これは、イギリスの作家マーティン・エイミスの同題小説を、「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」のジョナサン・グレイザー監督が映画化したもの。
出演は「ヒトラー暗殺、13分の誤算」のクリスティアン・フリーデル、「落下の解剖学」のザンドラ・ヒュラー。
第96回アカデミー賞国際長編映画賞&音響賞、第76回カンヌ国際映画祭グランプリ受賞の話題作だ。
第二次世界大戦中、アウシュビッツ強制収容所の所長ルドルフ・ヘスとその妻ヘドウィグ、そして子供たち家族は、収容所と塀一枚で隔てられた屋敷で暮らしていた。
広い庭にはプールがあり、花壇には様々な花々が咲き誇る。穏やかで、豊かな日常のすぐ隣、塀の向こうから聞こえて来るのは、悲鳴と銃声、そして焼却炉からは黒い煙があがっていた……
数多作られた強制収容所映画だが、この映画、塀の向こうにある収容所の中も、そしてユダヤ人のひとりさえも写し出さない、と言うのがアイデアであり、本作の最大の特色となっている。
(原作小説はヘスと家族だけでなく、ユダヤ人の収容者の双方を描くものであるらしい)
現実では、ヘスの屋敷は収容所の塀と建物ひとつ隔てていたそうで、映画の「塀一枚」と言うのは、収容所の中と外の非対称性を象徴するための脚色であるのだろう。
映画は、そんなグロテスクなまでに歪んだ状況で暮らす、ヘス一家の、軋みにも似た静かな狂気を描いて行く……それはそうだろう、あの状況では――孫の顔を見に来たヘドウィグの母が、一晩も越せずに逃げ帰ってしまったけれど、それが正常な人間の筈なのだ。
そして終盤、映画は突如“現在”にリンクする。そこで、知らしめるのだ。本作が描く“塀”は物理的なものであるけれど、現実には、様々な“塀”がある事を――目を覆いたくなるような悲劇と、我々を隔てる“塀”、それを作り出しているのは、“距離”か“日常”か“時間”なのか……それは、今を生きる我々が正に問われている事であり、ジョナサン・グレイザー監督がアカデミー賞の表彰式で語った真意でもあるのだろう。
PS
映画「オッペンハイマー」は、「広島・長崎の惨状を写し出さないのは原爆の悲惨さに向き合っていないからだ」と非難されたが、同様にホロコーストを写し出さない本作を観ても「ホロコーストの悲劇に向き合っていない」と非難するのだろうか?
直接描写がなければ問題に向き合っているのと認識出来ないと言う、正にそれが「関心領域」の狭さを示しているようにも思えるのだが。
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