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2015年05月27日19:34

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004 とんくらみ 4/

巫堂2 (微笑し)つまり、あの子を、好いたですな。
土龍 へへへ、お恥ずかしい。
巫堂2 これでも親です。頼りなくも、気持ちがの、通じなくとも思うてはいる。
土龍 (やや醒めて)こりゃ、偉ぇことをいった。…済みません。
巫堂2 いえ、兄さんのことではありませんで、うちの事情でな…。どうですえ、お若いところで学もおありでしょう、その学におすがりしまするが、――血は確かに受け継がれるものですか。
土龍 は?
巫堂2 ほんに神懸かりはな、ここでは疎まれます、祀祭(ちぇさ)が暗くなるいうてな。でも北では普通のことでした、先だって都の(そうる )北まで、バスで行ってみましたえ。何の暗いことか、当たり前の結構で祀っておりましたよ、ほっと安心しました。じゃからこの際、都と(そうる )はいいませぬ、どこか黄海辺(ばた)の村にでも、移って、村の檀家(たんごる)に依りつき、ちげ屋も出しして、もしやあの子がお声を聞いても構わぬよう、小さく商いしておこうかと、な。
土龍 お声。てえと、つまり――
巫堂2 ええ、聞こえるんです。妾も何も、好んで巫堂になったわけじゃァありません。初めて神が憑いた――と、村で申します――その時にはこの崖を、眠りながら駆けって登り降り…大変の形相だったとか。また別の日には、気づけば隣の村まで乞粒(こつじき)をして回っております。それはもう…我と我が身が恐ろしくて、逃れたく、杖鼓(ちゃんご)を焼いたこともある。婆羅(ばら)を井戸に投げたこともある。しますと夜な夜な、婆羅の精ですか、井戸の方からじゃんじゃん鳴って、来う来う、祈り女(め)、やよ、おいおい、来う来う、祈り女、やよ、おいおい、――唄うので。お客さん、あの子がどういったか知りません、妾はな、娘を巫堂にしたくはないっ。ですがこれは選んだ職業ではございませんで。向こうから来て、女を捕まえるものですえ。
土龍 (わなわなと)――血、ですか…。(やっと堪え)いや、安心しました。娘を巫堂にしたくはない。本心と思いまっさ。が、その、血のことぁね…あると思うんです。がっかりしねえで下さいよ。詳しくいっても仕方がねえが、俺らもね、また…。
巫堂2 あなたも?
土龍 別のことじゃねえ、唄のこってす。下手には我慢がならねえんだ。まして傲慢不遜とくりゃあ。許せねえ。――(腹に怒りか…矯めた沈黙)
巫堂2 もし。どうしまして。
土龍 おっ母さん!
巫堂2 ええ。
土龍 私はね――あんたのお仲間を、ひとり、その…ああ!(虚空を睨む)
巫女2 ?!(息を呑む)

暗転。――と、「碧波亭」の奥座敷。膳に白磁の器が並び、静かな酒の席。

東柱 …ととと、これ、こぼしなさるな。不器用(ぶきっちょ)な。
順姫(すに) まあ、ご免なさい。どうしましょう。
東柱 拭くものはないかえ。
順姫 はい、ええと…。
永南 ここにあるものかえ、客間ぞ。
順姫 ええ。(うろうろする)あの、お姐さん、あら…。
蘭雪 (すでに立って、出ていった)
順姫 ちょっとお待ちくださいまし。只今…(ト立つと、戻った蘭雪と鉢合わせ)
蘭雪 おどきな。申し訳ありませんねえ、(さっさと拭い)あら、こんなにお袈裟が滲みて。
東柱 いや、大したことではないです。
蘭雪 洗濯いたしますわ。
東柱 とぉんでもない! このまま帰っても、うちの婆さまァ気づきやしませんさ、ホンこれしきの。
永南 酒臭いのは年中じゃ。
東柱 さん候。ぱりっとして帰ったらあんた、却って外に女でも作ったかと勘ぐられます、のう令監? ははは。
永南 狸めが。
蘭雪 (順姫に、やや険しく)ぼうとしておいでか。…気の利かない。誰がこんな子を呼んだだろう。
東柱 ほい、あんただ。
蘭雪 あら。ほほ。
東柱 呼べといったはわしじゃで、まあ、何と申すか、因果応報――。悪人正機、芸には達者もおれば苦手もおる。…しかし今日はついておらんの、さっきの巫堂(むぅだん)といい。
永南 うむ。
蘭雪 へえ、巫堂がな。
東柱 そうさ。驚いたぞえ。酒を呑まずに息を呑んだわ。
蘭雪 何ですか、巫堂が、ここへ…?
東柱 さよじゃ。
蘭雪 …?(妙な顔…)
永南 どうしたね。
蘭雪 いえね、こう申し上げるも何でございますが、当家に巫堂は、その…、
東柱 その…何だえ?
蘭雪 居りませぬで。
東柱 居るも居らないも、居ったのだよ。
蘭雪 ハァ…。
東柱 気味の悪いことをいいなさんな。ま、そんなことはいい。それよりあんただよ、娘さん。芸の苦手とはいい条、ちと程度が過ぎやしないかえ。いや、そう暗くなりなさるな。責めるじゃないぞ、いい年寄りがこんな辺鄙の漁村まで来て、芸者を招ぶこそ不心得じゃった、大いに反省したわ。
蘭雪 まァ…そんな、ほんに申しわけ御座いません。
東柱 大事ない、ない。によって責めるじゃない、が、そちらも商売、あれではやっていけまいに。大丈夫なのかえ。
蘭雪 (一応ほっとし、しかし立場がら順姫にはきつく)邪険にしたくはないのよ、うちだっても。商売もそりゃ商売だけどねえ、和女(あんた)、それより、ひと様に対して礼儀ていうものがおありじゃろ。酌婦(つぎめ)はな、何はなくとも笑顔が取り柄じゃ、それを鬱々と…琴も杖鼓もできぬ、できぬの一枚岩。できぬとしてもじゃ、酒もようえささず、お客の話も上の空。のう和女、まさかに仙人のつもりかえ。塩に鳴り物は御法度か。具合が悪けれゃ引っ込みぃ。な。 
東柱 まま、女将。
蘭雪 お上手。お女将じゃないわ。
東柱 (相手にせず)それができぬ事情があろうじゃないか、の。いったいこの人はどういうお娘(こ)だえ。
蘭雪 さあ、最近参りました新妓(しんこ)で、この先の百済屋からお喚びいたしましたが。源氏名は鳴鶴、(みょんはく )あの、啼く鶴と綴ります。ただそれぎり存じません。
東柱 ほ、いずれが鶴かこうのとり、黙り(だんま )も芸のうちかも知らんぞ。
永南 (その鶴のごとく、ひと声)百済屋か。屋というからには日帝期からの。ろくな置屋ではあるまい。
順姫 ――はい。

三人、ぎょっとする。

東柱 これは…怨念あらたかな宵となり。あんた、娘御、泣くばかりではなさそうじゃのう。美しい顔をそう陰にしては損じゃな。こちらを見んか?
順姫 (見て、自分なりにきっとなり)本名は…白順姫(ぺくすに)、と申します。
東柱 おお、♪甲毀(かぷとり)ぃ〜は甲順(かぷすに)ぃ〜ぬん、だ。女に(おなご )生まれては誰よりも普通の名、十人がうちにはきっといる名よの、幸あれ、ははは。して、ずっとこちらかえ。
順姫 いえ。
東柱 そう思うた。流れ者の相が出とるよ。
順姫 (心配に)そうでございますか…?
東柱 霊東大王(よんどんてぇわん)に賭け、龍王夫人(よんわんぷいん)に賭け、さてまた江南の王爺老人に賭けた上、八卦に賭けて袈裟掛けて、あんたの弱冠(せいねん)は、旅人(なぐね)じゃね。
順姫 (がくりとし)――どちらに参りましても長くは続かず、追いやられます。
東柱 琴が拙いというてか。
順姫 ええ。
東柱 そりゃ無理からぬ。本当のことじゃ。
順姫 (思いきって――)…あの、もし。
東柱 (やや気の毒に)気を悪くしなさんなよ。老骨の軋むを聞いたと思ってお置き。
順姫 あの――でも、うたうことなら。
東柱 何?
蘭雪 (気づき)…できるのかえ、何か?
順姫 あい。たったひと節なんですが。
蘭雪 なぜ早くおいいでない、出し惜しみして。そんなら、さ、さっそく一番、演ってお見せな。な、早く。
順姫 でも、姐さん。
蘭雪 でもも暮らしもあるかいな。見せるための芸じゃろ。な、それ。
順姫 見せるため…そこが、その、違うのですえ。
蘭雪 (夥しく興を醒まし)…違うって、和女、一体なにをやらかすつもりやら。――済みませんねえ、こういう愚図で。
東柱 いやぁ。(が、さすがに苦い顔で聞いている)
永南 (クッ、と一杯あおる)
順姫 (期待されないこの場の雰囲気すら読めず…)ではその、お恥ずかしながら――長歌(ぱんそり)のひと節を、しますわ。(立つ)
東柱・蘭雪 ぱんそり!
永南 (やがて)要らんわ。――願い下げじゃ。
順姫 ええ。(…ぽつねんと佇つ)
東柱 ふうむ、色気も何もないというかね。が、ええじゃぁないですか、ご覧あれこの、見事な貌を。これで充分。それに令監、分かりませぬぞ、ものは試し、儂ぁ聴こうと思うね。
永南 まず御免じゃ。
東柱 まんざら嫌いでもあるまいに。(にやりとす)
永南 (煩そうに)この最果てまで来て、何が唱劇(ぱんそり)か。
東柱 杖鼓、玄琴(こむんご)は良くてもかね。
永南 ふん。巫堂相手がまだましじゃ。
東柱 やれやれひねくれた。良い良い、この人には構うまい。儂が聴こうぞ娘さん、な。一芸でも見せればの、明日の寝覚めもよかろうさ。
蘭雪 お気遣い、何と申していいやら…。(巻いて)で、なにをお演りだえ。獄中歌? 農夫歌かえ? 合いは杖鼓でいいのかえ。
順姫 いえ、その――別海神歌(ぴょるはいしんが)の、道往きの下りを。

永南・東柱、ハッとして凍る。

蘭雪 別―(ぴょる )―何ですね、そりゃ。(持った撥を下げた)
順姫 では…、(やや性急に、が、意外な気迫と唄い語りで)「ああ、もし、誰方(どなた)ですか。…私の身体は足を空に、倒に( さかさま )落ちて落ちて、波に沈んでいるのでしょうか」「否、(いいえ )お美しいお髪(ぐし)一筋、風にも波にもお縺れはなさいません。何でお身体が倒などと、」――
永南 ああ、待てい!

間――。永南、天井を打ち仰ぎ、鋭いだんまり。蘭雪、何事かと二老人を伺う。東柱、やがて…ほっと息を吐いて、手酌する。――緊張解けた順姫、もう他愛なく気抜けして、へたへたと座る。

永南 (やがて)済まなんだ――。あとでまたきちんと聴こうが、あまりといえば思いも掛けぬ芸を見たによって差し止めたわえ。――順姫さんといいましたな。さても、教えも教えた、また習いも習ったの。朝鮮八道広しといえども、その流儀、滅多なことではお目に掛かれぬ。あらかた人も分かったが、のう、いつ、どこで身につけましたな、その唄を。
順姫 (また、なよめき)はい――もう二年になりましょうか。儒達(すだる)山の山陰の林で…。
東柱 あすこのか、あの、木浦(もっぽ)の。
順姫 ええ。でも、いま、こんなお席で申すことではございませんが…。
東柱 何をいう。乗りかかった舟じゃ、船頭多くして波に沈もうとも、この場は聞かずば済まされぬ。のう、李退渓(いてぇげぇ)先生。
永南 ふん、まず、焼酎にしよう。はなから一等、不味い酒にしておくわ。
東柱 また、あんな、憎らしい。――さあ娘さん、事大主義の権化が許しを出したぞ。いま語らんで何とする。春香・(ちゅにゃん )沈闌も(しむちょん )もとは詰まらぬ百姓(さんのむ)じゃったが、どうじゃ、ただよき心を持ちつづけ、いつわりのない生き方をすれば暗行御史(あんへんおさ)やら宗の皇帝――ええ、皇帝のおぬし、后じゃぞい! さ、話してくれ、のう、いうてみんか。(ト、たたみかけるよう)
蘭雪 (見かねて)――お客さん…
永南 (それより早く)こう、なまぐさの。
東柱 …なまぐさ?! これはしたり、不意打ちの仁川上(いんちょん )陸。
永南 (気にせず)喧しいわえ。この気弱な娘さんじゃぞ、そう揺すぶられては出る話も出んわ、乞粒(たくはつ)が山賊に転ずるかえ。
東柱 (にやりとし)突然のドン・ファンよの。失敬至極。
永南 順姫さん。いいたくなくば話さずともよい。どちらに転んでも旅の恥、広い世にあってはこんな老人どもと二度逢うこともまずあるまいと心許すならばいうてくれればよい。儂らもの、呑みながら聞くともなく聞こう。(蘭雪、気づきさっと杯を注す)――杖鼓のばら打ちの雨の間に、消してもよいくらいの気持ちでいよう、のう、鍋でも取ってすするがいいわ。それ、マダム。
東柱 (酒に咽せて)…おいおい、李退渓の口からマダムが出ますよ…。
永南 湯豆腐(すんどぅぶ)ができるかね。
蘭雪 ハア、まあ、こんな所ですから上等とはちょっと申せませんが…、
永南 構わん。旅情を薬味に振るわ。四つ、急いでな。焼酎と。
蘭雪 はあ(いえぇ)。(去る)
東柱 おほ! これはまた、李太祖以来の謀叛。今宵はどうじゃ、そのもと、ファウストのごとき若返りにござる。グレートヒェンに出会うたか。
永南 黙らっしゃい。謀叛よばわり、穏やかでない。
東柱 謀叛とも。仏僧たるもの誰しも高麗の昔を思わぬはない。
永南 精進もせずにの。(にやりとし、呑む)
東柱 おや、これは両班(やんばん)殿、歌舞音曲も儒者のたしなみですかな?
永南 科挙はとうに滅んだわ。
東柱 道理で両班も旅の烏じゃ。
永南 ああいえばこう…、大蔵経のような男よの。
東柱 そのもともまた、乱中日記じゃろ、五経の紙魚(しみ)に代わることなし。
永南 くくく…。(苦笑)
順姫 (ぽそりと)――もったいない…。

間。――永南、端然と二の句を待つ。東柱は両者を見較べている。

永南 何を泣く。
順姫 ――ええ。ええ。そういわれました、わたつみの底でも。(…と、妙な間…)…何からお話しすればいいやら。――
東柱 (助け船で)順姫さん、生まれは。
順姫 ここから北の小さな津です。格浦(ぎょっぽ)という港から、また少し辺鄙な方へ。
東柱 北道かい、遠いなあ。
順姫 ご存じですか。
東柱 これでも勧進聖さ。わらじを何百、履きつぶしたか。(思いだして)…ああと、そう、蝟島(うぃど)へいく連絡船の。
順姫 そうです、そうです。大里といって、白(ぺく)姓ばかりの村でしたが――七つになるかならぬかの時、地震(なゐ)振って、さとは津波に流されました。
東柱 (驚き)おお、それは…
順姫 たまたま妾は(わたし )裏の山へ、近くの子たちと連れだって桔梗を掘りに上がっておりまして、命ばかりは助かりましたものの…。両親も、わずかな財も…。

やや閑(しん)とする。そこへ蘭雪、折よく戻り――

蘭雪 ――すぐお持ちしますわえ、あつあつのが四つ。すっかり暮れて靄もでて、月もしたたるようでございますよ。どうね、あんた? 見るから濡れそぼってくるよう。あまり愚図をいうでないよ。
東柱 (蘭雪のがさつさが、却って場を明るくしたのに勢を得て)文字通りの身世打令(しんせたりょん)てところじゃな、そして、それから?
順姫 はい、珍しくもありません、初めは遠い親戚が、何かで急に羽振りがようなったとかで、たまたま世話してくれましたが…小娘ひとり生き残っても族譜(おいえ)の足しになりましょうか。いつとはなく疎まれ、遠ざけられ、十四の歳に検番(こんぼん)に売られました。
東柱 検番とはまた、古色蒼然。
順姫 ここらではまだそう呼び慣わします。――着こなし、唄から、琴、鼓とソレひと通り教わりましたが、生来勘が鈍いのでしょう、少しも上達いたしません。悪いことにはお酒がまた、まったくいけませんので…、注げはしてもよう受けられず、無理にあければすぐ青くなって震えが来ます。座は醒めるし、どうしたらいいのかしら、妓生(きぃせん)が向かぬといったって、十四はほんの子供です、他に何ができましょう、泣いてばかりおりました。そうしましたら検番の主人が業を煮やしまして、南韓北朝六千万うちに楽(がく)せえできねぇ酌婦(つぎめ)はお前だけだ、楽ができなくば汗を流せといって、海士(あま)の――
東柱 海士?
順姫 海士の舟に衿をつかまれて投げ入れられて、稼ぐまで戻るな、栄螺十斤がお前の身上だ…、そんな、元来網打ちの生まれとはいえ、扱ったこともない錘や(おもり )網や、妾、素潜りだってようしないのに――。
永南 ふうむ、で、そのまま漁を。
東柱 (呆れて)これ、そんな筈があるかえ。
順姫 (実体に)したくともできず、止したくとも逃げだす当てもなく…。済州(ちぇじゅ)の海女とは違いまして、ここらは男も海に入ります。荒くれた人たちはおもちゃに妾を弄びます、舟に女は不浄じゃわとも、いって、なにかにつけ、酷いこと、濡れ縄でばしり、ばしりッて。汐がみしみし身体に滲みます。すり切れた栄螺をぶつけます。夏でも冷たいものを、昼とはいえ年中毎日、そして晩にはお座敷でしょう、いつか二度目の冬まで耐えて、あるときもう、だめだ、と、ふっと凧の糸が切れて、船縁からぐらりと海へ、ざぶ、と跳びました。いいえ、落ちただけかも知れません。汐に惹かれてかも知れません。――不思議と苦しさは感じずに、体は渦と回る、ぼうと流され流されるうちに、何でしょう辺りが白くなって、いつか、妾の手をとる方があります。それは恐ろしい――、鎧に身を固めた美丈夫の。ああ、

二人の老人、妙な成りゆきに、顔を見合わせている。

順姫 うつつか何か、分かりませんが…恐ろしいその方は、こともあろうに妾の夫だと。ええ、申されました。この姿が怖いか、ならばこのままでいよう、俺こそは人にとって恐ろしい――まずその――化け物であって構わぬ、このままの俺を愛せば愛せ、と、な。無理をおっしゃいます、妾はこんなに痩せて弱いのに、いきなりそのような…。と、申す口をもうさえぎって、うん? 人界に未練があるか――無理からぬわ、つい先ころまで人であったなら、と思わぬことを仰います。人ですわ。いや違う、貴女(あなた)、私らをどう見るね? それは、何と申しましょう、金とも銀とも判りませぬがきららな甲冑は、むしろ、お伽噺の西洋の騎士か――、…え、私…「ら」、でございますか。左様、ここは人の世を遠く離れた。湖南から天竺までの往還よりも千層倍遠い。と見れば、ずらりと囲って立ちい並ぶはがしゃりがしゃりと鎧もかちあう、幾十人かの黒潮の(こくちょう )騎士の方々、そして何ということ、艶やかといえば口幅ったい――洋装の、ええと、ドレスを見事に召しました、その、御婦人方、御嬢様方。
蘭雪 これ、和女(あんた)、何を突拍子もないことおいいだえ。
東柱 (そっと)いいさ、まだ続きがありそうだ。
蘭雪 それでも、あまりといえば夢のような…、
東柱 夢で結構。渦の唸りに景色も歪むよ。魔処じゃよここは、魔境じゃよ、岩木も嗤って旅の足をさらうじゃよ。 ――(順姫をじっと見て)そして、習うたのかね、別海神歌(ぴょるはいしんが)を。
永南 (思わず)うむ…。
順姫 (驚き)え。ご存じですか。
東柱 ご存じですかはこっちの科白じゃ。あんた、これがどういう唄か、知っておるのか。
順姫 どういう…とおっしゃいますと。
東柱 これじゃ。沈闌、(しむちょん )春香歌(ちゅにゃんが)、赤壁歌(せっぴょるか)にうさぎ節、ふくべ(ぱがじ)節、椄が(ぴょん )んせ歌(が)とこの六篇がの、普通にいう唱劇(ぱんそり)の番組よ。それは分かるね。
順姫 ええ。ええ。そして――
東柱 (誘うごとく)のう。
順姫 そんな唄は、知らぬ、と。
東柱 いわれたかえ。
順姫 ハイ。
東柱 じゃろうな。広寒楼楽府に収むる雑歌十三腔が(まだん )うちただ一篇、我らが流儀のみが口伝えした、秘伝中の秘伝じゃ。
順姫 御流儀――とおっしゃいます…御流儀でいらっしゃいますか…?
東柱 はは…実はの。――
永南 (黙然)





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