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前原一誠 (佐世八十郎)コミュの参議・広沢真臣暗殺事件

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政府内で、やそ(前原一誠)の数少ない理解者であった広沢真臣。
長州藩出身者で、木戸孝允と並び永世禄1800石を賜った巨頭。
薩摩の西郷・大久保と匹敵しうる人材は、長州では木戸・広沢だった。

この長州を代表する大物中の大物と言うべき広沢は、やそ帰郷の数ヶ月後の明治4年1月9日の未明に、東京の自宅で寝ているところを3人の刺客により惨殺される。
同日夜、萩の自宅で読書をしていたやそは、突然6発の銃撃を受けた。
だが奇跡的に無傷で済む。

誰かがやそと広沢を殺そうとしたのは明白だが、天皇から必ず賊を捕らえよ!との勅が出るも、犯人の目星さえつかずに、なんと迷宮入りしてしまう。
現職の参議と、前参議という超大物2人が同日に襲われるという怪事件。

やそは同じ長州の木戸孝允が臭いと直感した。
その根拠は・・・
「木戸孝允の腹心がその日に馬関に到着していた」ということだ。
やそと木戸が対立していたのは確かだが、ではなぜ広沢も??
温和な広沢が、木戸と対立したという話しは特に聞いたことがない。

慎重な木戸が、天皇のお膝元である東京で、長州閥の巨頭である広沢を暗殺などするだろうか。
長州閥の力が弱まるだけだし、絶対バレないなんて保証もない。
謎は深まる。。。

もしはないが、広沢が生きていたら、やそのその後も大きく違ったことになったかもしれない。


明治4年1月9日に起きた参議・広沢真臣暗殺、前参議・前原一誠銃撃は、幕末〜明治における事件の中でも最も興味を惹かれます。

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広沢真臣(ひろさわ さねおみ)
天保4年12月29日(1834年2月7日) - 明治4年1月9日(1871年2月27日)

長州藩士、家禄100石4斗3升2合 八組士


維新の十傑の1人。
永世禄(賞典禄)は大久保利通・木戸孝允と同等の1800石で、長州藩から新政府入りした人々の中でも、木戸と並ぶ大物中の大物。

姓は藤原氏、諱は直温、後に真臣と改む。
幼名を季之進。金吾、又は藤右衛門と称し、更に兵助と改めた。
障岳、向山と号す。

天保4年12月29日に萩城下に生れ。
同15年12月28日に同族・波多野英蔵直忠の聟養子となり、その女の百合子と結婚。
安政6年2月19日に直忠が病気で隠居したので家督を継ぐ。

幹が長大(180cm)で、性は温良、質直。
最も文学及び槍術の技に長けた。

嘉永6年6月に米艦の来航の際に、初めて江戸入りし、大森台場警衛のために出張した。
安政6年には藩の軍政改革に参画、その後は尊攘派として活躍。
京都詰の事務方として尽力。

元治元年の秋、俗論派が藩の実権を握ると、獄に繋がれる。
たが、正義派の復権で慶応元年2月に謹慎を解かれ、同4月4日には藩の内命で広沢藤右衛門と改名。
広沢姓は、波多野氏の祖が相模国秦野の地に住し、広沢郷を領したのにちなむそう。

慶応2年8月末の第二次征長の講和交渉では、幕府側の勝海舟と安芸厳島にて交渉。
更に討幕の事に当り、討幕の勅書を持って帰藩。

慶応3年12月、王政復古の大号令が出るや、藩命をもち上京。

明治元年正月に参与・徴士に任ぜられ、翌2年4月には民部官副知事、7月には民部大輔となり、更に参議に任ぜられた。

明治3年9月18日請願して永世広沢姓を称す。
明治4年1月9日未明、東京府麹町富士見町の私邸に3人の刺客が潜入。
寝ているところを刺殺される。
享年39

医師の検視によれば、傷は13ヶ所で咽喉には3ヶ所の突き傷があったそう。
犯行後、同室にいた妾・福井かねは縛られていたそうだが、軽傷を負っただけで、現場の状況など不自然な点が多々見られたそうだ。

朝廷は、広沢の死を哀れみ、多年の勲功を賞し、翌9日をもって正三位を贈り、金幣3000両を下賜。


広沢を信頼していた明治天皇は「賊ヲ必獲ニ期セヨ」と異例の詔勅が発した。

右大臣・三条実美いわく
「賊徒ヲ逃逸シ、既ニ五旬ニ及ヒ、未タ捕獲ニ不至、恐懼之事ニ候」

内務卿・大久保利通より、大納言・岩倉具視に宛てた書簡には、
「広沢事誠ニケシカラヌ変ニ逢実ニ残念、切歯トモ何トモ申シ難ク候。イズレうんとヤリ付ケ、霊魂ヲ安ンジ候外後座無ク候」


政府は賊を探索するも、捕らえることはできなかった。
ついには広沢家の家令・起田正一郎と妾・福井かねに対する苛烈な捜査に及ぶ。
その結果、両者の密通や広沢家の私金流用の事実も判明。
しかし、両者は無罪となり釈放される。
多くの者が迷宮入りと観念する中、木戸孝允だけは捜査を督促し続けたそうです。
だが下手人の特定にさえ至らず、真相は今日に至るまで不明。



広沢の遺骸は芝愛宕下の青松寺に葬られたが、後に世田谷区若林の大夫山に改葬。
遺髪を山口市吾妻山に埋めて霊社を建てた。

明治12年12月27日に朝廷は生前の勲労を賞し、その子の金次郎を華族に列した。
さらに金壱万円を下賜し、同17年7月には伯爵を授けた。

大正10年2月24日には従二位を追贈。

コメント(5)

> yuanqiaoさん

古川先生は広沢のこと書いてたんですねexclamation ×2
それは読んでみたーい。
赤禰武人について書いたのは秀逸でしたし♪

ホントに誰が広沢を殺害し、やそを銃撃したのか…
2人とも不平士族と関わっていたのが関係あるのか。
広沢は雲井龍雄と親交があり、やそは会津。
> yuanqiaoさん

古川先生の本は、松陰先生と高杉関連、久坂を描いた『花冠の志士』を持っています。
『桂小五郎』も読んでみようと思います。
広沢とうまくいってないように描かれてるんですね!

暗殺したくなるとしたら、よっぽどの理由があると思ってしまいます。

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