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日蓮正宗 創価学会 和合を望む会コミュの争いが大ちゅきな大石寺 道郷論争

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道郷論争は日興上人を始めとした門流の重鎮方が相次いで御遷化された事により、門流内の抑えが利かなくなった事が勃発の第一要因なのです。

黎明期の富士門流は日興上人の人望と指導力、統率力カリスマのみで維持されていました。

その日興上人が御遷化され、更には日目上人や日澄師と言う日興上人を補佐する諸師も相次いで御遷化されてしまった訳です。

門流が重しを失い、束ねる箍が外れた状態になってしまったのも当然の成り行きでしょう

日蓮正宗を盲信する人々は創建当時から大石寺は富士門流の総本山であり、騒動の当事者たちは御法主日道上人に逆らった師敵対の輩だと屁理屈を捏ねますが、当時の大石寺は、門流の総本山でも何でもなく、単なる南條一族の菩提寺であり、貫主の日道上人も門流を統率する権限はお持ちではありませんでした。

故に日道上人も騒動の当事者に巻き込まれざるを得なかった訳です。

結果、門流の主導権争いと、大石寺・重須両寺の跡目争いが表面化し、相次いで騒動が勃発したのです。

更に問題を複雑化させたのが南條一族、石河一族と言う檀越でもある領主の思惑と介入でした。

領主としてみれば菩提寺は自分たちの思惑通りの跡目にしたかったのです。

重須日代上人にしてみれば、唯一存命の宗祖直弟子である日仙上人に敢えて挑み、打ち負かす事で日興上人後継の座を磐石にする思惑があったのでしょうが、一方で領主石河殿は日代上人と反りが合わず、何れ廃嫡に追い込みたい思惑があったのです。

道郷論争も一説によれば、大石寺後継を定めぬまま日目上人が遠国で御遷化された事を受け、大衆の互選で日道上人を貫主に招聘したものの、天奏から戻られた日郷上人との力関係が崩れ、論争に発展したとも言われていますし、領主の南條時綱殿は一族と姻戚関係の日道上人を何故か敬遠し、日郷上人に殊更肩入れしたとも伝わっており、結果大石寺東坊地を日郷上人一派に寄進し、東御堂を新たに建立すると言う挙に出た様です

その様な極めて、世俗的な背景や領主からの圧力もあり、騒動を仲裁し、門流を牽引なさる程の御英傑が、出現さらなかったと言うのが実情なのです。

正に、魔の跳梁とも呼べる内紛が続いた訳ですが一度出来た溝が消える事なく、門流が分裂に至った事は誠に残念至極としか言い様のない不祥事だったと言えましょう

http://bukkyoshugakukenkyukai.m.doorblog.jp/article/4632519

『日目上人天奏の途上垂井の遷化は大石に多大の不祥を発し法運壅塞の原由となれり、時に大石の西大坊に主職する日道と東坊蓮蔵坊に住する日郷との間に宗義の諍ひ起り東坊中の一二此に左袒したるより大衆の為に擯出せられ、房州の旧地に去るに至れり、此を以って日郷は南条の宗家たりし時綱に乞ふて東坊地一帯の寄進を受け又其嬰児牛王丸を其後董として互に結託し、事を官憲に訴へて進出し東御堂を作りて西大坊と拮抗せり、此より以後或は地頭或は守護或は管領と官憲を煩して東坊地の出入諍論七十年に亘りて事遂に西大坊の理運に帰せり』
富士宗学要集史料類聚第二の上、離合編第四章「石泉の離反」


大石寺を追われた日郷派は東坊地(蓮蔵坊)を去り、
いったん千葉に戻って法華堂建立、そののち小泉久遠寺を建立。
そこに宝物を迂回して千葉の法華堂に運び込んでます


大石寺と日郷門徒の対立は続き、お互い正当性を主張するため
訴訟も含めて約70年間も・・オバカですね。


静岡県史資料編6に収録文書によると、
日郷→日伝は日目より勘当を蒙り大石寺から出入りを
停止された等々の虚偽文書を大石寺で作ってまで追い出したんですね。


日目在世のとき日伝は子供なんですけどねw。

牛王丸(日伝の幼名)



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