これは、カズオ・イシグロの長編デビュー作である同題小説を、「ある男」、「愚行録」の石川慶監督が映画化したもの。
出演は、広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊、カミラ・アイコ。
1982年のイギリス。大学を中退し作家を目指しているニキは、執筆のため、異父姉の死以来足が遠のいていた、母がひとりで暮らすロンドン郊外の実家を訪れる。
母の悦子は、長崎で原爆を経験し、戦後イギリスに渡って来ていたが、長崎での思い出について、ニキは詳しく聞いた事がない――それが“物語”になるのでは、と考えたニキは、実家に泊まり込みで、悦子から少しずつ、当時の話を聞き出して行く――それは、悦子が長崎で暮らしていた30年ほど前に知り合った、佐知子と言う女性と、その幼い娘についての話だった……
これは、カズオ・イシグロが描く“記憶”を巡る物語――内容は、長崎からイギリスに移住した女性が、娘に日本の思い出を回顧して語る、と言うものなのだが、語り手となる悦子が所謂”信頼できない語り手”であり、その語りに含まれた矛盾を解きほぐしながら悦子の人生に迫る、叙述トリックによる仕込まれたミステリーの側面を持っている。
物語の仕掛けとしては、悦子と佐知子は、同一人物であり、2つの時間軸の思い出をひとつの物語に紡ぎ直しているのは明確(だが、これを「謎」としてしまう読解力の観客が多い事には呆れるが)――しかしながら、この映画は、原作小説の叙述トリックを巧く映画に翻意出来ていないように思えた。
小説ならば、“語らない”事で伏せられる事実も、映画ではそうはいかない……だからこそ、映画には映画の方法論があって然るべきなのだが、石川慶監督の描き方はどうにも拙い、と言うよりも工夫もなくそのまま見せてしまっている感じがした――例えば、佐知子が“箱”を川に沈めるシーンなど、映画的には、佐知子が“箱”を沈めた後、振り返ると悦子の顔になっている、とし、それをニキが見た、とするなど映画らしい表現のしようがあるように思う。
映画は、石川慶監督らしく丁寧に作られており、長崎パートでの悦子と義父のやりとりの演出は、「東京物語」の原節子と笠智衆だろう――ただ、小津安二郎的な抑えた演技と言う点では、広瀬すずよりも二階堂ふみの方が上手く演じていた、と思う――もっとも、現代の若い観客には「棒読み」と酷評されたりもするのだが。
なかなか見るべき所のある映画ではあるが、然しながら原作の叙述トリックを活かせていないのはやはり痛い。叙述ミステリーと言うのは、やはり小説ならではのもので、情報量の多い映画では難しい手法なのだ、と言う事をあらためて思った。
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