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鍋党〜再分配を重視する市民の会コミュのみんなでおさらい

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僕らが意識せずに前提としている知識を持ち寄って検証してみませんか。

以前私が「貯蓄と貧困 2」を鍋ブログに投稿したところ、「載せる価値がない」と編集部から掲載を拒否されたことがありました。

え、なぜ、こんな重要なことが。と不思議に思っていたのですが、後になって、もしかしたら…、ととんでもないことに気が付きました。

私が
「収入の総額と商品の総額は等しいのだから、収入がすべて支出されればすべての商品が売り切れるが、収入の一部が貯蓄されると消費が不足し、商品が売れ残り、失業が発生する。」

と書いたのですが、これを編集部では「私が考えた経済理論」つまりshn理論と思ったのではないですか。

そうではないのですよ。前半部は自由主義市場経済=資本主義のイデオロギーであり、後半はケインズによる批判です。私としてはこれは社会常識のつもりでいたのですが、世代によってはどうもそうではないらしいと気が付きました。

で、僕らが当然の常識だと、思わず前提にしている知識を持ち寄って、みんなで検証してみませんか。

コメント(34)

1.「売り」は「買い」であることについて。

Aさんが市場に出かけ、八百屋さんでにんじんを100円買った。
では八百屋さんはAさんに何をいくらで売ったでしょうか。
「にんじんを100円」
正解です。

逆に八百屋さんから話を始めても同じ。

ではAさんは市場を一回りして全部で1万円の買い物をした。すると市場全体ではAさんにいくらの品物を売ったでしょうか。1万円ですね。

次に、村の人100人が八百屋さんで100円づつの買い物をした(計1万円)。その時八百屋さんが村人に売った商品も1万円。

村の全員が市場じゅうをめぐって100万円の買い物をしたときは、市場全体で村人に売った商品も100万円。

まとめです。

ある商店とある人がある金額のお金とある商品を交換したとする。
これは「売り」でしょうか。「買い」でしょうか。

そう聞かれても困りますね。ある一つの同じことを一方から見れば「買い」であり、反対から見れば「売り」なのだから「売り」と「買い」が違うことはありえない。相対性理論では観測者によって測定値が違うことがありますが、僕らの住むこの世界ではそういうことは起こらない。あったらノーベル賞ものの大発見でしょう。

(問題になるのはいわゆる「期ずれ」でしょう。○月27日にA社がB社に1億円の商品を売ったが、A社のシメが25日でB社のシメが月末だとしたら、1億円という数がひと月ずれる。でもこれは会計上の操作でそろえればよいのだから本質的な問題ではない。)

だから、ある期間の全世界の売りの総額は全世界の買いの総額に等しい。

(重要な註 これは私の経済理論ではありませんよ、昔から経済学の入門書にはちゃんと書いてあるはずです。最近はないのですか。)

(1たす1は2 と習った小学一年生に
じゃあ1億たす1億は、と聞くと答えられない。
2億だよ、と答えを教えると

「えーっ」とびっくりする。

僕らはびっくりしてはいけない。

1億たす1は1億1。1億たす2は…とやる必要はない。
1111…と1がn個続く数に2222…と2がn個続く数を足すと3333…と3がn個続く数になるのは実際に足してみなくても、またnがいくつかわからなくてもわかる。)

だからもう一度言います。ある期間の全世界の売りの総額は全世界のその期間の買いの総額に等しい。

なので、全世界では「買い」を減らして「売り」を増やすことはできない。「買い」を減らせば「売り」も減る。

「買い」と「売り」を「支出」と「収入」に置き換えても同じ。

ある人が10万円の収入を得た時には必ず誰かが10万円の支出をしている。誰も支出していないのに収入だけは発生することはないしこの数が違うこともありえない。あるとすると変なことが起きる。

奥さんが旦那さんに小遣いを1万円渡した。しかし旦那さんがもらったのは2万円であったとしたら、旦那さんは仕事に行かずに奥さんに2万円を渡し、しかし奥さんがもらったのは3万円だから、今度は奥さんが旦那に3万円を渡すと4万円になっていて…と一日中やっていればそれだけで億万長者になれる。

(この場合儲かるのは最初のうちだけで、気がついた人がみんなでやり始めるとあっという間にハイパーインフレになる。「もの」は全然増えていないのだから。)

だから、全世界の支出を減らして(節約して)全世界の収入を増やすことはできない。

話を日本だけに限れば、全国民の支出を減らして全国民の収入を増やすことはできない。国民が支出を減らせば国民の収入も同じだけ減る。

国民の一部が支出を減らして収入を増やすことはできる。政府が支出を減らし(公共事業)収入を増やす(税金)と、一般国民の収入が減り、支出が増え、国民が貧しくなる。国民を豊かにしようと思ったら、国民の支出を増やさなければいけない。

では国民の支出はどうしたら増やせるか。

収入=支出=収入=支出=…ではいつまでたっても増やせない。
お金を印刷して配ってもインフレになるだけ。

ところが「減らす」ことはできる。

収入から貯蓄をして残りを支出すれば
収入−貯蓄⇒支出⇒収入−貯蓄⇒支出…
収入>支出=収入>支出=収入…つまり
収入>収入>収入>…となって、もはや貯蓄できないところまで貧しくなって初めて安定する。

貯蓄がすべて支出・投資されずに残ってしまうと、商品が売れ残り失業と貧困が発生する。貯蓄がすべて投資されれば(セーの法則が成立すれば)完全雇用が実現する。これがケインズの言ったことです。だから投資されずにしまいこまれてしまっている分だけ支出を足してやらなければいけない。

(このとき投資が生産的投資として有意義に行われて生産力が上がり生産物の量が増えるとどうなるか。

ものの量は増えてもそれを買うべき収入は増えていない。なぜなら前回の支出が今ある収入なのだから、今支出をしようとすると、前回の支出と同じだけしか支出できない。すると生産物の1個当たりの価格が下がる。

生産性の上昇する世界では慢性的なデフレーションに苦しむことになる。金本位制度のもとでは貨幣価値の上昇、金価格の上昇が起こり、金採掘が有利な事業となって金の生産が増えて価格が安定する。紙幣が使われる世界では紙幣を印刷し、それを誰かの収入にしてやってただで収入を増やしそれを支出させることになる。(贋金使いが贋金を作って自分の収入にしてそれを支出するのとおなじ)

歴史的には中世ヨーロッパで生産性の進歩に金の生産が追い付かず慢性的デフレ状態のところにインカ帝国の金銀が流入して一挙に生産が拡大しルネサンスを花開かせたということになっている。)

(重要な註 これは私の経済理論ではなくて、例えば資本論やガルブレイスを読めば書いてある)

だから、事業仕分けなどしてはいけない。民間の投資が不足している分政府支出を増やさなければいけない。財源が不足するなら直接貯蓄に課税するか貯蓄を増やさないような税体系にしなければいけない。

お分かりいただけたでしょうか。

…という以上の内容について、お前の理解はあそこがおかしい、という部分があればご指摘ください。勉強させていただきます。また、ご自分の知識に照らしてみてそう外れたことを言っているわけではないよ、とお思いの方もそういうご意見をお寄せいただければ、と思います。

(結論 ジャン・バルジャンがパン一枚を買う金がなかったのは金持ちがその分の金をため込んでしまったからだ。)

(重要な蛇足 わたしがにんじん1本とか貝殻1枚とかを例に出しているのを、まじめに経済の話をしているのではない、と思っていらっしゃいませんか。国富論では、一人の猟師が一日で鹿5頭を捕るとする。別の猟師は一日でビーバー1匹を捕るとすると鹿5頭の価値とビーバー1匹の価値は等しくなるのが当然だろうと論じています。(数はどうだったか忘れた)編集部のみなさんはアダムスミスを読んだことがありませんね。)

セーの法則 1

 「日本経済論の罪と罰」(小峰隆夫)の第1章の1は「GDPの三面等価」の説明から始まっている。

 「経済成長は、GDP(国内総生産)がどの程度の勢いで増加しているかを指す概念である。そのGDPには、「三面等価の原則」という定義的な関係がある。生産(供給)、支出(需要)、所得の3つは等しいというものである。
 これは、よく考えれば自然な考えである。誰かが200万円の自動車を買えば、200万円消費が増える(支出)。その支出が実現されているためには必ず200万円の自動車が生産されている(生産)。そして、おカネが渡ったのだから、必ずその支払われた200万円を所得として受け取った人がいるはずだ(所得)。すると、一定期間における経済全体の支出と生産と所得は等しくなるはずだ。
 ただし、名目値では三面等価が成立するが、実質地では必ずしもそうならない。交換条件(輸出価格と輸入価格の比率)が変化すると、名目所得は同じでも、実質所得が変化してしまうからだ。この点は第6章第2節「GNI(国民総所得)から読み解く」で取り上げるが、以下では簡単化のためこの点は無視して、名目でも実質でも三面等価が成立すると仮定する。」

 この説明は正しいのだろうか。

 石川秀樹「速習マクロ経済学」ではこう説明している。

「三面等価を一言でいうと…
 日本の国内総生産(GDP)は約500兆円です[生産面の国民所得]。その約500兆円は誰かの所得として分けられるので、国内の所得の合計[分配面の国民所得]と同じになります。また、なぜ約500兆円もの付加価値を生産したかというと、お客さんの注文があったからです[支出面の国民所得]。」          
 
「500兆円生産したからと言ってお客さんの注文もちょうど500兆円とは限らないのではないかという疑問が出てきそうです。これは重要なポイントなので、後ほど詳しく説明します。」                    

「支出面の国民所得とは、国内で支出した金額の合計ではなく、国内で生産した付加価値への支出を合計した指標で、国内総支出ともいわれます。(中略)

国内総支出=民間消費+民間投資+政府支出
 
これら民間消費、民間投資、政府支出のうち、外国製品を買う(輸入する)場合には、国内で生産する価値への支出にはなりませんので、差し引く必要があります。また、外国人がその国内で生産する価値への支出をする場合は足す必要があります。
 そこで、海外も考えると、

国内総支出=民間消費+民間投資+政府支出+輸出−輸入

 現実には、国内で生産する価値への支出はこれだけのはずです。ですから、国内総生産より、国内総支出が小さい場合、生産した分より支出が少ないので、ものが売れ残り、倉庫に売れ残り品が増えます。ところが、統計上は、この売れ残った分は、その作った企業が支出したと考え、在庫品増加という項目にして国内総支出に加えるのです。

国内総支出=民間消費+民間投資+政府支出+輸出−輸入+在庫品増加

 このように考えれば、統計上は、支出面の国民所得(国内総支出)と生産面の国民所得(国内総生産)とは常に等しくなります。」(同書)

「しかし、これは、統計上は、売れ残った分は作った企業が支出して買ったことにしてしまうので、等しくなるというだけで、現実の生産量と需要量(支出額)が等しく売れ残りがないということではありません。」

「たとえば
 国内総生産(=生産面の国民所得)が500兆円のとき、生産した価値への支出(需要)が490兆円しかなかったとしましょう。このとき10兆円だけ売れ残りが出るのですが、統計上は、その10兆円は生産した企業が支出したとみなし、国内総支出に加えます。その結果、国内総支出(支出面の国民所得)は490+10=500となり、国内総生産(生産面の国民所得)と常に等しくなるのです。」(同書)
参照→http://free-learning.org/?page_id=390#05

小峰が描いているのはセーの法則が成立している世界であり、石川の世界ではセーの法則は成立していない。
セーの法則 2

「経済学には二つの根本的に対立する考え方がある。第一は経済全体としては過剰生産は不可能であるということ、すなわち総生産額が決められると、それらに等しいだけの総需要が常に作り出されるという見解であり、第二は総産出額が総需要を決めるのではなく、その逆、すなわち総需要が総生産額を決めるという見解である。第一の見解はセイの法則と呼ばれ、第二のそれは「有効需要の原理」といわれる。19世紀前半まで経済学界に君臨していたリカードはセイの法則を承認していたから、それはケインズによって古典派の公準と呼ばれた。このような公準は一般均衡が成立するために必要であるから、ワルラスはじめ一般均衡論者はセイの法則を認めたが、19世紀中期以後にはセイの法則を否認する学者(例えばマルクスおよび彼の追随者)が現われ、このような反対者の思想は最後にケインズの「有効需要の原理」として結実した。ケインズの『一般理論』が出版されるまでの約百年間の経済学史の主題はセイ法則の世界(リカード経済学)を転覆させて、反セイ法則の体制(ケインズ経済学)を構築することにあったと考えうる。

 本書は「有効需要の原理」の立場に立っているが、そのように態度を決めてしまう前に、なぜ「セイの法則」は承認しえないかを説明しておこう。産出量が決まると労働者の賃金や企業者の所得も決まるが、彼らはそれぞれの所得の一部を消費し、残りを貯蓄する。もしこの貯蓄に等しいだけの投資が常に保証されるならば、総産出額はつねに総消費額と投資額の和、すなわち総需要額に等しく、したがってセイの法則が成り立つ。一般過剰生産は不可能であり、消費財産業に過剰生産があれば資本財産業は過少生産でなければならないからである。このようにセイの法則が成立するためには、総産出額の大きさのいかんにかかわらず、総貯蓄額に見合うだけの総投資が創出されていなければならない。

 しかしこのことは不可能である。投資の意志決定をするのは企業者であって、労働者や金利生活者は関与しない。総産出額が大きい時、それに応じて総貯蓄額も大きいから、貯蓄は容易に投資を超過しうるし、産出額が小さい時には逆に総貯蓄が総投資に達しないことがある。このようにどのような産出額の大きさに対しても総貯蓄が投資に等しくなるのではなく、たまたま特定の値の総産出額において貯蓄が投資に等しくなるにすぎない。この特定の産出額は均衡産出額といわれるが、均衡値以外の産出額では貯蓄が投資以上(またはその逆)になりうるから、一般過剰生産や一般過少生産は可能である。

 こうしてセイの法則は否定される。どのような大きさの産出額に対しても、その時の貯蓄にちょうど等しいだけの投資をするような投資計画改定のメカニズム――あるいはそのような改定をもたらす柔軟性――が企業者の投資決意に具備されていないからである。現実の経済では逆に、企業が決定した投資額に対して産出額が適応する。こうして均衡値の産出額を生み出す規模の生産が行われるが、このような規模の生産では必ずしも労働の完全雇用が実現されるとは限らない、企業者の投資意欲が旺盛でないときには、それに応じる均衡生産量も小さく、その結果雇用量は少なく、失業の発生は不可避である。

 セーの法則 3

 完全雇用に対する障害はセイの法則の下では存在しない。完全雇用を実現するような産出量の生産を行いさえすれば、それに応じる貯蓄に見合うように投資が適応して、完全雇用産出量のもとで需給が均衡する。――過剰生産も過少生産も生じない――からである。セイの法則が成り立たない経済では、少なすぎる投資は完全雇用の障害となる。そして投資意欲不足の経済では、政府が積極的に需要を発注して、需要不足を解消するか、金融機関が投資意欲を振起するような刺激を作り出さねばならない。こうして財政政策及び金融政策が本書第二部の主要課題となるが、これらの政策の副作用(財政赤字、インフレーション、スタグフレーションその他)に対処するにはどうすればよいかという問題もまた論じられるであろう。」           森嶋通夫「ケインズの経済学」序論。

この森嶋の本はもともと英語版The Economics of Industrial Societyの日本語版で、London School of Economicsの一年生用の教科書に使ったのだという。イギリスの大学生はこういうことを習っているのだ。
 
 で、小峰と石川・森嶋のどちらが正しいのだろうか。
 
 僕は石川森嶋の言っていることのほうが正しいと思えるが、問題は、この二人が在野の、または海外の経済学者であることだ。それに対し、小峰は「日本のエコノミスト、元官僚。埼玉県出身。法政大学大学院政策創造研究科教授。国土交通省国土計画局長、経済企画庁経済研究所長などを歴任した。」(wikipedia)だそうだ。このような人たちが日本の経済をあずかっているのだ。竹中平蔵もと○○大臣も
「セーの法則というのがあるのだからもっと市場を信頼して…」と国会で答弁していた。

 日本の経済運営は大丈夫だろうか???
塩見孝也様、「ダンダリン 労働基準監督官」を見ました。1

これは、塩見孝也さんが「9条改憲阻止の会 メーリングリスト」に投稿された「日本テレビ・「ダンダリン・労働基準監督官」について。」に答えようとして同リストに投稿したものです。ご参照いただければ幸いに存じます。

塩見様
日々、職場でご苦労されているようですね、新自由主義者たちを論破出来ていないのですか、言い負かされてしまっていませんか、釈迦に説法を解くわけではないのですが、近代経済学の三つのインチキについてまとめてみました。

新自由主義とはこのようなものです。

―(ここから引用)

『なぜ貧しい国はなくならないのか』  大塚啓次郎

第3章 なぜ貧困を撲滅できないのか?
p76
自発的な取引は、買い手にも売り手にも利益をもたらす。だから、できるだけ自由に取引をさせるべきだというのが、自由主義経済の根幹をなす考え方である。これは市場原理のコア部分であり、「見えざる手」の原理とも呼ばれる。これは極めて重要な考え方であるので、(略)少し説明を加えたい。

 (略)「見えざる手」の原理は理解してほしい
 経済学の基本中の基本は、Adam Smithが提唱した「見えざる手」の原理である。この点を丁寧に説明していないミクロ経済学の教科書が多いが、私はそれを実に嘆かわしいことだと思っている。なぜならば、これこそが自由主義経済の基本原理だからである。
 ある消費者が、自発的にある商品をある価格で買ったとしよう。なぜか。それは、この消費者は支払った価格以上の喜びを得る、と考えたからである。つまり、そこにある種の「余剰」(支払った分以上の満足感)が生まれたはずである。
 他方、企業が自発的にある商品をある価格で売ったとしよう。なぜか。それは、売った価格のほうが生産の費用よりも高いので、儲かるからである。つまり、そこに「余剰」(利潤)が生まれている。
 それでは消費者にも企業にも、自発的な取引を自由にしたいだけさせたらどうなるか。消費者と企業の双方が得をするような取引がなくなるまで、徹底的に取引が行なわれるはずである。その状態では、生産者と消費者がともに喜ぶような「うまい」取引はもう残っておらず、それ以上の取引は行われない(厳密には、各取引の量が少なくて、おのおのの取引が他の取引の条件に影響しないという仮定が必要である)。それは、一種の理想状態である。(経済学ではこれをパレート最適と呼ぶ)なおこの例では、企業が売り手で消費者が買い手であったが、買い手や売り手がどのような経済主体であるかは問題ではない。例えば労働者が労働というサービスを企業に売る場合にも、「見えざる手の原理」は成立する。
 興味深いことに、この例で登場した消費者や企業は、自分の利益しか考えない利己主義者たちである。利己主義的な経済主体が自分の利益を追求すると、あたかも「神の見えざる手」に導かれるかのように、社会的に最適な状態が実現される。これが、Adam Smithの偉大な洞察であった。

― 引用ここまで。

1.利潤とは何か

 ご存知のように、近代経済学では「利潤とは何か」に答えられていません。

私の持っている古い版のサミュエルソンの「経済学」の「利潤」の章を開くと、
「利潤がなぜ可能かという問いにはいろいろな説がある」という意味のことが数行書いてあって、以下が空白になっている。次のページをめくると次の章が始まっている。サミュエルソンには、利潤とは何か、が答えられなかったのです。
 この間図書館で覗いたスティグリッツの教科書には目次にさえ「利潤」という項がありませんでした。

 買った値段より高く売り、その差額が利潤だ、とするとどういうことが起こるか。

1コの地球の上に60億の人間がいるとして、60億回も暗算はできないので、60人の小学生が遠足に行った話にしましょう。バスで出かけたことにすると、運転手はどうなる、ということになるので、ゆりかもめで海水浴に行った、ということにします。実際の人間の持っているお金の額はそれぞれバラバラに異なりますが、それも単純化して、全員一律1万円とします。財としてはとりあえずおにぎりが1コだけ、で話をすすめます。

60人の小学生がユリカモメに乗って海水浴に行った。小学生Aが朝食べるつもりでおにぎりを1コもってきた。けれどおなかがすいていなかったのでそれをBに100円で売った。
 おなかのすいていないAからおなかのすこしすいているBにおにぎりが1コ移動したことによって車内は(世界は)少しhappyになった。しかしお金は増えていない。
 Aの所持金は10100円に増えたが、Bのお金は9900円に減った。お金は移動しただけだ。車内の(世界の)お金は60万円、増えてはいない。
塩見孝也様 2

ここで、Bがおにぎりを食べようとしたら、もっとおなかをすかしたCがぜひ売ってくれというので200円で売ったとする。世界はもっとhappyになるがお金は増えない。DやEを登場させて300円、400円にしたとしても、いくらやっても同じで、かつ、セリにかけて一番高い値を付けた例えばFに売ったとしてもhappy感覚は極大になるがお金は増えない。

AがFに直接おにぎりをやったとしても世界は同じだけhappyになるがそれでは資本主義的利潤ではない。利潤はどこからどこへモノを動かしたらよいかを知るための目印になるが、利潤の分だけ世界のお金が増えた、というわけではない。

ここでさらにGが登場して、このおにぎりが100円ずつ値上がりしているのに目をつけて、転売目的で1000円で買い込み、食べないでしまいこんだとしたら1000円の「資産」になる、世界の富が60万円+1000円になるかというと、資産価値の額というのは「思惑」「見込み」であって、実際に売れて決算した額ではない。GがHに、このおにぎりは将来1万円になるのだけれど、特に君に5000円で売ってやるよ、などといえばGは5000円儲けるかもしれないがその5000円はHが出している。お金は増えない。

1000人の人が1万円ずつ持って競馬場に来た。お金の合計総額は1千万円。それぞれ馬券を買って、これは○○倍になると思惑をめぐらせると、××式馬券価値総額(略してバカ総額)なるものは何億円にも、何兆円にもなるが、レースが終わってみんなが持って帰るお金の総額は1千万円。これは株式投機で株価総額が上がった下がったと騒いでも、決算すればだれかが損をした分がだれかの得になっているだけ。お金は増えない。株で儲けを増やすためには、損する人を増やさなければならない。

1億円の利潤が出たとするとその1億円は移動してきただけ、増えたわけではない。
お金には利息がつく、などという人がいるが、小学生AがBから1000円を駆り、1100円を返したら、Aの持っているお金は9900円、Bの持っているお金は10100円。ふえない。

(昔の私の同僚、向かいの席のP君、都立大経済学部卒は「利潤」の話を吹っかけるとだんだんいやーな顔をしだし、最後は「宇宙にはお金が利子を生むという性質があるのだ」と宣言するのでした。)

利潤は増えたのだと思う勘違いはローザ・ルクセンブルクも(水野和夫も)やっていて、例えばある国に資本家と原料提供者と労働者がいるとして、資本家はお金を、例えば100億ドル(この国の全資本)もっている。労働者はお金をもっていない、利潤率20パーセント、という場合を考えると、
 資本家が70億ドルを払って原料を買い、30億ドルで労働者を雇って120億ドルの商品を生産する。

「100億ドルの資本」→70億ドルの原料+30億ドルの労働→「120億ドルの商品」

その商品を原料提供者と労働者が買うが、この国には100億ドルしかお金はない。利潤の20億ドルはどこからやってくるか、それは外部からやってくるしかない、資本主義は外部の世界(植民地)を必要とする。植民地がなくなって世界がすべて資本主義になった時点で資本主義は崩壊する、という理論を唱えたけれど、これも利潤は増えたのだと勘違いしたことによる単なる誤解。

「利潤」分の生産物が増えたのだとすると、その「利潤」分に対する購買力が存在しない。

(この部分の詳しい説明は「資本論」か、置塩信雄「蓄積論」に書いてある。)

「マルクス主義者」たちは流通・交換過程では価値の増殖は起こらない、価値増殖が起きるのは生産過程だけだ、としている。

では、本当に生産過程で増殖がおこるだろうか。

マルクスは単純再生産をする世界から話を始める。生産サイクルが一回で終わってしまったら社会を維持できないのだから、生産サイクルの終わりにはもう一回生産サイクルを始められるだけの条件が、言い換えれば当初の自己自身が、回復されていなければならない。まず単純再生産を考えて、その後で利潤を再投資する拡大再生産を考える。

 単純化のため、資本家(企業)は土地を含め資本財をすべて所有しているとする。利潤率は120パーセント。労働者は一年に1俵の米を食べ、1.2俵の米を作る。1俵は1ドルとする。

資本家が100ドルを出して100人の労働者を雇い、1年で120俵の米を生産した。そのうちの100俵を労働者が100ドルで買う。資本家の手には還流した100ドルと20俵の米があるが、それは現金にならない。利潤は実現しない。これでは前の例と同じだ…

 ところで、


塩見孝也様 3

100人の労働者が1年で120俵の米を作っている間、かれらは100俵の米を消費する。ではその米はどこにあったかというと、前年度に生産された米を100ドルで買ったのだ。彼らは1年を生き延びなければならない。と、同じように資本家も、この1年を生き延びなければならない。彼らは利潤によって自己を維持する。彼らの利潤はいくらだったか。20ドルだ。それは彼らの前年度の利潤だ。

つまりこのはなしは100ドルから始めたからおかしいのだ。
この世界はもともと120俵の米を作っている総産出額120ドルの世界だったのだ。

GDP=GDIなのだから、
総産出額=総収入なのだから、
そして総収入は当然利潤の収入も含むのだから、(収入=賃金+利潤(+地代))
総収入がすべて支出されれば総商品が売り切れ、そのとき利潤も実現する。

このとき、「利潤」が増えたのだと思って溜め込んでしまうと、同じ額だけ商品が売れ残り、大変だ、儲けが出ない、といって外国に輸出し、ああこれで利潤が出た、などと思っているときには、相手国でその分の購買力が失われ、その国も輸出攻勢をかけ、海外市場獲得をめぐって帝国主義戦争が起こる。また、その増えたと思った利潤を外国のほうが利益率が高い、などと考えて海外投資するとそれは資本流失であり、国内に失業が発生する。

(ここは重要。利潤を得るためには輸出を増やして貿易収支を黒字にしなければならない、などということはない。利潤は国内市場だけで実現できるのであり、その利潤を国内に再投資すれば国内市場だけで経済成長もできる。もしそれができないのなら、世界資本主義も経済成長はできないことになる。)

資本家は初め120ドル持っていた。そのうち100ドルで労働者を雇い、20ドルで前年度の産出120から自分のための消費財を購入する。(このとき、今の話では、産出は米しかないという前提だから米を買うけれど、資本財の補填に当てる、という話に組み替えることもできる。)労働者が賃金の100ドルで残りの100を買う。資本家は120の貨幣を回収し、労働者は一年分の労働力を回復する。これで生産のサイクルはつながり、経済は回転し続ける。

利潤は外部からもたらされるのではなく、内部から出てくるのだ。利潤は足し算・掛け算ではなく、(全体が増えたのではなく)、引き算・割り算なのであって、(全体1の中の、資本の分け前なのだから)利潤を増やしたらパイの大きさ全体が大きくなるのではなく、利潤以外の収入=賃金が減るだけだ。


100が120になるのは資本の側から見た見かけの運動であって、120の生産物と120ドルのカネが回転しているだけだ。マルクス経済学で労働者の立場から見て、生産手段を労働者が自己所有していれば120はすべて労働者のものになるはずだ、と考えれば20は不払い労働、剰余、搾取、ということになる。

(一般国民の間ではトピックにならなかったけれど、1960年ころ、置塩信雄と森嶋通夫によってほぼ同時に「労働の搾取が存在することが、利潤が存在することの必要にして十分な条件である」という「マルクスの基本定理」が証明されたのだそうだ。その後いろいろな異論反論が出たがほとんどクリアされ、もう決まりといっていいらしい。)

ここで気をつけなければならないのは、搾取は悪だ、といってはいけないということだ。

搾取のない理想の社会、などといういんちきを信用して生産物をすべて消費してしまったら、来年蒔く種子もない、壊れた農機具も補充できないことになる。マルクスはそんなことは言っていない。剰余はゼロにならない。松尾匡は「剰余」という価値中立的な言葉を使わないで、ちゃんと「搾取」と言うべきだというけれど、社会主義の世界でも剰余は必要なのだから、そうすると、「資本主義的搾取」と「社会主義的搾取」とがあることになる。

「資本主義的搾取(剰余)」と「社会主義的剰余(搾取)」はどこが違うか。

かつてトロツキーは、(革命に勝利して)を権力握り、新しい社会主義の建設を始めようとしてみたら、今のロシアの生産力では社会主義建設には不足していることがわかった、といって「社会主義原始蓄積」という概念を提示し、われわれはその期間を全速力で駆け抜けなければならない、としたが、それはつまり資本主義的搾取・蓄積が足りない分、社会主義的搾取・蓄積が必要になる(しかもさらに過酷かもしれない)と言う意味だ。
塩見孝也様 4

「搾取」とか「社会主義」という言葉にアレルギーのある人は、森嶋通夫が「資本主義社会の変動理論」の第五章 成長率による経済変動分析 5,8 長期的完全雇用政策 の中で考察している「労働主義」を思い浮かべればよい。
 森嶋はそこで、
「経済を二つの型に分かち、前者を『人口不足型経済』後者を『人口過剰型経済』と呼ぶことにしよう。」
とし、前者をアメリカ、後者を当時の日本を含むアジア諸国として考察している。

「労働主義は少なくとも次の三つの要求をもっているであろう。(i)完全雇用の長期的維持、(ii)大なる所得分配係数、(iii)豊かなる消費生活すなわち高い消費性向。ところで前述したように、労働者階級への所得分配係数を大きくすることおよび消費性向を引き上げることは適正成長率の低下を意味し、したがってそれは人口不足国においては完全雇用の長期的維持に資することになる。すなわち人口不足国においては労働主義の三つの要求の中に矛盾はない。しかしながら人口過剰国において労働主義の第二、第三の要求を貫くときには、完全雇用の長期的維持はますます困難となる。すなわち他の強力な手がうたれない限り、人口過剰国において労働主義の三つの要求は矛盾するとみられる。」

「アメリカに見られるごとき労働主義と資本主義の楽天的な調和はアジアには存在せず、アジアの労働主義はその二律背反のゆえに資本主義を敵とするに至るであろう。」

(ここで森嶋が書いている
「労働者階級への所得分配係数を大きくすることおよび消費性向を引き上げることは…人口不足国においては完全雇用の長期的維持に資することになる。」という指摘は、現在の人口不足国である日本にとってとてつもなく重要!!)

トロツキーと森嶋は同じ情況にある国の同じ課題について考えている。

今、まだまだ貧しい国で社会主義権力が成立したら彼らは何をなすべきか考えてみる。

                                  つづく
数年前から貯蓄が貧困を発生させるという趣旨の発信をしていますが、まだ意味が失われていないと思われますので、再録します。


神の見えざる手という有名な言葉があって、経済は市場の自由な運動に任せておけば需要と供給の関係でおのずから最適な位置に落ち着くのだということのようですが、でも供給と需要は全然別のものじゃないか、おコメを百俵作った人がそれを売りに出したがそのコメを必要とする人には金がなくて、コメは売れ残り人は餓死するでは最適な状態とは言えないのではないか、というと、そういうことではなくて、セーの法則、もしくは販路の法則というのがあって、供給それ自体が需要を生み出す、のだそうです。これは経済学上ではあたかも物理学におけるエネルギー保存の法則といえるものなのだそうで、どういうことかというと…

ある樵が山林地主に一万円をはらって木を切り出し、二万円で材木屋に売った。それを家具職人が三万円で買い、テーブルを作って四万円で売りに出した。各人の収入はそれぞれ一万円で、四人の収入の総計は四万円である。左側には四万円の収入があり、右側には四万円の商品がある。
 
もし樵の取り分が五千円であれば三万五千円の総収入に対して三万五千円の商品になり、材木屋が自分の収入を一万五千円にすれば四万五千円の総収入が四万五千円の総商品に対することになる。さらに一人の商人が現れてそのテーブルを買い五万円で売るとしても同じで一方に五万円の総収入があり反対側には五万円の商品がある。総収入の額と総商品の額は常に等しい。この二つは違うことができない。だから収入のすべてが支出されればすべての商品が売り切れる。
 
これは非常に優れたシステムで、もし商品が売れ残るとすればそれはその商品が市場にとって不要なものだったからであり、必要な商品である限り必ずそれが売り切れるだけの収入がおのずからもたらされていることになる。
 
ただしここで肝腎なのは「収入のすべてが支出される」ということで、
このとき、収入の一部が支出されずに貯蓄に回されるとするとその分の商品が売れ残ることになり、その商品が売れればもたらされるはずの収入が実現しないことになる。そこに発生する貧困の量は貯蓄の量と等しい。使われずに残った貯蓄は世界の反対側に自分と等しい量の「実現しなかった収入」・貧困を生み出す。

一方で、貯蓄するということはもう消費に金は使わない、消費財はいらない、と市場がいっているわけなのだからそれだけ資本財、生産財に資源を振り向ける余裕を手に入れたのだともいえる。

資本主義の初期においてはブルジョワジーという偉大な種族がいて利潤をすべて投資に次ぐ投資に振り向け資本財、生産財を拡充し世界を豊かにしたというふうに昔習った記憶があるのですが、今の日本はカネ余りとか言って投資に振り向けられずに漫然と溜め込まれたままになっているのだそうで、するとその巨大な貯蓄の分だけ消費が不足し、実現されない収入・巨大な貧困が生まれる。

もはや投資に次ぐ投資で事業を拡大した偉大な種族が滅びてしまった現在、国づくりがあらかた終わってしまったといわれる現在では、この巨大な貯蓄を何とかするには、貯蓄している人に何とかものを買ってもらうとか、軽いインフレ状態にして今使わなければ損をするぞと脅かすとか、貯蓄分は税金で没収するぞといって強制的に支出させるとか、それでも使わなければ本当に没収して国が代わりに使ってやるとか、多く貯蓄する富裕層からあまり貯蓄のできない貧困層に所得を移転するとか、または、使わないで貯めこむだけの人がいるなら、貯めないで使う人がいればいいわけだから誰かが巨大な赤字を出して借金経営の事業をするとか、とはいってもそれだけの赤字に耐えられるのは民間にはいないだろうから国が赤字財政で何かをするとか、またはそもそもカネがしまいこまれてしまっているのだからその不足分のカネを印刷するとか、が必要になる。

結局国が赤字を出して何かをすることになるとして、ではその赤字で何をするかというと、国づくりに意味のある事業があれば一番よいのだけれど、無意味な事業だとしても国民を貧困から救うという重要な使命を果たしていることになるし、考えようによっては意味のある事業たとえばダムを作ると自然破壊が起こる、それなら意味も価値もないことをやったほうが害がないとも言える。そしてその無意味な事業は当然利権と腐敗の温床になる。

だから話は、腐敗の危険をおかして国民を貧困から救おうとするか、巨大な貯蓄をそのままにして金持ちと貧民の国を作るのかどちらを選ぶかということでもある。または、使い切れないほどの貯蓄が問題なのだったら、必要以上の貯蓄をしないですむ社会を作ればよいことになる。




   
塩見孝也様 「ダンダリンを見ました」


いま、まだまだ貧しい国で社会主義権力が成立したらその国は何をなすべきだろうか。

・地主株主は社会の寄生虫なのだから彼らの取り分は極限まで減らす。
・資本主義ではないのだから労働者を使い捨てにしてはいけない。といって労働分配率を上げれば蓄積が遅れる。とりあえずある程度の賃金を保証し、しかし労働者には最大限度の貯蓄を呼びかけ、実質的な国民の総消費を押さえ蓄積(貯蓄・投資)に回す。
・経営から地主株主を排除し、実権を経営労働者がにぎる。
・政府は総投資をコントロールする。
                              ……


ここから、一部でトンデモとする人もいるが、ヴェルナーの「円の支配者」をかなり長く引用する。

彼は「日本型」経済システムについての描写しているのだけれど、実はこれはマルクスの考えた資本主義より、マルクスの考えた社会主義(資本主義の完成としての社会主義)に近いのではないのか、と思うからだ。

円の支配者  リチャード・A・ヴェルナー 

第2章 戦時経済

未来は過去にある
 1945年の敗戦が新生日本の始まりを告げる分水嶺だった、とよく言われる。……
 そこで、日本に関する多くの本は1945年から分析が始まっているし、日本史はふつう戦前と戦後に整然と分けられる。だが、いくら見慣れていても、このやり方はやはり間違いだ。日本史を戦前と戦後に分けると、今世紀で最も重要な時代がすっぽりと抜け落ちてしまう。戦後日本の社会、経済、さらには政治のシステムまで、「いかにも日本的」といわれる性格のすべてが形成されたのは実は戦時中だからである。……

この自由市場経済はどこのもの
 以下の事実を読んで、どこの国の話かあててみていただきたい。この国はまじりけのない資本主義が特徴だ。この国では、企業が外部資金を調達する主たる場は株式市場である。株主は非常に強力で、高い配当を要求する。そのために経営者は短期的利益を追い求める傾向がある。経営役員の多くは社内から選ばれず、外部のものが任命される。熾烈な企業買収合戦のおかげで、経営者はいつ企業買収の攻撃を受けるかとおちおちしていられない。おまけに業績を上げられなければ、即刻地位を追われる可能性がある。

 この国の労働市場では採用、解雇が頻繁に行われるし、従業員の転職率も高い。所得と富の格差は巨大だ。豊かな資本家階級の家族たちは配当収入で暮らしている。貯蓄率は低く、消費が80パーセントと国内総生産の最大部分を占めている。政府の規制は少ないし、官僚が経済に直接的な影響力を行使することも少ない。それどころか、官僚は政治家に言われた通りに行動しなければならない。政策課題については激しい論争があり、国民は政治に高い関心を持っている。

 これは現在のアメリカだと考えるのは当然だろう。確かに、アメリカにもよくあてはまる。ところが、実はこの国とは日本なのだ。戦後の日本ではなく、1920年代の日本である。多くの専門家は、典型的な「日本型」経済体制は前世紀からあって日本の古い文化に根ざしていると考えている。ところが、今我々が知っている「日本型」経済体制は1920年代には存在しなかったと知ったら、きっと驚くにちがいない。

(以下、小見出し列挙)

1920年代の日本――純粋な自由市場資本主義の国
市場シェアではなく、手っ取り早い儲けが目標
1920年代の日本はアメリカよりも資本主義的
日本を変えた危機 ……国民所得が縮小し、全世界に貧困が広がった。この貧窮の度合いは、今となっては想像しにくい。飢餓が蔓延し、子供を売春婦として売り飛ばすという事態がアメリカ、ドイツ、日本で起こった。1930年代初めに日本の軍部が行った全国調査では、栄養不良や病気、労災による障害などで軍務に適さない青年の割合が大きかった。いっぽう、資本家という太ったネコはぬくぬくと暮らしていた。日本のエリートは、何とか手を打たなければ軍事力にも労働力にも深刻な支障が出ると感じた。大恐慌の原因を十分に理解したとは言えなくても、どうも資本主義システムそのものに欠陥があると考える思想家や為政者が増えた。……

内外の脅威
自給自足経済を求めて
革新官僚が新システムを追求
日本の軍国化
成長最大化のシステム
 支那事変下の1940年、日本の官僚はこうした法的権限を握り、新金融体制、新財政政策、新労働体制からなる新経済体制を宣言した。全体の調整権限は1937年に設立された企画院が握ることになった。企画院はいわば軍事経済の参謀本部であり、その任務は可能な限りの高度成長を実現する新経済体制を樹立し、資源を最優先産業に振り向けることだった。

 この構造変革の目的は、可能な限りの高度成長という目標に向かって誰もが邁進するよう、インセンティブを与える制度的枠組みを作り上げることだった。経済成長は資源の一部が蓄えられ再投資されて実現する。投資が増えれば増えるほど経済成長は高まるし、国民所得は増大する。初めに一袋のモミをもっている農民は、これを蓄えるか消費するかの選択を迫られる。現在目いっぱい消費してしまえば、今年はたらふく食えるが、来年は飢えるだろう。蓄えて種まきに、(再投資に)まわす量が多ければ、将来の収穫も増える、一本のイネから百粒以上の米がとれるのだ。消費量が増えれば、種まきにまわる量は少なくなる。

 企業は農民のようなものだ。利潤を貯蓄に回して再投資するか、あるいは株主に配当として支払うかを決断しなければならない。配当が少ないほど再投資額は増えるし、企業の成長は速まる。高い経済成長を達成するには、個人が貯蓄し、企業が利益を再投資する経済機構を作り上げなければならない。

企業所有と支配の分離
株主は成長の邪魔
 株主の目標は利潤の最大化だ。彼らがいちばん関心を持つのが高い配当であれば、企業が再投資する資金は枯渇し、成長は遅れる。つまりは、少数の富裕な所有者が生産的な投資ではなく、つまらない目的のために余剰資金を使ってしまうということが起こりやすい。所得の不平等は拡大し、投機や無駄な消費物資の生産が増加して、経済成長率は低下する。所得と富の格差が大きければ、平等な分配が行われる経済に比べて消費は低迷するだろう。スーパーリッチは総所得や富のごく一部しか消費しない。

 勤勉に働こうというモチベーションが従業員になく、高賃金と労働時間の短縮を強硬に企業に求めれば、これも利潤を低下させ、それが経済全体に波及すれば経済成長率そのものが低下する。そこで革新官僚は株主と従業員にあまり力をもたせると成長を阻害するという結論に達した。

 だが経営者は違うと彼らは考えた。経営者は企業内部で出世すれば高い報酬を受け取れるだけでなく、威信が高まり、企業の(経費支出を含めた)資源に大きな権限をふるうことができる。企業の階級はピラミッド型だから、底辺は数が多くて上に行けばいくほど数が少なくなるが、企業が大きくなればそれだけ多くの経営者がトップランクに上ることができる。したがって、株主と労働者の目的は経済成長全体の促進という目的と直接には結びつかないが、経営者の目的はこれと一致する。
資本家なしの資本主義がいちばんうまくいく
 株主と労働者の力を剥奪し、経営者の力を強めてやれば、経済成長を加速できる。1930年代の為政者はそう考えた。大企業の経営者は彼らにとって同盟者で、株主と統制のきかない組織労働者は敵だった。だが労働者は上手に扱えば仲間に引き入れることができる。(註11 1938年のある内務官僚の言葉を借りれば、「株主が取締役会の所管事項や経営方針の決定に口を出し、会社の利潤をもっていってしまうなら、株式会社制度に重大な欠陥があることは疑いない」。そこで彼は、利潤を経営者や従業員、再投資に厚く、株主には薄く分配する企業構想を述べたという。)……

 しかし、株主をなだめて高度成長という全体目標に合わせるよう仕向けるのは難しい。関係者三グループの中で成長にいちばん役立たないのが株主だ。革新派は、大企業が優勢な現代経済においては、資本主義は資本家なしで、代わりに強力な経営者がいたほうがよろしいと判断した。

経営者資本主義と家族としての企業
 ……1938年にすべての企業で「産業報国会」が結成されて、正式に実行された。経営者と従業員の共同委員会がつくられ、労働者はここで自分たちの関心事を表明するとともに、経営判断に参加できることになった。同時に労働組合は解体され、すべての組合活動は企業レベルに振り分けられた。これで、労働者に譲歩しすぎて企業の成長を危うくするような事態は確実ら避けられる。

 いっぽう、株主の役割は縮小された。1940年に発表された新労働体制では、企業は株主の所有ではなく、そこで働く者の共同体だということになった。……

新労働体制――われわれが知っている日本の誕生
 ……経営者と従業員のための画期的な福祉制度が導入された。1938年の国民健康保険法と翌年の職員健康保険法によって、事実上、被雇用者の健康保険制度が整った。……

メインバンク制度の創出
日本の高貯蓄率のルーツ
 ……こうして消費が抑制され、家計部門の富は企業部門へと移されていった。

新生日本
 1937年から45年までの変革で、企業の機能は様変わりした。「滅私奉公」というスローガンの下、新経済体制は企業を利益追求の民間事業から、利益ではなく成長を目標とする半官の事業に見事に変容させた。……労働力は根こそぎ動員され、農業部門から工業への労働者の移動によって、日本は工業国へ不可逆的な変身を遂げた。失業は一掃された。戦時経済の計画者たちは、利用可能な資源による生産高を最大にするという目標を達成した。

一党支配体制の導入
日本型のシステム――戦時経済
 1945年に日本が降伏するころには、戦後経済構造に不可欠な要素のすべてが確立されており、日本は20年代の自由市場資本主義から、統制された戦後の「日本型」資本主義へと移行していた。……戦時の総動員によって、それまではほぼ農業社会だったものが、軍隊式の労働スケジュールに従順に従うよう訓練された工業労働者の集団へと変わった。

 1937年から45年までという短期間に突然戦時経済システムができあがったことは、エコノミストや歴史家を驚嘆させるはずだ。第一に、このシステムは驚くほど一貫していて論理的に整合性があり、きわめて効率的だった。このシステムは単独では機能しなかっただろう。全体がまとまって実行されたからこそ、諸外国の自由市場システムを徹底的に打ち負かし、戦時中の急成長だけでなく、戦後日本の「奇跡の経済成長」まで実現することができたのだ。……
第15章 もう一つの奇跡

(略)このような信用政策によって、日本の経済システムの重点はたちまち変化するだろう。資本家なしの資本主義と、収益ではなく規模の競争に基盤を置く奇跡的な経済構造は維持できる。重要なコントロールのツールである信用創造が民主的な監視のもとにある限り、日本経済は高度成長を実現しつつ、同時に国民の生活水準も生活の質も向上させることができる。戦時経済体制は、日本が自由市場方式の資本主義につきものの欠点と膨大な人的コスト、つまり所得と富の不平等と高失業率、高い犯罪発生率などさまざまな社会的不公正を回避するのに役立ってきた。システムを維持しつつ、時代に合わせて調整すれば、これらの利点も存続させることができる。……

 戦争直後の指導者たちは自分たちが戦時経済を運営していることを知っていたが、政治的な理由から事実を口にしなかった。冷戦のプロパガンダによれば、戦後日本はアメリカ流の政治・経済システムを取り入れたはずだった。真実を話したがらなかった指導者たちは、昭和天皇を含め、日本経済がなぜ奇跡を成し遂げたかという秘密を墓場にもっていってしまった。1980年代、90年代に君臨した官僚や政治家たちには、日本経済の性格に対する理解すらなかった。同じくアメリカの指導的な指揮者たちも、日本の戦時経済の性格についてほとんど知らず、その利点も可能性もわかってはいなかった。皮肉なことに、戦後日本の第一世代のエリートたちはアメリカに派遣され、アメリカ流の経済学を勉強して博士号だの経営学士号だのを取ってきた。彼らは自由市場理論を学んで帰国した。だが、自国の経済の原則について正式な教育を受けたことは一度もなかった。日本のどこを探しても、日本の戦時経済体制がどう機能しているか、どこにその根拠があり、どんな利点をもっているかを詳しく解明する理論はなかった。

 新古典派経済学では一種類の経済システムしか想定されていない。純然たる自由市場経済で、株主とセントラルバンカーが最高の支配者である経済システムだ。日本の若いエリートたちは、アメリカのエコノミストの理論をすぐにそっくりそのまま繰り返した。アメリカの指揮者が日本はシステムを変革すべきだと主張すると、日本ではエコノミストも産業界の指導者も官僚、政治家も、誰も反論することができなかった。年長の指導者の多くは直感的に、日本のシステムは国民に役立っているのだから、あわてて捨ててはならないと感じた。だが、彼らには他人を説得できる合理的な根拠がなかった。アメリカの指導者は自由市場システムを何十年も研究してきた成果を踏まえて、容易に議論に勝つことができた。結局は、日本の生産性を引き上げるために古いシステムを改革すべきか、それとも捨てるべきかという議論は一度も行われなかった。

――――――――――――――――――――――――引用ここまで

これを単に軍事を最優先した戦争経済システムだ、と切り捨ててはいけない。ツキディデスの「歴史」の中に、アテネの民主制をたたえたペリクレスの演説が残されているが、あれはスパルタとの決戦を前に、アテネの民衆を鼓舞するための演説だ。極限の戦争は極限の民主主義を要求する。武装した国民によって守られずに民主主義は存在しうるか、武装した労働者の隊列によって守られない社会主義権力は存続できるか…
 蓄積に次ぐ蓄積、自己目的化された蓄積、が資本主義の本質だとマルクスは言ったけれど、資本主義においては蓄積は資本家(株主)の私的所有という項を通さなければならない。(もしかしたらしないかもしれない。)純粋に蓄積を実現しようとした「日本型経営システム」は資本主義の完成としての社会主義と言っていいのではないか。資本の社会化も実現していたわけだし。

ではその日本型経営システムはなぜ壊れたのか。

「システムが行き詰ったから」ではない、というのがヴェルナーの意見だ。
円の支配者たちが信用創造の方法を駆使して意図的にバブルとデフレを発生させ、日本を壊そうとしたというのだ。(2で検討する。)

では日本の社会主義を望まなかったのは誰か、経済大国日本を日米冷戦の敵とみなしたアメリカであり、昭和維新運動は偽装された共産主義だと(正しく)見抜いていた昭和天皇と旧エリートたちだ。

「戦争を内乱に転化せよ」はレーニンのテーゼだが、昭和のファシストたちは戦争を利用して国内改造を遂行した。革命を怖れた昭和天皇は戦争の早期終結を図って反革命の保証をアメリカに求めた。聖戦完遂を叫ぶ徹底抗戦派の蜂起が成功していれば、アメリカの軍事援助を受け昭和天皇に指揮された政府軍と蜂起の軍の間に、日本のパリ・コミューンが出現しえたかもしれなかった。しかし日本国民はその歴史を選ばなかった…。

バブル崩壊以後の新自由主義の跳梁を僕は小さなゆり戻しと思っていたけれど、そうではないらしい。旧エリートの末裔がアメリカの意を受けて大日本帝国という古いシステム・大地主と大財閥の世界に戻そうとしているのではないか、ヴェルナーはドイツの例も挙げているが、アメリカは世界的規模の反革命を目指しているのではないか。

革命家たちは皆死んでしまったが、ファシズムの遺産は残った。その遺産を日本人は守りきれなかった、ということではないのか。



僕らはその国を現実に見た。その国は単なる理論的予想ではなかった。
その国の経営の方法も手に入れた。投資と貯蓄をコントロールすればよいのだ。
その国への行き方もわかった。世界戦争の炎の中で寄生虫を払い落とせばいいのだ。
けれど・だが・しかし・それでも、それは世界革命の課題だ…。

                             つづく
塩見孝也様3

2 信用創造について

銀行はいんちきをしているのだ(ロスチャイルドの陰謀等)という話が流れているが、いくつかの内容が錯綜している。
もっとも単純なものはこういうストーリーだ。

A氏が1ドル金貨を金細工師に預けた。金細工師はその1ドル金貨をB氏に貸し出した。B氏はその1ドルでC氏に支払いを済ませた。C氏はその1ドルを金細工師に預けた。金細工師はまたその1ドルをD氏に貸し出した。D氏はその1ドルでE氏に支払いを済ませた。E氏はその1ドルを金細工師に預けた。金細工師はまたまたその1ドルをF氏に貸し出した…

金細工師が預かったのは本来1ドルだったはずだが、貸し出しは3ドルに増えている。このいんちきが銀行の始まりだ、というのだが、これはおかしいというほうがおかしい。
貸し出したのは確かに3ドルだが(B.D.F.)、預かったのも3ドル(A.C.E)。同じ1ドル金貨が3回転しただけだ。お金を増やしたわけではない。1ドル金貨は使用されても形を変えない。何回でも使える。ある日受け取ったお金を次の日に使う、1日で1回転するとすれば1ドル金貨1枚だけで100日で100ドル、1000日で1000ドルの買い物を実現できる。

(ある日A氏がやってきて1ドルを請け出そうとすると、金細工師はB氏から貸付を引き上げなければならない。B氏が1ドルを工面できなければ金細工師本人が1ドルをどこかから調達しなければならない。お金は増えていない。)

この100ドルとか1000ドルというのは使用された延べ回数を集計しただけであって、お金が増えたのではない。

ところがヴェルナーがしているストーリーはこれとは違う。

金細工師は金(きん)を預かると預り証を発行する。預け手はその預り証が紙幣として使えることに気がつく。次に金細工師は預かった金を寝かせておかないで、返してくれといわれるまで貸し出すことができることに気がつく。これは第一のストーリーとは違う。第一のストーリーでは1ドル金貨は1ドルの購買力としてただ回転しているだけだが、第二のストーリーでは1ドル金貨は2ドルの購買力になっている。さらに、金細工師は貸し出しをするときに、金自体を貸し出すのではなく、預り証をもう一枚発行すればよいことに、さらにさらに預り証は何枚でも印刷できることに気がつく。1ドルの金貨が何倍もの購買力を生み出す。これは贋金そのものだ。お金が無から創造された…。
ここから引用―――――――
円の支配者  リチャード・A・ヴェルナー
第4章 銀行業という錬金術

金細工師の錬金術
……金細工師は金(きん)を預かると、預かり証を発行する。預けたほうは、預かり証の便利さに気づいた。……預かり証が通貨になったのである。
 こうして13世紀ごろには、ヨーロッパでも紙幣が登場した。ただし、中国の紙幣とくらべるとかたち、機能、意味に決定的な違いがあった。政府によって発行されるのではなく、民間のビジネスマンのグループによって発行されたのだ。

歴史上最大のトリック
 中世のほとんどの職業にはギルドが形成されていた。金細工師にもギルドがあった。彼らは定期適に開く会議で、預かり証が通貨として利用されるようになって大量の金が金庫に眠っている状況について話し合ったに違いない。その金を一時、貸し出せば、余分の儲けが得られると気づいたのだろう。金がなくなっているのを発見される危険は少なかった。預かっている金を思いがけなく要求されたときには、お互いが助け合えばいい。
 金細工師が預かった金を貸し出して、余分の金利を取るようになった時、二つのことが起こった。ひとつは、金細工師が詐欺を働いたということだ。彼らの預かり証は、金がきちんと保管されているという保証だ、顧客は金がそこにあると信じている。ところが、金はない。貸し出されてしまっている。……
 第二に、新しい購買力が創造された。金の預かり証が商品の購入に使われ、その一方で金そのものが貸し出されれば、誰かがそれまでは存在しなかった追加の購買力を手にする。経済全体の購買力は増大する。金細工師は通貨の供給量を増やしたのだ。だが、政府が購買力の創造と分配の決定権を握っていた中国と違って、ヨーロッパではだれが通貨を受け取るかを決めるのは金細工師だった。一般民衆は知らなかったが、金細工師の行動はすべての人に影響を及ぼした。彼らが新しい通貨を創造すれば、希少な資源に対する要求は増大する。
金細工師は笑いがとまらなかった。貸し金に対する需要は常にあったのだ。金のほとんどを貸し出した後でも、さらに金利を得る機会を逃すのは惜しかった。そこで彼らは金の代わりに預かり証を借り手に渡して、融資を拡大することを思い付いた。簡単に言ってしまえば、金細工師は通貨を「印刷」できたのだ! それによって、好きなように購買力を与えることができた。このときは、三つのことが起こった。まず、資源に対する要求、つまり通貨供給量がさらに増大した。これは好景気を産むか、消費者物価あるいは資産価格のインフレにつながる可能性がある。第二に、金庫に残っている金よりもずっと多くの預かり証を発行したのだから、詐欺はさらに大がかりになった。預け手が金を返せと言い出せば、危機が発生する。第三に、銀行業が誕生した。

引用ここまで―――――――――
サミュエルソンの「経済学」13版にも金細工師が出てくる

第3節  銀行業と貨幣供給

「イギリスにおける商用銀行は、人々の金や貴重品を安全保管するようになった金細工師から始まった。最初はこの種の仕事場は、今日で言う手荷物預かり所か倉庫のようなものに過ぎなかった。預ける人は、自分の金を安全保管のためにおいてゆき、受け取りをもらい、後日、その受け取りを提出するとともにわずかの料金を保管代として払った上で、自分の金を受け戻した。」

「われわれはここで、最初の金細工師銀行は金の延べ棒を細工することはもはややっておらず、人々の貨幣を安全保管する業務に専念していると前提する。このときまでに100万ドルが預けられて金庫の中に入っており、その全額が現金資産(貸借対照表の中の「現金準備」の項目)として保有されている。そして、この資産とつりあう形で同額の要求払預金があるので、現金準備は預金の100パーセントということになる。

 銀行貨幣が、銀行の金庫内にあって現実の流通過程から引き上げられた通常の貨幣(金または通貨)の数量をちょうど相殺する形となるので、貨幣創造はそこにぜんぜん発生していない。…われわれは、100パーセントの準備を持つ銀行制度は、Mの総額を増やしもせず減らしもせず、貨幣やスペンディングや物価に対して中立的な効果を持つという言い方をするのである。

さて、先の金細工師=銀行家の例に帰って、近代の銀行がどのようにして徐々に進化してきたかを調べてみよう。金細工師=銀行家は機敏な利潤追求家であればまもなく気がついたであろうが、彼のところに預けられている預金は要求払い預金であるけれど、いっぺんにその全部が引き出されるわけではない。突然すべての預金者に全額を同時に払い戻さなければならないようなことがあれば、100パーセントの準備金が必要であろうが、そのようなことはほとんど起こらないことが、彼にもまもなくわかる。所与の日に一部の人たちは預金を引き出しに来るだろうが、同時にほかの人たちが預けに来るのでこの両者は大体において釣り合うこととなる。預金と引き出しがほぼ同額となる結果として、大部分の銀行は、現金払底を避けるため預金の1パーセント程度の現金を用意しておくだけで足りるだろう。

くだんの銀行家はまた、準備金として保有されている資金は、金庫内の現金か金の形であって利子を稼がないから、いわば不毛であるということに注目する。現代の連邦準備制度に寄託される準備金も同様に利子を稼がない、しかし銀行家は、彼らの資金を稼働させたいのである。したがって、初期の銀行も、自分のところに預託されている貨幣を使って債券なりその他の利益を生む資産なりを購入するという考えを思い付いた。彼らはまもなく、その預かっている預金を投資に回すことは、預金者は依然として要求に応じた支払いを受けるのだから、自分たちにとって利益のあることだということを発見したのであって、事実、銀行はなにがしかの余分の収益を上げたのである。」

…

「最初の金細工師=銀行が、預金に対しては100パーセントではなく部分的な準備金で用が足りると決めたことは革命的であった。いまや預金の総額は金準備の総額を超えることになる。すなわち、銀行は貨幣を創出しうるのだ。以下のところで、この過程がどのようになされるかを明らかにしよう。」
…
「銀行は、文字通り貨幣を創出しうるのである。すなわち銀行は、1ドルの金準備(または今日の中央銀行の準備金)を数ドルの貨幣に転化させる。」


「銀行は貨幣を作り出すことができるか
われわれはここで、「銀行預金の倍数拡張」として知られている…問題をとりあげる。この問題は、銀行が1ドルの準備金を多数ドルの貨幣に転形するといわれることから、時には不可解なことと考えられている。実際には、この過程に奇妙なことは何もないのであって、単に、近代銀行制度の部分準備的性質をその背後にもっているのでしかない。」
ところで、日本でされている信用創造の説明は次のようなものだ。

金融大学 > 金融用語辞典 > 信用創造

「銀行が、預金者から100円を預かったとします。法定準備率を10%とすると、10円だけを現金で銀行に残し、残りの90円(元本の90%)をA企業に貸付けることができます。A企業は、銀行から借りたお金で、取引先であるB企業に支払いをします。B企業はそのお金を銀行に預け、銀行にはB企業の預金90円が新たに作られます。銀行は、90円の90%である81円をC企業に貸付けます。そしてC企業よりD企業に渡り、再び銀行に預金されます。銀行では81円の90%をE企業に貸付けることになります。
 このように、お金が銀行と企業の間を循環することによって、銀行の預金通貨はどんどん増えていきます。これが信用創造です。現金通貨が、数倍の預金通貨に生まれ変わります。

たとえば、最初の預金100円、法定準備率10%なら、90円が銀行から貸し出されます。その場合、預金通貨は10倍に膨らみます。

最初の銀行に100円を預金し、次の銀行に90円、その次の銀行に81円…。これをずっと合計していくと、預金は、100+90+81+72.9+65.61+59.049…=1000円になるのです。」


預金者本人が100円を払い出し、また預金し、またまた払い出し…と10回繰り返すと、預金の延べ総額は1000円、貸出総額も1000円になるが、それとどこが違うかというと、預金者本人とBD…とが「同時」に預金・購買力を持つ、というところだ。


金融大学の説明は、準備率10パーセントのときは100円のお金は回転の度に目減りしていくが、最終的には1000円分回転する。最初のお金が10回転したのと同じだ、ということを言っている。その時、本人が払い出したのではないから預金の額は1000円に積み重なっている。

 実際に銀行がやっているのは、100円の預金を受け入れると、結局同じことだからといって、その100円を準備金として、1000円を貸し出すのだという。

900円分の購買力が無から生み出されてしまった。(これは、いんちきだ、悪だ、というのとはちょっと違う。商品の総額と収入の総額は等しいのだから、収入の一部が貯蓄されたままになってしまうとその分の商品が売れ残る。貯蓄と同じだけの貸し出しをしてその商品を誰かが買わなければならない。)

ところで、預金されるお金というのはさしあたり使う予定のないお金であると考えられる。それに対して借り出されるお金というのは支払いに必要だからこそ借り出されるのだと考えられる。すると、必要とされるお金は、90→81→72.9…と減ってしまっている。いっぽうではさしあたり使われないお金が貯金として増えている。

ここで整理をしてみる。

「乗数」について。

ケインズ政策で有名な投資乗数の説明がおかしい。
新たに100円が投資されたとき、
収入のすべてが貯蓄されてしまうと、(限界貯蓄性向・1)消費は100円だけ増加する。乗数は1。

 収入の半分が貯蓄されると、(限界貯蓄性向0.5)  50円が貯蓄され、50円だけが2回目の回転に入る。2回転した50円のうち、さらにその半分の25円が3回点目に入り… とずっと続けていくと、回転したお金は、50+25+12.5+…=100 
貯蓄も、50+25+12.5+…=100
最初に100円が消費に入っているのだから、最終的な消費の増加は200円。(100÷0.5=200)乗数は2。

収入の十分の一が貯蓄されると、(限界貯蓄性向0.1) 90円が2回目の回転に入り、81円が3回点目に入り… とずっと続けていくと、最終的な消費の増加は
100+90+81+72.9…=1000  (100÷0.1=1000)乗数は10。
貯蓄は、10+9+8.1+7.29…=100

では収入が全部支出され、貯蓄のない世界では、(限界貯蓄性向0)…
消費の増加100+100+100+…= …
乗数は100÷0= …
貯蓄は0+0+0+…=0
ウィキペディア「乗数効果」ではこういう説明がされている。

―――――――――
貯蓄のパラドックス[編集]
投資乗数をある国の単年度における国民経済フローの簡単なモデルで考える。

限界消費性向(可処分所得が1単位増加したとき、消費が増加する量)=0.9 限界貯蓄性向(可処分所得が1単位増加したとき、貯蓄が増加する量)=0.1 限界消費性向+限界貯蓄性向=1 国民所得:Y=C+I 総消費:C=0.9Y 総投資:I=10 この式を解くと、Y=100となる。(I=0.1Y)

ここで、企業が先行きへの期待を基にこの年の投資量を2増やし、総投資が12になったとしよう。このはじめの段階では国民所得は同量の2しか増えない。

しかし、この2はやがて家計の所得となり、消費は所得の関数であるため、その所得の90%(C=0.9Y より)の1.8が消費される。その消費1.8は同量の国民所得1.8を増加させ、さらにその90%の消費1.62を拡大させる。

こうして、貯蓄と消費への振り分けが十分に早いペースで最終段階まで進むと仮定した場合、この年における消費量は18増える(=2×0.9+2×0.9^2+2×0.9^3…)。はじめの投資の増加2と合算して所得(総消費)の増加分は20(��Y=X/(1-β)、ここでは=2/(1-0.9))であり、これが追加的な投資に対して最終的に得られる所得の増分(��Y=��C+G+��I)となる。一方で所得のうち消費されなかった分である貯蓄は2(所得に対する限界貯蓄性向は1-βであり総貯蓄の増分��S=��Y×(1-β)、ここではS=20×(1-0.9)=2))となる。

このことは、当初の投資によって増加した所得のうち、貯蓄されずに消費された分だけが、それと同量の新たな所得を実現することを示している。つまり、限界貯蓄性向を高めれば高めるほど、それだけ乗数効果が弱まるということになる。たとえば限界貯蓄性向が1であったとすると増加した所得を全く消費せず、全額を貯蓄に回すことを意味している。このとき、新たな所得はまったく生まれないことになる。

この投資乗数の例では、当初の投資の増加分2は、最終的に生じた貯蓄2と一致している。また、かりに限界貯蓄性向の値を高めたとしても、それまで以前よりも乗数が下がって消費と所得が減少するだけであり、最終的な貯蓄は2のままで変化することはない。これは、貯蓄がマクロ的には投資と一致することを意味している。すなわち総投資が変化しない限り、総貯蓄が変化することはない。日常的な感覚(ミクロ)によれば、投資ができる分量は貯蓄された分量に制約されており、貯蓄をすればするほど大きな投資も可能になるように見えるが、マクロ経済では単年度の追加的な投資量によりその年の追加的な貯蓄量が決定されており、このことを貯蓄のパラドックスという。マクロ経済で単年度の貯蓄量を増やそうと当年度の投資量を減らしたとしても、当年度の貯蓄量は減ることになる(参照:合成の誤謬)。

貯蓄と投資[編集]
モデルでもあらわされるように、総貯蓄の増加分と総投資の増加分は同額になる。これは、現実の経済からすると一見誤りであるように思われる。例えば100円の貯金をしたとしてもタンスにしまえば、銀行へ預金する場合と違って融資もされず、投資に向かわないはずである。

マクロ経済学においては、この貯蓄と投資の因果関係がほぼ逆になる。総投資が存在する場合は、総貯蓄は0にはならない。仮にある年の総貯蓄を0にしようとして所得の全てを消費するような社会(その年の限界貯蓄性向=0)を考えてみた場合、新規に追加的投資をおこなえば乗数過程により無限に所得と消費を生み出すことになる。

現実にはこのような社会はありえず、これは前提とした条件(限界貯蓄性向=0)になんらかの論証上の矛盾が含まれていることを意味している。また国民経済フロー式に物価(P)を考慮したより高度な分析によれば、これはその年の名目での国民所得だけが無限に増大しハイパーインフレーションが発生していることとなる。このようにマクロ経済で見た場合はある年の総投資の存在が、その年の総貯蓄の発生理由となる。
―――――――――引用ここまで
ここで、投資が貯蓄を産むのであって貯蓄を増やせば投資も増えるのではないということが説明されているけれどこの理解はおかしい。

まず、「投資が貯蓄を産む」という理解がおかしい。

新たに投資された、例えば100ドルは、貯蓄のある世界では流通、回転の間に少しずつ貯蓄され、結局は全額が貯蓄に移行してしまう。この貯蓄と投資は本来同じものなのだ。そして全額が貯蓄に移動してしまうまでの間にどれだけ流通過程で取引を媒介したのか、というのが乗数によってあらわされる。

 ある一日で得た収入を次の日に全額支出するという(一日で一回転、限界貯蓄性向=0)世界では、ある1ドル金貨は、日曜祭日は商店は休みで一年の稼働日数300日とすると、1年で300ドルの収入を産み、100年では3万ドル、1億年では300億ドルの収入を生む。ここには矛盾もパラドックスも存在しない。ごく普通の僕らの現実の世界だ。

乗数が10のとき、10倍に収入が増えたのではない、10倍にしかならなかった、10倍で打ち止めになった、と理解すべきなのだ。

 また、初めに100ドルが投資された時、その投資が可能であるためにはその100ドルで買えるものが存在しなければならない。ないものは買えない。その世界では少なくとも100ドルの商品が売れ残っていなければならない。ではなぜ100ドルの商品が売れ残っていたかといえば、(商品の総額と収入の総額は等しいのだから、)収入のうち100ドルがどこかに貯蓄されてしまっていたからだ。



ここで貨幣の話に戻ると、それぞれ100ドルずつの商品をもっている人が無数にいたとして、ある100ドルが貯蓄されずに回転を続けるときには、100番目の人は100日目に、1000番目の人は1000日目に、商品を売ることができる。

ところが銀行を通すと、準備率10パーセントでは
100+90+81+72.9+…=1000
1000ドルの商品しか売れない。10日目に10番目の人まででお金の流れが止まってしまうことになる。銀行を通すことでお金に10回しか回転しないようプロテクトがかけられたのだ。

いっぽうでは、預金の額だけは、潜在的な購買力だけは増えている。

ヴェルナーは窓口指導を重視しているが、一方でお金の流れをせき止め、他方では購買力を創造しているのなら、資源の配分を自在にコントロールできる。

「貸出――経済統制の重要な道具
 戦時の経済評論家や革新官僚の一部は、経済について異なる信条をもっていた。彼らは、お金と銀行についての真実を理解していた。信用を創造し配分する銀行と中央銀行の力が経済を支配し、資源を分配する操縦桿になっていることに気付いたのだ(註10)。そこで彼らは中国の皇帝のように、国の支配権を獲得するために通貨をコントロールしたがった。
 戦時経済体制の制度的青写真は、最大経済成長のために資源を分配する枠組みを創出した。だが、資源の分配と生産を実行するために使われたのは通貨システムだった。1930年台から経済戦争を開始した日本の成功を理解する鍵は、マネーである。」

                               「円の支配者」  


・信用創造の過程は、逆にも進行させることができる。

「預金創出の過程は逆の方向にも働きうるのであって、それは、準備金の流出が銀行貨幣を縮小させる時においてである。」

「法定準備金所要額の主な機能は、預金に安全性または流動性をもたせるとか預金の要求払いを可能にするとかいうのではない。そのとくに重要な機能は、銀行が作り出しうる小切手預金の大いさを連邦準備制度が統御できるようにするということである。一定の高率の法定準備金所要額を課すことにより、Fedは一層有効に貨幣供給を統御できるのである。」
                              サミュエルソン



日銀は通貨をコントロールすることで、意図的に日本経済システムを壊そうとした、というヴェルナーの指摘には説得力がある。


現在の日本の課題は蓄積を進行させることではない。生産能力に消費が追い付かないから不況、失業、貧困が発生しているのだ。それは現在の経済運営能力で解決可能な課題だ。


(補・贋金つくりはもうかるがその儲けはどこから出てくるか。

100人の人がそれぞれ1万円ずつ持っている総購買力100万円の世界を考える。一人の人は世界全体の財の100分の1を買うことができる。いま、20万円の贋金がつくられ、世界の総購買力が120万円になると、1万円持っている人が買うことのできる財は1.2分の1に減る。その減った分を贋金づくりが手に入れることになる。これを政府がやって、うすく広く世界から集めた富を特定の産業に投資する、というなら意味がある。しかし私的利益を目的とする私企業にやらせるのはまずいのではないか。)

(補2・貯蓄=投資 は恒等式だから貯蓄は必ず投資されることになっている、と理解している人がいたけれど、恒等式というのはそういう意味ではない。)
r>g その1

ピケティは
「マルクスは暗黙のうちに経済成長がゼロの世界を前提している」と書いているけれど「暗黙のうちに」ではない。

たとえば溶鉱炉一基を稼働している製鉄会社があったとして、手持ちの材料はすべて使い終わった。製品の鉄もすべて出荷した、ところでそう言えばうちは製鉄会社だったな、と思い出して次期分の原料、例えば石炭を発注しようとした、ところがすでに鉄道会社が機関車用に買い取ってしまっていて、石炭が手に入らない、あれ大変だ今期は鉄が出荷できない、すると鉄道会社は破損磨滅したレールを交換できず、すると…

などとやっているとこの経済体は存続できるかどうかわからない。

ある経済体が存続し続けるためには、期末には期首と同じ状態に復帰できていなければならない。つまり自分自身を回復出来なければならない。だから単純再生産を基本に考えなければならない。まず単純再生産ができる世界を考えて、そのうえで次にどこを動かせばこの経済は拡大するか、どこを動かせば縮小するか考える。だからまず人口も増えず生産性も上がらない世界を描いたのだ。

ということをマルクス自身が書いている。

で、この式  r>g  のgが0のときを考えると、(>であって≧でないのだから)
r>0  rは0にならないということを意味しているのだろうか。

ごく普通の一般庶民は「利潤」と「成長」をあまりはっきり区別していない。なんとなく「利潤」が世界経済を大きく豊かにしているのだと思っている。

というより、そういうプロパガンダを真にうけている。

ある大きさの世界経済のパイがあって、そこに利潤が付け加わってそのぶんパイが大きくなる。その大きくなった分の一部が労働者に滴り落ちてくる…。

そうではない。
経済成長が0のときも(=パイが大きくならないときも)、利潤・資本の取り分、は0にならない。このときのrは何か、それはマルクスの「剰余・搾取」だ。

一人の農民が一枚の田んぼを耕して毎年毎年10俵のコメを生産していたとして、このときこの土地が農民自身の所有であったならこの10俵のコメは農民自身のものになる。
 しかしこの土地に地主がいて3俵の年貢を取ったとしても、コメが13俵に増えるわけではない。

ワルラスの純粋経済学要綱だかを読むと、しきりに、叫ぶ、叫ぶ、という言葉が出てきて、いったい何かと思ったら、要するに競売でせりにかけているのだ。

○ n個の財を市場で自由に交換すると、最終的には市場に参加している人々の満足度・効用が一番高い状態に落ち着く、というけれど、この話のミソは事前と事後で財の量は増えていないということだ。(100個の饅頭より101個の饅頭のほうが満足度が高い、などというのはいまさら指摘されても意味がないし、1個の饅頭を右手と左手の間でやり取りしているといつの間にか2個になる、ということはない。それではマリックのマジックだ。)そして「貨幣」も「財」なのだから、貨幣も増えていない。だからもし誰かが「利潤」を上げていたら・投入した以上の貨幣を得ていたとしたら、その分誰かの貨幣が減っている。
(当たり前だ。もし全体として貨幣が増えていてその増えた分が誰かの利潤だとすると、その人の利益は贋金であり、単なるインフレだ。)

だから、このとき利潤が増えているのだと思って利潤を溜め込んでしまうと、「買い」が不足して商品が売れ残る。もしくは投売り・デフレ、が始まる。

市場における自由な交換によって、効用・満足感・ハッピー感覚は増えるが、それは「利潤」ではない。経済学者たちは増えたのがあたかも「利潤」であり、世界全体のパイが大きくなったのであるかのように話をすりかえている。
r>g   その2

○ ある人がある種の財を有限個持っていたとして、その財を1個づつ増やしていくとその1個の満足度・効用は逓減していく。逆に言えば1個づつ減らしていくとその残りのうちの1個の満足度・効用は増えていく。だから最後の1個を手放すことはまずない。手持ちの残りが0個になる場合、分母が0なら効用は無限大になってしまう。

だから貨幣を持っている人が貨幣をすべて手放すということは考えにくい。生産された商品の総価額とそれによって発生する収入の総額は等しいのだから商品は必ず売れ残る。(投売りが出る。)このような時はたして一般均衡なるものは存在するのだろうか。あったとしてそれはケインズ的な、もはや誰も貯蓄できないほど貧しくなった状態での均衡なのではないか。

市場原理主義者たちは一般的過剰生産はないのだというが、そのようなことはありえない。

(森嶋 ケインズの経済学 序論7ページ脚注6
ワルラスの立場は微妙である。彼はElements of Pure Economicsの文章で書いたモデルでは、明らかにセイの法則を否認しているが、数学モデルではそれを肯定した。もし彼が数学モデルにおいてセイの法則を否認していたならば、一般均衡状態は成立するどころか、存在すらしていないかもしれないことを彼は認めていたであろう。)

○ 商品の価格は需要と供給によって決まる、というけれどそのためには需要量と供給量が自由に動かせなければならない。需要が減少したときに供給量が減らせない商品があったなら、その商品の価格は無限に低下してゆき、最後はタダ、自由財になってしまう。

供給量を減らせない最も代表的な商品は何か。

「労働力」だ。

父ちゃんの賃金が減ると専業主婦だった女性がパートタイムに出る。労働力の供給は増えてしまう。すると賃金はさらに下がり、子供は学校を辞めて働くよ、などということが起こる。労働者の間で乳幼児死亡率が上がり、次に高齢者の寿命が下がり、労働者本隊が飢餓で労働戦線から脱落するようになって始めて労働の供給量が下がる。ここではじめて労働力の供給と需要が均衡する。これはリカードの賃金鉄則の世界だ。

マルサスは、人口は等比級数で増えるが食料の供給は等差級数でしか増えない、だから労働者は常に飢えているのが常態だ、などといったが、ねずみは等差級数的にしか増えないが猫は等比級数で増えるから猫は常にねずみに飢えている、などということがあるだろうか。

軽い貯蓄過剰の状態を維持し、常に労働者のごく一部が餓死する程度の労働力過剰の状態を作り出せば賃金は極小に、利潤は極大にすることができる。その技術を�猗爐薛瓩呂垢任房蠅貌�れているのだ。

竹中平蔵が、提示された賃金が気に入らないのなら働かなければよい、その賃金で働くことを自分で選んだのだから文句を言うほうがおかしい、という意味のことを言ったらしいが、そんな経済理論はない。夜道を一人歩きしている女性にレイプ犯が大きな棍棒をつきつけて、おい姉ちゃん一発やらせろ、さもなければこの棍棒をお見舞いするぞ、どっちかいいか自分で決めろ、といい、女性が仕方なくやらせたとしたら、それはレイプではないことになる。竹中とはその程度の人なのであり、それが慶応大学の経済学の教授なのだそうだ。

竹中氏は郵貯の200兆円でアメリカ国債を買え、と言っていたがアメリカ国債を買ってしまったら200兆円はもどってこない。池田信夫とかいうブロガーが、アメリカがその金で日本製品を買うのならいいではないか、といったそうだが、それではアメリカにタダで日本製品をくれてやったのと同じことになる。そんなくらいなら日本の低所得者にタダで配ればよいではないか。なぜそうしないかというと、日本を貧しくして日本人の消費を抑え、消費に回らない分を富裕層の貯蓄に回させ、その貯蓄でアメリカ国債を買わせて、日本の富を吸い上げる、という「植民地的収奪」同然のことをしようとしているのではないだろうか。そういう使命を粛々と果たしているのだと思えば腹も立たない。
r>g  その3

r>gに戻ると、両手をぱちんと打ち合わせて、いまのは右手が鳴ったのか左手が鳴ったのか、という禅の問答があるそうだけれど、資本と労働が投入されてある額の産出があった場合、その産出が資本と労働の間でどのような割合で分配されるかといえば立場の強いほうが多くとることになる。これは昔ながらの階級闘争の世界だ。

利潤は搾取だという「マルクスの基本定理」がかつて森嶋と置塩によって数学的に証明されたが、ピケティはそれを統計数字として導き出して見せた、ということだろうか。
そう言うと、マルクス読まずのマルクス知らずの自称マルクス主義者のゾンビが、「搾取のない自由な世界としての社会主義の理想を実現…」などと言い出すとうざいので整理すると、マルクスは共産主義は「現実がのっとるべきであるような何らかの理想ではない。それは絶えず現実を止揚していく実践的な運動のことだ」としか言っていない。

まず、社会主義は搾取のない世界ではない。労働者が生産して、しかし労働者の消費に入らない部分、剰余、はそれが資本に投入、追加されるべきなのであって、ゼロにしてはならない。社会主義にできることはそれが浪費されずに社会を豊かにするための資本に投下されるように監視することだ。

次に、社会主義は自由の世界ではない。月にロケットを飛ばすためには重力の法則に厳密に従わなければならない。重力の法則に従えば従うほどロケットは自由に宇宙を飛ぶことができる。恣意や思惑を排して、最も合理的、必然的に経済を組織すればするほど、僕たちは経済をよりよくコントロールすることができる。すると、資源(と人間)を最も合理的に配置しなければならないのだから、資源(と人間)は外部の必然性に従って割り振らなければならない。

自由とは必然性の認識だとヘーゲルは言ったが、割り振られる人間のほうに、経済の最高度の認識がなければそれは「必然性の認識としての自由」とはいえない。割り振られる人間としては、一方的に上からの指令としか感じられないだろう。これは計画・指令経済でも自由市場経済でも変わらない。割り振られる人間にとっては自由な世界ではない。

剰余を浪費させずに、最も合理的に生産を組織すること。
社会主義に・プロレタリア革命にできることはそこまでだ。

そしてこの程度のことは、もはや「日本型経済システム」として、最も良く実現してしまった。社会主義は遠い未来の話ではなく、いまここにある現在なのだ。

そして、事態はさらに進んでいるのだと思われる。

南アルプス天然水が売り出されたとき、吉本隆明は、水に価値がある世界になったことに驚いていたけれど、これは、水に交換価値が発生したことに驚いたのではない。ダイヤモンドやそこらのがらくたにだって交換価値は発生する。そうではなくて、水道の水とペットボトルの天然水に、一般の消費者が使用価値の差を見出している事態に驚いたのだ。

水道と天然水に、どちらにどれだけ資源と人間を割り振るべきか、という問題に答えなどない。どちらでもよいのだ。

ある家計に100万円の自由に使える収入があったとして、おかみさんのほうはその100万円で高級化粧品のセットをそろえたいといい、だんなのほうは商売道具のデコトラに般若の絵を追加したいという。そんなことはどっちだってよい。各自の恣意・気まま、自由な市場の運動、に任せてよい。僕らは必然性の世界から自由の世界に入ろうとしているのだと思われる。

ただし、市場には完全雇用を安定して実現させる能力はない。
総消費、投資と貯蓄をコントロールして完全雇用を実現するのは市場を超えた政府の役目だ。そしてそうして初めて、本来の意味での「自由な市場」が実現する。

その上で、消費しきれないくらい生産が大きいのならば、労働時間の短縮が課題になる。週休3日から4日になったらそれは「労働の廃止」が始まったのだ。

そして「人類の前史が終わり、本当の人間の歴史がはじまる」…
                      マルクス「経済学批判」
世界が100人の村だったら。――「資本論」超入門 +信用創造ちょいたし 1.

100人のうち20人をとりあえず「資本家」と呼んでおく。残り80人は「労働者」とする。
生活水準はみな同じであり、(消費財をコメで代表させるとすると)一年に「コメ」一俵を消費する。この世界の総産出は「コメ」100俵である。

世界を一つの「企業」とみなす。

通貨は「1ドル金貨」とし、100枚の金貨が「企業」の手の中にある。コメ1俵=1ドルで「労働者」の賃金も1ドルである。

「企業」の手の中にある100ドルのうち80ドルは「資本」であり、20ドルは前年度の「利潤」である。

「企業」はまず20ドルの利潤を資本家に支払う。

つぎに、「企業」は80ドルを投下して80人の「労働者」を雇い「コメ」を生産する。80人の労働者はその金で80俵のコメを買い一年間の生活に当て、一方でコメを生産する。ところで一人1俵を消費して一年間働く労働者は一年に何俵のコメを作ることができるか。

馬とか牛を連れてきて農場で働かせたとして、その馬が一年間に食べる飼料より以上のものを生み出さなかったとしたら、馬を飼う意味がない。

トラクターのコスト以上の「剰余」をトラクターが生まなければトラクターを農場で使う意味がない。

これは当たり前だ。狼やライオンが一日走り回って自分が生きる分の獲物しか手に入れられないとしたら(剰余が存在しないとしたら)、彼らは子供を育てられないことになる。

この世界では一人の労働者は一年に1俵のコメを消費し1.25俵のコメを生産する。0.25が剰余である。全体では80人の労働者が100俵を生産する。そのうち80俵は来年度の労働者の消費に当てられ、20俵が「企業」の手に残り、資本家がそれを20ドルで買う。

「企業」は80ドルを生産に投入し100ドルを得た。20ドルの利潤が実現した。100ドルの金と100俵のコメが一回転した。この経済体は単純再生産を繰り返しながら存続することができる。

ではここから数字を動かしてみよう。

労働者の賃金を引き下げ0.9ドルにしたとする。賃金の総額は72ドル。労働者は全体で72俵のコメを買い、「企業」の手には28ドルと28俵のコメが残る。

20人の資本家が28ドルの利潤を得て28俵のコメを買うとすると貧富の格差は発生するが、世界は豊かにならない。といって増えた分の利潤8ドルをため込んでしまうとコメが売れ残る。

「搾取」の度を高めても総産出は増えない。労働者の取り分が8減っただけで、利潤を増やしても世界経済のパイは大きくならない。パイを大きくするには総産出を増やさなければならない。

資本家が8ドルを工業に投下して(何ならこのとき資本家も自分の生活水準を0.9ドルに下げて10ドルを新投資に振り向けるでもよい。)トラクター工場を作ったとすると、(農業から工業に労働者が移動する。)たとえば結果として「労働者」が工業労働者10人、農業労働者70人の世界になると、コメ(消費財)の産出は87.5俵に減少し世界は貧しくなる。工場が完成して農業にトラクターを投入したときにやっとコメの生産が増える。例えば120俵に増えて1.2俵が1ドルで買えるようになれば労働者は0.9ドルの賃金で1.08俵のコメを得ることができる。

このとき、100ドルの金貨が増えた量の財(120俵のコメ+資本財の損耗分など)を買うことになり、世界がデフレになる。マルクスの場合金が相対的に高くなると金採掘業の利潤率が高くなって資本が金鉱山に投入され金貨が増え総算出の金額も増えるとしているけれど、今なら紙幣を印刷するとか、デジタルマネーを操作するとかして購買力を増やして物価を安定させるのだろう。ところでこの操作は一種の贋金作りなわけだから、ここで増えたドルを誰のものにするかで損をする人と得をする人が出てくる。金貨の生産なら、コスト=収入は経済法則に従って「正しく」分配される。

(ところで、これらの数字は適当につくったのであって、まともに計算してはいない。農業分野と工業の利潤率が等しくなるかとか、工業の生産設備はどのようにして蓄積されるかなどは無視している。マルクスの再生産表式を見ながらやればよいのだろうけれどやらない。ここでは利潤を増やしてもそれだけでは経済のパイは大きくならないことが示せればよい。また、「マルクスに価値論はいらない、分配論で推してゆけばよい」というジョーン・ロビンソンの提案を尊重して「価値」には触れない。)
世界が100人の村だったら。2

資本主義の初期に資本を蓄積するには国民の消費水準を下げなければならない。農業しか産業がないのだから農民からの収奪を強化しなければならない。これはイギリスでも日本でもロシアでも当然そうなのであって、迂回路など存在しない。ロシア革命とは巨大な開発独裁の一種だ、とバーナムは喝破したけれど、メニシェビキたちの悪夢、(早すぎた革命――コムニストが社会主義の名の下に国民を収奪して資本主義的原始蓄積を遂行する)と理解するのが正解なのだろう。資本主義の代用品としてのコムニズムととらえれば、200年の資本主義の歴史を20年で駆け抜けたロシア共産党は使命をそこそこ果たしたといえる。

巨大な貧しい農民人口を抱えた中国のような国で、コメからトラクターに生産をシフトさせると膨大な餓死者が出る。また逆から考えると薄く広く国民から集めた資源をトラクター工場に振り向けようとしたときに、人口増加が起こっていて、その人口を養うためにその資源が食いつぶされてしまったら、国民一人当たりの資本装備率を上げることができない。人口を減らす、もしくはそれができなくても少なくとも人口爆発をとめなければならない。中国共産党は「一人っ子政策」を最優先の課題としたらしいが、「資本主義の代用品としてのコムニズム」として当然の論理に従っている。魔法のような経済システムは存在しない。人間的自由とか民主主義に反するなどと馬鹿なことを言ってはいけない。

この資本主義的蓄積はいつ終わるかというと、国民から「搾取」した剰余を資本家が生産過程に投資できなくなったとき――資本家が蓄積の主体であることをやめ、ただの寄生者の階級になったとき資本主義は終わる。収奪者が収奪され、資本の社会化が日程に上る。

(「会社は社員のもの」ならそれは「生産手段の労働者所有」ということだ。)


ところで近代経済学では利潤をどう説明するか。(というか、まともに説明できない)

100ドルで買った商品を110ドルで売った。その10ドルが利潤だとすると、その10ドルは買った人が余計に支払っただけであり、お金の総額が増えることはない。お金が増えたのだとすると、それは単なるインフレだ。10パーセントの利潤を実現するには10パーセントのインフレが必要になる。

経済は結局商品で商品を買うのだから、高くなった商品で高くなった商品を買うことはできる、と考えると、それは全般的物価騰貴だ。すべての物価が上がっただけだ。

クマさんがりんごを一個、八つぁんがアンパンを一個持っている。まずクマさんが八つぁんにりんごを100円で売り、八つぁんがクマさんにアンパンを100円で売る。次にクマさんが八つぁんにアンパンを110円で売り、八つぁんがクマさんにりんごを110円で売る。……
マルクスは、自分の帳簿の数字に0を足して喜んでいる、とおちょくりをいれていたはずだ。


あるオランダという国でチューリップの投機が始まったとする。投機に参加した人の持ち金は総額で100万ギルダーだったとする。するとチューリップの総額は100万ギルダーを超えることはできない。現金取引をしているときはたとえば1個120万ギルダーのチューリップなどということはありえない。ここで、1個10万ギルダーで買ったチューリップが6個ある。これは売れば20万ギルダーになるはずだからそれで120万ギルダーのチューリップを買おう、などとやると、数字はいくらにも、たとえば200万ギルダーにも増えるがそれはバブルであって、決算したときには100万ギルダーに戻る。戻らないとしたらどこかでいんちきをして贋金を紛れ込ませたのだ。

100人の人口、100俵のコメ、100ドルの収入の世界で誰かが10ドルの贋金を作ると、1人1ドルの収入では0.91俵のコメしか買えなくなり、贋金を作った人は10俵を手に入れることができる。贋金を作った人の増えた分のコメは他の全員からくすねたものだ。

ある資産が年1万ドルの収入をもたらしているとき、例えばある世界では資本還元して100万ドルの資産価値があったとすると、その100万ドルはそうみなしているだけで人の頭の中にしかない額であって、現実のお金ではない。いっぽう1万ドルの収入(現実のお金)とは、支払った人から受け取った人に移動しただけだ。その資産が2万ドルの収入をもたらすようになったら資産価値は200万ドルに増えるがその殖えた100万ドルは増えたとみなしただけで現実のお金が増えたわけではない。持ち主が2万ドルの収入では物足りなくなって、その200万ドルの資産を売って現金に換えて200万ドルの購買力を手に入れた場合には、その200万ドルは買った人が出したのだ。頭の中のお金の数字は増やすことができるが現実のお金は移動するだけだ。
世界が100人の村だったら。3

また1万ドルの収入を産む資産が、利子率が変化して評価額150万ドルになったとして、その50万ドルは果たして「増えた」のだろうか。

この世界が1年に産出する財の総額が1億ドルだったとすると、1万ドルの年収入で世界が産出した財の1万分の1を買うことができる。資産額が100万ドルでも150万ドルに増えても、それ自体は購買力にはならない。頭の中で「みなした」お金と実際の購買力になるお金はきちんと区別してとり扱われなければならない。

金融工学とは競馬必勝法の類なのではないだろうか。ただし競馬場ではお金は増えないが、金融工学でお金が増えたとしたら彼らがより多く消費する分は世界中からくすねたものだ。投機で世界のパイを大きくすることはできない。

株価総額を増やす、などということに意味はない。株価がいくらであってもその金額で全部が売り切れるわけではない。売り始めたとたんに株価は下がり始める。売り逃げして儲けた人の分は売りそこなって損した人の分が移動するだけだ。

「100俵のコメ」の世界でいくら投機を繰り返してもコメが120俵に増えるわけではない。コメを増やすには現実に生産資本を追加投資しなければいけない。利子、配当はその時の利潤からの分け前だ。

資本があると(なぜだかはわからないが)利潤が生まれる、というのは見かけの運動にごまかされている一種の天動説だ。利潤はお金が移動するだけで、増えたのではない。


信用創造をもう一度考えてみる。

サミュエルソン経済学13版に倣って準備率10パーセントとする。

業種・職種によって経済活動の回転速度、サイクルは異なるだろうけれど、単純化のためすべてのサイクルは同じとして話を進める。同じく単純化のため単純再生産の経済とする。

1サイクル目。

ミズ・ボンドフォルダーが甲銀行に1000ドルを預ける。
甲銀行はA氏に900ドルを貸し出す。

1000ドルが預金された時点で、総購買力の中から1000ドルがいわばスリープ状態になる。準備率10パーセントということは100ドルが預金者によって使われることを前提としているのだから、実際には900ドルがスリープである。不足している900ドルの購買力はA氏に貸し出された900ドルが埋める。

A氏がB氏に900ドルを支払う。(ということはB氏が900ドルの商品をもっていたわけだ。)

B氏は900ドルを乙銀行に預金する。


2サイクル目

ミズ・ボンドフォルダーが甲銀行に1000ドルを預金する。…
ここからあとはサイクル1と同じになる。違うのは乙銀行に預けられた900ドルだ。

乙銀行はC氏に810ドルを貸し出す。C氏はD氏に810ドルを支払い…と信用創造の説明では続くのだがすぐ気がつくように、サイクル1ではすべての商品が売り切れている。ということはC氏は誰から買ったのだろう。サイクル1に割り込んだのだろうか。すると誰かがはじき出されていることになる。

ところで貸し出しがあったのなら、返済もあるはずだ、それはどうなったのだ。

信用創造の説明では1000ドルの預金は次に900ドルの預金を生み、その900ドルは810ドルを生み…とやっていくと最終的には1万ドルの預金になる、というがその1万ドルとは何なのか。

ある人が買い物をして1000ドル支払った。1000ドルを受け取った人は10パーセントを手元に残し900ドルの買い物をした。900ドルを受け取った人は810ドルの買い物をし…とやっていくと最終的には1万ドルの買い物が実現することになるが、その1万ドルとは何か。お金の流れを追跡してすべてを積算しただけだ。最初の1000ドルが最終的には1万ドルの買い物をしたのだから、この1000ドルは1万ドルなのだといったらおかしい。この1000ドルで1万ドルの買い物ができるはずだといったらおかしい。

誰かが誰かにお金を払ったときにはその反対向きに商品が移動しているはずだ。そしてその商品はどこかで生産されていなければならない。生産、交換の無限の連鎖を集計して1万ドルになったのだから、無限の未来に実現するはずの購買力の総計を、無限の未来に実現するはずの商品の生産がまだ存在していない現在の時点の購買力にしてしまうのはおかしい。

逆からいえば1000ドルが1万ドルの買い物をしたときには、その反対向きに1万ドルの商品が移動してしまっている。もう買い物は済んでいるのだ。
世界が100人の村だったら。4

1000ドルの預金は900ドルの預金を生み、900ドルの預金は810ドルの預金を生み、最終的には1万ドルの預金になるのだから、1000ドルを証拠金として1万ドルを貸し出すのはそれと同じことだ、というのが信用創造だというのだがこれはおかしい。

最初1000ドルの預金は最終的に1万ドルの預金を生む、というのは無限の経済のサイクルを集計するとそうなるという話であって、それまでには無限の商品の生産のサイクルがあったはずだ。その無限の商品の生産のサイクルを無視して無限のサイクルの果ての預金の集計額・積算額を現在の貸出額(=購買力)にしてしまうのはおかしい。

世界が1000ドルの年産出額だったとする。すると世界の年総収入も1000ドル、年総購買力も1000ドルである。ここですべての収入が預金され、預金は引き出されることがないとする。
だから準備金は必要なく、100パーセントが貸し出されるとする。

1サイクル目
ミズ・ボンドフォルダー(この場合この世界の全住民を代表する名前だと思えばよい)が1000ドルを甲銀行に預ける。この時点ですべての購買力がスリープしてしまいすべての商品は売れない。

甲銀行がA氏(これも全住民のことでよい)に1000ドルを貸し出し、A氏はB氏(これも全住民のことでよい)に支払いをする。つまりすべての商品が売り切れる。一方には1000ドルの購買力が預金としてスリープし、貸し出された1000ドルが1循環する。

2サイクル目

すべての住民が(ミズ・ボンドフォルダーと呼んでもよい)手元の1000ドルを(甲でも乙でも…でも何でもよい)銀行に預ける。この時点で預金総額は2000ドルになるがそれはすべてスリープしている。銀行は新たに1000ドルを貸し出し、その1000ドルがこの世界を1循環する。

3サイクル目

預金額が3000ドルになり、以下同じ。

これはどこまで続くかというと、1000ドルの産出に対し、1000ドルの購買力があるのだから無限に続き、かつ、準備率0パーセントなのだから1000ドルの本源的預金は最終的に無限大の預金を生むことになる。

そしてこのとき、それと同じことなのだからといって銀行が無限大のドルを貸し出ししたとしたら、…

信用創造というのはこれと同じことをやっている。ばかじゃないか。

信用創造の理論というのは数式を解いただけだ。現実の経済の描写ではない。
数学パズルであって、経済学ではない。

もう一度繰り返すと、
1000ドルの購買力が預金された。準備率10パーセントというのは預金者が引き出して使うということを前提しているのだから、100ドルの購買力はアクティブになっていて900ドルの購買力がスリープ状態になっている。だからその900ドルのスリープ状態の購買力と同額を貸し出すことができる。

銀行が900ドルを貸し出し、それが支払いに使われれば合計1000ドル分の購買力がアクティブになる。
900ドルの支払いを受けた人が900ドルを預金すると900ドル分の購買力がスリープ状態になるが、そのうちの10パーセント、90ドルは預金者が払いだすという前提なのだから実際にスリープするのは810ドルであり、だからこそ810ドルが貸し出すことができる。

こうやっていくと預金額は、1000+900+810+… =1万ドルになるから、それとおなじことだからといって、最初の1000ドルを準備金としていきなり1万ドルを貸し出すというのは――そもそもある額の購買力がスリープしてしまうから、それと同額の貸し出しができるはすであるのに、そのスリープしている額を総計していきなりアクティブな購買力にしてしまうのは、論理的に破綻しているのではないか。

そもそも金細工師が預かった金貨をなぜ貸し出すことができると思ったかというと、それが引き出されないとわかっていたからだ。準備金を越える預金は預金者には使われないという前提で貸し出しが行われたはずだ。その引き出されないということが前提になっている預金額を延べ数を集計して現在の購買力として貸し出してしまえば購買力だけが10倍になってしまう。これは現実の経済の中に対応する商品を持たない、本物の贋金だ。(その贋金は誰の手に入ったのだ。)

商品の総額=収入の総額=購買力の総額という自由市場経済の前提はどうなったのだろう。竹中先生お得意のセーの法則はどうなったのだろう。

これは自由主義市場経済の理論が自己破産を申告しているのではないか。

「商品の総額=収入の総額=購買力の総額」が回転するのだとすると、利潤が増えていないのがバレバレになってしまう。何とかして利潤を増えたことにするために理論のアクロバットをしているのではないか。


り・びじょん2 せんそうとかくめい

1941年、対米開戦をめぐる御前会議の内容は米国大使に漏れていた。情報を提供したのはおそらく吉田茂ではないかと五百旗頭真はいう。

(以下はこちらで)→http://homepage2.nifty.com/okutamahomeless/jokyo27.htm

乗数とは何か? 特別講義 『ノートルダムのせむし男』=ダムさんの微分講座

本文→ http://homepage2.nifty.com/okutamahomeless/jokyo28.htm
以下のようなものを発信しています。お目をお通しいただければ幸いに存じます。

「拝啓   武田先生様」
→http://indiagoose.la.coocan.jp/jokyoshn.htm

「ジャパンファースト」

世界的な大飢饉が発生したとして、たとえば中国で200万人が餓死の危機に陥ったとする。中国政府は日本からコメを買いつけようとして、しかしそうすると日本に餓死者が出る。こんなときどうするべきか。

 コメが変えないで餓死する日本人は貧乏人なのだろうから、彼らにコメを売るよりも中国政府が買い付ける値段のほうが高ければそのほうが儲かる、でよいだろうか。…

 水田、ならどうか。田んぼというのはコメを2000年連作しても地力が落ちないのだそうだ。日本人が2000年かけて作り上げてきた田を現在の儲けのために外国に売ってしまってよいだろうか。

 では、「資本」ならどうか。1000億円の資本を日本に投下すれば1000億円が日本人の収入になり、日本に雇用が生まれる。中国に投下すれば1000億円が中国の収入になり、中国に雇用が生まれる。資本というのは、数百年以上をかけて、日本人が生産したが日本人が消費しなかったもの、の蓄積だ。日本で蓄積された資本は日本のために使われるべきだ。

 「資本」は誰のものか。「資本」は「資本家」のもの、でよいか。

 日本はついこのあいだまで農業国だった。収穫は地主と農民が折半する、というのが普通だったらしい。このとき、「農業には農民と土地の両方がなければならない、だから農民には農民の取り分が、土地には土地の取り分がある。」と考えてはいけない。地代は土地の取り分ではない、土地の所有者の取り分だ。農業に土地は必要だが土地の所有者は必要ではない。土地の所有者の取り分は農民が生産したが農民の消費しなかった部分だ。これはマルクス的な意味で搾取=剰余だ。剰余・搾取はそれ自体として「悪」なのではない。剰余が資本として生産に投下され産出が増えれば世界が豊かになる。剰余が不労所得者によって浪費されてしまってはならない。「資本」は社会の富が「資本家」に委託されたのであって、「資本家」がその委託に応えられないなら返還を求めなければならない。


――《補》――

青森国という国があって、そこではりんごが1ドル、バナナが2ドルだとする。
沖縄国という国があって、そこではバナナが1ペソ、りんごが2ペソだったとする。

青森国の商人が1ドルでりんごを買い沖縄国に持っていくと2ペソで売れた。その2ペソでバナナを買い青森国に持って帰ると4ドルになった。3ドルの利潤が出た。

ところでこの3ドルは「増えた」のだろうか。

初めに青森国にあったお金が総額で100ドルだったとすると、1ドルはこの商人が、99ドルはその他の人が持っていたわけだ。で、この商人が1ドル払ってその他の人のうちの誰かからりんごを買った。その他の人の手の中には100ドルがある。そして最後にその他の人の誰かがこの商人から4ドルでバナナを買った。青森国にあるお金はこの商人の手に4ドル、その他の人の手に96ドル。ドルは増えていない。3ドルの「利潤」は移動しただけだ。増えたのではない。青森国民は以前よりハッピーになったかもしれないが、それは「利潤が増えたから」ではない。

駅前のコンビニが100万円のコストて商品を仕入れ、それをそのまま100万円で売ったら利潤は出ない。110万円で売れば10万円の利潤が出るが、その10万円は買った人が余計に支払ったのだ。10万円は移動しただけで増えたのではない。10万円が増えたのだったらインフレだ。10パーセントの利潤は10パーセントのインフレのことだろうか。

「利潤」は増えたのではないのだから、その利潤をため込んだり持ち去ったりしてはいけない。中国に100を投資して110になったとしても、その10は持ち去ってはいけない。その10は中国の中に投資しなければいけない。

世にいう「国際ユダヤ資本」なるものがあったとして、それが利潤を世界中からかき集めて貯め込んだら、世界は貧しくなってしまう。

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