mixiユーザー(id:63544184)
2015年04月22日11:05
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011 イオの月 2/
【Ｍ６】循環宇宙の沈黙はもう沢山だ。下谷でいったい何があったのかを、この背の柳行李を出てッ。――仕方ない、白状しようか。あたしは百貫さ。ヘルメス、あたしを背負って旅をして。行商のおばちゃんなら五十年六十年、キャベツや大根背負って歩きつづけるね。あたしらもそうして歩いていこうよ。イオニア海を泳いで越えて、ボスポラスの海峡を筏で渡り、東の東のアジアの果てまで歩いていこう、そう…げんまんしたの覚えてる？ あたしは牛の姿になって、顔も変わったし目に映るものといったら色のおかしいどんより澱んだ牛の見る景色、途切れ途切れのコマ落としの記憶。女神の呪いを受けて、燃えこぼれる恋を、それこそ罪だと裁かれて、熱くトキ打つ心の臓だけそのまま、二度とは結ばれぬ烙印背負い、やせ細る月みたいにぐるぐる世界をへめぐる羽目に陥った。でもあたしが何をした？ あたしが誘ったわけじゃない。雪山の玉座オリンポスで勝手にあたしを見初めたあの人が一向裁かれずに、却ってあたしが何もかも捨てたわけ。ぐるぐるまわる回転木馬、行きつくのはいつも自分の背中。いいけどね。ううん、いいけどね…って何度自分にいいきかせても、やっぱり納得いかないよ。あたしには目もあるほっぺもある黒い髪だって小さな胸だって、ふたつの肩とシャツから覗く二の腕と、ゴボーみたいな両のすね、天翔けるサンダルに突っ込んだバネの足先、野山を駆ける十四歳、どこまでもどこまでも広がってた世界。海になんか背を向けて、月の出る方へ荒れ地を行くことを夢みてた。ペルシアの高原沙漠と、タシケントからカシュガルヘ、幾つもの国境を越えて、すたすた行くことを夢みてた。あたしには風にふるえる金のうぶ毛と散りばめた貝の爪と七つの音色の口笛と景色を見通す茶色の瞳、それから何百の歌のあふれる唇と…。それが、一枚の駒を裏返したみたいにがらりと変更ってわけ。そりゃ、東に向かうよ今だって、かつての望みの方位へとね。ただし罪人として、無限遠の流刑地へとね。ヘルメス、あたしを背負って。キャベツのつもりでいいからあんたのサンダルに便乗させて。そうしてこの堂々めぐりから逃がして。もうあとほんの一分半で鶯谷だ。そうしたら103系なぞ乗り捨てて、改札口を駆けぬけて、日暮里の山の坂道を一直線に駆けあがるんだ。あたしは選ばれ滅びたんだから、今度はあたしが選んでやる。あんたを選ぶよヘルメス。一緒に登ろうあの坂をっ。――イオ、あの坂は怖い坂だ。いい気になってのぼっていったはいいけれど、あっという間に日が暮れる。そして、ふり返るともう闇だ。闇の底に荒川区が沈んで、ゴトトン、ゴトトン、山手線より幾分低い、尾久の車庫から離脱していく東北夜行の汽笛も聞こえる。本当だったら俺たちはもうふたりきり、津軽に向かう枡席でほの甘い逃亡の夢をしがんでいたはずだったのだ。だが今は、森の闇と谷の闇、森の闇と谷の闇、ふたつの闇に挟まれて俺はひとり坂の途中に佇っている。ちょっと御不浄、そういって青苔の浸みた壁の穴蔵便所へと消えていったお前、ボストンバッグひとつぶらさげ俺は待った。帰ってこない。人混みの泥流は渦巻き、犯罪大通りのカーニバルのごとくにも押し流されていく。帰ってこない。空に新月、地球の輻射であかがね色にボウと浮かぶ、肉体の底まで冷えきった死んだ衛星のおぼろな影。イオ、柳行李のイオ、お前の沈黙に語りかけよう、分かっているんだ、どこで踏み間違えたのか。あの、上野の駅の地下道だ。この饐えた空気は敗戦の日以来変わっていない、いやさ明治の半ばにはもう敷かれたという東北線、押し寄せる稗喰い蝦夷(えみし)の山津波。ああ、セスナは来ず、食い残しのチクワは万華鏡のフォルムを崩して重油臭い港湾のとろに腐れて滴り、泥を這いずるしゃこの餌となった。転落について語らねばならない。俺の筋肉はまだ生きてるのに弱りに弱り歩くことすら覚束ない。俺たちの向かった東京はどうずれていたのか。はじめの一歩が迷い足。茨城から松前まで逃れようというのに俺たちはいったん南に向かったのだ。上野の暗い地下道の五尺二寸の低いガードは潜らなければ潜らずにも済む、ただ横っ飛びによじれてまでも潜りたい者だけがくぐるのだ。もっともそれは最近のこと、長身族に様変わりした俺たちの世代が初めて気づいた設計ミスだ。そもそもなかった選択を強いられるのが昭和の決算。違いはつまりこうだ、上野で折り返し網走から白骨逆立つ尾岱沼(おたいとう)まで、国後の島影からカムチャッカの果てまでも目指すのか、それとも都市に沈んでいくのか。決めかねた者はいつまでも、山手線のルーレット、タンゴ・コンスタンティノープルの哀調に乗り、弾かれるまではいつまでも堂々巡りを繰りかえすのだ。イオ、俺たちは違ったんだ。俺は家督を継げる長男だ。俺たちのズレは、故郷への縛られ方のズレだった。茨城―上野のこの50分、乗りこえるのは難儀だった。立ちはだかるんだ、６つの川と、４本の煙突と、そうして無数のがたろうが。まるで泥だ、干潟の泥を胸から髪まで撥ね散らかして、あやうく手を取り進んでいった。水から逃れたトビハゼが、嗤うハンミョウよろしくモーセまがい泥の道を開いていった。水トカゲの蜃気楼が障気吐いて聳えた――入道雲だ。地表はその時球状を成さず古代の信仰そのまま、己が立地こそ世の要だった。がしかし、別れは時の刻みのように迫っていた。
【Ｍ７】日暮里の坂道の途中、傾いたアパートにともかく逃れて気づくと、お前は畳のへりを隔てて斜面の上手に座ってた。仰角２度、水が瀬音立てるには充分の傾斜だ。今にも俺に倒れかかりそうな格好のままお前はきわどく動かずにいた。俺の背後は２尺四方の玄関で、絡まり転げて廊下に出れば逃亡劇は続いたかも知れん、が、お前の後ろには便所の板戸、つと立ちあがるとちょっと御不浄――そういって君は姿を消した。帰ってこない。十分経った。帰ってこない。イオッ。戸を蹴立てると、風が、俺を押し倒した。便所はなかった、風の森がざわめいていた。イオッ、ここまでなのか。この東京がお前の答えか。都市に沈んで老いも野垂れも受けいれるのか。望んで大往生ってわけか、馬鹿な。戻ってくれイオ、お前の買った情報はみんなまやかしだ、人工の森は重力の花園なんかじゃありゃしない、あやかり迎合しちゃいけない、堂々巡りに落ちこむぜ、君の旅はいま初めて、君だけが辿る旅なんだ。タン。風が俺を押し戻す。アパートがぐらりと傾く。俺は転げて、石の廊下に転げて、厭っつーほど頭を打った。その昏倒に…見た。誰の記憶だ。食い残した最後のチクワの万華鏡、腐れて滴る東京湾。あの中年男の記憶がドッと流れこむ。曰く、万年町のＳＭクラブ「ゴルゴダ」で昏倒の間際に見たイエスがあったという。巻きつけられたバラ線が野茨の冠を連想させたか。そうしてイエスの見る夢も知った、それは実に、万年町のＳＭクラブで責められている私なのだった。ああ、時は順序どおり進みはしない。時こそが幻だ。やがて宇宙が収縮に転ずれば時間は戻る。順序(なりゆき)正しく生起などしない。そして空想の埒外に私の根拠地はあるのだろう。ここはどこだ、日暮里じゃないな？ ――ハハハハハ、いやぁね何をいってるの兄さん…僕をねじ伏せた兄さん。こんなにも違う僕たち。兄さん、あんたの黒い肌が羨ましかった。ひたぶるに突きすすんでいく黒びかりの肌が。罪だよね、縁もゆかりもない二人がひとつ屋根の下、同じミルクで育ったんだ。あんたを将軍にするために僕は娘として育ったんだ。オセロの昔からこの島では正義は白、強いのは黒。どっちがどっちを妬むのか、白を返せば黒、黒を返せばまたその白と、幾度も幾度も裏切り裏返し、繰りかえすうちに僕は兄の真似する遊びを覚えたよ。銃剣も執った。レスリングもした。マルトン原のあの持久走も、もうすぐ女の記録が勝るってね。そうやってあたしがあたしの奥底の黒を掘りおこしているうちに兄さん、あんたは何をした、何をしたっけねぇ。女物の衣装を手に入れてさ、日の差さない部屋で、こっそり着替えて着飾って姿見の前に立ったよね。恥じることはないんだよ。知ってるのはあたしだけだし、第一あんたのが恥ならあたしのだって恥さ。ただ兄さん、あんたの方が見栄っぱりですぐに秘密を増やしちまうってそれだけのことさ。あふれはじめた闇は閉じこめることはできないの。闇の洪水は煩悩の地表を覆うの。分からない？ 無理もないやね男には男のポーズがあるもん。でも、僕と二人きりの時くらい見せてくれたっていいじゃんか、知ってるんだ、女には発情しないんだろ？ やむを得ない戦場の病だっていつか、酔ったまぎれに同僚に打ちあけてたじゃないか。だからあの品をさ、見せて、ね、兄さん…僕を、抱いてよ。――よせ。その手に乗るもんか。イオ、いい加減にしろこのオカマっ。悪ふざけがすぎるぞ…くそ…堂々めぐりだ。バカにしやがって、何が出生のトラウマだ、俺は必ず逃れてみせるからな。いいか、こんな環状国鉄に取りこまれはしないぜ。己が背中なぞふるふる御免、線形の宇宙だ。四次元以上二十六次元までの時空がなぜ見つからないか知ってるか。そいつらは折り畳まれてこの第三次宇宙のあちこちにポケットの飴玉のように隠されているんだ。お前がイオ、復讐だか何だか知らないが大(おお)手遅れに品つくってる暇に俺はだ、三次空間を突破していく。10.5秒のインパラの脚さ。ヘラスの井戸は空に開く、その陥穽に俺は真っ逆様に墜ちていく、上へ上へと墜ちていく。しょんべんガードをくぐった俺はそこで終わりだ。歴史のどこかにツ、と現れる。オセロの砦。糸杉の木立に囲まれ崩れた日干しレンガの城。そこで十八番目の次元を探すさ。カワサキＺ１のエキゾースト。「そうはさせん」タン。
【Ｍ８】「ZYPRESSEN――たどり着いたようだな、だが通すわけにはいかないのさ」誰だ。「問われて名乗るもおこがましいが、俺は北側国境警備隊イスマイル・ヤクシュ」「知らざぁいって聞かせやしょう、同じく南側国境警備隊グラフコス・ヴァシリウ」「続いて次に控えしは、同じく北側国境警備隊ムスタファ・ギュレル」「またその次に列なるは、同じく南側国境警備隊イオアニス・パパンドレウ」同じくどん尻に控えしは、北側国境警備隊長アフマド・イェシュルユルト。だから何者だ。鳩さ。鳩。ここは鳩どもの城なのさ、ハハハハハ。タン、タン。何を笑うんだ。この炎天、オセロの鮮血も見る間に乾き埃と飛んだ円形劇場の熱波にあって、お前ら、どんな笑いを笑うのだ。簡単なことだ、一本の線さ。線、何のことだ。ここに一本のチョークがある。ニワトリの前にズッパリ一本線を引くとだ、もうニワトリは動けない、一歩とてそれを踏みこえられないのさ。越えるとも、俺のインパラの脚をみろ。「やめてくれ、来るな、この土地はサイプラス民主共和国のものだ、来ないでくれ」「違う、北サイプラス・ターキー共和国のものだ、来るんじゃない」そういうわけだヘルメス、君に来てもらっちゃ困るのだよ。ふざけんな、俺がニワトリだってのか。では何だね、鮮やかに一羽のニワトリと違うほどのお前は一体何だというのだ、名は、生地は、そして十数年にわたろう記憶は。――おかしい、さっきまで覚えてたんだ…嘘じゃないよく覚えてる…不思議だな…いつから僕はいるのだろ…。記憶なぞその程度のものさ、だがそうやって一個の身体にとどまる限り記憶からすら逃れられはしない。いいかねフェティシズムは個体幻想なのだよ、貴様がプラトニックアニマルである限りオセロの二の轍を踏むだけさ。デズデモーナは不義に走ったか。是なり是なり、ただしオセロの大脳においてはだがね。行李がどこにあるというのだ、ハハハハハ。どこって…これは…イオじゃない…？ ――だがしかし、個体は捨てられん、故郷を捨てるんだ、そのためにだけ俺は俺の個体を使う、道具に過ぎないが必要条件だ、俺は、俺を吹っ切るために俺の肉体を肯定する。修正主義者め。何をッ。いいわけ弁十郎といったのさ、地を這うカタバミに個体があるか、ブドウの天幕(テント)に個体がよ？ 記憶などニューロン細胞の微電流だ、だがウィルスは、風邪のようにお前に入りお前の体を体として殖え、やがてまた風に乗って立ち去るのだ、単なるＲＮＡのパトローネがだ。
【Ｍ９】いいか個体はなく記憶は幻だ、あるのは流れと風とのみなのさ。違う。違わないね。違う、そんなら俺が証明してや…、時は止まり――個体は、ない。貴様には別の記憶をやろう、次なる一幕の始まりだ。
『El dia abre la mano Tres nubes Y estas pocas palabras』
『谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな』
『夕焼けやパンとは佇ちて喰うものか』
『日の光が手を開く 三つの雲 そしてわずかのことばたち』
みずから立とうと欲するならば真夏の雪を降らさねばならん、他のことではない貴様だ、お前にこれができるか。できて初めて個体を語れ。われらはくぐつうつつよにあり、なげきのそらのそらごとまえり、されどもそらのそこひのおもい、もゆれどいずれくぐつならずや。――時は流れだす。一度だけヘルメス、あたしは目を覆うよ。あたしはあんたの目の底の虚像、そしてこの声もあんたと無関係の世界にあるッ。そこはゼウスのお膝元、巨きな重力の花園。あたしは虚空からあんたを見てる。もう出会うことはないよ。でもね、守らない愛もあるよね。２本の平行線みたいに無限の遠くで交わろうね、公理のトラックを並んで駆けるんだ。あんたのインパラの脚に負けない火群(ほむら)がこの胸にはたぎってる。マグマはあんたに向けて燃やすから、ジュピターなんかお呼びじゃないから。公転周期42.5時間、質量10の17乗トン、赤道周1.14万キロ、水はなく、じつに表土の歪みにおける潮汐差100メートルあまり、木星にもっとも接近して飛ぶガリレオ衛星の筆頭、燃える月イオ、歪む月イオ、それがあたしだ、それがあたしなんだ、瓦礫を背負って歩いてゆくさッ。あんたは駆けろよ、ヘルメスッ。――タンッ。そうして射抜かれたのだった。艦長、アジです、アジの大群です。
【Ｍ10】イオッ、俺はここまでだ。お前の胸の火群に賭けて、さすらいの語りを続けてくれ。レフコシアよッ、また俺は現れる。この砂に突っ伏した半月の頬を忘れはしないぜ。ヘリの毒にもくたばらなかった２疋の兎がいたんだ、ラグナロクは彼らに新天地を拓いたのだ、彼らのあらゆる子孫にはもう枯葉剤なぞ効きはしない。おお、太刀のひらめき河口のひかり、地に溶け風に散らばって、また俺はここへ戻ってくる。レモンは薫り、崩れた城壁から蜥蜴は顔を出し、時はめぐって、そして夏草は生い繁り、埋もれた俺のサンダルをも隠してゆく。おれはそのとき陽炎だ。夏草からたちのぼる草いきれ。バイクよりも神よりも速く駆けるもの、それが夏草だ。ああ、幻のイオニア海、割れんばかりの蝉しぐれ。望むところだ、俺が相手になろう、いざいざ、お手あわせ願おうッ。レディ・セット・ゴウ。
幕
〔使用アルバム〕
Тони Димитрова「Ах、моремо…」
Julien Baer "Cherchell"
アンドレス・セゴビア愛奏曲集��
Marianne Faithfull "Broken English"
上演記録
イオの月 ツバメ号／二〇〇三年八月七日／宮代町進修館中庭／演出・高野竜／出演・浜田あゆみ、武井りえ、志賀未奈子、岩崎節子、関根李沙、高野竜
top →http://
【Ｍ７】日暮里の坂道の途中、傾いたアパートにともかく逃れて気づくと、お前は畳のへりを隔てて斜面の上手に座ってた。仰角２度、水が瀬音立てるには充分の傾斜だ。今にも俺に倒れかかりそうな格好のままお前はきわどく動かずにいた。俺の背後は２尺四方の玄関で、絡まり転げて廊下に出れば逃亡劇は続いたかも知れん、が、お前の後ろには便所の板戸、つと立ちあがるとちょっと御不浄――そういって君は姿を消した。帰ってこない。十分経った。帰ってこない。イオッ。戸を蹴立てると、風が、俺を押し倒した。便所はなかった、風の森がざわめいていた。イオッ、ここまでなのか。この東京がお前の答えか。都市に沈んで老いも野垂れも受けいれるのか。望んで大往生ってわけか、馬鹿な。戻ってくれイオ、お前の買った情報はみんなまやかしだ、人工の森は重力の花園なんかじゃありゃしない、あやかり迎合しちゃいけない、堂々巡りに落ちこむぜ、君の旅はいま初めて、君だけが辿る旅なんだ。タン。風が俺を押し戻す。アパートがぐらりと傾く。俺は転げて、石の廊下に転げて、厭っつーほど頭を打った。その昏倒に…見た。誰の記憶だ。食い残した最後のチクワの万華鏡、腐れて滴る東京湾。あの中年男の記憶がドッと流れこむ。曰く、万年町のＳＭクラブ「ゴルゴダ」で昏倒の間際に見たイエスがあったという。巻きつけられたバラ線が野茨の冠を連想させたか。そうしてイエスの見る夢も知った、それは実に、万年町のＳＭクラブで責められている私なのだった。ああ、時は順序どおり進みはしない。時こそが幻だ。やがて宇宙が収縮に転ずれば時間は戻る。順序(なりゆき)正しく生起などしない。そして空想の埒外に私の根拠地はあるのだろう。ここはどこだ、日暮里じゃないな？ ――ハハハハハ、いやぁね何をいってるの兄さん…僕をねじ伏せた兄さん。こんなにも違う僕たち。兄さん、あんたの黒い肌が羨ましかった。ひたぶるに突きすすんでいく黒びかりの肌が。罪だよね、縁もゆかりもない二人がひとつ屋根の下、同じミルクで育ったんだ。あんたを将軍にするために僕は娘として育ったんだ。オセロの昔からこの島では正義は白、強いのは黒。どっちがどっちを妬むのか、白を返せば黒、黒を返せばまたその白と、幾度も幾度も裏切り裏返し、繰りかえすうちに僕は兄の真似する遊びを覚えたよ。銃剣も執った。レスリングもした。マルトン原のあの持久走も、もうすぐ女の記録が勝るってね。そうやってあたしがあたしの奥底の黒を掘りおこしているうちに兄さん、あんたは何をした、何をしたっけねぇ。女物の衣装を手に入れてさ、日の差さない部屋で、こっそり着替えて着飾って姿見の前に立ったよね。恥じることはないんだよ。知ってるのはあたしだけだし、第一あんたのが恥ならあたしのだって恥さ。ただ兄さん、あんたの方が見栄っぱりですぐに秘密を増やしちまうってそれだけのことさ。あふれはじめた闇は閉じこめることはできないの。闇の洪水は煩悩の地表を覆うの。分からない？ 無理もないやね男には男のポーズがあるもん。でも、僕と二人きりの時くらい見せてくれたっていいじゃんか、知ってるんだ、女には発情しないんだろ？ やむを得ない戦場の病だっていつか、酔ったまぎれに同僚に打ちあけてたじゃないか。だからあの品をさ、見せて、ね、兄さん…僕を、抱いてよ。――よせ。その手に乗るもんか。イオ、いい加減にしろこのオカマっ。悪ふざけがすぎるぞ…くそ…堂々めぐりだ。バカにしやがって、何が出生のトラウマだ、俺は必ず逃れてみせるからな。いいか、こんな環状国鉄に取りこまれはしないぜ。己が背中なぞふるふる御免、線形の宇宙だ。四次元以上二十六次元までの時空がなぜ見つからないか知ってるか。そいつらは折り畳まれてこの第三次宇宙のあちこちにポケットの飴玉のように隠されているんだ。お前がイオ、復讐だか何だか知らないが大(おお)手遅れに品つくってる暇に俺はだ、三次空間を突破していく。10.5秒のインパラの脚さ。ヘラスの井戸は空に開く、その陥穽に俺は真っ逆様に墜ちていく、上へ上へと墜ちていく。しょんべんガードをくぐった俺はそこで終わりだ。歴史のどこかにツ、と現れる。オセロの砦。糸杉の木立に囲まれ崩れた日干しレンガの城。そこで十八番目の次元を探すさ。カワサキＺ１のエキゾースト。「そうはさせん」タン。
【Ｍ８】「ZYPRESSEN――たどり着いたようだな、だが通すわけにはいかないのさ」誰だ。「問われて名乗るもおこがましいが、俺は北側国境警備隊イスマイル・ヤクシュ」「知らざぁいって聞かせやしょう、同じく南側国境警備隊グラフコス・ヴァシリウ」「続いて次に控えしは、同じく北側国境警備隊ムスタファ・ギュレル」「またその次に列なるは、同じく南側国境警備隊イオアニス・パパンドレウ」同じくどん尻に控えしは、北側国境警備隊長アフマド・イェシュルユルト。だから何者だ。鳩さ。鳩。ここは鳩どもの城なのさ、ハハハハハ。タン、タン。何を笑うんだ。この炎天、オセロの鮮血も見る間に乾き埃と飛んだ円形劇場の熱波にあって、お前ら、どんな笑いを笑うのだ。簡単なことだ、一本の線さ。線、何のことだ。ここに一本のチョークがある。ニワトリの前にズッパリ一本線を引くとだ、もうニワトリは動けない、一歩とてそれを踏みこえられないのさ。越えるとも、俺のインパラの脚をみろ。「やめてくれ、来るな、この土地はサイプラス民主共和国のものだ、来ないでくれ」「違う、北サイプラス・ターキー共和国のものだ、来るんじゃない」そういうわけだヘルメス、君に来てもらっちゃ困るのだよ。ふざけんな、俺がニワトリだってのか。では何だね、鮮やかに一羽のニワトリと違うほどのお前は一体何だというのだ、名は、生地は、そして十数年にわたろう記憶は。――おかしい、さっきまで覚えてたんだ…嘘じゃないよく覚えてる…不思議だな…いつから僕はいるのだろ…。記憶なぞその程度のものさ、だがそうやって一個の身体にとどまる限り記憶からすら逃れられはしない。いいかねフェティシズムは個体幻想なのだよ、貴様がプラトニックアニマルである限りオセロの二の轍を踏むだけさ。デズデモーナは不義に走ったか。是なり是なり、ただしオセロの大脳においてはだがね。行李がどこにあるというのだ、ハハハハハ。どこって…これは…イオじゃない…？ ――だがしかし、個体は捨てられん、故郷を捨てるんだ、そのためにだけ俺は俺の個体を使う、道具に過ぎないが必要条件だ、俺は、俺を吹っ切るために俺の肉体を肯定する。修正主義者め。何をッ。いいわけ弁十郎といったのさ、地を這うカタバミに個体があるか、ブドウの天幕(テント)に個体がよ？ 記憶などニューロン細胞の微電流だ、だがウィルスは、風邪のようにお前に入りお前の体を体として殖え、やがてまた風に乗って立ち去るのだ、単なるＲＮＡのパトローネがだ。
【Ｍ９】いいか個体はなく記憶は幻だ、あるのは流れと風とのみなのさ。違う。違わないね。違う、そんなら俺が証明してや…、時は止まり――個体は、ない。貴様には別の記憶をやろう、次なる一幕の始まりだ。
『El dia abre la mano Tres nubes Y estas pocas palabras』
『谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな』
『夕焼けやパンとは佇ちて喰うものか』
『日の光が手を開く 三つの雲 そしてわずかのことばたち』
みずから立とうと欲するならば真夏の雪を降らさねばならん、他のことではない貴様だ、お前にこれができるか。できて初めて個体を語れ。われらはくぐつうつつよにあり、なげきのそらのそらごとまえり、されどもそらのそこひのおもい、もゆれどいずれくぐつならずや。――時は流れだす。一度だけヘルメス、あたしは目を覆うよ。あたしはあんたの目の底の虚像、そしてこの声もあんたと無関係の世界にあるッ。そこはゼウスのお膝元、巨きな重力の花園。あたしは虚空からあんたを見てる。もう出会うことはないよ。でもね、守らない愛もあるよね。２本の平行線みたいに無限の遠くで交わろうね、公理のトラックを並んで駆けるんだ。あんたのインパラの脚に負けない火群(ほむら)がこの胸にはたぎってる。マグマはあんたに向けて燃やすから、ジュピターなんかお呼びじゃないから。公転周期42.5時間、質量10の17乗トン、赤道周1.14万キロ、水はなく、じつに表土の歪みにおける潮汐差100メートルあまり、木星にもっとも接近して飛ぶガリレオ衛星の筆頭、燃える月イオ、歪む月イオ、それがあたしだ、それがあたしなんだ、瓦礫を背負って歩いてゆくさッ。あんたは駆けろよ、ヘルメスッ。――タンッ。そうして射抜かれたのだった。艦長、アジです、アジの大群です。
【Ｍ10】イオッ、俺はここまでだ。お前の胸の火群に賭けて、さすらいの語りを続けてくれ。レフコシアよッ、また俺は現れる。この砂に突っ伏した半月の頬を忘れはしないぜ。ヘリの毒にもくたばらなかった２疋の兎がいたんだ、ラグナロクは彼らに新天地を拓いたのだ、彼らのあらゆる子孫にはもう枯葉剤なぞ効きはしない。おお、太刀のひらめき河口のひかり、地に溶け風に散らばって、また俺はここへ戻ってくる。レモンは薫り、崩れた城壁から蜥蜴は顔を出し、時はめぐって、そして夏草は生い繁り、埋もれた俺のサンダルをも隠してゆく。おれはそのとき陽炎だ。夏草からたちのぼる草いきれ。バイクよりも神よりも速く駆けるもの、それが夏草だ。ああ、幻のイオニア海、割れんばかりの蝉しぐれ。望むところだ、俺が相手になろう、いざいざ、お手あわせ願おうッ。レディ・セット・ゴウ。
幕
〔使用アルバム〕
Тони Димитрова「Ах、моремо…」
Julien Baer "Cherchell"
アンドレス・セゴビア愛奏曲集��
Marianne Faithfull "Broken English"
上演記録
イオの月 ツバメ号／二〇〇三年八月七日／宮代町進修館中庭／演出・高野竜／出演・浜田あゆみ、武井りえ、志賀未奈子、岩崎節子、関根李沙、高野竜
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