ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

高遠城と高遠藩コミュのはじめましてトピック

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
こんばんは。
高遠城と高遠藩コミュニティの管理人を務めさせていただきますかわちゃんと申します。よろしくお願いします。
私も最近ドライブがてら高遠に出かけまして、高遠の歴史の魅力に魅せられた人間の一人であります。
いろいろ調べていくうちに、高遠の素晴らしさを多くの人たちに知っていただきたく、このコミュを立ち上げました。
皆さんにご参加いただき、多くの高遠に対する熱い思いや、歴史について語っていただけたら幸いに思います。
どうぞよろしくお願いします。

コメント(84)

はじめまして。会津、歴史で検索してたら
たどり着きました。
会津若松在住の「えむた」と申します。

保科正之公については、興味があるので
色々探してたら、たどり着きました。

なんで脚光を浴びないのか不思議な位、江戸時代初期
大変は活躍をされた方と思っておりました。

色々教えていただきたいと思います。
ミクシーも初心者、歴史も初心者ですけど、
よろしくお願いします。
えむた様
ご参加ありがとうございます。保科正之公、高遠藩に在位した年数はわずか六年間、しかもその間に残した法令等は残念ながら文献として残っていないのが現状なのです。むしろ山形、会津藩に移ってからの功績が大きくクローズアップされていますね。僕は正之が残した家訓の第1条がとても大好きです。
「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以って自ら処すべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず。」
【大君・将軍(家)を第一に思い、忠誠をもって勤めること。他の藩の行いをまねて行動するのではなく、将軍家の為に行動せよ。もしこれが出来ず、他の考えを持つものは、我が子孫ではない。】
 幕末になり尊皇攘夷を唱える志士たちが、佐幕派や幕府要人を切り殺す世の中に、一橋慶喜と松平春嶽が保科正之の家訓を持ち出し、松平容保公に京都守護職を引き受けてくれと迫ったことは有名です。
えむた様
写真は会津若松城ですね。私も一度は訪れなければいけないと思っています。まだ行ったことがありません。
管理人様、こんばんは。
いろいろ教えていただきありがとうございます。

昭和40年に復元された若松城こと「鶴ヶ城」天守閣です。
昨年、内部が40年ぶりにリニューアルされ、少々見やすく
なりました。東北で遠い場所ですけど、何かの機会に
どうぞ、お出でくださいませ。

簡単な町並み写真でしたら、下手ですけど、私のサイトにも
あります。良かったら見てやってください。
http://www.geocities.jp/mta1225
写真は、お城周辺の写真です。。
初めまして。

当家は高遠藩御用掛として
村政をつかさどっていたと聞いております。
3代前に帝都に出てきてしまったのですが、
ゆかりのある土地として愛着を感じています。

高遠について詳しくなれればと存じます。
お見知りおきのほどを。
じゅんたろー様
始めましてご参加ありがとうございます。
先日の土曜日伊那・木曽方面へ行きました。両地方は今年に入り権兵衛トンネルが開通し、距離が近くなりましたが、権兵衛峠がまだ人馬で米を運んでいた時代には高遠藩の箕輪領もかなりの人足の負担を強いられていた様子ですね。また伊勢屋火事やわらじ騒動など、幕末における高遠藩においては災害や飢饉による財政難にも苦しんでいた様子です。
 けびん様
 はじめまして、ご参加ありがとうございます。
高遠内藤家といえば藩主として8代180年間に渡り統治した家に当たります。

 元禄2年(1689年)に内藤清牧が鳥居氏が改易された後、摂津富田林藩から高遠藩に入り、以後頼直の時明治維新を迎えるまで続きましたね。大奥女中絵島を高遠で預かったり、藩校進徳館の設立、和宮輿入れの警固など多くの活躍を内藤家は見せています。

 高遠消防署の裏にある満光寺に内藤家の墓所がありまして、訪ねさせて頂いたことがあります。
 写真は満光寺にある内藤家公募所。入り口に丸に十文字の家紋が描かれていました。
けびん様
内藤家の家紋は最初丸に十文字で、信州高遠に内藤清牧(きよかず)が入った頃には下がり藤の家紋が用いられていたそうです。清牧のおじいさんの内藤正勝は安房勝山藩の第2代藩主でしたが、正勝が22歳の若さで亡くなってしまい、息子内藤重頼が幼かった為に安房勝山藩を改易になってしまいます。
そして内藤重頼は後に成人して大坂城代、京都所司代という、西国の大名監視や京都の治安維持を務める重要な役職に就きます。この頃(1650年ごろ)に内藤家の家紋は丸に十文字、十文字が十がカタカナのナ「内藤家のナ」に似ているので、これをみたてて、家紋にしたといわれています。
時代が流れて重頼の息子であり、大名に復帰した清牧の頃(1690年ごろ)に下がり藤になったといわれています。

ウィキペディア「内藤正勝」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%AD%A3%E5%8B%9D
まい様
ご参加ありがとうございます。武田一族の中でも最後まで武将たる誇りを胸に戦った仁科盛信の生涯に心を強く打たれます。信長方の歴史書「信長公記」においても、「その比類なき活躍ぶりは前代未聞のしだいなり」と盛信と家臣そして女性たちまでもが奮戦した様を称えています。
はじめまして。
実家が高遠にあるので参加させてもらいます。
実は当家は源氏の流れの39代目で、幕末には高遠城三ノ丸に居住していたそうです。現在は、祖父が城址公園周辺で駐車場を営んでおります。
管理人さん、詳しいですね。勉強させてください。
はじめまして。
私は鳥居元忠の子孫になるものですから、このコミュに参加させてもらいました。子孫といってもあまり詳しくはないのですが・・。色々と教えてください。
コメントが遅くなってしまって申し訳ありません。コミュへのご参加本当にありがとうございます。

yuya様
はじめまして。お祖父さんの管理されている駐車場は藩校進徳館の上にある駐車場でしょうか。そこでしたらいつも高遠へ行く度に停めさせて頂いています。

チキンチトル様
はじめまして。鳥居元忠といえば、第一次上田合戦で真田軍と戦い、関ヶ原の直前の伏見城篭城戦で奮戦して亡くなりましたが、東軍に勝利を呼び込む大きな立役者となった人物ですね。
高遠藩にも保科正之が山形に移封後、鳥居氏が藩主として入りまして、四代続きました。
きいち様
ご参加ありがとうございます。古くから信濃大町を中心にした安曇郡一帯を統治していた仁科氏は室町時代に信濃国守護小笠原氏と信濃総大将村上氏など国人衆が対立して起こった大塔合戦(大文字一揆)においても国人衆側の有力な盟主として、高梨(飯山地方を治めていた豪族)、諏訪氏(諏訪一帯を治めていた豪族)などを束ねる役目を担っていました。
武田信玄の時代には仁科盛政が統治し、武田方について戦っていましたが、家臣団の中に武田信玄に属することを心よく思わないものが多くいて、彼らが上杉謙信方の誘いに乗って、上杉についてしまったために滅ぼされる結果となってしまいました。
しかし、武田信玄が「信濃の名家である仁科氏をこのまま途絶えさせてしまうのは、あまりにも惜しい。」と考え、自身の五男盛信を仁科家の養子に送り込みました。
ふっつ様
コミュご参加ありがとうございます。この間仁科家のルーツを探るべく長野県大町市にある仁科神明宮を訪ねて参りました。
そこには20年に一度仁科神明宮の社殿を造営する際の棟札が永和2年(1376年)から一枚も欠かさずに残されているんです。そして天正6年(1576年)の造営の際に納められた棟札には「仁科五郎盛信」としっかり書かれているのです。仁科家から出た仁科盛房は応永7年(1400年)に信濃で起こった大塔合戦の際には信濃国の国人衆を率いて信濃守護小笠原長秀を京へ追いやったリーダー役でした。
はじめまして。新田次郎の「武田勝頼」が
大好きな浜名亜湖です。
昨年の夏、高遠城、昨年の秋に岩村城に行き
ました。

武田家の盛衰・・・。ロマン。
知れば知るほど楽しいです。

よろしくお願い致します。
はまな あこ様
はじめまして、コミュへのご参加ありがとうございます。
武田信玄の最後の西上作戦においては、東美濃の岩村城をあっけなく落とし、目と鼻の先にいた織田信長を震撼させたほどでしたよね。信長は事実三方ヶ原合戦直後、信玄に詫び状を書いて送っているほどです。敢え無く信玄に一蹴されていますが。
その10年後には怒涛の織田軍の甲信進軍により滅亡してしまいます。その信忠の猛攻にも岩村城は秋山信友の活躍で半年間持ちこたえましたよね。高遠城の仁科盛信とともに忘れてはならない勇将のひとりです。
武田勝頼の武田騎馬軍団崩壊説には、諸説がありますよね。でも私が思うに、武田勝頼があまりにも武将として優秀だった、そのことに起因していると思うんです。もはや織田軍は武田の騎馬軍団単独で戦えるほどの相手ではなかった。父信玄でさえ、信長包囲網を布いて周りを固めて戦ったほどです。
けれど勝頼は父信玄の威光を越えようとするあまり、何千という犠牲を払い、高天神城を攻め落とし、単独で織田・徳川連合軍に長篠で戦いを挑んでしまった。そしてそこで優秀な武将の大半を失ってしまいました。
長篠の戦い以後においても、越後において謙信の跡目を巡って二人の養子上杉景勝(謙信の義兄の息子)と上杉景虎(北条氏政の義弟)が争った御館の乱において、最初北条方との同盟に従って景虎を支援していた勝頼でしたが、景勝の「味方してくれたら、勝頼に臣従するから力を貸して欲しい。」という言葉と金5千両という条件に乗ってしまい、途中から景勝についてしまいます。このことが結局はそれまでの北条との同盟や絆を崩壊させ、やがて織田・徳川・北条の三方から攻め込まれるという事態を引き起こしたことが大きな原因ではないかと思います。一方の景勝は勝頼に臣従すると言う約束を反古にしてしまいます。
勝頼が父信玄を越えようとして試した施策が裏目に出てしまったことが残念でなりません。
群青様
はじめまして、ごめんなさい順番が入れ替わってしまったことお許しください。参加頂き、ありがとうございます。
先ずは長野県伊那市高遠と仁科氏のルーツである大町市に足をお運びなさるのがよいと思います。仁科氏の御廚鎮護の社であった大町の仁科神明宮には、20年に一度社殿造営に納められた歴代の仁科氏、とその地を治めた領主たちの棟札が保存されています。
かわちゃん、こんばんは〜。
高天神城は昨年12月に行きました。設楽原古戦場跡は
5年前と今年9月に。三河の松平郷にも行きました。

ここであの戦いが・・・と思うと感慨深いものがあります。

三河や伊那の山々を見ていると、スパイがこの山々をか
けめぐったのだろうな〜と思います。(たぶん川沿いの
道を行き来したのでしょうね。)
初めまして。最近mixiを始めたばかりのHatachです。
記念すべき最初のコミュニティがこちらになります。
どうぞよろしくお願いします。

さて僕は出版の仕事をしているのですが、今「保科正之」の本を企画していて、
何かいいネタはないかと探しまわっております。
またいい案が思い浮かんだ時には、トピックを作成すると思いますので、
どうぞお見知り置きの程を。

P.S.高遠は夏に行ってきました。蕎麦がおいしいですね。
歴史博物館の館長さんにも色々とお話を伺いましたよ。
Hatach様
はじめまして、当コミュへのご参加ありがとうございます。
最近、高野山へ行きました。高野山の奥の院へ行く途中に石田三成の墓があるのですが、そこから10mと離れていない場所に信州高遠内藤家の墓を見つけて、お参りしました。残念ながらデジカメのバッテリーが石田三成の墓のところで切れてしまい、写真アップできないことで歯がゆい思いがしています。
保科正之の本の企画をされているのですね。是非とも刊行される際は拝見させていただきたく存じます。
高遠歴史博物館の館長さんに、私も会ってお話を伺い、鉾持桟道古戦場への行き方などを訪ねたことがあります。これからもよろしくお願いします。
こんにちは。お返事が遅れて申し訳ございません。
高野山は前々から興味があり、いつか行ってみたいと思っておりました。何でもそこにはすごいお坊さんがいるらしいのですが、残念ながら一般人は入れない領域があるみたいですね。

本というのは漫画です。保科正之が題材なので、歴史物というより、哲学漫画を想定していますが、いい作家さんが見付からないのです。ここでお聞きするのも恐縮ですが、どなたかご存知ないでしょうか?

高遠歴史博物館の館長さんは、何でもご存知ですよね。御堂垣外宿やゆかりのお寺なども教えて頂きました。鉾持桟道古戦場へは聞きそびれてしまいまして、行っておけば良かったと後悔しております。
りりこ様
はじめまして、ご参加ありがとうございます。

仁科五郎盛信はまさに敗軍の将ですが、その武将たる生き様は我々が学ばなければならない沢山のことを教示してくれている気がします。

最後まで君主武田勝頼に対する忠誠を忘れなかった彼は、武田武士の誇りです。
☆ヒロシ☆ 様
はじめまして、こんばんは。
当コミュへのご参加ありがとうございます。
最近私は江戸東京博物館へ行った折、1657年の明暦の大火によって江戸城の天守が焼け落ちた際に、「天守は無用であり、無駄な出費を避けるべし」と江戸の民衆のことを第一に考え、政務を執り行った保科正之公の生き方に改めて心が洗われました。
「将軍家を第一に」この遺訓は幕末まで保科・松平両家に守られて、会津藩は佐幕派の筆頭になりました。彼の生き様は少年時代に信州高遠で育まれていたんです。
これから高遠は桜のシーズンを迎えます。どうぞこの機会に信州へ足をお運びください。
これからもよろしくお願いします。
コメントが遅れてしまったことお詫び申し上げます。
初めまして!!
自称武田マニア・・・・
色々お教え下さいませ。

宜しくです。
はじめまして、ジノと申します。
祖父が高遠藩士だったため、ゆかりを感じ参加させて頂きました。
高遠藩は「捕手」でも有力だったんでしょうか?
私の手元に捕手に関する巻物が有ります。
いずれどなたかに鑑定して頂こうと思いつつ、仕舞ったままです。

今は京都に居りますが、いずれ長野に戻ったらまた曽祖父の実家なども訪ねてみたいです。

宜しくお願いします。
鍋之介様
はじめまして、ご参加ありがとうございます。
コメントが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。
高遠は武田勝頼、仁科盛信兄妹はもちろんのこと、山本勘助、小山田昌辰など、
武田の有力家臣が深く関係しています。
これからもどうぞよろしくお願いします。

ジノ@Free Tibet様
はじめまして、ご参加ありがとうございます。
捕手術(とりてじゅつ:柔術の一手法。素手で敵を殺さずに捕り抑える術であり、流派によっては補助武器として三道具や十手・捕縄などが使われ、相手を殺さずに捕らえる事を目的とした武術。ウィキペディアを参照)

捕手術を含めた柔術は藩士が習得する必須の武術の一つとして、高遠藩では盛んにおこなわれていたようですね。
藩主の護衛や藩の治安維持の為にこのような武術は必要不可欠でした。

高遠藩が取り入れた柔術は関口新心流(通称:関口流)という流派で、近畿から東海地方を中心に広く伝播した柔術でした。全国の藩で最も多く用いられた柔術の流派として知られています。

(ウィキペディア参照)

「柔術」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%94%E8%A1%93

「関口新心流」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%8F%A3%E6%96%B0%E5%BF%83%E6%B5%81

「捕手術」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E6%89%8B%E8%A1%93

小生も柔道をやっている端くれですので、今回ジノさんのお陰で「柔術」の流れについて大変勉強させていただきました。ありがとうございます。

書物の鑑定についてですが、手前味噌なことを書いて申し訳ありませんが、最近うちの親父が古美術商を家の敷地内で始めました。「鐡屋」【くろがねや】といいます。よろしければ御利用ください。
もし必要ならば、メッセージにて住所や連絡先をお教えします。
コミュに参加されている皆様

いつもお世話になっております。
管理人のかわちゃんです。
ゴールデンウィークは如何お過ごしでしょうか?
このコミュも参加者が88人を数えました。
このコミュが無事運営できて盛り上がってきていますのも、ひとえに皆様のお陰であります。
この場をお借りして感謝申し上げます。
当面の目標はコミュ参加者が100人に到達することです。
これからもどうぞよろしくお願いします。
>かわちゃんさん
色々参考になりました有難う御座いました。
この僕が持っている文書は
「捕手目録」との題で荒木流の目録と、系図のようなものが記して有ります。
元号が・・・天下?天化?13年となっていますね。
それ程古いものではないのかもです。

そうか、鑑定は古物商さんにお願いしてみればいいですね。
あまりお金がないんで(ご先祖様没落してすみませんT-T)今はお願いできそうにないのですが^^;
京都におりますので、何れ行ってみようかと思います。
アドバイス有難う御座います。

コミュ、これからも盛り上がるといいですね。
先日高遠では、保科正之公を大河ドラマにとの目的で説明会なども開かれたようです。
インターネットでも署名ができるようですし、そちらもお奨めいたしますよ。
大河好きなコミュと交流してもいいかもしれませんね(^-^)

ではでは。
 はじめまして、今年初めて「高遠城」に登城しました。
少し天気は曇っていましたが、流石の「桜」でした。
(郭を結ぶ橋が人で一杯でビックリした(^^;))

 どうか、よろしくお願いします。
紀州の丁稚様
このコミュでははじめまして。
いつもマイミクでお世話になっております。当コミュへのご参加ありがとうございます。
高遠のコヒガン桜毎年綺麗ですよね。仁科盛信や保科正之、鳥居、内藤家などの長い歴史や、小藩でありながら数々の秀でた人材を世に送り出した風土を淡い桜色にかもし出しているような気がしますね。
これからもよろしくお願いします。

ログインすると、残り54件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

高遠城と高遠藩 更新情報

高遠城と高遠藩のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング