5月連休3日目。
今日は、天気もまずまず。でも、今日は渋谷に映画を観に行こうと思う。
久々のシアター・イメージフォーラム。チェックしたら、月曜はサービスデーで1本・¥1200円で観賞出来る、と言う事で、せっかくなので、アンコール上映の「主戦場」も観る事にした。
で、久々に渋谷に行ったのだが……駅を降りたら、もう何がなんだか判らない。シアター・イメージフォーラムって、どっから出るんだっけ?
案内図を観て、更に早めに地上に出て、「ああ、そうか」と……確かに、久しく来てないものなぁ……
さて、本日の1本目は、
「主戦場」。
これは、映像作家として活動する日系アメリカ人のミキ・デザキが、日本と韓国の間に横たわる従軍慰安婦問題に迫ったドキュメンタリー。
今回、英語字幕を付け加えた、インターナショナル版がアンコール上映された。
3年ぶりの観賞だが、初回鑑賞後、知識を上書きして、あらためて観るこれは、ドキュメンタリーを超え、エンターテイメントとしても面白い映画だと認識した。
日・米・韓でこの論争の中心となっている人物たちの主張する所をカメラに収め、それを巧みな構成で組み合わせて、あたかも映画上で議論がなされているように構成する、その巧みさにはあらためて感心する。
構成も巧みで、韓国の若者に対し、日本の若者に慰安婦問題の知識がないと言う事を示した後で、それを教育の問題とし、慰安婦問題を超え、日本の政治、そして、その裏で戦前の、つまり大日本帝国の復活を目論む政治団体、「日本会議」に迫る、と言う展開は、正にエンターテイメントのノリである。
そして、最後には、保守の論客として知られ、「日本会議」の代表委員である加瀬英明に辿り着くのだ。
この加瀬英明は、「第二次世界大戦で日本がアメリカに勝った」と発言(聞き間違えではなく、確かに2度言った)、その仕返しとして、日本社会をアメリカ化されてしまった、と説く……正に歴史修正主義者の面目躍如。「他人の書いた本は読まない」と言う姿勢には、ミキ・デザキ監督も”国際社会学者”の肩書きに”自称”を付け足しているが、それもやむを得ないだろう。しかし、これを「ビリーバー」だと笑ってもいられないのが、この人物が日本社会に重大な影響を与えている事だ。
これは、日本の社会と政治を考える為に、一見の価値あり――その前に、エンターテイメント的にしっかり面白くもあるのだが。
そして、これが海外で公開され、多くの人の目に触れる事が、ちょっと怖くもなる1本だ。
映画の後、近くの「すき家」のハッシュドビーフで昼食。
すぐにシアター・イメージフォーラムに戻り、本日2本目は、
「インフル病みのペトロフ家」。
これは、ロシア演劇界の鬼才キリル・セレブレンニコフが、強烈なブラックユーモアで国内にセンセーションを巻き起こしたベストセラー小説を映画化。
2004年のロシア、エカテリンブルグ。インフルエンザが流行する中、高熱を出したペトロフは、トロリーバスに乗り込む。ペトロフは、熱にうなされ、政治家たちを銃殺したりする妄想と、現実を行ったり来たり。
そこへ友人のイーゴリが現れ、ペトロフをトロリーバスから強引に降ろすと、無断借用した霊柩車で、知人の哲学者ヴィーチャの家に押しかけ、酒を飲む。やがて熱と酔いで意識が朦朧としたペトロフは、まだ国がソヴィエトだった子ども時代のヨールカ祭りの記憶へと回帰していく……
この映画は、スクリーンに再現された夢……インフルエンザの高熱にうなされ、或いは抑圧や理不尽さに絶えかねて、登場人物が見る夢の中へ観客を引きずり込む。しかも、夢と現実の境目はシームレスで、場面によってはカットさえ割らずに夢や妄想、記憶の彼方へすっ飛ばされるのだ――これは、観ているこちらも混乱するしかない。
しかも、見る夢の多くは暴力的なもの――偉そうな政治家を問答無用で射殺、不愉快な人物は殴りつけ、叩きのめすのを厭わない……それどころか、母親がぐずる息子の喉を搔き切る、と言う描写まであるのだ。夢だからこそ、のルールなしの剥き出しの感情の暴走、これは確かに一見の価値アリ、と思う。
映画は、インフルエンザの高熱にうなされるペトロフの夢うつつを描き、次いでペトロフの離婚した妻のペトロワに飛び、ペトロフに戻って、ヴィーチャの死を描いて……(この辺から記憶が曖昧なのだが)ペトロフの幼年時代、ヨールカ祭りで雪むすめを演じた少女の主観映像となる。こうなると、夢だか何だか判らなくなってくるが、これは最早、そんな整合性を求める映画でもないだろう。
ただ、この映画、中盤以降、物語を終えずに完全に混乱、脳が疲れ果てて眠くなってしまい、観ているこちらも夢うつつの状態……正に、夢と現実、映画と現実が混同してしまい、まともな感想とは言えないのが残念……それでも、これは希有な映画体験だったと思う。
次の映画までは1時間ほどある。
まるで、夢うつつのようだった「インフル病みのペトロフ家」で披露した脳をすっきりさせる為、まずはカフェでコーヒーを頼み、その後、表参道まで散策。(ホンダ・ウェルカムプラザに行こう、と思ったが月曜は休みだった)
途中、青山学院大学前では、帰宅する学生の群れに巻き込まれる。
体育会系のジャージ姿の集団だけに、汗臭いのを覚悟していたら、意外な事に、漂うのはシャンプーと石鹸の香り……そうか、彼ら、部活の後、シャワーを浴びて通学用のジャージに着替えてるのか。まぁ、そりゃ青学だものな、と納得。
あと、久々の渋谷では、飛行機の音が頻繁に聞こえるようになった。
見上げると、結構低い高度を羽田に発着する旅客機が飛んでいる……そうか、一昨年から横田空域が一部返還されて、民間機が飛べるようになったんだっけか。
こうした所にも久しく渋谷に来ていなかった事を感じた。
そして、シアター・イメージフォーラムに戻り、本日2本目は、
「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督《自己検閲》版」
これはルーマニアのラドゥ・ジューデ監督が、コロナ禍を背景に偏見や個と公などについて問いかけ、第71回ベルリン国際映画祭金熊賞に輝いた三部仕立てのブラックコメディの自己検閲版。尚、オリジナル版は第94回アカデミー賞国際長編映画賞ルーマニア代表作品に選出されている。
名門校で歴史教師を務めるエミは、夫とのプライベートセックスビデオがパソコンよりネットに流失し、生徒や親の目に触れることとなってしまった。
保護者会のための事情説明に校長宅に向け、コロナ禍の街を歩くエミ。彼女の抱える不安や苛立ちは、街ゆく人々も共有する怒りと絶望であった。
そして、学校でエミの問題について保護者会が開かれる。それは異端審問さながらの保護者たちによる終わりなき“裁判”だった……
この映画、エロティックなポルノ紛いの内容を期待すると裏切られた気持ちになるだろう。冒頭、それっぽくなるのだが、行為に入る前に監督自身による<検閲>で、ほぼ何も見えなくなってしまうのだ。
映画は、そのプライベートセックスビデオの被写体の女性、エミを主人公にしたものになる。
映画は三部構成となり、第1部は、主人公エミが街をひたすら歩いている姿を写し、第2部では言葉が羅列され、その“解釈”が語られる。ブラックジョークのような内容だが、現実社会も解釈やら言い換えやら、同様の事が頻発しているので笑うに笑えない――これが“ニューノーマル”と言うことか。第3部では保護者会と言う名の異端審問にエミがかけられる。その綺麗事と理不尽さの横行ぶりは、これもまた現実のカリカチュアライズだろうか。
三部を通し、映画の根底にあるのは、“怒り”なのだろう。長年の共産独裁政権を倒し、市民の為の社会に作り替えた筈のルーマニア社会の根底にあるものに対しての――その“隠されたもの”をポルノに代弁させ、様々な非難の応酬を現実社会の映し鏡としているのだ。その隠された問題を炙り出したものが、コロナ禍だった、と言う事だろうか……
映画の後、しょうが焼き専門店「Baka」で夕食。
それにしても、店名がバカって……
ログインしてコメントを確認・投稿する