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2010年03月23日17:17

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「〜することができる」 と 「〜したことがある」。

  







湯のみ 最近、ますます、TVなんぞで耳にすることが多くなった。

   不合理な “二重可能”

です。アッシが、最初に、モンダイだと思ったのは、

   2003年3月にリリースされた、FLAME (フレイム) の
   “Remind” (リマインド) という曲

湯のみ 歌詞ってえのは、それなりに、コトバのプロが書くもんだと思うんですが、いわく、

   ♪もしもあの場所から
    やり直せることができたら
    二度と君を泣かせたりしないのに♪

湯のみ うっかりすると聞き逃すかもしれない。気がつくと、思わず、二度見しますがな。

   7時までには、そちらに着けることができると思います。
   カンタンな英語の本なら読めることができます。

湯のみ どうですか? バカみたいでしょ。ところが、TVでは、意外に、これを使うヒトがいるんですよ。

湯のみ アッシが思うに、これは、

   “可能のラ抜き” と裏表の関係にあるんではないか

   …………………………

湯のみ だいたい、敬語なんてのは、誰もが使えるもんじゃなかった。落語を聴けば、職人が敬語のようなものを使えなかったのはあきらかです。商家に奉公し、商人になった者、あるいは、お屋敷に奉公に出た町娘、こうした者たちが 「敬語」 を使える町人だったんですね。

湯のみ たとえば、『藪入り』 (やぶいり) なんて落語がありますが、

   オヤジは、ガサツなコトバしか使えない職人でも、
   商家に奉公に出た息子が藪入りに帰ってくると、
   立派な口がきけるようになっている。

湯のみ 近代日本で、誰もが彼もが 「敬語を使うように」 ということになって、

   アンチョクな 「〜られる」 が、それに動員された

んですね。たとえばですよ、TVのレポーターは、たいてい、

   「おとうさん、今、なに、やられているんですか?」

って訊きまさぁね。これね、“バカの敬語” なんですよ。本来なら、

   「何をなさっているんですか?」

です。同様に、

   A 「何を食べられているんですか?」
   B 「何を召し上がっているんですか?」

   A 「どこへ行かれるんですか?」
   B 「どちらへおいでになるんですか?」

湯のみ こういうことです。A が “バカの敬語” です。

   …………………………

湯のみ 「敬語」 なんてのは、もともと、誰もが使えるコトバじゃないんですね。訓練しないと使えない。それを末端にまで強要したんで “バカの敬語” が普及しちゃった。

湯のみ 「徹子の部屋」 なんぞを見ていて、若いタレントが、

   ウチのオカーサンからいただいたんですが……

なんて言うているのを見ると気持ちが悪くなります。いっそのこと、「オカンからモロたんやけど」 でいいじゃん。

   …………………………

湯のみ つまりですね、明治以前の敬語では、「〜られる」 なんてのは頻用されていなかった。

   輝かしい 「万人の敬語の時代」 が来て
   誰もが、「〜られる、〜られる」 と言う

ようになったんで、それで、

   可能の 「〜られる」 から “ラ” が落ちるようになった

ワケです。いわゆる “ラ抜き” ですね。

   食べられる → 食べれる
     「お父さん、今、何を食べられているんですか?」
       (何を召し上がっているんですか?)

   来られる → 来れる
     「すみません、あなたは、何時にここに来られたんですか?」
       (何時においでになったんですか?)

湯のみ “ラ抜き” の可能の表現は、それじたい、物理的な言語表現として弱いので、ときに、二重可能を引き起こすんですね。

   読める → 読めれる
   書ける → 書けれる

湯のみ また、これの別の強化のしかたが、

   読めることができる
   書けることができる

であるわけです。

   …………………………

湯のみ だいたい、「〜することができる」 という言い方じたい、西欧語の翻訳語です。この言い方は、さほど古くない。明治時代には例がないようです。大正にいくつか。そして、圧倒的に多くなるのは、第二次大戦後です。だいたい、法律の条文みたいなものを訳すのによく使われたようです。
湯のみ もちろん、英語の can とか be able to の訳文として、中学校以来、「〜することができる」 と訳せば ○ がもらえるという愚英語の結果が、今の日本語です。

   …………………………

湯のみ 「〜したことがある」 という言い方も、英語の翻訳から生まれた日本語ですね。『日本国語大辞典』 の用例を全文検索してみて、面白いことがわかりました。つまり、

   経験をあらわす “〜したことがある” を最初に使ったのは、
   『福翁自伝』 の福沢諭吉らしい

んですね。たとえば、

   『福翁自伝』 1899年 (明治32年)
   「喜怒色に顕さずと云ふ一句を読で其時にハット思ふて
    大に自分で安心決定(アンシンケツヂャウ)したことがある」

というぐあいですね。いわゆる、英語の 「経験をあらわす現在完了」 に対応する “人工的な日本語” です。いち早く、英語の重要性に気がついて、それを広めることに尽力した人物ならではの “スタイル” なんでしょう。

湯のみ この経験をあらわす 「〜したことがある」 は、福沢諭吉以前にはさかのぼらないようです。

湯のみ それまで、日本語で、経験をどんなふうに言い表していたか、というと、毎度、例に出すもんですが、五代目古今亭志ん生の 『千両みかん』 ですね。

   「ああた、ハリツケって物を見ましたか?」
   「ええ、見ました」

湯のみ これはね、土用のさなかにミカンを求めて、江戸じゅうを駆けずりまわる番頭サンが、とうとう、アタマがヘンテコになって、金物屋さんに飛び込むって場面なんですね。
湯のみ 今の若手の噺家なら、こういうでしょう。

   「あなた、ハリツケって見たことありますか?」
   「ええ、見たことあります」

湯のみ 実は、こういう日本語は明治以降のものであるわけです。

湯のみ 「ハリツケってものを、見ましたか?」 は、単なる過去形ですが、「〜ってもの」 という言い方で一般化することによって、単なる過去の一点ではないことを示しているわけですね。

   …………………………

湯のみ 実は、「〜したことがある」 という日本語が、福沢諭吉以前に存在しなかったわけではないのです。直近では、

   『安愚楽鍋』 1871〜72 仮名垣魯文
   「なんだっても、丸三年といふもの、
    一(ひと)ばんもかかしたことが、あるめへじゃアねへか」

なんて例があります。これは、丸3年、「郭 (くるわ) がよい」 を “一晩もかかしたことがねえんだから” ってことを言ってます。

湯のみ これは、確かに、経験を言っているようですが、むしろ、「〜したことがない」 を強調して言っているだけです。

湯のみ もっと、古い例を見てみます。

   虎明本狂言 『文荷』 室町末〜近世初
   「ここな人の云事は、わごりょがお使にゆく時こそ、
    みちよりをして遊山をすれ、いつおれがかだをした事があるぞ」

   浄瑠璃 『双蝶蝶曲輪日記』 1749年 
   「何ぞ言交した詞が立たぬとやらいふやうな
    むちゃくちゃした事があるさうなぢゃ」

   洒落本 『仕懸文庫』 1791年
   「此間ここから雪よしへかりにいったとき、
    ぎりをわるくした事があるゆへ」

   人情本 『春色辰巳園』 1833〜1835年
   「私(わちき)が何でおめへの咽口(ノドクチ)をほしたことがあるヱ」

湯のみ 明治以前には、こんな例がみつかります。これらには、共通した点があるんですね。現代語にしてみましょ。

   いつ、わたしが仕事を怠けたことがあるというのだ。

   ムカッ腹をたてたことがあるそうだな。

   不義理なことをしたことがあるので。

   わたしが、おまえさんに食べさせる物を惜しんだことがあるかい。

湯のみ おもしろいですね。江戸時代から前の日本語では、「〜したことがある」 というのは、

   発話者の “落ち度” に言及する

という特徴があるんです。つまり、福沢諭吉以前の日本語では、

   「〜したことがある」

というのは、「何か悪いこと・義理の悪いことをしたことがある」 という意味合いだったんですね。

   …………………………

湯のみ というところで、最近の天気予報を思い出しまして…… とね、

   「今日は、雨が降ってしまいそうです」

という言い方ね。こういう口語というのは、最近まで存在しなかったと思います。たとえば、小説とか日記とかに、

   「ああ、このままでは、わたしは気が狂ってしまいそうだ」

ってのはあるでしょう。しかし、

   「今日の夕方には、天気、くずれてしまいそうです」

っていう日本語は、きわめて人工的ですよね。それと同時に、

   天気予報が、何、カンソーをはさんでんだよ!!

ってな気分にもなります。「〜してしまう」 っていうのは、たぶん、英語の授業では、現在完了の訳文に使われる愚訳語でしょうが、純日本語の文脈では、

   何か、悪いことが起こる

という予感をはらんでいます。

   …………………………

湯のみ つまり、「〜したことがある」 とか 「〜してしまう」 というような “現在完了的日本語” は、なぜか、“悪いこと” をその内側に内包しているのです。

湯のみ その意味では、「〜したことがある」、「〜してしまう」 という日本語は、英語の “現在完了” と、似てまったく非なる表現なんでしょう。
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