〜「ドライブ・マイ・カー」「悪は存在しない」の濱口竜介監督が、パリを舞台に同じ名前の響きを持つ女性2人の魂の邂逅を描いたドラマ。がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者・宮野真生子と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者・磯野真穂が交わした20通の往復書簡「急に具合が悪くなる」を原作に、偶然出会った2人の女性の交流と世界に対峙する姿を描き出す〜
〜パリ郊外の介護施設「自由の庭」で施設長を務めるマリー=ルー・フォンテーヌは、入居者を人間らしくケアすることを理想としながらも、人手不足やスタッフの無理解に悩まされていた。そんな中、日本人の舞台演出家・森崎真理と出会ったマリー=ルーは、がん闘病中の彼女が描く演劇に勇気をもらう。同じ名前の響きを持つ偶然に導かれて交流を始める真理とマリー=ルーだったが、あるとき真理は急に具合が悪くなる。真理の病の進行とともに2人の関係は深まり、互いの魂を通わせ合うようになっていく〜<映画.comさんより>
ヴィルジニー・エフィラと岡本多緒がそろってカンヌ国際映画祭最優秀女優賞受賞の快挙!
観終わって、その受賞に深く納得しました。ちなみに3回観ました。
かなり内容に触れていますので、未見の方はご注意下さい
何度も目頭が熱くなりました。なんなんだ、この世界は。
死に向かって進んでいながら、2人の会話は知的で、軽やかで、開かれていて、心地よい。
永遠に浮遊し続けるような強さ。ずっとずっと引き付けられる。
絆はどんどん強くなり、霧を退け、最後には青空にまた鳥が飛んでいるのである。
物語の流れにそってあれこれ書いていきますが、ところどころ順序が間違っているかもしれません。ご了承下さい。
冒頭は介護施設「自由の庭」マリー=ルーはそこの施設長。
「ユマニチュード」と呼ばれるケアメソッドの重要性をわかっていて、徹底して導入したいと思っている。
(ユマニチュードとはフランス語で「人間らしさ」の意)
つまりマリー=ルーが目指すのは、入居者を人間らしくケアすること。
だが現場サイドからは反対の声があがる。
(ひとりひとりに)そんなに時間をかけていられない。ただでさえ人手不足なのに。
「自由の庭」はモデル施設。マリー=ルーの意見が大きく反映されている。
介護スタッフのひとりがマリー=ルーに辞職することを伝えてくる。看護婦1人も連れて行くという。
このシーン、2人の背後のそれぞれの壁に注目。
マリー=ルーの背後はゴツゴツしている壁。介護スタッフの背後はするりとした壁。
シモーヌという入居者が危篤の後、亡くなる。
マリー=ルーが沈んだ表情でトラムに乗っていると、ある青年がトラムを追って走っているのが見える。
心配になったマリ―=ルーはトラムを下り、その青年を探しに行く。
マリー=ルーは最初はフランス語、次に英語、次に日本語で声をかける。
青年はGPSを持っていたので、一緒に保護者が来るのを待つことにした。
雨が降って来る。おそらく劇中で唯一の雨シーン。運命の幕開けの雨。
青年(智樹)を探していた森崎真理と清宮吾朗がやってくる。
真理は演出家、吾朗は俳優、自閉症の智樹は吾朗の孫だった。
真理はマリー=ルーに、自身が演出をしている芝居のチラシを渡す。
この2人の最初の出会い時、マリー=ルーと真理は、似たような服装でした。
ジーンズに白のスニーカー、上も似たような色のものを着ています。
この時は互いの名前が似ていることは知りません。
「ユマニチュード」の基本の4項目は
「見つめること、話しかけること、触れること、立つこと」
最初の3つは介護側がやることですが、最後の「立つこと」は入居者に頑張ってもらわなければなりません。
ただ、無理にやらせると、怪我のリスクがあります。
入居者を立たせたいマリー=ルーと「危険すぎる」と反論するベテラン看護婦ソフィが対立します。
ソフィ「あなたは人を見下してばかり」
ソフィは辞職をほのめかします。マリー=ルーが皆の前でソフィに謝らない限り・・・。
マリー=ルーは真理のお芝居を観に行きます。
タイトルはイタリア語で『近づいてみれば、誰もまともな者はいない』
イタリアの精神科医フランコ・バザーリアが主役の一人芝居。
吾朗「健康な者は、本当に生きているのか?」
私、知らなかったんですが、イタリアには精神病院がないんですね。
https://shohgaisha.com/column/grown_up_detail?id=1736
フランコ・バザーリアは精神病院こそが狂気を生み出すとし、廃絶を指導した。
客席のひとつひとつにタンバリン等の楽器が置かれています。
観客は自分が思うタイミングで、その楽器を奏でていい、みたいな感じ。
私、まず、そこに感動しちゃって。
吾朗「家族、職場、友人、世界全体が精神病者を拒絶するなら、それは繰り返される。だから閉じ込めろ?違う。我々は健康で彼らは狂人か?狂気は我々一人一人に備わってる。見てみよう。近くで見たら誰もまともではない」
「精神病院の扉を開く、それだけでは足りなかったのだ。我々が開くのはこの世界のもう一つの可能性だ。内と外、全てを混ぜ合わせてやる」
いきなり智樹が舞台に乱入。これにもビックリ。
でもそれは想定内だったっということで、それにもビックリ。
ちなみに、智樹は両親(吾朗の娘夫婦)の仲が悪いこともあり、施設に入っていたらしいんですが、こんなところにいちゃダメだと吾朗が智樹を引き取ったということです。
お芝居の終盤、吾朗が6つの椅子を蹴とばして、どこかカオス状態。
おそらくこれは、前向きな意味で、後半に出てくる「自由の庭」での集団足マッサージシーンに繋がっていたと思いました。
また、智樹の舞台乱入こそが、この映画のテーマでもある「境を無くす」きっかけを作っていたことも後でわかります。
(マリー=ルーと真理が出会えたのも、智樹の’乱入’のおかげ)
客席に楽器を置いておいたのも「境を無くす」ための道具。
舞台と客席、虚構と現実が混ざり合って、ひとつになる。
入居者と介護者も、言葉が違う者同士も、垣根を越えて、繋がれる。
舞台終了後、Q&Aが始まりました。
マリー=ルーが真理に日本語で質問します。
「素晴らしかった。心打たれた。聞きたいことは...不可能は可能になるのか?」
真理が答えます。
「不可能なことは、不可能です。でもそれは、可能になるまでは、です。不可能を可能にする抜け道は、見つけた時にだけ、元からあったんだと分かる。だから進み続けるしかありません。やってみないとわからない」
「私は進行ガンで余命半年と言われてます。でも、1年、生き延びられた」
「固定観念が打ち破られたこの実話に感動した。私自身が勇気をもらえた」
この時、客席から「フランス語で!」と声があがり、真理が訳そうとしますが、吾朗がそれを遮って一言。
「訳さなくてもいいでしょう。2人の雰囲気から大事な話だってわかるでしょ」
その後、マリー=ルーと真理は劇場を出て、セーヌ川沿いを歩いて、歩いて、歩いて・・・、話して、話して、話して。
マリー=ルーは早稲田大学大学院で、文化人類学専攻。
真理はソルボンヌ大学で哲学専攻。
途中、鳥の糞が落ちてきて2人の顔にピタっ。2人は笑いながらティッシュで拭きあいます。
2人がそれぞれ「あなたは誰?」って聞いていたのが、私、感動しちゃって。
そんなこと、普通、聞かない(言わない)じゃないですか。
でも、あまりにも、出会うことが必然だったような、そして互いにおそらく電気のような衝撃が走って、秘めたる興奮が抑えきれず、まずは、とりあえずは、その言葉を言わずにはいられなかったみたいな。
2人の会話の中で出てきた話のひとつが、マリー=ルーの「少子高齢化は資本主義の必然」という話。
いつしか夕暮れ、そして夜。セーヌ川の夜景が美しい(ポスターのシーン)
これが撮りたくて、お芝居はマチネに行かせたんだな、濱口監督。
マリー=ルーにスタッフから電話がかかってきて職場に戻らなくてはいけなくなる。
真理「帰りたくない」
マリー=ルー「帰したくない」
次のシーンでは、真理も「自由の庭」に。
真理はそこでマリー=ルーのユマニチュードを実際に見ることになる。
マリー=ルーは、この施設の現状を変えたいと思っていて、でも「構造の問題」ゆえ、どうしたらいいのか悩みあぐねていました。
真理はホワイトボードを使って「(社会の)構造」についての話を始めます。
「資本主義の限界や矛盾」「中心のモノ、外に追いやられるモノ」etc
ひゃぁああ、この物語、あらゆる方向に手を伸ばしてくる。
2人がシモーヌが遺していった指人形を使って会話しているところが、ホッコリするやら、切ないやら
マリー=ルーの母親の話が出ます。65歳でアルツハイマー型認知症になってしまった母。
お高い施設に入所させたものの、面会に行くたびに母は衰えていった。料金と質の良さは比例せず。
そこからマリー=ルーは、専門学校で介護を学び始めたものの、間に合わず、母親は67歳で亡くなってしまった。
母親は人間として扱われたんだろうか?私は何もしてあげられなかった。
自分の無知が母親を殺してしまった。マリー=ルーは自分を責めていました。
マリー=ルーは、その学校で、ユマニチュードについて教わった。
今ならわかる。介護者の技術で、認知症患者ともコミュニケーションがとれるということを。
「視線、距離、声がけ、触れ方」
真理はマリー=ルーを抱きしめます。
「お母さんが死んだのは、あなたのせいじゃない」
時間の感覚についての話。
マリー=ルー「普通の人は実線。でも認知症患者は点線なの」
それをわかってあげなければいけない。
結局、真理は施設に泊まっていくことに。
翌日、真理の具合が急に悪くなってしまいます。
真理「始まっちゃった」
真理は緊急入院。
その後...トンネルを抜けると、真理とマリー=ルーが新幹線に乗っているのがわかります。
2人は真理の家がある京都へ。
がんの症状が進行した真理は日本でホスピス(緩和ケア病棟)に入るつもりでした。
夜になり、真理はマリー=ルーにマッサージをしてあげます。向かい合っての足マッサージも。
朝早く、真理は、思い出の山にマリー=ルーを連れて行く。
(そこは自分と同じような家庭環境だった高校時代の友だちと来た場所だったらしい)
2人でカップヌードルを食べるシーン(タイマー2分半)は’時間’を意識させられた。
真理「あなたともっと話したい。過去じゃなくて未来のこと」
マリー=ルー「怖い?死ぬこと」
真理「ありがとう。勇気を出してくれて。怖いよ、もちろん。これから何が起きるか、勉強しすぎるほど勉強してしまったから。もう奇跡はない。あとは痛みを薬でおさえながら、この世界から消えていくだけ。何も残せないまま。だから、怖いよりも、悔しい」
マリー=ルー「パリに戻ろう。私がそばにいる」
セーヌ川ではボートが流れてゆき、京都の山では遠くに電車が走っていきました。
※予告編
https://youtu.be/05o9bNYCUN0
「自由の庭」
マリー=ルーは、スタッフの前で、まずソフィに謝り、その後、これからここで暮らすことになる真理の紹介をします。
’レジデンス・アーティスト’という形での滞在。
施設内にカフェをオープンする話がでます。入居者に立って歩いてもらうためかと。
ソフィ「あり得ない。転倒したらどうするの」
マリー=ルー「入居者との境界を無くしたいの。経営側もいろいろ折れてるわ」
「限界を認め、外部の力を求めることにする。長期戦よ」
「入居者の時間感覚の違い(実線と点線)を理解して、いつも安心させてあげて」
「入居者は弱っていても(心は)燃えているの。生きていくために命を使ってもらう」
真理は入居者にワークショップを開催。
並んで歩いたり、2人一組で足の裏マッサージをしあう。
マリー=ルーが引越準備をしている。
最期の最期まで真理のそばにいるということよね。
あとレオっていう白猫ちゃんも出てくるんだけど、この猫ちゃんにもしっかり役割が与えられていたことに注目。
智樹が「自由の庭」にやってくる。つまり吾朗も来た。
智樹はフィリップという認知症男性の手をとり、いきなり2人で楽しそうに小走り。
このシーンもめちゃ良かった。何も説明はいらないの。ただ、ただ感動した。
真理が倒れる。
ベッドにはソフィが付き添っている。
真理「どうしてマリー=ルーを嫌うの?」
ソフィ「好き嫌いで仕事してない」
真理「子守唄を歌ってくれない?私が眠るまで。落ちていきそうなの」
目覚めると吾朗がいる。もう夜になっていたが、部屋は赤みを帯びた光が差し込んでいる。
吾朗はこれから地方公演で南仏に行く。
真理「どうしたら私の持ってるもの、吾朗さんや智樹に残せるかなと思って。どうせそんなのないですけど。」
吾朗「あなた、お父さんとの関係が良くなかったんでしょう。私の娘にもっとしてやれることがあったんじゃないかと思います。でも、あなたのことを娘とは思いません。娘は娘。あなたはあなた」
真理「吾朗さんのクレジット、主演と共同演出にしておきます。これから、台本で何か変えたくなったら自由に変えてください」
吾朗「何も残さなくてもいいんじゃないですか。 あなたとの稽古は楽しかった。散々、変なことやって。 その一瞬一瞬以外に何がありますか。 また必ず来ます」


ふと思うに、真理と吾朗と智樹って、確かに、疑似家族みたいな雰囲気があったかも!?
そのあと、マリー=ルーが同じ部屋に入ってくるんだけど、この時の部屋は、先ほどの赤みが消え、薄暗くなっていた。
その意味がすぐに分かり、猛烈に悲しくなった。
少し眠ってから、2人は夜の散歩に出かける。真理は途中から車椅子に座っている。
真理「ソフィのこと、嫌い?」
マリー=ルー「好き嫌いで仕事してない」
真理「あなたソフィ、意外と似た者同士かもよ」
マリー=ルー「むかつく」
マリー=ルー「ワークショップ、続けられる?」
真理「なめんなよ」
なんなの、この会話
そして、大好きな台詞
真理「あなたに会う準備はできていたんだと思う」
ある日突然、大昔から知っているかのような、いきなり意気投合する人に出会えて、すぐに永遠の絆のような繋がりを感じて・・・でも、それが間もなく消えてしまう。
短い真理のその一言で、こちらの感情が猛烈にかき乱された。なんてこと...。
※予告編
https://youtu.be/05o9bNYCUN0
2週間後、吾朗と演劇チームが「自由の庭」にやってきて、ここで例の一人芝居を上演することに。
もちろん、智樹もいます。
「自由の庭」の恒例イベント’患者&スタッフ紹介’はソフィの出番。
ソフィは、母親のことや、自分はかつて理想主義で、自信過剰だったこと等を話します。
ある時、精神病院には限界があることがわかった→病院は閉鎖→患者は追い出された。
今の「自由の庭」のように、患者の最期が看取れることは良いこと...。
芝居が始まります。
吾朗「社会が拒絶すれば、それは繰り返される」
途中、ハプニング発生。
舞台では入居者たちが足マッサージを求めて、入り乱れています。
吾朗「近づいてみれば、誰もまともな者はいない」
あまりにも自然に起こったその流れ。めちゃくちゃなのに、ここでも感動。
吾朗「ここやらがシオドキですかね?」
真理「まだまだ〜」
父親フィリップのことを「嫌いだった」と話していた息子が、フィリップが智樹と楽しそうに過ごしている姿を見て、涙を流していた。
こういうところのフォローも忘れない濱口演出の素晴らしさよ
それを見て、私もウルウル。皆、皆、楽しそう。
このシーンを一言で表現するなら「優しい混沌」
真理は何かを達成したような表情を浮かべ、泣いていました。
真理とマリー=ルーが抱きしめあう。
吾朗は「リスク」と「希望」についての台詞をしゃべっている。
真理「どう考えても、この世界が最高。もっといたい」
マリー=ルー「好きなだけいて!」
吾朗「勇気を探しに行こう。それこそが暗闇を照らす松明になる。誰もが自分の勇気を携えてやってくるだろう。私たちはお互いの勇気を支え合う約束を交わすのだ。」
京都のあの山。吾朗と智樹が来ている。
「自由の庭」では、カフェがオープンしている。
入ってきたソフィが、いつもの看護婦ユニフォームではなく私服を着ていた。
それって・・・役職になっていうこと?これ、ちょっと、わかる方、教えてください。
エンディングは冒頭と同じシーン。ただ、空からあるモノが落ちてくる。
あれはもしかして、〇になった真理が落としたのかもしれない!?皆の幸運を願って...。
※キャスト
ヴィルジニー・エフィラは『ベネデッタ』を観ていましたが、同一人物には思えなかった。
難しい日本語も流暢に話していて、さぞかし練習されたんだろうなと。
岡本多緒は全く知らない方でしたが、スタイルは抜群だし、こちらはフランス語を流暢に話していて、これまたお見事。
吾朗役の長塚京三がもう、もう、素敵。
かつてパリに遊学されていたということで(←公式HPより)フランス語が似合うったら。
一人芝居が本当に素晴らしくて、ずっと魅了されてしまいました。
智樹役の黒崎煌代も好演。『見はらし世代』の時はまさかこんな役ができるとは思いませでした。
もはや濱口作品の定番となった「棒読みメソッド」
見るからに(聞くからに)感情が全くこもっていないと思われるのに、妙に感動させられるのはなぜ?
真理とマリー=ルー。名前が似ている2人の女性。そして一人は病気。
観賞後、クシシュトフ・キエシロフスキの『ふたりのベロニカ』を見返したくなりました。
私、観賞前に原作を読みたくて図書館に予約したら、すでに18人待ちでした。
今日の時点で、あと3人待ち
そうそう、エンドロールにも、ダメ押しで泣かされてしまいました。
「remercier(感謝)」のところに、KENZO HORIKOSHIのお名前が!
あぁあああ〜、ユーロスペースの代表で去年亡くなられた堀越謙三さん。最後の最後まで
総評:この日記の長さでお分かりのように(笑)、今年の私のベストテンに入り確実です。
「邦画部門か洋画部門か」それが問題!?
棒読みにも慣れてきたので、濱口監督にはこれからもイケイケドンドンしてもらいたい。
素晴らしかった。猛烈に私好みだった。196分だけど、苦にならなかった。あちこちで何度もウルウル
日本でのシーンがほんのちょっとだけ物足りなかった。ほんと、ほんのちょこっと。
こんな映画を作るのは世界で濱口監督だけ。唯一無二の作風。
そんな独自の道を行く濱口監督作が世界に認められているという事実。改めて凄いことだと思いました。4.8☆
※参考&台詞引用元リンク
https://note.com/bunko_x/n/n7178f3c22b1c
https://note.com/baku_lain/n/nfa241fe7c74d
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