ここんとこ、私と同じ聴覚障害を持つ若い人たちから、犬神さんは障害があるのに、どうして女の子や男の子とつきあったり、風俗へ行ったり出来るんですか?と重ね、重ね、問い詰められるので、ズバリ、聴覚障害が気にならないくらいの、もっと重い障害を負えばいいんだッ!!と一喝する代わりに(昔、聴覚障害の児童の集まりで先輩として社会でうまくやっていくための秘訣としてこう言ったら、三級から一級になれということかと激しく誤解されてしまった)、敬愛する映画監督アレハンドロ・ホドロフスキーの「サンタ・サングレ」のワンシーンを回答として引用することにした。
耳が聞こえないサーカスの芸人の少女アルマが、男に作り物の耳を無理矢理食わせられかけるシーンだ。
耳が聞こえないのだね、かわいそうに・・・
私の耳をあげよう。
こういうやりとりの、ホドロフスキー流演出なのである。
パニック演劇で名を売った彼らしい、ショッキングかつ、詩的なシーンだと思う。
より重い障害とは。
こういう“ショック”に一回すべてをブチ壊されることなのだ。
それまで生きてきた自分自身のすべてが瓦解して、分子レベルで消し飛んでしまうこと・・・
そして、そういうトラウマのなかから、新しく自分自身を再生する。
新しく生まれ変わった自分自身は、今までのように聴覚障害をウジウジと気にしているだろうか?
そういうことなのだ。
私が生まれて初めて消し飛んだのは、デヴィッド・リンチ監督の「イレイザーヘッド」だった。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=405286054&owner_id=1640816
そこから新しく生まれ変わった私は、すでに聴覚障害が気にならなくなっていた。
続けて、今回のホドロフスキー、ヘルツォークなどなどの映画作家で破壊と再生を繰り返した結果、今の私がいるわけである。
君たちよ、もっと打たれ強く、ふてぶてしくなりたまえ。
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