これは、昨年のカンヌ映画祭でプレミア上映されて話題を集めた、レオス・カラックスの“自画像”。
本作には、カラックス本人の他、ドニ・ラヴァン、カラックスの娘ナースチャ・ゴルベワ・カラックスらが出演している。
パリ・現代美術館ポンピドゥーセンターは、カラックスに白紙委任する形で展覧会を構想していたが、予算が膨らみすぎて実現不能となり、ついに開催されることはなかった――その代わりに作られたのが本作だ。
ポンピドゥーセンターからは、カラックスの今いる位置を示すものを製作するよう求められたのだが、カラックスはそれをより根源的に捉え直し、“自分がどこから来てどこへ行くのか”という答えのない謎に、口籠もりながら語って行く……家族について、映画について、20世紀と独裁者と子供たちについて、死者たちについて、そして「エラン・ヴィタル(生の飛躍、生命の躍動)」(ベルクソン)について――
本作は、作品中でも言及するジャン=リュック・ゴダールの後期のエッセイ・スタイル(「イメージの本」など)へのオマージュではあるものの、ゴダールが、その思索を示し、現象に対し分析をし、時に技術的な内容であるのに対し、カラックスは、夢想的、且つ感情的で、その視点は思索の連鎖を超えて、自由に、と言うよりも脈略なく飛び回る。
そこには、物語もなく、結論はなく、言葉さえ断片的であり、その意味を失う……これを解説する方が野暮、と言うものだろう。本作はそもそも、ポンピドゥセンターの要望で作られた現代アート作品であり、映画館で観るよりも美術館で鑑賞するもの……まずは、観て貰うしかないものだからだ。
自身の生い立ちと家族を語り、映画と20世紀を語り、独裁者たちの振舞いに怒り……そして、操られながらも、作りものの生を疾走する……それがカラックスの現在の立ち位置、と言う事か……
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