。

胤長 こうして――あなたにお別れを告げにくることになるとは、そうです、初手から分かっていた、ことの成りゆきです…。諦めねばならぬ時には諦めましょう。報いを受けてしかるべきことを、わたくしどもはしてきましたからな…。主君のため、大和のため、そしてあの…海原の向こうはるかに拡がる「世界」のために、わたくしどもは働いたものでした。この数ヶ月に起きたことどもは、月さん、果てなき天球を一瞬焦がす、流星のごときいち刹那にすぎなかったのかも知れませぬ。しかし思い起こすにわたくしは、あなたとともに戦えてほんとうに…ほんとうによかった。愛は、花のように散り消えるものではありません。お別れしたのちも…離ればなれに流されてそれぞれに客地での暮らしを強いられようとも…わたくしはあなたとの幾月かを悔いはしますまい。老いさらばえたのちにも…若き日の烈火が胸にたぎりつづけるみずからを、容易に思うことができるのです。
月どの。あの日――主君鎌倉殿源ノ頼家公の命を承(う)け、この伊藤崎まで出張ったひとりの荒武者を、この池の地の村人どもは、おもねるような薄笑いと拒絶に満ちた沈黙で迎えました。嗚呼、我らはまだ若い。鎌倉に都を移すなどという不届きを、万年も地にへばりついてきた百姓どもがそうそう受け容れるわけがない。若すぎる我らによる政権交代は、我が身を無事に処することのみに汲々とした旧公家連の政治とはちがうのだから…、また、その公家に取り入った平氏(へいじ)どもの退廃ともまた大きくちがうのだから…、まずは理想を掲げ、掲げた思いの丈を実現に向けて青々しく登り詰めていくことこそが、我々の政治であるのだからと…、なればこそただ一騎アオに打ち跨ったこの俺が、閉ざされたこの村に闖入するのは決して間違ったことではないのだと、みずからを励ましたものでしたが…。それにしても九郎判官義経どのの失脚と平泉への逃亡は、頼朝義経兄弟(けいてい)による分厚い保護を望んでいたこの流遠の地、伊豆においては思いのほかの失望を結果しました。なんのための、都に対する関東だったのか。清和源氏の奥ふところにもどれば関東に饑餓と被差別の嵐はもう吹き荒れることはないのではないかと…そう思ったのに、よりにもよって平泉! 義経どのは大和を脱けてしまわれたではありませぬか…!





まっぴー 幾度も幾度も半島の民はこの島に流れつき、その都度私たちの遺伝子は薄まって、今では人種だの民族だのと考えることすら難しくなりました。言葉や国家や地域社会が次第に崩れていくことに、初めのうちはたしかに痛みがあった。古きものごとを惜しむ気持ちは大切です。しかし…、ひっきょう、何が失われたというのでしょう? 目の前の休火山、この伊豆の大室山が最後に噴いたのは縄文中期。以後、十重二十重の移民たちがどれほどの営みを繰り返しても、山は一丈と削れはしなかった。そのかん、実に六千年! 人の争いなど、わずか三百メートルの低山に較べてさえ、ごく取るに足りないものです。そして縄文・弥生の人々も、あづまを侵した大和の民も、さてまた漂着した高麗の王子一行や、追い立てられた日高見の民、さては荒くれた源平の始祖や、三浦や和田や北条の果てに至るまで、果たして、この景色を乗り越え、風景そのものを塗り替えて革命とするというような、そんなことを目論んだ者があったでしょうか。そんな者はいはしない。人は風景を超えられはしない。ひとは風景に準ずるのです。国家に準ずるのではありません。私たちはこの日本と呼ばれたいっこの文明の崩壊を目の当たりにして、そのことだけは確かに知った。これは…、なんという幸いでしょう。失う限りを失って、その実、何ひとつ失っていないことに気づけたのですよ。神よ。風景に宿る神々よ、ありがとう。私たち、しっかりやって行きますから…、風や草の葉やせせらぎの陰で見守っていてください。新しいアジアが、どんな風に息づき甦っていくのかを…。




胤長 蛸かな。
蛸 は。
胤長 蛸ノ丞。
蛸ノ丞 御前に。
胤長 例の物は届いたか。
蛸ノ丞 (巻紙を渡す)
胤長 (読んで)







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