金曜は、都合により休暇……まぁ、その都合も「映画を観に行く」ためであり、結局、朝から映画を観に行くのだが。
それにしても、今日は、なかなか移動も多くて大変……まず、朝一番、ららぽーと横浜で、
「マーウェン」
これは、「フォレスト・ガンプ」のロバート・ゼメキス監督が、実在するフォト・アーティストの半生を映画化したヒューマンドラマ。
5人の男から暴行を受け、脳に障害を負ったマーク・ホーガンキャンプ。元はイラストレイターだったが、暴行により記憶喪失し、PTSDに苦しんでいた。
そんな彼は、自宅にミニチュアセットで作り上げた架空の街「マーウェン」で、G.I.ジョーのホーギー大佐と5人のバービー人形が、迫り来るナチス親衛隊と日々戦いを繰り広げる物語の中に逃避していた。
ある日、向かいの家に引っ越して来たニコルと言う女性に心引かれたマークは……
これは、如何にもロバート・ゼメキスらしい映画。
G.I.ジョーとバービー人形による物語を、人形に俳優の顔の表情を貼り付け(それでも身体の方が人形のまま)て描くと言う凝った事をしているのもらしいし、マニアックな性向(オタク気質と言ってもいい)の人物を主人公に据える辺りもそう。
マークの行動は、ほぼ“オタクあるある”で、身に覚えがあって困るくらい。そして、そんなマークの告白、これが本当に痛かった……
物語は、そんなマークが事件に決着をつけ、現実に向き合う姿を見せて行くのだけど……マークはマークのまま、その生き方を変えなかった、と言う辺りが、この人物をロバート・ゼメキス監督が取り上げた理由ではないか、と思ってしまったり……
「マーウェン」の後、次の映画まで余裕がない。
急いで鴨居駅に向かい、狙いの電車に滑り込んで、横浜での京急への乗り換えも駆け込むような状況。黄金町駅の立ち食いで蕎麦を手繰り、上映20分前にジャック&ベティ着――ふう、間に合ったか。
今日、2本目の映画は、
「さよなら、退屈なレオニー」。
実は、これがジャック&ベティで公開今日まで。要するに、これ観る為に休暇取ったようなもの。
これは、トロント国際映画祭最優秀長編映画賞受賞したカナダの青春映画。
ケベックの海辺の街で暮らす17歳の少女レオニーは、高校卒業を1ヶ月後に控えながら苛々する毎日を送っていた。口うるさい母親も気に入らないが、その母の再婚相手が大嫌い。そんなある日、レオニーは街のダイナーでミュージシャンのスティーヴと出会い、ギターを教えて貰う事になるが……
映画の中のレオニーは大半が不機嫌なのだけど、自分も10代の頃はあんな風に不機嫌でいた事を思い出す――家族で出かけた食事の席で不貞腐れてずっと文庫本を読んでいたりした事を――そんな、自分でも判らない苛々する日常、自分の居場所が見つけられないでいる不安の中で、社会からはみ出しているのに意を介さないようなスティーブに出会う。立場としてはギター教室の先生と生徒ではあるけれど、2人はそれ以上の関係を持って行く……でも、それは友人関係ではなく、勿論、恋愛感情もなく、レオニーにとっての擬似父でもない、要するに“信頼できる大人”と言う所か……大人になる前に、そんな“大人”に出会えた事はレオニーにとって幸せな事だっただろう。
原題は「ホタルはいなくなった」。でも、ラストシーンで明らかにされるように、ホタルはいなくなった訳ではない。それと同じように、レオニーには見えない彼女の将来も確かにあるのだ。今、彼女はそれを見ようとしていないだけで……
「さよなら、退屈なレオニー」の後、これまた急いで銀座へ。そして、シネスイッチ銀座で、
「存在のない子供たち」
これは、ベイルートにおける移民の子供たちの厳し過ぎる日々を描いた映画。
監督は、ベイルート育ちで元女優のナディーン・ラバキー。物語はフィクションだが、個々のエピソードは3年に渡って取材した実話に基づいていると言う。
映画は法廷で原告席に立つゼインの姿から始まる。ゼインは、医者の見立てでは12歳になるが、体格は8歳児程度しかない。現在、傷害罪で刑務所に服役中だが、この裁判では原告だ。訴訴える相手は、なんと自分の両親。彼は、両親を「ぼくを産んだ罪」で告訴したのだ――物語は、そこから数ヶ月前に遡る。
ベイルートのスラム街で両親や大勢の兄弟姉妹たちと暮らしていたゼイン。シリア難民の子で、住民登録もなく誕生日も知らない彼は、学校に通うことも出来ず、家族を養うために一日中働いていた。
そんなある日、まだ、11歳の妹が結婚させられることになってしまう。相手は20歳以上年の離れた中年男だ。両親に絶望したゼインは家を飛び出すが、まだ幼いゼインには何処へ行くあてもない。そんなゼインを助けたのは、エチオピアからの不法移民ラヒルだった。
彼女は、妊娠したことで雇用主に解雇され、居住資格を失って不法就労者になってしまったのだ。ゼインはラヒルの家で、彼女の息子の面倒を見るのと引き替えに暮らし始めるが……
この映画、出演者の殆どは演技経験のない素人で、役柄に近い境遇の人物を選んでいる。ゼインを演じるゼイン・アル・ラフィーアも、本物のシリア難民で、学校へ行っておらず、辛うじて自分の名前が書ける程度の教育しか受けておらず、その諦観したような表情や逞しい生活の知恵は、実際にスラム暮らしで身につけたものだと言う。また、ラヒルを演じた女性は、撮影中に不法移民として逮捕されてしまったのだとか。
映画は、あたかもドキュメンタリーのように、そんなゼインらスラムに暮らす難民の窮状を描いて行く。現実のスラムで、そこに暮らす難民の姿を写すのだから、これはまさしく“リアル”。
そして、この映画ならではの映画的仕掛けが、ゼインの告訴。ナディーン・ラバキー監督は「映画は疑問を投げかけるためのツール」と言うが、その疑問を、裁判で問う、と言うのだ。
ただ、映画はその判決を描かない。それは、被告が彼の両親だけでなく、自分たちを含む、この世界の大人たち全てだからだろう。
その判決は、この映画を観た人自身が下す必要があるのだ。
映画の後、先日、店の前まで行きながらも行列で断念した「天龍」に行く。
今日は、平日と言う事もあって、行列はエレベーターを降りた後、店の前に出来ていただけだが、先日の昼と違い、夜は回転率が悪い。結局、それから30分ほど待って店内へ。
勿論、お目当ては餃子。
8個で¥1100円、は高いと思うかもしれないけれど、この大きさ(1個がこぶりなバナナくらいある)を見れば納得だろう……と言うか、これだけで結構満腹になるボリューム。
(まぁ、これにビールを追加したせいもあるのだけど)
餡は野菜少なめ、しっかり肉、と言う感じで、なるほど、これは行列に並ぶ価値はあるな……
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