円周率を極めるのにコンピュータ相手に競ったら人間が負けるに決まっている。
それと同じことなのに騒ぎ過ぎ。
囲碁も将棋もチェスも数学の世界だから。
78手目は相手にとってそれほど応対しにくい手だったのだろうか。
接近戦はすぐに正解が出やすくコンピュータが得意とする分野なのに。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=38&from=diary&id=3900067
盤上で探す「神の一手」 人間と人工知能が紡ぐ思考 214
2016年03月16日 06:15 ITmedia PC USER
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イ・セドル九段とDeepMindのデミス・ハサビスCEO 写真:ITmedia
その日は突然やってきた。「コンピュータが人間を超えるには最低でもあと10年はかかる」――そういわれていた囲碁の世界で、米Googleが開発した囲碁AI(人工知能)「AlphaGo」(アルファ碁)が人間のトップ棋士相手に完勝した。
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“人類代表”としてAIと戦ったのは韓国出身のプロ棋士、イ・セドル九段だ。ここ10年の囲碁界では世界最強と目され、そのあまりの強さに「魔王」の異名を取る彼を、Googleは対戦相手に指名した。対局は五番勝負で、2016年3月9日から15日までの1週間をかけて行われ、どちらかが先に3勝したとしても5戦すべてを最後まで戦い抜く契約になっていた。
結果は第3局までを終えて、AlphaGoの3戦全勝。あまりに底の知れない強さに、「このまま人間側の全敗が濃厚なのでは」という声も高まる中で、その手は打たれた。第4局目、やはりAlphaGoが優勢と見られていた局面で、イ・セドル九段が長考の末に放った一手・白78が状況を一変させた。
盤上の中央に置かれた相手の石と石の間に、自分の石を打ち込むワリコミ。「何これ?」「いやあこれは……妙手を通り越して、セドル九段の精神状態が心配になるレベルなんですが……」。まったく検討に上がっていなかった一手に、解説の棋士たちは困惑を隠さない。しかし、検討を深めていくと「これは恐ろしい手。正しく対応しないと形勢が逆転する」という評価に変わっていった。
結論から言えば、この見方は正しかった。ここまで持ち時間をそれほど消費せずに早いペースで打ち続けていたAlphaGoは、この手以降に長考を繰り返し、“自爆”とも思える悪手を重ねていく。結局、それまで見せていた盤石の打ち回しからはほど遠い拙さを露呈し、そこを冷静に突いたセドル九段が五番勝負で初の、そして結果的には唯一となる勝利を収めた。
●「あれは“神の一手”だった」
流れを変えた一手・白78について、セドル九段と並ぶ世界的トップ棋士として知られる中国のグ・リ九段は「It was a GOD'S PLAY(あれは“神の一手”だった)」とコメントし、日本国内のプロ棋士たちは「歴史に残る一手」「魔手」と呼んだ。
AlphaGoの開発を指揮するGoogle傘下・英DeepMindのデミス・ハサビスCEOは、対局の最中にも関わらず、自身のTwitterでこうツイートしている。
「AlphaGoは自分がうまく進めていると思っていたのに、87手目の段階では混乱している。厳しい状況だ」「79手目(=白78の直後にAlphaGoが返した手)で失敗した。しかし、そのことに気付いたのは87手目付近だ」
これはAlphaGoが一手ごとに表示する「評価値」(どちらのプレイヤーの形勢が良いか)を見ての発言だ。つまり、セドル九段の一手はAlphaGoの読みの中にもなかった、あるいは読んでいたが手の価値を正しく評価できていなかったということになる。ハサビス氏が後日明かしたところによると、AlphaGoはこの手が選ばれる可能性を「1万分の1未満」と考えていたようだ。
対局後の記者会見で78手目について聞かれたセドル九段は、「その手を打った理由は、そこしか打つところがなかったからだ。その手以外はなかった。そのような称賛を受けると、かえって戸惑う」と控えめに、しかし第3局までの会見では見られなかった柔らかな表情で振り返った。
●「神の一手」はどのように生まれるか
囲碁や将棋などの盤上ゲームでは、時折この類の「特別な一手」が現れる。また、コンピュータ(AI)は、「神」とまではいかなくとも、人間の理解を超えた手を連発する。事実、セドル九段とAlphaGoの対局では、第1局から第3局までの間にAlphaGoがそうした手をたびたび見せ、「一見して悪手」「人間には怖くて打てない手」と言われながらも、数十手後には「なぜか先ほどの手が働いてきている」「もしかして好手だったのでは」と評価を逆転させる現象が見られた。
このような「妙手」と呼ばれる手に明確な定義はないが、条件としては「ほとんどの人が気付いていなかったこと」「その一手で大きく流れが変わったこと」「勝利をたぐりよせる上で影響が大きかったこと」などが挙げられるだろう。
では、こうした手はどのようにして盤上に現れるのだろうか。人間とコンピュータで、その思考プロセスに違いはあるのだろうか。
●人間とコンピュータの考え方の違い
妙手の条件の1つである「気付きにくい手」について、例を挙げて考えてみよう。
盤上ゲーム、特に将棋やチェス(囲碁はやや特殊なのだが)における人間とコンピュータの違いとしてよく言われることに、「人間は線で考える。コンピュータは点で考える」という“線と点の評価”がある。
線の評価とは、それまでに自分が指した手(※)を考慮に入れながら、「ここまではこう指しているので、次はこう指せばいいはず」という“流れ”を重視した考え方だ。例えば、「一手前では攻めるための準備の手を指したのだから、次の手ではいよいよ攻めなくてはおかしい」というのが、線の評価に基づいた指し手の決め方になる。
※将棋の場合は「指す」、囲碁の場合は「打つ」というが、本記事では特に囲碁に固有の例でない限り、以下すべて「指す」と表記する
一方、点の評価というのは「盤上のその局面だけを見て方針を決める」考え方のことだ。前の手に何を指したかなどは関係ない。ただただその場面での盤上だけを見て、次の指し手を決めたり形勢判断をしたりする。言い換えれば、「ここまでの道筋なんて知りませんよ。現状で最善の判断を下すだけですよ」ということだ。
流れを重視する人間は、この「点の評価」が基本的に苦手だ。どうしても、自分がそれまでに歩いてきた足跡を振り返りながら指していくのが自然な思考になるし、膨大な選択肢の中から次の一手を決めるためには、事前に決めた指針や大方針に頼らざるを得ない。
しかし、コンピュータは往々にしてそうした指針を無視し(というか、最初から指針など持ち合わせていない)、「流れの中にはない手」を指す。これが人間にとっては大きな違和感となって映るわけだ。このようにしてコンピュータは「人間の盲点になりやすい」手を放つ。
●「棋理」とは何か
「気付きにくい手」についてさらに掘り下げるために、もう1つ考えてみたいことがある。「棋理」という概念だ。
どうにも理解のしづらいであろう説明になってしまうのだが、「棋理」とは囲碁や将棋でいう「ゲームそのものを貫いている理(ことわり)」のこと。例えば、「先手なら先手の得(一手分、先に指せること)を生かした指し方をした方が良いに決まっている」というのが代表的な棋理の1つで、これはある種、先ほどの「線の評価」という考え方にもつながっている。さらに言えば、この棋理というのはなかなかに高尚な、言い換えれば曖昧な基準であり、人や時代によってとらえ方にかなりの幅がある。
コンピュータによる意外な手や、既存の発想にとらわれない若手棋士の指し手を見て、「昔はこんな手を指したら師匠に『破門だ! 田舎に帰れ!』と怒鳴られたものです」という言い方をすることがある。これはいわゆる「棋理にそぐわない手」への評価なわけだが、この言い方がそのまま、棋理が時代に合わせて変遷するものであることを示している。同じく「こんな手は将棋(囲碁)にはない」という言い方もよくされる。
が、考えてみればこれはおかしな話だ。「一見棋理に反しているようだが、実は好手」という手は過去に山ほど例があり、つまりは「ない手など、ない」。
少し専門的な話になるが、将棋の「一手損(いってぞん)角換わり」という戦法が良い例で、これは本来はもう一手多く指すような進め方ができるのに、わざわざ自分から「一手の損」をして後手が戦うというものである。この戦法は棋理に反しているとして当初多くの棋士が拒否感を示したが、実際には有力な戦法であることが分かり、大流行した2008年度には将棋史の記録の中で初めて「(原理的に不利とされてきた)後手番が先手番の平均勝率を上回る」という珍現象が起こった。
棋理の正体とはつまり、「多くの人にとって受け入れやすい先入観」のことだ。「ほとんどの場合そうしておけばうまくいく」という感覚の集積だ。上達するにはこの感覚を身に着けることが必須となるが、ここで言う「ほとんど」とか「〜に決まっている」というところがクセ者で、真にトップレベルの戦いになると、こうした棋理の存在が時折邪魔になる。「いかに棋理を捨て去るか」という戦いになることがあるのだ。
●「羽生さんって“人間らしい”んですか?」
このように、妙手の条件である「気付きにくい手」とは、「棋理とはほど遠いように見える手」のことなのだろうと想像できる。そして、将棋界でそういった手をときに平然と指す棋士の代表格が羽生善治である。羽生が繰り出す妙手は「羽生マジック」として知られている。
しかし、実は妙手の条件はそれだけではない。
先ほど妙手とは「気付きにくい良い手のこと」と書いたが、実は棋士には「気付いていても指せない手」というのがあり、羽生はこちらの実績にかけても超一流とされているのだ。
2015年7月に行われた第86期棋聖戦第4局。挑戦者である若手の俊英・豊島将之七段(電王戦でコンピュータ相手に完勝した数少ない棋士の一人)を前に、羽生が指した71手目▲6二歩成は、まさに羽生が羽生であることを多くの観戦者に再確認させた。
中継時の解説コメントには次のようにある。「これはなんと! 思わず目を疑う手だ。羽生の指した▲6二歩成は、直前に指した▲6三歩を完全否定する手」。自身が1手前に指した手をミスだと認め、直後の手でそのまま何もせずに駒をタダで捨ててしまう。まるで「ごめん、今のなし」とでも言うかのように。分かっていても、棋譜が永遠に後世に残るプロ棋士には決断しづらい、まさに「局面を線ではなく点で見ている」からこそ指せる一手だ。
以前、コンピュータ将棋の最強ソフト「PONANZA」開発者の山本一成さんにインタビューしたときに、筆者は何気なく「最近のソフトは人間らしい手を指すようになってきたと言われていますよね」と話を振った。山本さんは直接それには答えず、「うーん……人間らしいって何なんでしょう。じゃあ逆に聞きますが、羽生さんの指す手って人間らしいんでしょうか?」と言った。筆者はその問いに答えることができなかった。
●掘り起こされていない宝の山
イ・セドル九段がAlphaGoに敗れたことを伝える朝鮮日報のニュースに、日本からこんなコメントが寄せられていた。「これ、本当にすごいのは実はコンピュータではなく『囲碁』なのでは? 奥が深すぎるだろ……」
・人間対AI:囲碁9段の解説者、解説できず視聴者に謝罪(朝鮮日報)
かつて昭和の時代に、囲碁と将棋のトップ棋士同士が「自分たちはそれぞれの専門分野についてどれくらい理解しているか」ということを紙に書いて同時に見せ合ったら、将棋棋士は「百のうち四か五」と書いており、「百のうち六」と書いていた囲碁棋士が自分の思い上がりに反省した、というエピソードがある。人間が今見ている囲碁や将棋は、本来のゲームそのものが持つ広がりに比べて、おそらくはそれほどに狭い。
現在は疑われていない定石/定跡や棋理の“外”に、実はたくさんの宝物が埋まっている。コンピュータが次々に見せる「人間には理解の及ばない手」は、そうした可能性を我々に提示する。
実際に、コンピュータが指した新手が人間同士の対局の場で登場するケースも増えている。ある将棋のトップ棋士は名人戦の大舞台で「コンピュータ新手」を採用したことについて聞かれ、「誰が指しても良い手は良い手」と答えた。反対に、「他人がやるのは自由だが、自分はコンピュータの真似はしたくない」というスタンスを貫く棋士もいる。どちらが正しいのかではなく、どちらも自分の中の囲碁や将棋に真摯であるがゆえ、なのだと思う。
●「コンピュータがひらめく時代」に
以前、将棋電王戦を取材する中で「人間にしか指せない手はあるか? あるとすればそれはどういうものか?」ということが気になり、プロ棋士やAI開発者、その他現場に携わる人たちに同じ質問を重ねたことがある。当然かもしれないが、そこでは期待するような答えは得られなかった。
もちろん、純粋に論理的なことを言えば、「人間にしか指せない手」など存在しない。指し手の数が有限であるゲームの性質上、そんなものはない。でもそれは翻って、「人間には指せない手」というものもまた存在しない、ということでもある。いくら「点の評価」が苦手でも、コンピュータと比べて計算量がお話にならなくても、セドル九段や羽生善治名人のように、まだ誰も見たことのない手をひらめく人間は、確かにいる。
進化するAIによって、人間にとっての囲碁や将棋の“領域”が拡張する。それを取り入れて、人間の対局は続いていく。「人間がAIに勝てなくなること」と、「AIがそのゲームを完全解明すること」の間には、かかる時間で見てとてつもない隔たりがある。このまま順調にAIが進化していっても、囲碁や将棋が完全解明される前に宇宙の寿命(人類の寿命、ではない)が尽きると考えている専門家もいる。
山田胡瓜さんの漫画作品「人類は投了しました」には、将棋にのめりこむ青年が住む、近い未来の風景が描かれている。「コンピュータがひらめく時代になったからって」から始まるラストの台詞は、近未来でなく現代に既に当てはまる。
・関連記事:指先から生まれる、陳腐化しない未来――漫画家・山田胡瓜×コンピュータ将棋開発者・山本一成
●一手の価値は
最後に、筆者の考える「一手の価値」について書いておきたい。
盤上ゲームにおける一手の「価値」を考えたときに、それはおそらく「好手/悪手」という観点で見たときの価値と、その手が指された背景をも含めた価値とに分けられる。「どれだけ勝敗に影響を及ぼしたか」だけを見るのが前者であり、「誰が指したか」「どのような状況下で指されたか」といった情報までを含んでいるのが後者だ。
故人である真部一男九段は、絶局(生涯最後の一局)で、△4二角という絶妙手を発見していながらも、その手を指すことなく投了し、そのまま帰らぬ人となった。幻の妙手と称えられたこの手は、現在のコンピュータ将棋ソフトに解析させるとすぐに見つけられてしまうそうだ。では、この手の価値は大したことがないものだろうか。
あるいは、コンピュータ囲碁や将棋について、CPUを1000個も使っているから、マシンを何百台もつなげているから、良い手が指せて当たり前だ、という人がいる。前述したPONANZA開発者の山本さんはTwitterで、「しかしこの件、“Google”という得体のしれない巨大な何かが囲碁プログラムを作ったのではなくて、やっぱり囲碁プログラムに膨大な情熱をささげたプログラマ達が作ったという事実は皆さんも覚えていてほしいです」と書いている。
我々はこうして、さまざまな要素を含めた価値観の上で囲碁や将棋の一手を見ている。勝敗に直結する手の意味は分からなくても、その手を指したときに棋士の指が震えたことに感動を覚える人もいるし、逆に「背景を含めて語るのは性に合わない。純粋に勝敗への影響度だけで手の価値をはかりたい」という人もいる。
しかしそこに共通しているのは、その一手が我々を興奮させるから、好奇心を満たすから、心を揺さぶるから、見ずにはいられないのだという点だ。この地点から語れば、人間とコンピュータの一手に違いはなく、またここに囲碁や将棋というゲームの持つ深さや広がりがある。
「悪手はとがめられなければ悪手ではない」という言葉がある。同じく好手、神の一手も、たとえ指されたとしても我々がその手の価値に気付くことができなければ、ただの平凡な一手として忘れ去られてしまう。
でも、その一手を己の人生をかけて追い求めようとする棋士たちには心からの敬意を払いたいし、それを導いてくれるかもしれないAI開発者たちが、人間に相対する側の総称としてではなく、個人として正しく評価されてほしい。
今もこの瞬間に、プロが、アマチュアが、あるいはコンピュータが、膨大な量の「一手」を探し続けている。その中にきっと、「神の一手」は隠されている。
[杉本吏,ITmedia]
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