ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

昭和30年代の街角コミュのキャッチボール

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 8月の頭に娘夫婦がカナダからやって来た。旦那はカナダ人で英国人にはなじみのない野球には小さい頃から慣れ親しんでいる。そこで日本から持って来たグローブと硬球の江川のサインボールを用意しておいた。

 前もって見せておいたら、あるとき向こうから「やろう」と言ってきた。

 久しぶりに握るボールは右の掌に硬さが伝わってきて気持ち良かった。しかし、20球も続かなかった。すぐに息が切れた。

 子供の頃はまったく疲れることを知らずにやり続けた。どちらかが用事で母親に呼ばれるまでやっていた。やっている最中に仲間が加わってきて野球を始めることになったりする。

 3人以上でやるときはベースを2つおいて、球を投げ合う二人以外はランナーになり、隙を見てベースからベースに走ってセーフなら続行。アウトなら交代などというゲームをした。子供はすぐにエラーするからゲームになりうるのだ。

 空高く球をほうり投げてフライの取り合いなどもした。遠くに投げすぎて隣の草茫々の原っぱなどに入ってしまうと、鉄条網を張り巡らした自分の背よりも高い塀を乗り越えて探しに行かなければならない。ボールが見つからないとそこで遊びは終わってしまう。

 ひとりで壁にボールをぶつけてはね返ってきた球を受け取るなどというのもよくやっていた。ときどき、酒屋の配達のお兄さんが「やろう」などと言って、もうひとつグローブを持ってきてやったが、大人の球は速くて少し怖かった。それでも手加減してたんだろう。

 父親とは一度だけした覚えがあるが、「疲れた」と言ってすぐにやめてしまった。「何だ」とがっかりしたっけ。

 やはり兄か隣のしんちゃんと一番やったのではないか。

コメント(3)

私には二つ上の兄がいますが、あまり近所で野球をやっていた記憶がないんですね。 小さな空き地はあったのですが草が膝くらいまで生えていて野球には適さなかったのでしょう。 プラモデルなんかはやっていたのでどちらかというと室内派だったのかもしれません。  今度会ったら聞いてみようわーい(嬉しい顔)
それにしても昔は遊びの時間もゆったり流れていましたね。
子供時間でゆっくり感じるというだけでなく。
なんでも時間を忘れてやってしまう子だった私は、真っ暗になるまで少し離れた友達の家のまわりで遊んでいて、母が呆れて迎えにきたことが何度かありました。
一体何を夢中になって遊んでいたのやら。
今は遠く記憶の底に埋もれそうな思い出です。ハート
>>[1] 子供のときは一旦はまると中毒になったように夢中になりましたね。それがあるときペロっと剥がれ落ちたように興味が失せたりしました。

 キャッチボールは定番の遊びで、夢中になることもなかったけれど飽きることもなかった。

 大人でも町工場のお兄さんたちが昼休みに道路でやってました。車の通りも少なかったし。お兄さんたちの昼飯はコッペパンに大きな四角い金属性の容器に入ったジャムやマーガリンをほてい屋のおばさんに塗ってもらったものでした。子供心に美味しそうに思っていたけれど、どうだったんでしょう。ついぞ食べたことがなかった。

 工場の入り口にはみかん箱が置いてあって、螺旋状の虹色の金属の削り屑がたくさん入っていて、入り口の奥は薄暗くてベルトに操られた機械がすさまじい音で唸りをあげて動いてました。油の匂い、黒光りした床、淀んだ空気。昭和30年代の風景のひとつですね。
>>[2]
↑ 最初の二行、まさにそうですね! こんな風に的を得た文章に出会うと嬉しくなります。  家にもグローブはあったから兄もキャッチボールはやっていたかもしれません。
パン屋さんでコッペパンにジャム塗ってもらいましたね!
最書は苺しかなかった気がします。ピーナツはあったかな。

町工場のお兄さんのキャッチボール。 異空間のような工場の描写。
極楽さんの文からは味わいと共に、いつも映像が浮かんでくるのです。
随筆家とか映画監督とか、きっとそちらの方向への才能があったに違いないと思います映画

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

昭和30年代の街角 更新情報

昭和30年代の街角のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。