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2020年03月26日05:40

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邪馬台国は九州か畿内か

邪馬台国が描かれているのは、「三国志」魏書の「鮮卑」倭人条、いわゆる「魏志倭人伝」です。「倭国大乱」の後に、「乃ちともに一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と日ふ」とあります。なお、邪馬台国は「やまたいこく」と読まれることが多いのです。

現在の奈良県、福岡県、熊本県をはじめ全国に「やまと」という地名があるとおり、「邪馬台」も普通名詞として「やまと」と読むのが適切でしょう。また、卑弥呼は通常、「ひみこ」と読まれていますが、「ひめみこ」という尊称が「卑弥呼」と表記されたと考えられます。

本来は尊称の前に固有名詞があったはずですが、それは伝わっていません。さて、邪馬台国といえば九州説か畿内説かという所在地をめぐる議論が盛んです。近年では、最初の王級である纏向遺跡の発掘調査の進展、また最初の倭王権盟主噴である箸墓古墳の年代を卑弥呼の次の世代くらいに遡らせようになったことによって、畿内説が優勢となりました。

だが、所在論のみに議論を集中させるのは、あまり生産的なことではないと言います。そもそも邪馬台国が当時の日本列島における最有力の権力、ましてや唯一の権力であるという前提を疑ってみる必要があると言うのです。

邪馬台国というのは、三国に分かれた中国の魏王朝と外交関係を持ったことが「魏志倭人伝」という中国史料に残されているに過ぎません。実は、日本列島と最も関係が深いのは三国のうち呉が支配していた江南地方です。

稲作は江南地方から朝鮮半島を経由して伝来したし、呉の年号を刻された鏡が鳥居原狐塚古墳、安倉高塚古墳、上駒古墳などで出土しています。だが、「三国志」は魏王朝を正統としており、魏書のみに本記と夷荻列伝がおかれています。

呉の外交記録は散逸して「三国志」には定着しなかった可能性が高いです。編者の陳寿が呉と敵対する立場にあったとすれば、なおさらでしょう。つまり、魏に朝貢したのが北部九州の倭国連合で、それとは別の権力体が呉に朝貢していた可能性も存在します。それはそのころですでに畿内に成立していた倭王権と考えられるでしょう。

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