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2015年05月31日13:14

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009 風のからだ 6/

やっと、少し頭がはっきりした時――俺は、船を下りるところだった…。島にいたんだ! いや、それこそ幻覚だろう…とびっくりして我に返ったのだ。小さな港だった。夜で、波は暗かった。一緒に降りた人たちはさっさと迎えと落ち合って、三々五々と消えていった。聞いたことのない方言だった。ここはどこだろう。待合所を出て、もう戸をたてはじめた町を歩いてみる。バス停があって、丹宇多浜…と書いてある。どこだ? 丹宇といったら水銀の丹生(にう)かな…まだ、朦朧として、はっきりものが考えられない。が、何しろかなり寒かった。この辺りは町というよりは集落といった感じで宿などどうもありそうにない。さっきの待合いに引っ返すか、だがたぶん夜中まで長居させてはもらえないだろう、ならば早くここを離れるのがいい。そう思ううちにバスが来たので何はともあれ乗り込んだ。どこに行くかは知らないが、ここより田舎ではないだろう。がらがらでだいぶ心許なかったが、それでも次第に乗客がひとり二人と乗り込んで来、この先の町の気配をみせた。ポケットを探るとがさがさと金や切符が塊になって出てきたが、一番日付の新しいのは、JRの小倉駅…九州か!…十二月一日づけだった。午前中に買っている。ということは今日は十二月の一日かまぁ二日くらい、ここは九州の沖合の、おそらく五島列島かどこかのようだ。いったい何をやってるんだろうな俺は、師走の一日といえば田舎じゃカワビタリの祭りの日だ。マコモで編んだ牛を曳いて川べりに出、ひと月早く搗いた餅にアンコを塗って、利根の流れに抛り込むのだ。河童に供えるのだという。河童といえばキュウリが好物といわれるが、うちの町ではぼた餅だった。昔はアワで搗いたのだと隣の婆ちゃんがいっていた。故郷では、おかしなことに皆が河童を信じていた。そりゃ、よく考えればそんなものはいねえよ。いねえけっども…いねえことはよく知ってっけども…それでも何となく信じていた。縁先にいて、納屋の方で何か倒れた音がする、と、農家の親父さんが、ああ、また河童が悪さしよる、こないだはポンプをいじくっとった…などいいながら、ブツブツ河童を追っ払いにいった。東京から来ていた友人が笑って、いや、いないでしょう河童なんて、というと、おう、そうじゃ、いねえやなあ、と思い出したように照れ笑いした。怪しげな新興宗教の拠点になってのちに有名になるこの町にはそうなるだけの積み重ねられた罪の歴史があったと思う、よそから来た人はまず最初に、この町の罪の意識に戸惑うのだった。それは水戸家の街道と江戸につながる舟運との交点になったこの河岸が、ちょうど天明の飢饉の頃、浅間の噴火で関東一円甚大な被害を受けた中ひとり商業で生き残り、むしろ繁栄を欲しいままにしたいわく明らかな引け目だったが…、そのことは歴史には語られず、単に県南地域の優等生と経済の論理で評価され、ゆがんだ心根が止揚されず、今まで来てしまったせいなのだ。そんな故郷が嫌いだったが、そんななか、ふと気持ちを和ませてくれるのが河童だった。社ひ(やしろ )とつない気弱な神。無名の神。…ああ、いかん、また考え事にとらわれた。いいかよ俺、もう、何日仕事を休んだか分からないんだぞ。謝りの電話は入れるとしても今現在は相当に、俺は無用の長物だ。気を確かにもて、狂うために逃げたのじゃないぞ、狂わないために逃げたんじゃないか。が、町はどうやらないようだった。バスは細い崖ぎわをくねり、どうも岬の先に向かう様子。しまった。崖下には日本海、真っ黒な波が砕ける。小半時も走ってやっと着いたのは、さっきよりまだ小さな漁村だった。まずい。ここで終点らしく、バスは転回して帰っていった。丹生とある。ここも丹生か。水銀は何に使ったのだろう。うろ覚えだが、たしか染料か何かにしたと聞いたような覚えがある。すると享楽のための鉱山が、こんな島にまであったわけか。享楽は人を駄目にする、享楽をめぐる産業に関わる人をも駄目にする…ただの漁村の方がいい。大きなお世話だ、と…吃驚した…頭の中で声がした。おまえがここにいるのは享楽ではないのか。確かに俺の声だ。また勝手に喋っているのか? 手を重ねて口を塞ぐ、喋りだすことくらいは止められるだろう。それきり声はやんだ…が、胸はわくわくと波打ち、歯はカチカチ鳴った。なぜ逃れられない! なぜ俺を放免しない! こんな有様じゃ宿も探せないぞ、いかにも身投げに来たようなこんな客を止める宿もあるまい、落ちつかなければ。平然としていなければ。いったん通りに向かうのをやめて、防波堤に出た。堤防の外は激しい波だ、さらわれたらひとたまりもない、あまり進まず、道ばたの何かの石碑に腰掛けた。まずいだろうか、誰もいないからいいだろう。満ち潮らしく、波は相当に激しい。波に沈むとはどういう感じだろう。しかし冬の海はいやだな、キムは少なくとも温かかったな、温かければ、さほど苦しくなかったろうか。あの日、野次馬は半日、退かなかった。俺も野次馬のうちだけれども、やがて猛暑に彼女の体が腐り出すのが心配になった。警察の指示は驚くべし、葬儀の許可が下りるまで死体を動かしてはならん、と。それは困る、ここは村の大事な浜ぞ、と件の爺いが談判するが、決まりは決まりだ動かせんとレスラーのような警部はいう。動かせないって、だって、いつ埋葬ができるんです?と旅行者の中からひとりの娘が詰め寄った。検屍がまだだ、教会もまだ来ない、家族への連絡もつきやしない、どこへ動かせというんだね? ともかくあんたらの署にくらい移すことはできるでしょ、このままここでさらし者なんて、村の人らだって厭なはずだと食い下がるが、巨漢は鼻でフンと笑い、署に運べ? 真っ平だねえ、と取り合わない。…カッ、と俺の胸に何かが燃えた。こいつは旅行者への復讐だ。むろん余所者さ俺たちは、それもまともな人間はいない、どいつもこいつも碌でなしばかり、正義の神がカースト定めれば俺たちはまず間違いなく最下層に落ちよう、だけれど、死体を嗤う権利はないぞあんたらに! 思いは誰も同じらしく、宵闇迫る波打ち際でいくつもの声が埋葬しろと訴えた。そんならおまえらが埋葬しろと、うんざりした体で捨てぜりふ吐き、でかい背中をゆすって帰る警部の一党。漁民たちは退いていった。ヒッピー連中も大方、帰った。あとにはフランスの二人組と、俺と、さっきの女の子がいた。あんたはキムの知り合いか? 問う俺を一瞬にらみ、違う、会ったこともないと答えた。フランス男の一方がいう、何しろここで番をしよう、君たちに任せるわけにもいかない、僕らも両方ここにいたいが何とか遺族に連絡をつけたい、こんな電気も乏しい田舎で電話がどれだけ役に立つのか覚束ないがやれるだけのことはやってみる、ひとりがここに残るから、よければ一緒にいてくれないか。もとより俺は行きがかり上、ここを離れるつもりはなかった。あんたはどうする? 娘に訊くと、迷わず、いるよ、と返辞した。三人が砂に座り込む。ちょうど筏が風を防いだ。今夜は曇って星はなく、ほとんど何も見えなくなった。昼間のままのシャツ一枚ではもう寒い。と、娘がずだ袋を探り、ラムの大瓶を取り出してあおり、呑む?と俺に差しだした。一杯ふくんで隣りに回す。フランス男は不味そうに一口舐めると返してよこした。不謹慎だと思ってるな、と声に出して俺はつぶやいた。構わないよ、死んでるもん、と娘。四〇度もある強い酒をごくりごくりとどんどんあおる。大丈夫かよ。酔いやしないよぅこんな時に、通夜は賑やかにやりたいじゃんか、呑みなよ。おう、いや俺もあったわと同じ銘柄の小瓶を舐めた。早く埋めないととろけてくるねえ…。教会が来ないのは驚きだよな…。今夜家族に連絡がついても、ここまで早くて三日はかかるか…埋めないわけにはいかないもんねえ…。それに今日は日曜だろう、大使館にすら連絡がつくのか、怪しいもんだ…。無為な会話。娘は佐賀から来たといった、有明海に住んでいたと。雲ごしのかすかな月明かりが波打ち際をかすかに照らす。鮫の頭の転がる浜に、何か大きなものの影が、みっつ、よっつと動いているのに気がついた。猪だ。猪はこの地方では最も恐ろしい野獣だ。人の大人より大きな図体、黒いタテガミを振り乱し、トラと違って群をなし、しかも平気でこんな具合に人里まで入りこんでくる…。食肉目でもないくせにきわめて攻撃的な性質(たち)、見境なしに鋭い牙で相手のはらわたえぐり出す…。これはまずいことになった。この暗い中、棒一本の獲物もなしに、どうやってあいつらを相手する? 逃げればキムは食われてしまうが、とどまれば俺たちも食われてしまう…! 見つからないうちに考えろ。…と、村の方から小さな明かりが近づいてきた。黒い肌が闇から抜け出る。それは件の爺さんだった。猪が出たな、火を焚いた方がいい、今夜は村の者が番をするから、そこそこで引き上げて大丈夫だ。もしもう少し見送りたいなら、風をよけてやろうといった。流木を集めて火を焚いた、着きが悪くて燻された。遠くで猪の目が光った。若い者を二三人連れて爺さんが戻ってきた。筏のマストを担いでいる。こんな舟で帆走することもあるのかと驚いた。巻いてあった帆をほどき、砂に座した船体に立てた。バタッバタッと帆がはためく。砂がざざざと降りかかる。俺にも智子にもキムにも爺さんにも一様に砂は降りかかる…。これで通夜はできた、と思った…。――どどん…!と大音声がした。ここはどこだ? ああ、目の前に暗い道がみえる。波をざぶざぶかぶっている。一直線の暗い道が暗い海に続いている。あの道は何だっけ、歩いてみようか。いや、バカ危険だ。でも歩いてみようか。帰ってこられたら、帰れるかも知れないぞ、戻るべきところまで。戻るべきところ? どこだいそりゃあ。あのアパートか? アパートがそんなに大事か? じゃあ田舎か? 困惑した両親と俺を嫌う町の連中、それにさげすんで笑うあの女と。冗談じゃねえや、時間はこれからいく方にあるんだ、帰るためにあるんじゃねえぞ。真っ平だ、戻るのは、田舎も東京も糞くらえ! ――河童は? …誰だ。――河童は? 誰だって! 女の声だ。そんなわけない、またぞろ例の幻聴か、くそ、いつまで続きやがるんだ。河童か…河童にだけは…会いたいかもな…。どどん! 波が砕ける。思わずへたり込むように、さっきの石碑にしがみついた。振り返ると何てことはない薄暗い漁村。通りは静かに眠っている。落ち着け、落ち着け。石碑の文字をなぞってみた。動悸が収まるのを待つつもりで、何の気なしに碑を読んだ。「防人の碑」――。「常陸の国鹿島の防人三八名此処に眠る」――。頭が…シーンと鳴った。それじゃあ、ここは対馬か…。おなじ、河童の一族が…ここまで来てくたばったわけだ。俺は河童の裔として、ここまでたどり着いたわけだ。馬鹿らしい、馬鹿らしい! ああ、ブツブツが痒い! …どどん! くそっ、波なんぞいくらでも打ちつけろ。いくら打っても同じことさっ! ばら、ばらら、と何かが地面に散らばった。何だ? 霰だ(あられ )。ばら、ばらら、ばらら、ばららら! おう、やってくれるじゃねえか、風よ! これは俺への、何だ、呪いか、贈り物なのか? ハァッハァッハァ! 俺はこんなところでくたばらないぜ。風がそんなに吹きつけるなら、俺もこの国を吹き抜けてやる。個体が死んでも死にゃあしないから気をつけなよ。霰、バラバラ、楽しい門出だ! 埋(うず)めろ埋めろ通り過ぎた道を。傷に種を埋めて朽ち葉で暖かな蓋をして、雪のおもて氷柱ざくざくとつらぬく春は近く。樅の花粉として夢を東に吹き、声あげてひと息くろずむ海を越えて、溢れる恨みや愛ほそ腕かき抱き口づけよう、ああ、世界をのぞむ…。プレアデス鎖よ俺を縛るのか、鳩ではいたくない船に戻るものかと、種は芽吹き嵐を退け未だみぬ花を咲かす、影あり雲ふき露おち山燃え! そうだ、智子、那覇の智子! あんな恋人なんか捨て置けよ。おまえの憎悪はおまえのことばとおまえの身ぶりで語るんだ。誰がおまえを棄てたのか、なぜ棄てなければならなかったのか、棄てておいてなぜまだこの地に引きとめるのか、この地は誰の借金なのか、土地とは誰のものなのか、土地とは時間か空間か、歴史はいつか止まり、正しく記述され、悪は裁かれ庶民は救われ、いやもしかすると庶民も裁かれ、天は灼けおち、鴉の群はぎゃあぎゃあと我勝ちにしゃがれたファンファーレを謳いあげ、善悪は転倒し、井戸から腐れた豚の群、ぼうふらは一どきにわぁんと羽化して、この島は呪いに包まれ、おまえの呪いに包まれ、おまえたちの呪いに包まれ、おまえたち全部の透明な呪いに包まれ、滅び腐れ熟れ滴り落ち形も崩れて汚い水となり海に流れても…それでもおまえはまだ呪い続けるだろう、俺は網膜からそれを見ている。マルハナアブとして見ている。ここは陽気な地獄なのだから。









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