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高遠城と高遠藩コミュの保科肥後守正之公

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保科正之公【1611(慶長16)〜1672(寛文12年)】
彼が秀忠とお静との間に生まれた落胤であり、第3代江戸幕府将軍家光の弟でした。
しかし、正室於江よの方の妬みを避けるため、見性院、信松尼に幼き日を預けられ、七つにして信州高遠の保科正光の元にやってきました。そして21歳になるまで多感な少年期、青年期を正光に養育され、君主に仕えるべき道と民のための政治とは何かを教え込まれます。わずか3万石の地方の小大名に育てられたからこそ、こういう教育が正之は受けられたのだと思います。将軍家の中にいては「君主に仕えるべき道」は教えられずに終わってしまったことでしょう。
1632年(寛永8年)22歳にして信濃高遠藩3万石、1637年(寛永13年)27歳にして出羽山形20万石、1644年(正保元年)陸奥会津藩23万石の大名に抜擢されました。
家光と家綱に仕えるあくまでも補佐役に徹し、決して表には出なかった。しかし、意見は意見としてしっかりと言う。
1657年の明暦の大火の時などは、江戸城天守閣を作り直そうとする幕閣を前にして、
「民衆の復興が、江戸の街と町人の復興が先であり、天守閣など後回しでよろしい。」本当に頭が下がる思いであります。後回しどころか本当に今も天守台のままです。それだけに質素倹約の第一人者でもあったわけです。
生涯将軍の弟でありながらも、自分は保科正光に育てていただいた恩があり、保科の養子である。として松平の姓を名乗ることも固辞しました。2代目会津藩主の正経公(保科正之公の四男)も保科姓で、松平姓を名乗り、家紋を並九曜から葵の紋に変えたのは、第3代藩主松平正容公(正之公の六男)が1681年(天和元年)に家督を継いでからです。
また3代将軍家光の姉、和子(まさこ)は後水尾天皇の女御として入内していて、明正天皇を産んでいますので天皇の叔父でもありました。そこで家光が官位を正・従二位の官位に相当する右大臣に任ぜられたため、正之にも「位階従三位に叙し、左近衛権中将に任ずる。」と朝廷から伝えられましたが、これを固く断っています。
後に中将のみは拝受しましたが、従三位の位階は断り、従四位下のままつまり普通の大名クラスの位を生涯貫き通した謙虚さが正之公にはありました。会津藩猪苗代には会津中将源君の墓に保科正之公は今も静かに眠っておられます。

そんな保科正之公に対する思いや、史跡、エピソードいろいろな関連事項など語っていただけないでしょうか。よろしくお願いします。

もうひとつ保科正之公が描かれている、みなもと太郎の「風雲児たち」という漫画を探しています。昔はよく古本屋にも入荷されてきたらしいのですが、最近は入ってきません。この漫画自分は喉から手が出るほど欲しいです。
マイミクのまん専のおやじさんの店(まんが専科)にも在庫がない状況です。もし、持っていて知っているよとか、読んだ事あるよ。という人は情報を下さると非常にありがたいと思います。

みなもと太郎「風雲児たち」(出典フリー百科事典ウィキぺディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%9B%B2%E5%85%90%E3%81%9F%E3%81%A1

写真左:高遠の街並み
写真中央:保科正之公(ポスター)
写真右:高遠樹林寺にある保科正之公頌徳碑



コメント(11)

まん専のおやじさんがやってるコミュニティ
私かわちゃんも参加させていただいています。
「古い漫画を語る会」にもどうぞ情報をお寄せください。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=266192
保科正之が山形へ行ってしまった後、高遠藩には次のような臼挽き歌が流行りました。
「今の高遠でたてられやうか早く最上の肥後様へ」
いかに正之が慈愛に満ちていた藩主だったかが窺えるエピソードです。
かわちゃんさま

保科正之公、すばらしいお方ですね。
今の年金に相当する制度も確か会津領で始めた方ですよね。
この時代から目をつけるとは、さすがです★
民のための君主、政道をされた正之公には頭が下がります。
また『将軍の弟だ』と、でしゃばらない姿勢もすてきです。
肥前守様
保科正之公は、
・間引きを禁止する布達。(一度母親の胎内に宿った子供を堕胎させてはいけない)
・病んだ旅人を見つけた時、行き倒れになりそうな旅人を見つけた時は、すぐに医者に連れて行き、静養させるなどの処置を促す布達。(今で言う救急医療制度)
・90歳以上の老人に扶持米を1人分与えるという布達。
(おっしゃるとおり、今で言う国民年金の制度)
などの布達を会津藩に出しています。
本当に今から360年も前にこのような政治を行っていた正之公はすごいと思います。
このほかにも、「常平法」といって藩が豊作の安い時に農民から米を買い取り、不作の時、米が高くなったら藩が米を安く売る。これによって藩の米の相場を安定させる(米の値段の変動を少なくする)という方策を採りました。
これによって、領民たちの生活が安定し、正之公の亡くなって30年後の1710年ごろの会津藩の人口統計は正之が会津に入った1643年の1.5倍に増加したそうです。それだけ藩が潤ったということがいえます。

【扶持米】
禄米とは別にもっと下級の武士に支給されたもので、一人一日五合の米を支給しました。一年を360日で計算し、一石八斗(270kg)を一人扶持と呼びます。これは毎月一日五合×30日で一斗五升(22.5kg)禄米と同様の手順で受け取りました。

【お米の単位】
http://www.naozane.co.jp/okome/tani.htm

【御家人について】
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/osaru/edo/gokenin.htm
☆ヒロシ☆様
足るを知る素晴らしい言葉ですよね。山形藩は保科正之公が会津に入る前に足掛け8年間藩主として過ごした土地ですね。
米沢藩の上杉鷹山公とともに領民への善政を敷いた藩主として尊敬しています。
江戸時代に改革を行った人物は皆、質素倹約を自らに課し、政務を行っていますよね。
私もまだ山形と会津は行っていませんので、近く訪れようと思っています。
☆ヒロシ☆様
会津松平家(保科正之子孫)と米沢上杉家は奥羽越列藩同盟により、長岡藩や庄内藩とともに幕末は、佐幕派として活躍しますよね。
ですが最後に新政府軍に追い詰められた米沢藩は、結局新政府側に就いて、会津を攻撃してしまいます。

馬見ヶ崎川の感慨工事は、前藩主鳥居忠政(のちに三男鳥居忠春は高遠藩に転封になる)と保科正之の手によって行われましたね。その部分を含めてこれから私も勉強してみたいと思います。

余談ですが、馬見ヶ崎川は芋煮会で有名な川ですね。
 福島県猪苗代町土津神社(はにつじんじゃ)裏山にある、会津藩保科家初代藩主である、保科正之公の墓を訪ねてきました。
 念願かなって、やっと憧れの人の土地会津にやって来れたことを嬉しく思いました。

 先ずは土津神社をご覧ください。
 延宝3年(1675年)に保科正之公を祀って、創建されました。
 以後歴代会津藩主(保科家・松平家)が祀られてきましたが、戊辰戦争の戦火によって焼失し、その後猪苗代町の人々の手によって再建されました。
 再建の際には細菌学者野口英世も大きくかかわり、貢献しています。
 野口英世(清作)も尋常小学校の頃から参拝に訪れ、アメリカで成功を収め、ふるさと猪苗代に帰省した時に恩師小林栄先生をスナップ写真に撮っています。
 土津神社の裏を登って行くと、保科正之公のお墓に到着します。
 保科正之公は第二代将軍徳川秀忠の落胤として、お静の息子として生を受け、見性院や信松尼の庇護を受け養育されました。見性院の母は三条の方、信松尼の母は油川氏で仁科五郎信盛の母でもありました。つまるところ、二人は武田信玄の娘で異母姉妹であったのです。
 やがて高遠藩主保科正光の元に預けられ、藩主としての心構えを教わり、やがて高遠3万石の藩主になります。
 その後山形20万石、会津23万石と出世を続け、第四代将軍家綱の補佐役として大抜擢され、大名証人制度(大名やその重臣の幕府への人質として、身内の者を江戸に住まわせる制度)の廃止や末期養子(当主で跡継ぎのない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子)の禁制の緩和など改革に乗り出し、明暦の大火のあとには「江戸の町の復興こそが第一」と奮闘し、江戸城の天守の再建はついに実現されませんでした。
 まさに足るを知る、質素倹約を自ら実践した藩主であり、将軍補佐役でありました。
 また、朱子学を重んじて、好学尚武の気風を幕閣内に取り入れ、林羅山などを重用し、朱子学を批判した国学の祖山鹿素行を赤穂藩に配流するなどしました。
 この山鹿素行の教えが後に「忠臣蔵」赤穂四十七士に大きな精神的影響を及ぼすのです。
↑訂正:10のコメント上から4行目
(誤)仁科五郎信盛→(正)仁科五郎盛信

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