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2015年06月03日14:21

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未稿 もーれつ悪霊 全

もーれつ悪霊





第一場 豚のステパン

闇に声。声に連れて天空に字幕。

声 そこなる山べに、おびただしき豚の群れ、飼われありしかば、悪霊ども、その豚に入ることを許せと願えり。イエス許したもう。悪霊ども、人より出でて豚に入りたれば、その群れ、崖より湖に駆けくだりて溺る。――

――明かりかすかに入ると、杭に繋がれた美しい一頭の本物の豚。すがるようにひざまづき、豚を抱いている娘、ソフィア。豚の背後に、豚使いの影法師(豚の科白は豚使いが喋るだろう)。影法師の陰りがちな顔はなぜか、デカパンの面である。少し離れた奥の暗がりには、言葉少なにきりりと立つワルワーラ夫人。片隅の別空間に聖書をひもとくマリア。
夜――。ポンポン蒸気の遠い発動音…。宿の暗い壁紙にはアムハラ文字によるコプト教典の文様が一面にあしらってある…ようだ。

マリア (聞きとれぬくらいの擦れ声で)「湖の向こう岸へ渡ろう」。
豚 フクインショ…ドウデスカ、コレカラ・イッショニ・フクインショヲ・ヒロメテ・アルキマセンカ。
ソフィア お加減が悪いのじゃありません?
豚 …ぼくがいちばん言いたかったことは何だったかな? 脱線ばかりして、すぐに忘れてしまう…あなたと別れないで、いっしょにいてもいいでしょうか? あなたは飾らない方だし、へりくだった物の言い方をされる、それからお茶を受け皿にあけて飲まれるし…砂糖の塊をがりがりかじられる。でも、あなたの中には何かうるわしいものがあって、お顔を見ていると…ああ、ぼくを男性と思って、赤くなったり、こわがったりしないでください。ダイジナ・カケガエノナイヒトヨ、ボクニトッテハ・ジョセイガ・スベテナノデス。何を言うつもりだったか…街道にも偉大な思想はある! これです――これを言いたかったんですよ。ここは――ヒドクサムイ。ソレカラ、ボクノアリガネハ・四十るーぶりデス、ホラコレデス。取ってください、ぼくはだめなんです、失くすか、盗られるかですよ、それに…眠くなってきたみたいです。なんだか頭の中がまわるようで。そう、まわる、まわる。おお、あなたはなんて親切なんです、何を掛けてくだすったんです?
ソフィア きっとひどい熱病にかかっていらっしゃるんですよ。(金を押し戻し)でもお金のことは、わたし…。
豚 (苛立って)ソンナハナシハ・ヤメマショウ、カナシクナッテシマウカラ、おお、なんと親切な!(昏倒する)
ソフィア 先生…?(背後を窺う)
ワルワーラ (きっぱりと)続けましょう…。
ソフィア 彼はさっそく身の上話をはじめましたが、あまりに急きこんでいるので、最初は理解することも困難なほどでした。話はずいぶん長いことつづきました。魚汁(ウハー)が出され、サモワールが出され、それでも彼は話しつづけました…。「若さ胸にあふれて野を駆けまわった」幼年時代から説き起こし、一時間ほどしてようやく、自分の二度の結婚とベルリン時代の生活にまで話が及びました。彼にとって疑いもなく高尚なあるものを、生涯の伴侶に選んだわたしに一刻も早くすべて明かしたかったのでしょう。彼の天才は、わたしにとってもはや秘密であってはならなかったのでしょう…。彼はすでにわたしを選んだのです。彼は女性なしではいられなかった。わたしがほとんど何も理解していないことを彼は見抜いていました。
豚 (昏倒しつつ)ソンナコトハ・ナンデモナイ、マツコトニシヨウ、当分は、直感で語ってくれるさ…。
ソフィア (口ごもり)…もうあちらの部屋へ行かせてくださいまし。人がなんと思うかしれませんし…。
豚 すぐ眠ります…。(ふたたび昏倒する)
ソフィア わたしは、この家にはいってきたときから、自分の荷物をとっつきの部屋に残しておきました。宿の主人たちといっしょに寝るつもりだったのです。ですが休むどころではありませんでした。夜も更けてからステパン氏は、疑似コレラの発作を起こしました――わたしは一晩じゅう眠ることができませんでした。病人の看護をするために、何度も主人の部屋を通って、家を出たりはいったりしなければならなかったので、寝ていた旅客や主婦がぶつぶつ言いだし、夜明け近くにはとうとう悪態までつきはじめました。ステパン氏は発作の間じゅうなかば無意識状態でした。
豚 ――「えぞいちごの汁」…、
ソフィア え…?! …彼は片時の絶え間もなく、わたしが身近にいることを感じていました。部屋を出たりはいったりしているのも、寝台からおろし、また寝かせつけたのも。深夜の三時ごろになって、いくぶん楽になった彼は上体を起こし、両足をベッドから垂らして、何を考えるでもなく、わたしの足もとの床に突っ伏しました。まさしくわたしの足もとに身を投げ、わたしの服の裾に接吻するのでした…。おやめくださいまし! わたしはそんな値打ちのない女でございます。
豚 アナタハ・コウシャクフジンノヨウニ、ケダカイ! ぼくは――ぼくは人でなしだ! おお、ぼくは生涯、破廉恥で通してきた…。
ソフィア 落ちついてくださいまし。(背後を窺う)
ワルワーラ (きっぱりと)続けましょうか…。
ソフィア 生涯でいちばん恐ろしい二日間が訪れました。いまでもその日のことを思い出すと、身ぶるいするほどです。ステパン氏は病気がすっかり重くなって、かっきり二時にやってきた汽船で出発することができませんでした。
マリア (遠く、たんねんに)イエスは起き上がって、風と荒波とをおしかりになると、止んでなぎになった。彼らは恐れ驚いて互いに言い合った、「いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは」。
ソフィア わたしは彼を一人で残していくのに忍びなくて、やはりスパーソフへは行きませんでした。汽船が出てしまったと聞いて、彼はひどく喜んだのです。
豚 いや、けっこう、いや、すばらしい。ここは実にいい、ここがいちばんいい…あなたはぼくを置き去りにはしませんね? おお、あなたはいてくれたんですね!
ソフィア 彼は、わたしの苦労のことなどはまるで耳に入れようともしませんでした。彼の頭はさまざまな空想でいっぱいになっていました。ご自分の病気のことは、一時的なつまらないこととみなして、まるで考えようともせず、わたしといっしょに《あの本》を売りに行くことばかり考えていました。彼は福音書を読んでくれるようにわたしにせがみました。
豚 ぼくはもう久しく読んだことがない…原文をね。もしだれかに聞かれたら、まちがったことを言うかもしれないから、やはり準備はしておかないと。
ソフィア (暗唱する)心の貧しい人々は幸いである。――
豚 (性急にさえぎって)あなたの読み方はすばらしい。わかりましたよ、ぼくのまちがっていなかったことが!
ソフィア (かまわず暗唱する)天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。心の清い人たちは幸いである。その人たちは神を見る。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたは地の塩である。
豚 ケッコウ、ケッコウ、ワガコヨ、もう充分ですよ…ホエホエ〜。
ソフィア ホエホエ〜…?

突然、ザザザ…、と無数の黒子が這うように舞台に現れ、アムハラ文字の暗いスクリーンに虫の如く取りつく。ソルジャーレギオン(小レギオン)の仮面をからだじゅうにつけ、キチキチと鉱物質の鳴き声を発している。硝煙。

マリア 憑かれた人「あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。イエス「あなたはなんという名前か」。憑かれた人「レギオンと言います。大ぜいなのですから。わたしどもを、豚にはいらせてください。そのなかへ送ってください」。イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へ入りこんだ。その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り――、
豚 (重ねて)友よ、ぼくは生涯嘘をついてきました。一度として真理のためにものを言ったことがなく、いつも自分のためにだけで…ぼくが一生の間、辱めてきた友たちは、いまいずこに? みんな、みんなです! でもこれはまたあとで…ソフィアさん、ぼくらはいっしょですね、いっしょですね!
ソフィア (おずおずと)ステパンさま。町にお医者さまを呼びにやらなくてもよろしいでしょうか?
豚 (激しく)なんのために? ボクハ・ソンナ・ジュウビョウデスカ? いや、よその人なんかいらない。ぼくらはいっしょですもの! またなにか読んでください、ソフィアさん、もう一箇所…豚のところを。
ソフィア (おびえて)なんでございますって?
小レギオン キチキチキチ…キシキシキシ…。 
豚 アノ・ブタデスヨ…悪霊が豚にはいって、みんな溺れてしまった話。そこをぜひとも読んでください。一字一句正確に思い出したいんです。正確でないといけないんです。

ソフィア暗唱するが、レギオンたちの騒ぎにかき消されてまったく聞こえない。レギオンたちの啼き声、次第にダ・ヨーン、ニャロメ、チビ太、ココロのボス、一八三、ベラマッチャ、ケムンパスなどの「それ」になっていく。

豚 正確でないといけないんです。ホエホエ〜。

レギオンたちの悪辣で狂躁的な歌(「時はゆくゆく」の曲で)。

♪みやこの西北 ワセダのとなり
 のさばる校舎は われらが母校
 われらのノーミソ タリラリランよ
 先生もドアホで 授業はパアでも
 社会はまねくよ われらが頭脳
 かがやくわれらの バカぶりみろよ
 むかし あたしにガキがいた
 かずある中で只ひとり
 口八丁の知恵主は
 山から帰ったツァラツストラ
 垢で汚れた大足を
 あたしの股にすりつけて
 これが超人 グリグリグリ

レギオンたち、ケタケタケタと嗤う!

ワルワーラ (一喝する)どうしたのです。続けましょう。

間――。次の科白の間に、レギオンたち大波のように他の人物たちを覆い、消えていく…。波のあとにワルワーラ夫人ひとり残る…。

ワルワーラ たとえば彼は、《追放の身》とも《流刑の徒》とも呼ばるべき境遇をこよなく愛してやみませんでした。長年月のうちには、ついに彼を、満たされた自尊心の極致ともいうべき、とびきり高い台座のうえにまで拉し去ることになったのです。ただ、彼が底抜けの好人物であっただけに、罪のない、およそ無益無害な形に落ちつくことになったのですが。晩年の彼はもうだれからもすっかり忘れられた存在となっていました。しかし、彼もまたしばらくの間は、一世代前に綺羅星のごとく輩出した高名な活動家たちの列に加わっていたので、彼の名がチャアダーエフ、ベリンスキー、グラノフスキー、ゲルツェンとほとんど同格に、気の早い連中の口にのぼされたこともありました。しかしステパンの活動は、いわゆる《旋風のごとき諸事情の錯綜》が因をなして、はじまるとほとんど同時に幕となりました。しかも、どうでしょう、後になってわかったところでは、《旋風》はおろか、その《諸事情》なるものさえ、この場合は存在しなかったのです。私自身、つい先日、ステパンが本県下の私たちの間で暮らしていたのは、みながそう思いこんでいたように流刑囚としてでもなければ、だいたいが当局の監視を受けていたことすら一度もなかったと知って、それが絶対確実な筋からの話であるだけに、大いに驚き入った次第です。こうなると、自己暗示の力の大きさには、ほとほと一驚せざるをえません! 彼は生涯を通じて、自分はある筋からつねに危険人物視されている、一挙一動はすべて当局に筒抜けになっている、この二十年間に三代かわった知事たちも、着任にあたっては、彼に関するある種の特別な、厄介きわまる内意を上部から言い含められてくる、と心底信じ切っていました。ただ、彼が底抜けの好人物であっただけに、罪のない、およそ無害無益な形に落ちつくことになったのですが。かれが外国から帰って、大学の講壇に颯爽と登場したのは、一八四〇年代ももう末のことでした。数回のことではありましたが、たしかアラビア人問題について講義を行うことができましたし、また一四一三年から一四二八年にかけての時期に、ドイツの小市ハナウにようやくきざしかけていた、市民社会的、ハンザ同盟都市的な同市の意義と、その意義がついに実ることなく終る因をなした、かならずしも明確になっていない特殊な諸事情について、すばらしい学術論文を発表することができました。その後――彼は、進歩派のある月刊誌に、一つのきわめて深遠な研究論文の最初の部分を発表しました。テーマは、たしか、いつの時代だったかの何とかいう騎士たちの並はずれて高潔な道義心の由来といったところで、稀に見るほど高貴で崇高な思想が盛られていました。噂されたところでは、論文の続編はさっそく発禁になり、その進歩派の雑誌までが巻き添えをくったといいます。おりもおり、ペテルブルグで、何やらきわめて大がかりな、自然の摂理にそむき、国法に反した結社が摘発されました。人数は十三人ほどで、体制の根幹を揺がさんばかりのものだったといいます。彼らは、こともあろうに、フーリエの翻訳を計画していたらしいのです。ところが、まるでわざとのように、ちょうど同じころ、モスクワで、ステパンの『劇詩』が押収されました。六年前、まだ彼の青春時代のほんの初期にベルリンで書かれ、筆者本の形で二人の愛好家の間に回し読みされ、ほかに一人の大学生が所持していたものです。この『劇詩』は、いまは私の机の引出にも一部納まっています。あかモロッコ革のみごとな装幀のうえに、かれのサインも入っています。去年、私はステパンに向って、ひとつ出版してみてはどうかと勧めたのですが、ところが、どうでしょう? ほとんど同時に、まったく突然、この『劇詩』は向うで、つまり海外で、ある革命的な演劇イベントの一つで、しかもステパンにはなんの断りもなく上演されてしまったのです。彼は愕然として、県知事のもとへとんでいったり、ペテルブルグへ送るのだと、高潔この上もない弁明書を書きあげて、私には二度も読んでくれたりしましたが、もっとも、彼は心の奥底では嬉しくてたまらなかったらしいのです。彼は送られてきた公演案内を、それこそ夜も抱いて寝んばかりだったし、昼は昼で、それを布団の下にかくして、女中にも寝床の手入れをさせませんでした。そして、どこからか電報が舞いこみはしないかと日夜気にしながらも、うわべは傲然と構えていました。電報はとうとうどこからも来ませんでした。これなぞも、彼が底抜けの好人物であっただけに、罪のない、およそ無害無益な形に落ちつくことになった一事例にほかなりません。







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