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前原一誠 (佐世八十郎)コミュの東京、政府高官としての日々

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明治二年〜三年、東京に出て政府高官としての動きをまとめたトピ。


明治二年(1869)5月17日、信濃川分水事業への理解を求めるべく、やそは権判事・平岡通義を伴い越後国より東京入り。
神田の長州藩邸で初の写真撮影を行っている。

翌18日、函館の旧幕府軍が降伏。戊辰戦争が終結した。

6月2日、天皇の勅があり《戊辰戦争軍功賞典表》が発表され、功労者へ 賞典禄の支給が決まる。

藩士としては2000石の西郷隆盛(薩摩藩)が一番高い。

次いで1800石…大久保利通(薩摩藩)、 木戸孝允(長州藩)、広沢真臣(長州藩)

1500石…仁和寺宮嘉彰親王 、中山忠能(公卿)、伊達宗城(宇和島藩主)、中御門経之 (公卿)、大村益次郎(長州藩)

1200石…有栖川宮熾仁親王

1000石…板垣退助(土佐藩)、小松帯刀(薩摩藩)、 吉井友実(薩摩藩)、伊地知正治 (薩摩藩)、 岩下方平(薩摩藩)、 後藤象二郎 (土佐藩)、嵯峨実愛(公卿)、大原重徳(公卿)、大原重実(公卿)、東久世通禧(公卿)、生駒親敬(矢島藩主)

800石…九条道孝(公卿)、沢宣嘉(公卿)、大山綱良(薩摩藩)、 由利公正(福井藩)

700石…黒田清隆(薩摩藩)

600石…山県有朋(長州藩)、前原一誠(長州藩)、山田顕義(長州藩)、醍醐忠敬(公卿)
他、総計で101名と1部隊が対象とされた。

さて、やそは上記記載の通り、 永世禄600石を賜ることになった。
木戸孝允や広沢真臣が1800石なうえ、後輩である山県有朋や山田顕義と同等である。
藩の要職の数々、北越征討総督府参謀、越後府判事を歴任してきたやそには、あまりに過小評価では!?との意見が出た…。

「私のように才能のない者が、賞典を受けるのさえ恥ずかしい。なのに永世禄600石を頂くことになり、身にすぎたことです。それを今日禄が高いの低いの言うのは男子の恥」と語った。

6月6日、三条実美を訪ね、分水事業に命をかけてると語り、理解を求める。やそはこのように政府要人を訪ね、根回しに奔走していく。

7月8日、政府は官制の大改革を発表。2官6省(神祇官・太政官の2官と民部省・大蔵省・外務省・兵部省・刑部省・宮内省の6省)に、左大臣、右大臣、大納言、その下に参議を置くこととした。
やそは、従四位に敘され、なんとその参議に任ぜられる。

右大臣:三条実美
大納言:岩倉具視、徳大寺実則
参議:副島種臣、前原一誠

莫大な費用のかかる信濃川分水事業を止めさせたい政府は、やそを東京に留め置こうとした。
そこで、参議という国政の最重要職の椅子を準備した。
だがやそは、当然話しが違うと、この大出世をあっさり辞退。逆に分水事業の費用を出すよう抗議。

7月19日、右大臣・三条実美自ら説得に訪れ、これに参ったやそはついに参議を引き受けてしまう。
引き受けてしまったものの、何とか越後のことに区切りをつけようと考える。

翌20日、身辺整理の名目で20日間の猶予をもらって越後に戻る。
水原に着くと、分水事業推進を願う嘆願書を書きあげた。

7月22日、大久保利通が参議就任。
翌23日、広沢真臣も参議就任。

8月4日、越後で知り合った妾・おやすを連れて東京に戻ると、両国の中村屋に入る。

8月15日、広沢真臣、平岡通義、坂田潔が訪ねて来て、分水事業のことを熱く論じた。
分水事業に決着がつくまで、参議として出仕はしないという抵抗をみせる。
8月24日、広沢真臣が説得に訪れる。

9月4日、兵部大輔・大村益次郎が京都で襲撃され重症を負う。

9月12日、大納言・岩倉具視自ら説得に訪れ、これに折れる形で出仕を決意。烏帽子直垂姿で天皇に拝謁。
だが、異例の大出世に悪評絶えず、気を病む。
しかし、「これは一誠の罪で、誰も恨まない」と言った。

9月17日、4ヶ月間に渡り分水事業推進運動を行ってきたが、凍結が正式に決まり水原県(越後)に伝えられた。
やそは広沢真臣に、再考するよう懇願したが覆ることはなかった。

9月24日、水原県知事・壬生基修が、やその書いた分水事業嘆願書を持って上京するが、凍結は変わらず。壬生は知事を辞任。

10月26日、吉田松陰招魂祭に出席。

10月27日、天皇臨席の衆議院で孤立、矢面に立たされ、方針を明確にせよと答弁の責任を問われた。

11月5日、初代兵部大輔・大村益次郎逝去。

11月18日、兵部少輔・久我通久と兵部大丞・山田顕義の連署で、亡き大村の軍制構想をまとめた《兵部省軍務ノ大綱》を太政官に提出。

12月1日、長州では屯所を抜け出した緒隊の脱退兵たちが、三田尻に集結。 たちまちその人数は1,800人に達した。世に言う脱退騒動が始まった。
やそは彼らの説得に帰国しようと試みるが…。

※参照:干城隊と長州緒隊悲話
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=55523578&comm_id=5102831
12月2日、大村益次郎の後任として兵部大輔に任ぜられる。推挙人は西郷隆盛。
【兵部省】
兵部卿:仁和寺宮嘉彰親王
兵部大輔:前原一誠
兵部少輔:久我通久
兵部大丞:黒田清隆、勝海舟、川村純義、船越衛、山田顕義、河田景与


明治三年(1870)2月9日〜11日、木戸孝允が脱退騒動を武力鎮圧。

4月、古傷の痛み、政府への不満から会議等の欠席が続く。

4月25日、珍しくやそが会議に出席すると、兵部大丞・黒田清隆に強く非難される。席を立ち、すぐに辞表を書いて提出。

その文言は、
「兵部、即ち陸海軍のことは、国の栄枯盛衰がかかってる重要な問題。世界に通じる高い知識を持った人物でなくてはなりません。我が身は元来が頑迷固陋な田舎侍、それ以上の何者でもない。これ以上この職にあることは更に罪を重ねるだけ。退職を仰せ付けください」
というものだったが、黒田が異動になり、辞任は却下。

9月2日、3度目の辞表で受理される。
しかし、帰郷には、木戸孝允、山口の権大参事・杉孫七郎、久保断三の猛反対を受ける。
久保は大阪に出て、わざわざ井上馨と、山田顕義に相談。

10月、欧州から帰国した山縣有朋が、両国中村屋にやそ、佐々木男也、三浦梧楼を呼び酒宴。
席上、脱退騒動時のやそ帰国中止に話しが及び、三浦と論争、殴り合いに。

10月20日、広沢真臣の口添えもあり、病気療養を理由に30日の期限付で帰郷許可が出た。
東京での政府高官としての日々は1年で終わりを告げる。

11月1日、腹痛が酷く、上京を延期したいと申し出て許される。
下旬、上京するもすぐ帰郷。
身請けした(芸妓おやす改め)秀を連れて帰り、萩で妻妾、父母、兄弟と暮らす。

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