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『正法眼蔵』ファンクラブコミュの「現成公案」を読む 1

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「(1)諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。

(2)万法ともに我に非ざる時節、惑いなく、悟りなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。

(3)仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。

(4)しかも、かくのごとくなりと言えども、花は愛惜に散り、草は棄嫌に終うるのみなり。」


考究させていただきましょう。

コメント(15)

(1)(2)(3)までならば正反合で弁証法的な論理の展開のように思えますが、どう考えても(4)は一連のものです。それで(1)(2)(3)(4)を一つのまとまりのある物として理解するには、絶句の形式である起承転結を当ててみると展開の方法が理解できます。これは私の発見したものです。
>>[001]、いつもありがとうございます。
ともに少しずつ考えさせていただきたいと思います。


>(1)諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。


もろもろのものを仏法の観点から見るようになる発心の時に、人はそれまでの迷いを捨てて悟りを目指すし、そのための修行を行うようになるし、生と死という迷い・輪廻を超出しようとするし、自分を導いてくれたり自分の目標となってくれる諸仏を仰ぎ見たり、自分の出自である衆生をとらえたりしている。
すなわち、発心の時には人はまだ二元対立的にさまざまなものをとらえている。
>>[2]
私も最初は、発心の時という読み方をしていましたが、後世の解釈のように思われます。また小乗の立場と言うのも解釈です。優劣を付けているようには思われません。漢詩の対句としてテキスト自体の(1)(2)の対応関係を細かく見ると見えてくるものがありますよ。
>>[003]はどのような意味に取られるのですか?
>>[4]
道元のこの言葉をどのようにとらえるか。答えであると同時に問いかけなのです。皆さんは答えであると思って読んでいるのではないでしょうか。
>>[005]

どのような性質の言葉であるかを判断する前に、どのようなことが言われているのかの読解が大事だと思いますが、
道元禅師という絶対的権威者の口から出た答えとして読もうという先入観に立つ読み手は、もちろん多いでしょうね。

人様はともかく、ぼく自身は何よりも、ただその内容の意味を知りたいと思って読解するばかりです。
杜甫の絶句の起承の対句で
江碧鳥逾白
山青花欲然

江と山とは対比されるもの、花は赤を想定していますから
ただ単に、
江の周辺に鳥が飛んでいる。
山に花が咲きだした。
と言っているわけではなく、
二つのコントラストの中にある緊張関係によって、
行間に言外の意味を作り出しています。

(1)(2)の対比にも同じことが考えられます。

これは他の個所でも認められるものでここに
限って言えるだけのことではありません。

定義されていない言葉が並べられているので、つい典拠を探し
意味を求めたくなります。しかし、それならば道元がわざわざ
この言葉を書く必要はありません。
道元は経典のダイジェストを作っているのではないです。
経典の文脈の中の意味を脱構築して、ここに示していると
考えます。

誰かの言葉の意味ではなく自分の言葉の意味を見つけて
ください。

>>[007]

>経典の文脈の中の意味を脱構築して、ここに示していると考えます。誰かの言葉の意味ではなく自分の言葉の意味を見つけてください。


経典の意味というのもさまざまな受けとめがありえますが、それも時代を重ねるといくつかの有力な読みというものが大事にされるようになる。
道元禅師はそうした有力な読みにさえも縛られることを拒否して、自由な読解からあらためて真理を浮き彫りにしようとされていますね。
そういう読み方ができるようになることはとても尊いことであり、ぜひそういう研鑽を重ねたいものですね。
>>[8]
「有時」の巻は、「昔々あるとき」の「ある時」を「有」と「時」と分けて読み、悉有仏性は「悉のものに仏性有り」を「悉有は仏性である」と読むような、もとの文脈を完全に無視した読み方をしています。これは「おや?」っと疑問を持たせるように、道元が意図してやっているように思われます。宗門ではこう読むものだと教え込まれるのでしょう。誰も疑問をもたない。疑問を持つのは素人だからぐらいしか思わないようです。ずいぶん前に出版社がこのアイディアを買ってくれて、出版の間際まで行ったのですが、事情があって出せなくなりました。
>>[009]

言葉というものは人間どうしがお互いの意思疎通のために或る共通了解、約束に基づいて使う道具だから、
もちろんそうした共通了解、約束をまったくご破算にして自分にしか通じない言葉や文章を語っても意味がない。
かといってまったく先人が構築した仏教解釈に唯々諾々と従うだけなら、それでは暗記力だけの問題で、本当の人間の心が開かれてくるということがない。
だからこそ道元禅師は、共通了解や約束事を破壊していきながら、その破れ目に真理を浮かび上がらせようとされたのだと思います。


(1)さまざまなものに仏法をもって向き合おうとする時、迷いと悟りとか、迷いを離れ悟りを得るための修行とか、生と死とか、仰ぎ見る諸仏と脱却してゆく衆生とかのように、
そこには二元的な対立の相が立ち現れている。
>>[007]、いつもありがとうございます。


>(2)万法ともに我に非ざる時節、惑いなく、悟りなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。


今度は(1)において一つ一つのものが「あり、あり」と分別され認識されていたのとは一転、「なし、なし」と無分別の相に転入している。
すなわち、あらゆるものが我、アートマン、自性のないものだと悟られる時節がここに表現され、
(1)の仏法と向き合い始めた発心の時節と明確に対比されていますね。
>>[11]
対応していないのはどの言葉でしょう。面白いことに気が付きますよ。


現成公案、すてきですね。

この言葉を『理解』するのでもなく、『納得』するのでもなく、

味わう…、すてきな言葉です。


毎朝の暁天座禅・読経中に、そう感じました。

あらためてSNSで文章がアップされるのも良いですね。ありがとうございます。

>>[013]、どうもありがとうございます。
私たちの身近に、すなわち同じ国に、大変深く仏教と向き合った人がいて、
しかもその考え求めた軌跡を書き遺して下さっているのに、
現代の日本語からは遠く隔たったもののように感じて、寄り添えずにいるのは、とても勿体ないことですよね。
「現成公案」のアイデアは、結論としては、念仏宗、特に一遍の考えと、コミュニケーションできると思うのですがいかがでしょう?

禅宗と念仏宗の考えは、アプローチは逆でも、結論としては、徹底すれば一致するのではないでしょうか?

それはどうも応用すると、「かむながら」の神道にも行き着くと思います。

そういう観点では、「現成公案」の考えは特に重要だと思います。

「山川草木悉有仏性」という考えと、似ていませんか?

正法眼蔵は、岩波ワイド版で、全巻揃いで持っているので、その観点から出発して考えたいと思うところです。

現代における、リアルな問題提起として、鎌倉仏教は、大変重要だと思います。

我々日本人の血肉ですね。

もちろん、単純な間違いは率直に訂正します。

皆さんの意見を是非お聴きしたいと思います。

おから



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