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過去日記図書館コミュの母への想い、後悔、感謝

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http://www.youtube.com/watch?v=Mc5oqjFsT5g
http://www.youtube.com/watch?v=4XWYefe9EzI&feature=related
Bee Gees「Massachusetts」

僕の母は48歳でこの世を去った。
戦争中に思春期を過ごし、二十歳そこそこで結婚。
家庭を守り、3人の子供を懸命に育て、やっと少し余裕も出来て人生を楽しむことを夢みていただろう頃、突然父が倒れた。

重症の潰瘍で吐血して病院に運ばれた。胃の一番太い血管の通る壁に大きな穴が空き、吐血が止まらない。
輸血しても追い付かず、このままでは助からないと医者に言われた。
危篤になるかもしれないから、と母は親戚全部に電話した。
その日の夜、直ぐに手術。既に身体の半分以上の血液が入れ替わっていたらしい。
なんとか命を取り留めたが、母はそれ以来付ききりで看病した。

家には昼間少し家事をしに帰るだけだった。
たまに家で母に会うと、頬は窪み目は赤く腫れていた。それでも疲れや愚痴を漏らすことは一度も無かった。

姉は母娘の念願叶い旧SKDに入団してなんとか将来が見えてきた頃。僕は散々親に心配かけたあげく、大学を辞めたりもしたが、就職し安定もしてきていた。そんな時だった。


僕には言わなかったけど、今思えば、家を建て直したばかりだったし、弟も大学に入学したばかりの時。
長引く入院や治療費も大変だったかもしれない。
それを誰にも相談せず、睡眠もままならない生活の中、どんな思いを小さな母がしていたか…考えることは今まで無かった。

なんて薄情な息子だったのか…。

8月の終わりにやっと父が退院した。
退院を僕に知らせた時のホッとした母の顔を、今何となく思い出した。

1週間ほど自宅で休んで父が職場に復帰した。
父が倒れてから3ヶ月経っていた。

http://www.youtube.com/watch?v=CT89tnan5zY
http://www.youtube.com/watch?v=O7qCT8sg1bs
The Bee Gees「Melody Fair」

やっと日常が戻ってきた頃、僕の悔やみ切れない日が訪れた。

9月に入って2週目の日曜日の夜。
僕は日曜出勤し、仕事を終えて寛いでいた時だった。
当時は携帯電話など無かった。ポケベルさえまだ普及していなかった。

夜7時半近くになって仕事場の電話が鳴った。
母が倒れて救急車で病院に運ばれたことを知った。
夕方、パート先から帰宅して家事をしようとした時、突然激しい頭痛を訴え倒れたらしい。直ぐに救急車を呼んだが、日曜で近くの病院には全部断られ、散々走り回ったあげく、家から遠く離れた赤羽のキョーリン病院に運ばれたという知らせだった。

当時、僕の家があった府中市からは、高速道路を使っても1時間以上かかる。
激しい痛みの中、救急車で2時間以上も揺られた母は、どれだけの恐怖を感じたのか…。

慌てて車を走らせ、僕が病院に着いた時、母は個室のベッドで眠っていた。
一般病棟に空きが無く、そこに入るしかなかったらしい。

僕が到着して間もなく、病院側から「完全看護だから家族は付き添えません」と帰宅するように言われた。
検査も翌日、月曜にならないと出来ないからと、何も分からない状況で帰宅を迫られた。

父が、自分の看護疲れが病気を引き起こした、と感じているだろうことは容易に想像できた。
それなのに、倒れたその夜すら傍にいてやれない無念さは相当だったろう。

父、姉、弟を乗せて僕の車で帰った。
帰路、姉が「明日朝早く病院に来たいから、車を出して」と僕に頼んだ以外、誰も言葉を発することもなかった。

翌朝、病室に着くと母は目を覚ましていた。
弱々しい話し方だったけど、言葉も明瞭で意識はしっかりしているようだった。
自分のことより、姉と弟の心配ばかりしていた。

午後になって担当医から説明を受けた。

出血箇所が見つからず手術ができないこと。
もう一度発作が起きたら極めて危険だということ。
水頭症になる危険性があり、その時は意識が無くなること。
良い話は何も無かった。

病室に戻り、母を囲んで過ごした。
母は辛いだろうに、ずっと話を止めなかった。

1人1人に言葉をかけ、世話をやいた。
僕が「疲れてまた頭痛くなるから、少し寝たら?」そう言った時、母が手を伸ばしてきて僕の手を握った。そして僕を見つめて「みんなのこと頼むね」一言だった。僕は苦しくなって「何言ってるの、早く良くなってよ」と返したが、母はそれ以上何も言わなかった。ただ手を握っていた。

夜になり、面会時間が終わり、帰らなければいけなくなった。

何故かそこだけ記憶が曖昧なのだけど、その会話以降、その日に母としゃべった記憶がない。

誰も夕食を摂ることも思いつかず、また4人で何処にも寄らず帰宅した。
僕も何日も休みを取るわけにいかず、それは姉も一緒だった。父は次の日も会社に顔だけ出し、また午後から病院に行くと言った。弟には学校に行くように言い「何かあったら直ぐ知らせるから、普通に生活しなさい」と僕たちに言った。

翌日からは僕は車で通勤し、終わり次第病院に寄り、父か弟を拾って帰宅した。母を見舞う時間には間に合わなかった。姉が一番母の傍にいたかったはずだけど、舞台に穴を空けることは出来ず、やはり病院に行くことは出来なかった。

母は二度目の発作を起こさなかったが、何度か検査しても出血箇所を見つけることは出来ていなかった。

このまま投薬で様子を見るしかなかった。
父はその時言わなかったけど、母は淋しそうにしていたらしい。

次の日曜日、事態が急転した。

http://www.youtube.com/watch?v=jzLTLVQj6FE
http://www.youtube.com/watch?v=o89ThKtNrlU&feature=related
The Bee Gees「First of May」
http://www.youtube.com/watch?v=lvVOchm5cpw
SARAH BRIGHTMAN「First of May」

恐れていた2度目の発作があり、水頭症を発症した。意識がなくなり、寝たきりの状態になった。
ところが9月の中旬と言えば秋の連休期間…この時も3連休で、母が意識を失った時、病院には担当医も専門医もいなかった…。

僕たちが病院に着いた時には母は意識を失った後だった。

担当医がいないと知った怒りを病院は受け流し、僕たちは呆然と母を囲み、祈るしかなかった。翌日も同じだった。

その日から1週間、母の意識は戻ることは無く、次の土曜日、息を引き取った。父だけが看取った。
倒れてわずか2週間、再び家に連れて帰ってあげることも出来なかった。

翌日、遺体を引き取りに行った。
何も感情は涌かなかった。
姉は泣き続け、弟は呆然としていた。父は忙しく手続きや連絡、葬儀の手配をしていた。

安置所から母を運び出す時、家族で母を持ち上げたが、わずか150�僂靴�ない母はとても重かった。人は死ぬとただの物体になり重くなる…そんなことを思った。

その晩、父と母の寝室にしていた1階の和室に、蒲団を敷いて母を寝かせた。
父がずっと傍に付いていて、姉も時々母に寄り添っていた。そんな時は父は離れて、母姉2人にした。僕と弟は、時々覗いたけど、父の邪魔をしている気がして隣の居間で過ごした。
翌日になると父母の故郷・静岡から大挙して親戚が上京して来た。

通夜が始まり、普段顔を合わずこともない親族がワイワイ食卓を囲み酒を酌み交わした。
僕は何故かハイの状態で一緒に酒を飲み、思い出話に加わった。

姉だけが、親戚の叔母たちと台所に立ち、料理を運びながら終始目を腫らしていた。そして時折、母の傍で嗚咽し、叔母たちに慰められていた。
父を含め男たちは良く喋り飲んだ。でも誰一人酔うものはいなかった。


僕が悔やみきれないこと。
母が倒れた朝、僕は出勤に合わせ8時に起きるつもりでいた。母のパートは朝8時からだった。家から自転車で20分くらいの距離だった。

その朝7時半前、僕は慌てた様子の母に起こされた。
「遅刻しそうだから、起きて車で送って」

ところが僕は僅か30分早く起こされた事に腹を立てて、その頼みを断った。

後でそれを後悔した。

もしかしたら、母は朝から体調に異変があったのかもしれなかった。それで起きるのが遅れて遅刻したのかもしれない。
あの時、僕が優しく労って車で送っていれば、それに気づけたかもしれないし、母も漏らしたかもしれない。そうでなくとも、少しだけストレスを少なくしてあげられたかもしれない。
そうだったら、あの日の夜、母の頭の中で血管が切れることは無かったかもしれない。

僕は母と最後に喋った日、それを謝った。母は何も言わなかった。
母の最後の言葉
「みんなを頼むね」…
遺言みたいな言葉…

母は意識して言ったのだろうか…

もう最後の言葉、そう感じていたのだろうか…

意識がある状態で2度と会えない、そんな風に感じていたのだろうか…


何も余裕を持たず、人生これから…
そんな若さで世を去った。
母の人生って何だったんだろう…

2度目に血管が破れ、激しい痛みと薄れていく意識の中で、母、彼女は何を想っていたんだろう…。

僕は54歳になり、母より6歳も歳上になった。

明るくて疑うことを知らない母だった。
陽気で音楽や歌うことが大好きな母だった。
僕にエルビス・プレスリーの映画を見せたのは母だった。
いつも忙しなく働いていた母だった。
僕が高校を卒業し、女の子と付き合っているのを知ると、黙って机の引き出しに避妊具を入れてくれた母だった。
高校の学園祭にバンドで出演するのを知って、ド派手なネクタイをプレゼントしてくれるような母だった。


不謹慎で不快な表現かもしれないけど、今ならそんな彼女を抱き締めてあげたい。

当時は思いもよらなかった、沢山の感謝を言葉にして伝えてあげたい。


母にたまらなく逢いたい。



今日は何故かこんなことを思い出した。

こんな日記を書くつもりは全く無かった。
書き始めたら、書かずにいられなくなった。

この日記に張りつけたBee Geesのロビンも先日他界した。
これらの曲が流行った頃、僕は自宅のステレオでいつも聴いていた。
勿論、洋楽好きだった母の耳にも聴こえていたはずだ。




母に逢いたい、もう一度だけ。


http://www.youtube.com/watch?v=W2YJf8P4Nt4&feature=fvst
http://www.youtube.com/watch?v=dJmRdE3WBgE
The Bee Gees「Holiday」

コメント(1)

泣けるやん

大切な人を亡くす
もう会えない。もう話すことも出来ない。

こんな年になっても
子供のように
「聞いて聞いて〜」
って甘えてみたい…

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