金曜日、今日は休暇をとって、映画4本。
まずは横浜シネマリンで、
「教育と愛国」。
これは、放送批評懇談会によるギャラクシー賞大賞を受賞した毎日放送(MBS)のドキュメンタリー番組「映像’17 教育と愛国 〜教科書でいま何が起きているのか」に追加取材、再構成した劇場版。
監督は、MBSで記者として20年間に渡り教育現場を取材してきた斉加尚代。
軍国主義へと流れた戦前の反省から、戦後の教育は常に政治とは一線を画して来た。しかし、それは大きく変わりつつある。2006年、第一次安倍晋三政権下で教育基本法が改正され、「愛国心」が戦後初めて盛り込まれた。以降、「教育改革」や「教育再生」の名のもとに、教科書検定制度は目に見えない力を増していく。
政治介入ともいえる状況の中で繰り広げられる教育者と政治指導者の攻防は、いま現在も続いている……
映画は、2017年に、戦前の「修身」教育に通じるとして正式科目となっていなかった「道徳」の教科書を取り上げ、その検定の際、教科書に登場するパン屋が「国を愛する態度に相応しくない」として和菓子屋にあらためられた事に端を発し、歴史の記述に「日本の戦争加害」を書いた事を契機に倒産に追い込まれた大手教科書出版社、「自身で考える」事を教える教科書を使用する学校や、慰安婦問題など加害の歴史を教える教師や大学の研究者への与党政治家からのバッシング、さらには日本学術会議任命拒否問題など、現在の教育事情を描き出していく。
印象的だったのは、東京大学の歴史学権威、伊藤名誉教授の言葉。
「教育に懸ける熱い思いを語ってください」と、斉加監督に乗せられて語った「本音」は衝撃的。
まず、「学校教育とは?」との問いに答えたのが、
「真っ当な人間を”作る”こと」
学校を、自覚と責任ある大人となる為に「学ぶ」場ではなく、真っ当な人間を「作る」場だと言い放った。
更に重ねて、真っ当な人間とは?と問われた伊藤名誉教授は、
「真っ当とは左翼でないことです……左翼は反日ですからね」
本来、民主主義国家であれば、政治思想も自由であり、右翼の保守精力、左翼の革新勢力、それぞれが主張をぶつけて国の舵取りをするものではないのか?
それなのに、左翼は反日であり、真っ当でないと言う……これは、決してネトウヨのたわ言などではない。東京大学名誉教授の言葉なのだ。
更に衝撃的だったのは、次の一言。
「歴史を学ぶ必要はありません。歴史から何を学ぶんですか」
――はらは歴史を学んだ事もない、無学の徒に過ぎない。「賢者は歴史に学ぶ」と聞いた事もあるが、それは、この国では間違いなのだろう……何しろ、国の最高学府である東京大学の歴史学名誉教授が「歴史を学ぶ必要はない」と断言するのだから。
「戦争犯罪などは子供たちに国に対する自信を失わせ、自虐史観を与えるだけです」
つまり、歴史とは国民が国に誇りを持つための物語であればよい、と言うこと――これが、安倍政権における教育改革を支えた日本の叡智が語る事なのだ。
映画「主戦場」でも、日本会議のブレーンである加瀬英明氏から衝撃的な言葉を引き出していたが、この映画、ここを観るだけでも価値がある。
このように、安倍晋三による教育改革が進み、子供たちには日本に誇りを持てるような教育が行われる――真っ当な人間になる為に。
そうした「真っ当な人間」と言うのは、いずれ戦場で「日本国万歳!」と叫んで散華するのだろう。
今の学校とはそうした場になろうとしている。
映画の後、伊勢佐木町のマクドナルドで昼食とした後、シネマジャック&ベティで、
「私のはなし 部落のはなし」。
これは、日本における差別問題である「部落差別」の歴史と、今も根強く残る差別の現状に迫るドキュメンンタリー。
監督は、満若勇咲。プロデューサーを「なぜ君は総理大臣になれないのか」の大島新が務めている。
かつて日本には穢多・非人などと呼ばれる賤民が存在した。武家社会において、屠畜や処刑などの“穢れ”を担っていた彼らは、1871年(明治4年)の「解放令」によって賤民身分を廃止された。だが、彼らが住んでいた地域は「部落」と呼ばれるようになり、その差別構造は残されたままであった。
現在、法律や制度のうえでは「部落」や「部落民」というものは存在しない。だが、今尚、少なからぬ日本人が根強い差別意識を抱えている――
本作の監督である満若勇咲には、2007年に屠場とそこで働く人々を写した「にくのひと」と言うドキュメンタリー映画を製作したが、公開直前、部落解放同盟からの抗議で、公開を断念した、と言う過去がある。だが、満若監督がただ者ではないのは、抗議をして来た部落解放同盟と徹底的に話し合い、問題の理解を深める中で、その「部落差別」問題そのものを映画にしてしまったのだ。
そうして、本作ではその「部落差別」の起源と変遷から、近年の「鳥取ループ裁判」まで、複雑に絡み合った問題をひとつひとつ解き明かして行くのだ――それを監督は「学びほぐす」と言っているが、これは言い得て妙。厄介な問題だから、と放っておいても問題は解決しない。問題を学び、知る事は問題解決の一助だ、と言うのは卓見だろう。
また、こうした問題に取り組むドキュメンタリーでは、ややもすると上から、若しくは第三者的な視点になるのを、同じ目線で、尚且つ多面的に、対話し、そして聞き出して行く……「部落差別」問題を、「社会」の問題として、国だ、政治だ、法律だ、と大きな単位で語るだけでなく、問題に直面した「私」が語る、と言うアプローチを採っているのも効果的だし、印象的だ。
ただ、そうした作り故に映画の尺としては長大となり、上映時間は200分を超えた。また、当事者同士の会話から、語るべき事が飛び出すのを待ち構える、と言う姿勢は、ややもすると、本作の指揮者たる満若監督の“私”を曖昧にしてしまっているように感じられたりもする。
それでも尚、本作が、「部落差別」問題を知るのに優れた教材となる事は間違いないものだと思う。
さらにもう1本。
「手紙と線路と小さな奇跡」。
これは、韓国東部に実在する韓国初の私設駅・両元の駅舎の建立をモチーフに、ひとりの少年の挫折と再生を描いた物語。
監督は「Be With You 〜いま、会いにゆきます」のイ・ジャンフン。出演は、「ただ悪より救いたまえ」のパク・ジョンミンと、アイドルグループ「少女時代」のメンバーのイム・ユナ。
韓国慶尚北道、奉化郡にある山間の村。そこには道路がなく、行き来出来るのは鉄道線路しかないが、村には駅がない。最寄り駅の承富駅まで、トンネル3つ、鉄橋3つを線路上を歩いて越えねばならないのだ。定期列車は時刻表で判るが、時刻表にない貨物列車はいつ通るか判らず、幾度も事故を起こしていた。
村の少年ジュンギョンは、父テユン、姉ボギョンと暮らしていたが、鉄道機関士の父は殆ど家に帰らない。往復5時間をかけ、山の麓の高校に通うようになったジュンギョンは天才的な数学の才能を発揮。その非凡さを一目で見抜いたクラスメイト、自称「女神(ミューズ)」のラヒはジョンギョンの将来と駅開設のために全面的な応援を買って出るが……
この映画だが、さすがに脚色が過ぎるのではないだろうか?
線路しか交通の便がない山村で、続発する事故に堪りかねた村人が、駅舎を建て、大統領府へ請願の末に駅として認められた、と言うエピソードだけでも充分に心動かす物語は出来そうだが、そこに、夢を諦めた少年が夢に向かって歩き出すドラマを乗せ、親子関係の再生、家族の死の克服と感動を誘うエピソードをてんこ盛りにした挙げ句に、20世紀の学園ラブコメか、と言う緩い恋愛劇まで重ねるのだ。
確かに、ジョンギョンの親子関係再生のドラマは、鉄道事故を絡めたものであるだけに理解出来るとしても、学園ラブコメはさすがに行き過ぎ――しかも、それを演じるのが、共に30代でどう見ても高校生には見えないパク・ジョンミンとイム・ユナなのだ。
その一方で、エピソードを盛り込み過ぎたせいで、あちこち寸足らず、またはほったらかしとなっているのも散見されるなど、あれもこれもとツッコミ過ぎた感は拭えず……確かに、それでも韓国映画だけに、終盤は力技で泣かせにかかって来るのだけど、肝心の私設駅舎の存在感が薄れてしまったのも含め、もっと物語を整理して見せて欲しかった所だ。
そして、本日最後は、
「ニューオーダー」。
これは、「母という名の女」のミシェル・フランコ監督によるサスペンス。第77回ヴェネツィア国際映画祭では審査員大賞を受賞している。
主演は、メキシコで活躍する女優ネイアン・ゴンザレス・ノルビンド。
現在のメキシコ。富豪の末娘、マリアンの結婚パーティーに招かれた政財界の名士たちが豪邸に集う。だが、豪邸の外では、広がり続ける貧富の格差に対する不満が爆発、抗議のデモが暴動と化しつつあった。やがて、その勢いは爆発的に広がり、遂には結婚パーティーの場に暴徒が乱入。華やかな宴は一転、殺戮と略奪の地獄絵図へと変容する――
使用人の妻を救おうと屋敷を離れていたマリアンは、運良く難を逃れたものの、電話や通信網は遮断され、家族に連絡を取る事も出来ない。
翌朝、マリアンは暴動鎮圧に出動した軍の兵士に「自宅へ送る」として軍用車に乗せられるが、そのまま、拉致・監禁されて……
この映画、予告編やポスタービジュアルからは、エイリアンによる侵略モノを思わせるが、その内容は、一部の富裕層のみが冨を独占する、現代の格差社会で、起きうる悪夢を描くサスペンスとなる。
富裕層が冨と権力で国を支配する現状をひっくり返すのは、圧倒的多数の庶民と、暴力装置である軍――数と暴力による革命だ。そして、それは歴史上の革命と類似する……つまり、これは決して絵空事ではなく、格差社会の行き着く先で“起きるかもしれない”未来図なのだ。
富裕層を襲い、略奪し、殺す……無秩序とも思える破壊と殺戮に、「社会を破壊するような革命はあり得ないのでは?」と思う人もいるだろうが、実際、ポル・ポトによるカンボジア革命では、都市機能を破壊してしまっているのだから、あり得ない事とは言えないだろう。
庶民は暴徒と化して富裕者を襲い、軍は、富裕者を捕らえては家族から身代金をせしめる……富裕層の冨を社会に還元するようにも思えるが、革命を起こした軍もまた上層部が冨を独占する、と言う描写が入り、それに反感を抱いた兵士が身代金を横取りしようとして処刑されるなど、人間のする事は何処まで行っても変わらない、と監督は徹底的に露悪的だ。
更に、主人に尽くした使用人は冤罪で処刑され、使用人を救おうとしたマリオンは拉致され、レイプされ、最後まで翻弄される……と、よき行いをした人が酷い目に遭い、状況の中で上手く取り繕い、巧妙に立ち回った人が生き残る、と言う、モラルに反した展開も観る人を不快にさせる。
だが、これこそが、新自由主義の行き着く先。格差社会で、トリクルダウンが起きなかった時に、起きうる最悪の事態なのだ。こんな事態に至る前に、我々は踏み止まる事が出来るのだろうか?
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