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前原一誠 (佐世八十郎)コミュの越後での仁政

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やそは小倉に続き、越後で仁政を施した。この事実もまた多く語られることはないですね。
このトピではやそが越後で行った政策に焦点を当てたいと思います。


-- 明治元年(1868)の越後の状況 --
北越戦線は戊辰戦争屈指の激戦地。戦場となった地域の被害は甚大であった。
新政府軍の攻略目標となった長岡町では、5月19日の戦争だけで、2511軒が焼失。
これに加えて、新政府軍・同盟軍双方から、物資・人員の徴発と動員が行われていた。
直江津(上越市)では、閏4月から11月までの間に、3万人以上の人足を負担。
こうした人足や物資は、持高や軒数で割り当てた。
負担は小前農民には重く、魚沼郡田沢村(中里村)では小前農民が鎮守に集まり、人足割当て方法が不当だと抗議。

当然治安も悪化し、 各地で一揆や騒動を起きる。
魚沼では、閏4月から小前農民による村役人宅の打ちこわしが発生。
続く5月下旬、長岡藩領巻・曽根地方で「庄屋宅はじめ有徳の者の征伐」と称して、村役人・豪商に対する打ちこわしが起きた。

村松藩領の下田組でも、8月末打ちこわしが起こり、村役人の交替・公選を要求した。
10月末には、会津藩領で起きた一揆が小川荘(東蒲原郡)にも波及し、検地帳や借金証文を焼き捨てた。

それに畳み掛けるように深刻な水害もあった。
長岡藩領桂沢村(長岡市)の農民が、10月に救助米の手当を願い出た文面には、「水兵の両災」という言葉がある。水害と戦災である。この年の5月は連日の降雨で、信濃川が洪水を起こし、沿岸一帯の村々に被害を与えた。
新発田藩領の中之口組・赤渋組六八か村では、人家は床上浸水、田畑は数日間冠水。
11月に入って新発田藩が与えた飢者手当は、4800両にのぼった。


-- 新政府の動き --
こうした新潟の状況を受け、新政府側は戦闘と並行し、民政の重要性を認識。総督府は民政と軍事を分離。民政を担当したのは、副総督 四条隆平。
四条配下の役人は、確保した地域につぎつぎと民政局を設置していく。

5月半ばの柏崎を初めとして、9月までに小千谷・長岡・出雲崎・新潟・三条・水原・村上・津川・川浦(三和村)の10か所に民政局がおかれ、民心掌握と人足・物資の確保を図る。
いずれも城下町であったり、陣屋・代官所があったところであった。

民政局には新政府軍の諸藩士が役人として赴任。その土地の庄屋なども下級役人に取り立てられた。
こうして成立した民政局は、年貢減免・養老者褒賞を行ったり、民衆の要望にもある程度対応せざるを得なかった。


-- 年貢半減 --
民心掌握策のなかで最たるものは、年貢の半減であった。
まだ旧幕軍と戦闘中の6月1日、柏崎の新政府軍会議所は、その年の年貢を半分免除することを布告。
この布告は占領地が拡大するごとに、それぞれの地域に達せられた。
さらに、8月末には、兵火・水害の被災者に対する年貢の全免令も出されたが、これは小千谷民政局の異議によって撤回された。半税は越後の政府直轄地になったところでは、確実に実施される。
それを強力に推進したのがやそだった。


-- やそ、越後上陸 --
慶応4年(1868)6月28日、やそは干城中隊副総督兼蔵元役として柏崎に上陸。越後の土を踏む。

7月6日、山県有朋が北越征討総督府参謀を辞任すると、その後任となり戦闘の指揮を執る。
7月29日、長岡城が陥落。北越戦線での戦闘は終結した。
8月7日、村松藩領へ入る。
村松藩は奥羽越列藩同盟に加わるも、勤王派が幼君を立てて、命脈を保とうとしていた。
そんな小藩の悲哀を前に、本領を安堵してあげるべきだと大村益次郎へ手紙を出す。

8月25日、村松会議所に付近の庄屋を招くと、年貢半減令を布告。
翌日には村松を離れ総督府詰めになり、民政へ集中していく。
そんなやその姿勢に、薩摩の参謀・吉井友実は感銘を受けるが、財政難の政府を知る大隈重信、江藤新平から強く非難される。木戸孝允も考え直すよう手紙をよこした。
それに怯むことなく年貢半減を推し進め、他にも減免措置を越後各藩にとった。
年貢半減は10月までに越後全土での実施を完遂させる。
実際に年貢の半分を免除したのは、全国でもあまり例がないのは特筆するに値する。


-- 越後府 --
新政府は旧幕領・「朝敵」藩からの没収地などを、直轄地とし、府や県をおいた。
これにより旧来の藩領にとどまった地域と合わせ、府藩県の三治制が成立することになる。
明治元(1868)年5月29日(「公文録」では23日)には越後の直轄地を支配するため、越後府が設置された。府がおかれたのは京都・大阪・東京などの重要なところと、新潟・神奈川のような開港地に限られた。越後府には知事は任命されず、北陸道鎮撫副総督 四条隆平が代行。
7月には柏崎県がおかれ、四条がその知事に任命された。
しかし、四条はこれに服さず、四条配下の現地の役人たちの反対もあり、最終的には四条が越後府知事となった。当初の越後府の名称で越後全域を一括統治する方針は変更され、柏崎県と越後府の2つが並ぶことに。

政府は9月に佐渡県を設置するとともに、越後府を新潟府と改称、新潟に府庁をおいて西園寺公望を知事とする方針を打ち出す。
そして11月に柏崎県を廃止して新潟府に併せ、佐渡県も新潟府管轄下において、越後全土を統一支配することを目指した。
この時、やその盟友で参謀兼民政方の奥平謙輔が佐渡にわたり、寺院廃合を行った。
しかし、この新潟府設置は実現するに至らなかった。

11月、四条は長岡に移り、依然として越後府の名で民政を行っていた。
地元では政府の方針に対し、強く反発が起きていたのだ。

明治2(1869)年1月、四条はじめその配下の判事たちがあいついで辞任し、越後支配は混乱。
政府は改めて2月8日、水原に本庁をおく越後府を設置。
庶務方、社寺方、軍務方、会計方、租税方、兵器方、営繕方、病院方などが置かれた。

《沿革》
慶応4年(1868)4月19日、新潟裁判所を設置。
5月23日、新潟裁判所を廃し、 越後府(第1次)を設置。
7月27日、柏崎県(第1次)設置。

明治元年(1868)9月21日、越後府(第1次)を新潟府と改称。
11月5日、柏崎県(第1次)を廃して新潟府に合併(実行されず)、および佐渡県を当分の間新潟府の管轄とする。

明治二年(1869)2月8日、新潟府を置いたまま越後府(第2次)を設置。
2月22日、新潟府を新潟県(第1次) に改称。柏崎県を越後県に合併(再度布達)、佐渡県は当分のあいだ越後府の管轄とする。
7月23日、越後府による佐渡県の管轄解除。
7月27日、越後府(第2次)および新潟県(第1次)を廃止。両府県を合併し水原県を設置。


-- 水原着任 --
明治2年(1869)2月18日、やそは従五位に敘され越後府判事に任命された。
混乱する越後の治世に立ち向かうべく水原の越後府本庁に着任すると、角市の市島家別荘を宿舎とした。
市島春城は、この時やそに親しみ、やそも彼をかわいがり、春城は幼な心に強い印象を受けたようだ。

「色白で、顔に薄いあばたがあり、背は低く無口で勉強家」

「毎日俸給が奉書紙に包んで届けられるが、金銭に欲がないので、俸給や贈物が封も切らずにゴミクズのように山と積まれていた。そんな部屋で終日勉強していた」

「いかにも鷹揚で物事に頓着せず、朝寝坊で無精だった。生真面目で、怒ることも笑うこともなかった」と後年回想した。


-- 信濃川の大河津分水計画 --
明治2年(1869)1月、水害に悩んでいた亀田郷の農民が実力行使で、新潟町西部の関屋に堀割(排水路)を掘ろうとした。
前年の大洪水を経験した下流部各村の名主・庄屋たちは、越後府に分水工事の実施を要望。
前述の関屋掘割事件が、越後府を工事実施に踏み切らせ信濃川の大河津分水計画が始動する。
やそは知事壬生基修の支持を受け、この計画を主導していく。

4月17日、2ヶ月近く計画を練った結果、越後府の全額官費での工事着工を通達。
だが、政府は戊辰戦争が終わってないうえに、多額の戦費調達に追われる財政上の理由から、この大工事に猛反対。ならばと、人足徴発など工事の中心となる用弁掛に任命された名主らは分水事業継続運動を展開。当座必要な80万両の大半が人足賃であるところから、小農は人足を出し、大農は出金するという案を立てた。


-- その後 --
5月17日、分水事業の費用は、越後の収入を5年に渡って当てるとし、その許可を求めるべく、やそは権判事・平岡通義と共に東京入りした。
6月6日、政府高官・三条実美を訪ね、分水事業に命をかけてると語り、理解を求める。

だが数ヶ月に渡る東京での根回しも虚しく、9月17日ついに分水事業凍結の政府命令が、水原に伝えられた。広沢真臣に、再考するよう懇願したが覆ることはなかった。
最終的には水害多発地域の農民が人足を負担し、その他の地域の農民が経費を負担することにして、翌明治3年5月17日に工事が開始されることで決着となる。

やそが政府の意向に逆らってまで行った数々の仁政は、越後の復興に少なからず影響を及ぼしたと言っていいでしょう。

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