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前原一誠 (佐世八十郎)コミュのやその先祖(佐世家とは)

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やそ(前原一誠)は幼少〜少年期にかけて、農民と変わらぬ貧しい生活をしていました。
高杉晋作と同じ大組士でありながら、石高はわずか47石。

しかし、その先祖は凄い!!
毛利の殿様とて、戦国時代初期には頭が上がらなかったであろう名家なのだ。


佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の流れをくむ。
出雲の国(島根県)大原郡佐世郷に住して、清信の代にその地名から佐世氏を称したことに始まるそう。
この清信から七代後が、戦国時代に尼子氏の重臣として活躍した佐世清宗。

戦国時代、尼子氏は下克上の代名詞とも言うべき経久(1458-1541)の力で、1代で中国地方11ヶ国の大大名にのし上る。

尼子分限帳によれば、やその先祖・佐世清宗は御家老衆のうち、宇山飛騨守についで2番目の大重臣として位置づけられている。
清宗は武事だけではなく、連歌や絵画などにも優れ、有能な武将だった。
その領国は12万石にも達し、一大名のような力を持っていた。
居城は島根県雲南市大東町佐世にある佐世城(いずれ行ってみたい!!)

そしてその清宗の娘婿が、備中1万7千5百石を有し、幼くして眉目秀麗と謳われた尼子十旗・高瀬城主である米原綱寛。

さらに、一族のうち佐世勘兵衛尉は1万4千石余、助三郎は1万石余、惣三衛門は5千石と、一族が尼子家中で権勢を誇っていた。

尼子経久の時代、毛利氏はまだ小豪族で、尼子の顔色を窺わなくてはお家の存続も難しかった。
しかし経久が亡くなると、尼子の家は少しづつ傾く。
そこに現れたのが、戦国きっての謀将・毛利元就(1497-1571)

まず永禄5年(1562年)に米原綱寛は毛利氏に降ってしまった。
舅・清宗と婿・綱寛が敵味方に分かれて戦うことになる。

ついに永禄8年(1565年)冬、毛利氏による尼子の本城・月山富田城包囲を受け、清宗は息子2人を連れて毛利氏に降伏することになった。
永禄9年(1569年)、米原綱寛は尼子新宮党出身の尼子勝久を擁する尼子再興軍が挙兵すると、居城である高瀬城へ籠城し再興軍に参加。

元亀元年(1570年)、布部山の戦いに敗走、綱寛は高瀬城にて籠城。
翌年、毛利氏の吉川元春に対し開城、真山城へと退く。
そして、綱寛は剃髪し、可春斎と号して隠居した。

それからは、佐世、米原氏共に毛利氏の一家臣として過ごした。

尼子氏の家臣時は、12万石もの領地があった佐世氏も、長い年月を経て、幕末にはわずか47石にまで零落してしまった。
長男のやそは、時代が時代なら一国一城の主だったのだ!!

ちなみに、やそは慶応元年から前原姓を名乗るが、前原は元々米原綱寛の子孫らしい。
当初米原と名乗っていたが、江戸期に入って何代目かわからないが、【米原】を【前原】という似た呼称に変えたともいわれている。
変名では米原姓をいくつか使っていたやそ。


やそが、島根県出雲市大社町の宇龍港で捕らえられたのは、先祖が呼んだのだろうか?なんて考えてしまいます。

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