ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

前原一誠 (佐世八十郎)コミュの会津の人々

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
一枚の写真がある。

そこには5人の男たちが写ってる(写真1&3)

前列右から僧の河井善順(会津)、前原一誠(長州藩士)
後列右から永岡久茂(会津藩士)、広沢安任(会津藩士)、奥平謙輔(長州藩士)

この写真を初めて見た時は驚愕した。
長州と会津の関係を知ってる人なら、同じように驚くのではないでしょうか。
幕末期は決して交わることなく、対局にあり激しく争ってきた2大雄藩。

だが、宿敵とも言えるこの両藩の者たちが、仲良く写真に収まっている!
この写真の撮影時期は、戊辰戦争の会津藩降伏後と思われる。
お互いに対する憎しみは骨髄に達してる時期。


やそは干城中隊副督、北越征討総督府参謀として戊辰戦争に参加した。

徹底抗戦の構えを見せて籠城し、士気の高い会津藩の気風に感動し、「胸中に一点の風味あるに似たり」と語った。

さらに、明治元年9月16日新発田から、父・彦七への手紙では
「高田の干城隊参謀・平岡通義からの手紙によりますと、会津側もまことに悲惨で、この節は、日々夜々、20人、30人と城から突撃してきますが、ことごとく法名を記し、何月何日討死、と書いて懐にしているそうです。また城中では、家内どもが焚出ししていて、こちらで自爆の音がするたびに、女子供の泣き叫ぶ声が城の外まで聞こえ、覚悟のうえとはいいながら、恐るべきことと存じます」
と、悲痛な覚悟で戦う会津の人々に衝撃を覚えた様子が分かる。

9月22日に鶴ヶ城は開城し、会津藩は降伏。翌日、北越戦線にあった干城中隊の一部が、参謀は奥平謙輔に率いられ会津坂下まで来て代官屋敷を本陣として駐屯する。奥平はかつて交友を深めた会津藩士・秋月悌次郎を思い書をしたためた。私信を降伏した藩士に直接渡していいものか悩んでると、坂下在の下新田の肝煎からかつて長州兵を助けた義僧・河井善順を紹介される。
奥平の書が、河井に託され猪苗代で謹慎してる秋月のもとへ届いたのは10月4日。

秋月は、会津藩へ理解ある手紙の内容に感動し、この手紙を広沢安任や永岡久茂にも見せ、2人も同じように感動した。
秋月は10月6日付の奥平への返書を自ら渡したいと河井へ提案。謹慎中の身であるゆえ、河井は驚きを隠せなかったが、それに応えた。河井は従者として秋月を変装させ、奥平と面会させる。
秋月は、藩主の助命、藩士の行く末を相談し、会津の有望な若者3人を奥平に託す。 1人は姿をくらませてしまったが、残る2人を奥平は大切に預かり、勉学させました。 後年、ひとりは東京帝国大学総長になる物理学者・山川健次郎となり、もうひとりは陸軍大佐となる小川亮となった有名な話しである。

会津藩へ厳罰を唱える政府幹部は当然多かった。 奥平が上司であるやそを頼り、やそは快諾して会津藩主・松平容保の助命、藩存続、家族保護の戦後処理に尽力していくことになる。
温情を持って接したのは、会津への敬意だったでしょうし、武士として当然の行いだったのかもしれません。

明治2年1月、塩川と猪苗代に謹慎していた会津藩士たちはそれぞれ越後高田と東京へ護送されることが決まる。東京で会津藩への最終処分決定を待つのである。
東京での謹慎所は、それぞれ飯田橋火消屋敷・小川町講武所・一橋門内御舂屋・山下門内松平豊前守元屋敷・神田橋門外騎兵屋敷・護国寺・芝増上寺・麻布真田屋敷と分けられ、その総人数は2870余人という。
その本部となっていたのは家老・山川大蔵のいる飯田橋火消屋敷。山川はここから各謹慎所間との連絡をとり、新政府要人とも面会し、会津藩再興へ向けて活動を開始。
義僧・河井善順もそれに合わせ東京へ出て、日本橋の横山町に居を構える。
善順は東京において山川らと連絡を取りつつ会津藩救済活動を行う。東京にいた奥平謙輔を飯田橋火消屋敷まで連れてきて山川に面会させたり、やそや大村益次郎と酒席をともにする。時には妓楼にまであがって政府の要人に会津藩再興の周旋を依頼。
善順は2月7日に厳罰論を主張していた木戸孝允とも面会し、説得した。ついには木戸に「その心情、憐れむべきものがある」とまで言わしめ、千両の救済金も出させた。

やそと会見した善順は、涙を流し「会津は真に前非を悔い、改心後来を慎んでいる。朝廷に尽すべくはもとより言うまでもないことで、主人を寛典に処し、血食を得ることができるようにしてくれたならば、実に死を生し骨に肉するの至恩であり、臣子死すといえどもこの恩を忘れることはないであろう。他の藩にこのことを哀訴しようとしても、我々にはその手段も伝手もなく、貴藩に訴える他はないのである」と語った。
やそがこの魂の訴えに感動しないわけがなく、会津藩尽力へ力を入れた。
多くの人々の願いが届き会津藩は、斗南藩として藩と家名存続が許されたのは明治2年11月3日のこと。

その後、兵部大輔の時に会津に公用で赴いたことがあった。
その時、会津藩(斗南藩)家老・山川大蔵(浩)は、感謝の気持ちを込めて、美術史に輝く"泰西王候騎馬図"(写真2)をやそへ贈り、2人は友情さえ覚えたという。

旧会津藩士たちとの交流は会津降伏後から始まった。
河井善順を軸に、やそ・奥平は東京でも会津藩士と親しく交わった。
後にやそと奥平が義挙を起こした時、永岡久茂をはじめ会津人が呼応し、思案橋事件を起こす。

時は流れ平成7年(1995)、会津若松市長が萩を訪れた時、奥平謙輔の墓に参って、メディアで大きく取り上げられたそう。

長州と会津は、悲劇と残虐さ、消えぬ憎しみで語られることが多いですが、このような事実があったことも忘れてはいけないと思います。

コメント(9)

> 萩風さん

最初のコメントありがとうございます♪
この話しはなかなか知ってる人がいなくて…たらーっ(汗)
やはり、当時は憎しみのほうが強かったんでしょう。

会津にしてみても、長州に恩情をかけられた!なんて知りたくもなかったのかも…

でもこれが武士道だと思います。
誠実さを持って敗れた相手にも接する。
長州と会津の人々が一緒に写真を撮るなんて、当時は相当な勇気がいることでしょう。

やそや奥平謙輔の誠実さに会津の人々が応えた貴重な瞬間ですわーい(嬉しい顔)
多くの人々に知ってもらいたいです!
意外なとこ?にやそ登場!
来週放送の日曜美術館で、このトピの内容に少し触れられるかも!?
なんにせよやその名が出てくるのは嬉しい。


以下 番組HP より

11月20日の日曜美術館“王侯”はどこから来たのか
〜南蛮美術の最高傑作を探る〜

夢枕獏さん(作家 )
南蛮美術の光と影  
泰西王侯騎馬図屏風の謎

会場会期
サントリー美術 館
(東京都港区 )
【巡回】
神戸市立博物 館
10月26日〜 12月4日
2012年4月21日〜6月3日
この秋 、およそ400年前に描かれ、 今は別の美術館に所蔵されてい る1対の屏風(びょうぶ)南蛮美術の傑作「泰西王侯騎馬図屏風」が対面する。
描かれているのは、立派な
甲冑( かっちゅう )武具に身を包み、 堂々たる体躯 (たいく)のアラビア種の馬にまたがる王侯たち。
屏風の片方では、王侯は対になって勇ましく剣をかわし 、別の方では 堂々と正面を見据えている。
鮮やかな色彩と、巧みな立体表現で王侯たちを迫力ある姿で捉えた最高 の騎馬図と言われる。
しかしこの屏風は誰が 、何のため に、どのように描いたのか、謎に包 まれている。
さらに 、この二つの屏風は数奇 な運命 をたどっている。
長崎で描かれたとされる屏風だが 、その後会津の城に運ばれてい る。その後片方は、戊辰( ぼしん)戦争の際に、「維新の十傑 」の一人、前原一誠の手に渡り 山口県 萩市へ持ち出され、もう一つは会津松 平家の子孫に受け継がれながらも 、第2次世界大戦中に東京大空襲に遭(あ)うことになる。
番組では、 最新の科学調査から明らかになった新発見を含めて 、「泰西王侯騎馬図屏風」の実像と流転の物語に迫る。
おーすまない、コメントしてくれてたんだね。
観ましたよ。やその写真もでたし、子孫の方が登場し前原家の内部も見れてうれしかった。
あの部屋でやそはこの絵を見てたんだーといろいろ妄想。
明日から2013年大河ドラマ【八重の桜】スタート。
前原、奥平先生と会津の繋がりは少しは描かれるかな。。。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

前原一誠 (佐世八十郎) 更新情報

前原一誠 (佐世八十郎)のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。