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2010年02月08日22:40

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茨城県旅行記1 笠間

 一昨日は夜行バスで水戸に到着後、JR水戸線で茨城県笠間市に赴きました。笠間とは以下のような歴史を持つ街です。

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 常陸国新治郡笠間村は四方を小段丘で囲まれた小盆地で、古代から開発が進み、白雉2(651)年には、後に日本三大稲荷の一つに数えられる事となる笠間稲荷が創建された。さらに村の東方を扼する標高203mの阿武山山頂には、佐志能神社〔延喜式内社〕(祭神;豐城入彦命・建御雷之神・大國主神)も祀られた。
 平安時代になると、阿武山の隣の峰である標高182mの佐白山(サシロヤマ)に百宇の坊舎を持つ真言宗の大寺院佐白山正福寺が創建され、院政期には多くの僧兵を擁して、七会(ナナカイ)村の真言宗引布山徳蔵寺と抗争を繰り返すようになった。また、この頃、笠間地方は新治郡から分離して笠間郡となっている。
 鎌倉時代に入った元久2(1204)年、徳蔵寺の猛攻を受けた正福寺は、下野国の有力御家人の宇都宮頼綱に援軍を求めるが、折りしも頼綱は幕府に謀反を企てた容疑で失脚したため、代わって頼綱の弟である塩谷朝業が救援に駈け付け、徳蔵寺を撃滅した。
 ところが、その直後に正福寺は朝業に背いたため、激怒した朝業は正福寺をも焼き討ちにし、その跡地に城を築く事として、前年に生まれたばかりの次男時朝を名目上の笠間城主とした。
 また、建保2(1214)年に越後流罪から赦免された浄土真宗の開祖親鸞上人が常陸を訪れると、時朝の後見役であった宿老の稲田頼重は、その熱心な信者となり、稲田郷吹雪谷に稲田の草庵(現稲田山西念寺)を設けて歓待、親鸞はこの地を拠点に20年間に亙って関東一円で精力的な布教活動を行い、主著『教行信証』もここで著された。
 一方、成長した時朝は、笠間氏を名乗って嘉禎元(1235)年に笠間城を完成させ、以後、代々笠間氏がこの地を支配する事となったのである。
 南北朝時代の当主だった5代目の泰朝は、南朝方に属したが、足利方の佐竹氏の一族の小瀬義春に攻められて笠間城は落城、一旦、笠間は佐竹領となった。しかし、泰朝の子将朝は幕府に所領返還工作を執拗に続け、その子の家朝の時になって、3代将軍足利義満から笠間十二郷の地頭職一円の安堵を得て笠間城主に復帰する事が出来た。
 戦国時代の笠間領は三千貫と言われ、宇都宮氏の配下ながら笠間氏は北関東の大名として一定の勢威を張っていた。しかし、同じ宇都宮氏配下の益子氏との抗争が原因となって、宇都宮本家や結城氏・佐竹氏等の周辺の有力大名と敵対関係に陥ってしまったため、笠間氏17代当主幹綱は小田原の北条氏政と結んで周囲に抗する道を選んだ。
 こうした状況下の天正18(1590)年、関白豊臣秀吉の小田原出陣が行われると、宇都宮国綱は一族郎党に小田原参陣を命じた。だが、笠間幹綱は、当然これを拒否したため、笠間城は宇都宮軍の猛攻撃を受けて落城、幹綱は誅され、嫡男綱家も何処かに逐電してしまった。
 このため、幹綱の父で隠居していた老齢の時広が笠間氏当主に復帰し、筆頭家老の稲田頼国を代理で小田原に参陣させたが、結局、笠間氏の家名存続は認められず、笠間城は宇都宮氏の支配下に置かれる事となったのである。
 その宇都宮国綱も慶長2(1597)年に突然改易されて備前国配流となり、翌年、蒲生秀行が会津920000石から宇都宮120000万石へと減移封されて来ると、笠間も蒲生領となり、家老の蒲生郷成(ガモウサトナリ)が30000石で笠間城主となった。この際、笠間城は立派な石垣を持つ西国風の近世城郭に大改造され、阿武山に天守閣も建設された。この時、佐志能神社は下市毛字田宿(黒袴)に遷座された。
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 秀行は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では東軍に属して宇都宮城で会津の上杉景勝の南下に備えたため、翌慶長6(1601)年、600000万石で再び会津の領主へ返り咲いた。
 そして、譜代の松平康重が武蔵国騎西から30000万石で入封したが、慶長13(1608)年に康重は丹波国篠山藩へ移封、譜代の小笠原吉次が下総国佐倉藩から入封した。しかし吉次は与力の給料の横領や与力の家臣化を企てたとして翌年改易されてしまい、笠間は一旦天領となった、
 その後、慶長17(1612)年に譜代の松平康長が下総国古河藩より入封したが、元和2(1616)年に上野国高崎藩へ移封、譜代の永井直勝が32000石で入封し、元和5(1619)年に52000石に加増された。
 直勝は元和8(1622)年に下総国古河藩へ移封となり、外様の浅野長重が常陸国真壁藩より53500石で入封、城の山麓に下屋敷を設けて政庁とし、1500石取の筆頭家老大石良欽(ヨシタカ)が中心となって城下町の整備も進められた。
 笠間城下町は、侍屋敷・足軽町として、鷹匠町・座頭町・鉄砲町・田町等があり、幕末の戸数は360戸であった。商人町としては大町・高橋町・荒町・新町・愛宕町・裸町があって、幕末の戸数は348戸であった。
 浅野家二代目のの浅野長直が下屋敷に狭間を設けたため、幕府から新城築城の疑いをかけられ、正保2(1645)年に播磨国赤穂藩へと移封された。この長直の孫が『忠臣蔵』で名高い浅野内匠頭長矩、大石良欽の孫が大石内蔵助良雄である。
 浅野家の後は、譜代の井上正利が遠江国横須賀藩から50000石で入封したが、次代の井上正任が元禄5(1692)年に美濃国郡上八幡藩へ移封となり、譜代の松平宗資が下野国足利藩より40000石で入封した。
 元禄15(1702)年、松平宗資の子資俊が遠江国浜松藩へ移封され、井上正任の子正岑が常陸国下館藩より50000石で入府、老中在任中の享保3(1718)年に60000石に加増された。正岑は妻が紀州藩主徳川光貞の姪だったため、光貞の四男徳川吉宗の8代将軍就任に尽力したと言われるが、極めて陰険な人物で、「死んでも惜しくないもの 鼠捕らぬ猫と井上河内守」という出所不明の落書が江戸中に張られた事もある。
 正岑の後は、正之、次いで正経が継いだが、正経の時、藩主一族の井上門三郎なる者が熱狂的な笠間稲荷の信者となって関東一円で宣伝工作を行った結果、笠間稲荷は日本三大稲荷の一つに数えあられるに至った。正経は寛保3(1743)年に笠間稲荷へ社殿を寄進し、社地を拡大している。
 井上正経は、延享4(1747)年に陸奥国磐城平藩へと移封され、日向国延岡藩からより譜代の牧野貞通が80000石で入り、以後笠間藩は、越後長岡藩の支藩として牧野家支配が続く事と成った。
 牧野家2代目の貞長は老中を務めたが、この頃から藩財政が悪化したため、3代目の貞喜(サダハル)は、家臣の俸禄削減・倹約令徹底・年貢収納の強化・次男以下の分家取立てによる人口増加・窮民への資金融資・出生や多子を持つ親への褒賞・結婚奨励等の藩政改革を行なって財政再建に成功し、藩校時習館を創設して優秀な人材を積極的に登用、治水事業でも成果を挙げた。
 また、安永年間(1722〜81)に名主久野半右衛門道延が近江国信楽から来た陶工長右衛門を招聘し、その指導で焼き物作りが始まっていたが、貞喜は城中に釜を設け、半右衛門等に資金を与えて窯業を奨励した。幕末には、美濃の田中友三郎が笠間焼の名で大々的な販売を行って、江戸に近い利点を活かして知名度を高めた。下野国の益子焼は笠間から伝えられた技術によって創始されたものである。
 牧野家8代目の貞直は、慶応4(1868)年1月の鳥羽伏見の戦の際、大坂城代を務めていながら、徳川慶喜の逃亡を知るや、自らも側近3名のみを連れて逐電する醜態を晒し、国元では佐幕派と尊王派が抗争した結果、尊王派が勝利し、同年4月の宇都宮城攻防戦には新政府側で出兵した。
 明治4(1871)年の廃藩置県によって笠間県となったが、直後に茨城県に編入され、西茨城郡笠間町となった。
 笠間城は明治5(1872)年に破却され、天守台には佐志能神社が復座する事となった。 
 笠間焼の方は明治になってから田中友三郎の尽力で全国的にも有名になり、甕・擂鉢・湯たんぽ等の家庭用雑器が主力商品となった。
 また、笠間出身の画商長谷川仁(1897〜1976)は、昭和6(1931)年、東京銀座に東京画廊(現日動画廊)を開設して巨富を築き、昭和47(1972)年、笠間に笠間日動美術館を開館した。
 昭和33(1958)年に市制が施行され、平成18(2006)年には西茨城郡の友部町と岩間町を合併した。 

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 まずは笠間稲荷に向かいました。笠間駅から1.5km程離れていますが、地方のバスは本数が少なくてアテにならないので、以下の行程は全て徒歩で踏破しました。
 楼門です。
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 拝殿です。
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 拝殿前には八重のフジ〔茨城県指定天然記念物〕がありますが、冬に来ても意味が無いですね。www
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 本殿〔重要文化財〕です。
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 この後、笠間稲荷美術館で花鳥画家上村松篁(1902〜2001)の特別展を見て、日蓮宗長耀山真浄寺に向かいました。こっこの七面堂〔茨城県指定文化財〕は笠間城八幡櫓を移築したものです。
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 次は笠間城の城門を移築した民家です。どちらも薬医門形式で笠間市指定文化財です。城の北方にあります。
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 下の方の城門を移築した民家には、笠間市指定天然記念物の大ケヤキもあります。
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 ここから城へ向かって南下すると、城の北麓を扼した坂尾の土塁〔笠間市指定史跡〕があります。枡形土塁が綺麗に残っています。
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 ここからは笠間城跡〔笠間市指定史跡〕へ向かう山登りです。山間部に入ると雪が残っていました。
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 登山道途中にある大黒石です。正福寺と徳蔵寺との抗争の際、正福寺側が山上から転がして、徳蔵寺側の僧兵多数を殺戮した岩です。中央にお臍のような凹みがあり、小石を三つ投げて一つでも入れば良い事があるとされています、私も投げてみると二つも入りました。心配していた夜行急行〔能登〕がちゃんと動いてくれたのは、このお陰かもしれませんね。わーい(嬉しい顔)
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 こちらが正福寺の塔頭(タッチュウ)が立ち並んでいたエリアです。
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 大手門前の千人溜と呼ばれる広場です。今は駐車場になっており、車で来た人もここからは歩くしかありません。
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 大手門付近の石垣です。
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 手前が本丸、後方が八幡櫓台です。
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 天守曲輪の虎口です。
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 天守台石垣です。
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 天守台に建つ佐志能神社です。拝殿は天守閣の廃材を利用して建立されましたが、老朽化が甚だしかったです。
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 この神社の土塀は天守閣の瓦を利用したものです。
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 天守台から鎖を伝って降りて行くと、石倉と呼ばれる眺望の良い所があるとの事でしたが、岩が凍結しており、しかも強風が吹き荒れて、天守台に登るだけでも身体が煽られて危険を感じる状態でしたので断念しました。
 城跡から降りる途中に笠間出身の歌手坂本九(1941〜85)の生家が保存されていました。
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 既に昼過ぎになっていましたので、一茶庵という蕎麦屋で昼食を摂りました。城跡では一時雪もチラついて身体が冷え切っていましたから、暖かいものを食べたかったんですが、ガイドブックでも紹介されていた三色蕎麦を注文してみました。白雪・けしきり・茶蕎麦の三つからなるもので、蕎麦があまり好きではない私でも非常に美味に思いました。暖かい蕎麦湯も出してくれたので身体も暖まりました。
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 次に笠間城下屋敷跡に向かいました。江戸時代に実際の藩庁として用いられた所です。
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 城の時鐘楼〔笠間市指定文化財〕が山上から移築されています。
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 『忠臣蔵』大石内蔵助良雄の祖父良欽(ヨシタカ)が家老として勤めた場所でもあるので、内蔵助の銅像も建っています。
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 こちらが下屋敷跡近くにある大石良欽邸跡です。
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 続いて日動美術館に入りました。企画展示館・日本館・フランス館の三棟から成る広壮な美術館で、企画展示館では特別展「輝ける女性像」と「高橋由一と日本近代洋画」が開かれていました。
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 日動美術館の隣には堂々たる城郭風の旅館山乃荘があります。
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 ここから1km程あるいて茨城県陶磁美術館に向かいました。企画展「人間国宝濱田庄司展」が開催されていました。
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 日没も近づいていましたので笠間市内巡りは、これにて終了する事にしました。
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 《続く》

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