ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

高遠城と高遠藩コミュの保科正俊と保科正直を語るトピック

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
【保科正俊】(ほしな まさとし) 1509〜1592
 甚四郎 弾正忠 筑前守
 父:保科正則 子:保科正直、内藤源蔵昌月
 1545年頃から甲斐・武田氏に仕えました。武田氏滅亡後は三河・徳川氏に仕えて、信濃・高遠城主となりました。武勇に優れ槍を得意としたことから「槍弾正」と呼ばれました。

【保科 正直】(ほしな まさなお)
1542年(天文11年)〜1601年10月24日(慶長6年9月29日)
父は保科正俊。子に保科正光。保科正貞。北条氏重など。

 父と共に甲斐武田氏に仕え、信濃国飯田方面を守備した。1582年、武田氏が滅亡すると徳川家康の家臣となり、下総国二万五千石を領しました。その後は、真田昌幸の上田城攻めなどに従軍して活躍しました。

 保科正俊は、保科正之の曽祖父に当たる人で、高遠保科家中興の祖といわれています。1545年(天文14年)に高遠頼継が信玄によって攻略されたころから信玄配下となりました。
 保科正俊の君主であった高遠頼継は1542年(天文11年)に諏訪頼重を武田信玄と一緒に挟み撃ちをして滅ぼした際、信州茅野の宮川を境に東側が武田領、西側が高遠領という取り決めをしました。
 しかし頼継は「自分こそが諏訪の総領の家系である。」と宣言し、信玄領に攻め込んだことから信玄の怒りを買い、1545年(天文14年)に信玄に攻略されていました。
 それから7年間頼継は生きながらえますが、1552年(天文21年)に切腹させられて、高遠氏は滅亡します。
 頼継が切腹させられたのは、まだまつろわない南信濃の豪族を完全支配するために、見せしめに切腹させられたと言われています。
 正俊は、1546年(天文15年)信玄が佐久の志賀城主である志賀平六左衛門を攻めた際に、家来の北原彦右衛門と共に参戦し、志賀平六左衛門の首を討ち取ったことからその功績が称えられ、信玄公直々に銘刀「基重」を譲り受けました。
「槍弾正」ともてはやされる様になったのもこの頃です。
 その後信玄配下の武将として数々の戦で活躍します。
 時代が流れて1582年(天正10年)に仁科五郎盛信が壮絶な討ち死にをして戦死して武田家が滅亡し、程なくして信濃を治めたかに見えた織田信長が本能寺で明智光秀に討たれると、混乱に乗じて、北条氏直と通じて息子正光とともに兵500で高遠城の奪還に成功します。本能寺の変から2ヵ月後の8月のことでした。その年の10月に徳川家康と北条氏直が和睦したことから酒井忠次を通じて、徳川家康と誼を結び、後29年後に保科正之(幸松丸)を養子として迎え入れる下地をつくったのです。
 第一次上田合戦への参戦や鉾持桟道の戦いについては、また別のトピックを立てたいと思います。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

高遠城と高遠藩 更新情報

高遠城と高遠藩のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング