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高遠城と高遠藩コミュの正之の養父保科正光を語るトピ

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保科正光【1561年(永禄4年)〜1631年(寛永8年)

保科正之の息子である保科正光は、駿府在城時の徳川家康の側近に仕え、1584年(天正12年)「小牧・長久手の戦い」にも従軍しました。第一次上田合戦や鉾持桟道の戦い(これについては鉾持桟道の戦いトピをご参照ください。)があり、
その後豊臣秀吉と徳川家康の連盟が成立し、天下は統一への気運が高まります。

秀吉の後北条氏征伐(天正17年〜天正18年:1589年〜1590年)にも保科正直・正光親子が出陣し、家康本隊に加わって、百余日間小田原包囲軍に参加しました。
後北条氏が倒れたあと、秀吉の命により家康は関東へ移ります。この際保科正直、正光親子も下総国(千葉県)多胡1万石を与えられました。
この後間もなく正直に代わって正光が領主となります。
関ヶ原の戦いのときは浜松城を守り、さらに越前国北ノ庄城を守護し、領内の政務を裁断しました。関ヶ原合戦後、信濃国の旧領高遠に移され高遠城主として二万五千石を領しました。

見性院や信松院(武田信玄の娘)から盆暮れ正月には必ず旧武田家家臣として臣従の挨拶を欠かさない正光の実直な人柄を見込まれて幸松丸(後の保科正之公)の養父に指名され、第二代将軍秀忠とお静との間に産まれた幸松丸と母お静を引き取ることになります。
この際秀忠からは養育料として五千石の加増を拝し、ここに高遠藩3万石の基礎が築かれました。

正光は正之に将軍に仕えるための忠誠・忠義の道を説き、保科家屈指の学者であり、武功の者でもある井上市兵衛、狩野八太夫、小原内匠の3人を高遠城内南郭に設けた幸松の部屋付(教育係)に指名して、正光自らも月に5・6回本丸から正之の元を訪れては幕府へ奉公する心構えをといたといわれています。

高遠藩時代の保科正之の7歳から21歳までを温かく見守り、後の名君の下地をつくった人物です。

写真左:保科正光肖像

 中央:保科正光が建立した高遠町樹林寺(保科家の祈願所)慶長6年(1601年)に正光が下総国多胡から信州高遠へ移る際に、多胡にあった樹林寺の観音堂の土を運び、城の鬼門(丑寅の方角:北東)にあたるこの地に観音堂を建て、夕顔観音を写し作って勧請したといわれています。

 右:保科正之公頌徳碑

コメント(15)

正之公頌徳碑の傍には生母お静(志津)の慰霊碑も建てられています。
高遠町は絵島と生島新五郎の関係から東京都三宅村と姉妹都市関係を結んでいます。このお寺の紫陽花は三宅村から寄進されたものです。梅雨の時期にまた行ってみたいです。
<<見性院や信松院(武田信玄の娘)から盆暮れ正月には必ず旧武田家家臣として臣従の挨拶を欠かさない正光の実直な人柄を見込まれて幸松丸(後の保科正之公)の養父に指名され、第二代将軍秀忠とお静との間に産まれた幸松丸と母お静を引き取ることになります。

こういった正光の律儀なところが好きです。
保科正光という、すばらしい養父にめぐりあえたことが、
保科正之の幸運のはじまりだったと思います。
肥前守様
その保科正光ですが、家光、忠長の母である於江与の方(小督)が1626年(寛永3年)9月15日に亡くなると、その月のうちに幸松丸(のちの正之)をつれて駿河国の駿府城の忠長の所へ「秀忠と幸松親子の名乗りの機会を作ってほしい。」と挨拶に出かけます。最初田舎物と思って二人を小馬鹿にして、番所に誰も家臣を置かないという不届きな態度を取ったのですが、利発な16歳の少年幸松丸を駿河大納言も大いに気に入り、「できるだけ、父子の対面を果たせるように協力する。」という約束を取り付けます。しかしその後1631年(寛永8年)夏に秀忠が病にふけり、1632年の正月に秀忠は逝去。正光・幸松の願いは叶いませんでした。
失意のうちに正光も同年10月10日、江戸鍛冶橋の高遠藩邸滞在中に61歳の生涯を閉じます。

彼の墓は高遠の建福寺に建てられました。
法名を大宝寺殿信厳道義大居士といいます。藩士たちは「道義さま」と彼のことを称えました。

旧主武田信玄の娘見性院の依頼を良く守り、この法名のようにひたすら道義に生きた人生でした。

保科正光と保科正直のお墓(建福寺)
ちなみに左の写真一番右は、武田勝頼母の諏訪御領人(湖衣姫)の墓です。
中央:正光の墓
右:正直の墓
かわちゃんさま

ありがとうございます。
画像付きとは、うれしい限りです。
忠長のところにいく逸話はなにか本で読んだ覚えがあります。実現しないまま、真の父親が亡くなり正之はどのような気持ちだったのだろうと思うと・・・。
肥前守様
夢酔藤山様
保科正之は兄家光と再会したあとも、将軍の補佐役に徹し、自分が決して表舞台に出ることなく、なおかつ幕府が民衆のために政治を行えるよう配慮しましたね。
1657年(明暦3年)に江戸の町を焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)のあとの復興の際には、「民衆の復興が先であり、江戸城の天守閣など後でもよい。」というようにまず民衆ありきの政治を行った点は、本当に実直な正之の人柄を物語っています。
正之は家光・家綱に松平姓を名乗ってほしいといわれても、「自分は保科の養子である。」として、これを固辞し、3代目の正容公の代になってようやく松平姓を名乗り、家紋も保科の並九曜から葵の紋所に変えたとのことです。2代目保科正経公もなかなか立派だと思います。加賀前田藩主前田利常殿の娘久万様を正室に迎えていますね。
1657年(明暦3年)
明暦の大火(振袖火事)
http://www.ffortune.net/social/seso/nihon-edo/furisode-kaji.htm
保科正光は関ヶ原の戦い、大坂の陣においていずれも東軍に属し、関ヶ原では浜松城の防衛、大坂冬の陣においては淀城の防衛や佐竹義宣の後備え、夏の陣においては徳川四天王の一人榊原康政の三男である榊原康勝の御先手三番組として参陣し、5月7日においては徳川秀忠の左陣に軍を構えました。
天王寺表の戦いにおいては奮戦し、首級14を挙げたものの、味方の戦死者をかなり出してしまった様子です。
しかし祖父正俊、父正直の武勇を受け継いで活躍したことは天晴れであると秀忠からはお褒めの言葉を頂いています。旧武田家に忠誠を尽くす律儀さと、武勇の素晴らしさ両方を兼ね備えていたことが、後に保科正之養育を秀忠から土居利勝を通して依頼される要因になったと思われます。
初めまして。

母方の先祖が保科正之に繋がっているらしく、今日は
あちこちのトピにお邪魔させて頂いております。

父方の先祖は長野の武家、武田信玄に仕えていたらしく
信玄より何かの褒美として頂いたという鎧兜が家宝として
蔵にしまってあるのを見たことがあります。

今まで大して気にもしていなかった先祖ですが、こうして
専門的な知識をお持ちの方々のところにお邪魔すると
どんどん興味が湧いてきます。

これからもいろいろ教えて下さいね。
どうぞ宜しくお願い致します。
女将様
高遠城と高遠藩コミュへのご参加本当にありがとうございます。
母方が保科正之、父方が武田信玄の部下とは高貴なお家柄ですね。実は私、明日の午後伊那へ行きます。時間があれば高遠にも寄ってきたいと思っています。私の住んでいる上田も砥石城、上田原古戦場、塩田城址、家臣団が起請文を納めた生島足島神社と武田信玄に通ずるスポットが数多くあるんですよ。仁科五郎盛信の信松尼は、高遠城落城、武田家滅亡後、盛信と勝頼の双方の娘を連れて、八王子の心源院へ落ち延びました。
その後も保科正直・正光親子は、昔仕えた君主武田家への忠誠を生涯忘れることなく、必ずといっていいほど信松尼のもとに挨拶に訪れました。そのことを見込んでいた、土井利勝と信松尼は後に生まれたお静の子正之を育てるのは保科家がふさわしいと考え、高遠の保科家に正之は預けられることとなりました。
かわちゃん.さま

ありがとうございます。
知らない事ばかりでびっくり&感動です。
歴史、本当に弱くて恥ずかしいです。
実はすみりんさまのところにもお邪魔して、無知を
思い切り晒してきました(笑)
また教えて下さいね、ワクワクします。

伊那ですか!
お気をつけて行って来てくださいね。
お土産話が楽しみです^^。
12のコメントの下から6行目、
<仁科五郎盛信の信松尼 の部分を、

仁科五郎盛信の妹松姫、後の信松尼 と訂正します。
先日3月21日に高遠を訪ねた際、建福寺の保科正直、正光、諏訪御料人(由布姫、湖衣姫:武田勝頼母)の墓を巡りました。
新しく、風林火山にちなんだ説明書きの看板も設置されていました。
高遠は諏訪御料人が亡くなって後、息子武田勝頼が高遠城主となって、諏訪御料人の母小見氏が身を寄せていたといわれています。
その後、勝頼が武田家の家督を継ぎ、武田信廉の高遠城主の時代を経て、異母兄弟の弟仁科五郎盛信が天正9年(1581年)に高遠城主となりました。
翌年3月盛信は最後まで織田軍と戦い壮絶な討ち死にを遂げて、武田武士の誇りを世に示したのでした。

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