本作最大の功績は、
信仰の“常在(じょうざい)” *1 を夫婦の愛に重ね合せ描く部分だ。
自身の出自がユダヤ人とわかり出奔したモーゼは、
辺境の村でツィポラと夫婦のちぎりをかわす。
ツィポラは初夜を前に「あなたが1番重要で、1番愛情を注ぐ者はだれか」と聞く。
モーゼはツィポラだと答える。
そのモーゼが神の契約を得てラムセスの行動をただしに村を去る。
このとき妻は反対する。
「自分はあなたと私をひきはなす神をうらみ、信仰を捨て去るかもしれない」と。
だが、モーゼが奇跡を成し遂げ、村へと戻ると、ツィポラは信仰を守り、夫を待つ。
モーゼは、ツィポラの質問をおうむ返しに聞く。
彼女はモーゼだと答える。この描写は信愛と信仰は同義であって、
信仰は常に行く先に常在し、舞い戻ることをあらわす。*2
夫婦の愛と信仰を同時に見せ切る、じつにうまい解釈だ。
一方で、この作品は宗教の教材のように“タイクツ”だ。
出エジプト記 *3 の映画化だ。嫌悪すら沸き起る“十の災い”を含め、
映像は非常に壮大。だが、あまりに登場人物が受身すぎるきらいがある。
神威(しんい)を受け入れるしかない人間の生真面目な表現。*4
同時にそれは登場人物が神威に自立して立ち向うことのない怠慢にもつながる。
事実、災厄が襲うエジプトをモーゼらが脱出、
いわゆる紅海の奇跡が発生するまで、物語は動きが鈍く、
ヤマタニにとぼしい。
信仰と伝統を逸脱できない事情もあるのだろうが。
※1 常にそこにあること。
※2 ユダヤの出自がわかり身分をうばわれて荒野を放浪するモーゼが、ユダヤの教えを守って敬虔に暮すツィポラと出会う。モーゼは、婚姻(永遠の夫婦の契り)のときにツィポラを1番大事だと宣言する。つまりツィポラは“妻”であり“信仰”なのだ。反対も同じ。ツィポラは神の使徒となって自分のもとをはなれたモーゼを、信仰を守り待つ。ツィポラは帰還したモーゼの質問にモーゼだと答える。神の使徒の夫を。つまりモーゼは“夫”であり“信仰”なのだ。神は常にそこにある。
※3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E8%A8%98
※4 もっとも人間が対抗できたら、その事象は神の領域と力をしめせなくなる。
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