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前原一誠 (佐世八十郎)コミュの前原騒動(萩の乱)その弐

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--政府の策謀--
明治9年(1876)年1月20日。
やそは薩摩人を名乗る指宿貞文、小林寛の訪問を受けた。
2人は政府を非難し、西郷隆盛の密書なるものを渡してきた。
そこには、
「萩で武器の都合がつかなければ、薩摩から送ろう」と記されていた。

東京にいた頃から西郷はやその理解者だった。
その西郷が力になってくれるなら、政府を弾劾すべく義挙を起こしても、大きな成果となるのでは!?と、胸踊るものを感じたのかもしれない。
迷わず2人に小銃調達を依頼してしまう。

そして、
「私が一声かければすれば、2、3千人は集まる」と得意満面に言ってしまった。
後日、このことを西郷に問い合わせてみれば…
「その2人は存じない。政府の密偵ではないのか?」との回答。
やその言動はあまりに軽率だった。

--相次ぐ来訪者たち--
1月21日、やそは明倫館の読書場に、同志50人余り集め、新年の挨拶をし、結束を強めた。

28日、徳山の今田濤江が来て、東京、九州の様子を伝えて来る。

2月29日、会津の大橋清斌が、秋月の白根成一を伴って来る。

3月1日、徳山から飯田端が来る。

16日、秋月から宮崎伊六、宮崎哲之助が横山俊彦を訪ねて来る。

4月に入ると、熊本の敬神党から富永守国、阿部景器がやってくる。
何度か議論を重ね、
「今まで話してきた志士は気脈通ぜんと言える位に話留め深追いする事もなかったが、今は初めて死生の友を得て愉快なり」と語った。


--佐々木、品川の説得--
政府は、一連のやその言動から反逆の疑惑ありと判断。
3月28日、やその友人・佐々木男也を萩に使わし説得を試みた。

義挙への思いが早くも知られてしまったことで、衝撃を受け観念した。
「一度は政府転覆を考えたが、もうそれは行われないのは分かっている。私たちには武器も弾薬もない。他県の同志が激励し、煽動しても軽挙妄動はしないと誓う」と佐々木に返答。

欧州から帰国したばかりの品川弥二郎も、やそ説得のために4月11日に萩に入る。
そして玉木文之進に、やそとの仲介を頼んだ。
14日、品川はやそ宅に現れた。

品川は、やその武装蜂起の計画を知っているだけでなく、佐々木男也が政府にその動きを知らせていると教えてくれた。
信頼していた友人が裏切っていたことへの動揺は大きかった。
それだけでなく、反逆の証拠として、西郷の使者だと思っていた指宿らに出した、小銃調達の依頼書を品川は見せつけた。

品川は同じ松門出身である。やそを涙ながらに説得した。

やそは、
「事ここに至っては、私に対する罪は受けましょう。しかし、このことは私一人が全ての責任を負うもの。師にも父にも、親族、友にも責任はない。安んじて縛につくつもりです。そして法廷で、私の心を洗いざらい言わせてもらいたい。昔の誼で許していただけるなら、そのように取り計らって欲しい」
と、品川を信頼し、事後処理を頼んだ。

18日、品川に誓書を送り、政府への従順姿勢を強調した。

そして、27日には、同志たちが集まっていた明倫館・集議所を閉鎖する。

自身の日記には、
「(品川)弥二郎来る。予指宿に与え小銃を乞うの書発覚、しかのみならず、佐々木男也、伊藤退蔵以下反覆。予が兵をあげて、大政を覆すの企みありと訴える。故に政府が憂いていると、弥二郎をして予を説かしむ。もって鎮静を謀るなり」と記した。

4月27日、品川弥二郎は木戸へ報告の手紙を出した。
「萩表の事情、いちいち報告すべきところ、前原に会うのに手間取り、ようやく19日の萩の出発の数日前から、談合を重ねた次第で、さぞかしご心配されているとは存じながら、延引きしていました。『反逆なりと何なりと、国のためと思ったことは、存分にやり遂げるがよい』と論じたところ、ついに野児門に降伏、白旗の一巻を受け取りましたので、ご安心ください」

野児門に降伏…
有頂天になる品川の様子が分かるが、しかし木戸は安心しなかった。


--木戸、手を緩めず--
佐々木と品川に説得され、やそは政府に従順する姿勢を見せた。
だが木戸は、より強い姿勢を取ると決意していた。

5月7日、木戸から、県役人・三浦芳介宛の手紙
「萩のこと醜態千万。品川より聞くところによれば、前原は大恐怖の有様で、品川へ悔悟の盟約の書状を渡したようですが、子どもの所業と違い、堂々たる面目を持ってこのような挙動に出るなど、山口県人の大恥辱。一昨年も前原は、私に誓って悔悟したのに、昨年上京の折りには、またも不平の徒に扇動され、ついに約に背いて、黙って帰国してしまいました。こんなことは、男子たるものができることではない。萩のことは、警官隊が密かに探偵している段階にて、いまだ公然と政府なり、法官なりへ暴きたてるまでに至っていません。断固たる行動を取ることのできない実情を、お含みください」

やそへの激烈な非難が見え、もうひと証拠でもあれば、討伐してやるくらいの勢いだ。


--やそ、倒れる--
そんな中、5月13日、やそは脳溢血で倒れた。
「全身振動、頭浮くが如く、飛ぶが如く、また閉ずるが如く、また顔色甚だ赤し」とその様子を記す。
同日、井上馨が山口にやって来ると、やそに出頭するように言って来た。
萩まで来てくれた品川弥二郎や、佐々木男也に全てを打ち明けたのに、なぜ頭ごなしに呼ばれなきゃいけないのか!?やそは憤慨する。

それでも井上に会いに行くつもりだったが、病床の身ゆえ、代わりに弟・山田頴太郎が、17日山口に井上を訪ね、19日に萩へ戻ってきた。
井上の話しは「政府は何もかも分かってるから安心して委ねろ」ということだった。
翌日、島根の松本正直が、会津の盟友・永岡久茂の手紙を持ってくる。


--決意--
6月25日、二十大区区長に同志・横山俊彦が就任。
諫早党の反対にも関わらず、県がやその同志に重職を任せた理由は分からない。

7月20日、秋月から白根成一が訪ねて来た。
準備なんて何もしてなかったが、ここにきてついに義挙の密約をする。
奥平謙輔と山田頴太郎を呼び、その決意を告げた。
間違った方向へ進む政府を弾劾し、仁政の志を持って、再び日本を変える道を選んだ。

21日、玉木正誼を東京に向かわせ、永岡久茂に決意を伝えた。

8月4日、奥平謙輔、横山俊彦、奥平左織、馬来木工、山県信蔵、松岡忠ら腹心たちを連れ、舟遊びとカモフラージュして船上で策を練る。

6日、飯田端、坂田明敬が来て、義挙について相談。
各地で一斉蜂起の日は近づいていた。


--玉木文之進--
幼少の吉田松陰や乃木希典を厳しく指導し、松下村塾を創立した玉木文之進(1810-1876)

やそが義挙に至る裏には、この松陰の叔父・文之進の存在も大きい。
明治2年に役職を退き引退してからは、再び松下村塾で教えていた。
この萩第一級の人物は世を憂い、第二第三の松陰を世に出すべく、教育に力を入れる。

やその義挙に参加した吉田小太郎(松陰の甥)や、玉木正誼(乃木希典の弟で文之進の養子)などは、新たな維新を成すべく期待された文之進の雛鳥たちだった。

やそが帰郷した時、文之進は門弟たちにやそを訪ねさせた。
やそも、松陰の命日などには松下村塾に顔を出し、文之進と交流を持つ。

やそと文之進、この2人が交友を深めることにより、義挙への核は固まってゆく。


--乃木希典--
陸軍少佐・乃木希典(1849-1912)
大日本帝国を代表する軍人となる男。

やそは、この乃木を味方につけるべく、義挙直前まで説得にあたった。
乃木は玉木文之進に学び、奇兵隊にも所属してたことがある。
何より、乃木の弟・玉木正誼は、やその有力同志だった。

乃木は、明治9年当時は小倉の第14連隊の連隊長を務めていた。
その前任者は、やその弟・山田頴太郎だった。
武器も弾薬も不足してるやそたちは、乃木を味方につければ大きな戦力になると考えた。

明治9年2月下旬、玉木正誼は兄・乃木希典を訪ね、やそに味方するよう涙ながらに説得を行った。
だが乃木は頷かない。
せめて武器・弾薬を貸して欲しいと、玉木は兄へ頼んだが、「欲しければ力で取ってみよ」と撥ねつける。
しかしやそは諦めなかった。

8月10日、乃木は知人を通じて、横山俊彦の書状を受け取る。
これはやそが書いた政府の弾劾書であった。
弾劾状には…
一、地租改正の事
二、樺太千島交換の事
三、当局大臣に責任感なきの事
四、士族を一方的に処分する事
五、政府首脳に汚職ある事
六、征韓論、圧殺の事
の6項目が掲げられていた。

やそは弾劾書を見せ、理解を求めようとしたのだが、乃木は弾劾書を同僚に見せて対応を相談している。

14日、今度は奥平左織、馬来木工が政府弾劾書を持って、乃木を訪ねたが、罵って追い返す。

17日、再び奥平左織、馬来木工が乃木を訪ねるが動かない。

10月22日に、玉木は兄を訪ねて再び小倉に向かった。
最後の説得を試みたが、乃木は弟を絶縁。
軍人として、国家への強い忠誠を持ち、肉親の情をも断ち切った。
乃木説得は失敗した。


--義挙--
9月13日、会津の竹村俊秀が来て、義挙の段取り、暗号を決める。
熊本敬神党の緒方富太郎が来て、近日挙兵を報告してくる。

10月7日、弟・佐世一清を須佐に派遣し、育英館の坂上忠介に義挙へ加わるよう説得を試みた。

26日、玉木正誼、小倉より戻る。
永岡久茂に「蜂起近し」と連絡。

玉木正誼を同志の元に走らせ、やそは弟・一清と家を出た。
一同は東光寺に集合。
奥平謙輔が今後の方針3ヶ条を示した。

一つ、檄文を草して徳山へもたらし、萩に応じて、防府口より山口へ進撃

二つ、本営は明倫館に置き、須佐の同志にも召集をかける

三つ、後患を絶つため、諫早作次郎を討って、俗論党を駆逐する

横山俊彦は区長の地位を使い、各地へ大義を説き、資金を集め、萩市民へ集会を行い、参戦を呼び掛けた。

27日、奥平謙輔は、檄文を小倉信一に持たせ、徳山へ走らせる。
やそも檄文を書き、萩とその周辺に呼び掛けた。

太政大臣・三条実美以下数十名の大吏、いやしくもみだらな資をもって、顕栄をぬすみ、盗心をもって収税過酷の政治を行い、海内を厳しく税を取り立て、尺寸余りなき有り様である。
これを外夷敵に輸出し、もって一時の安楽をむさぼる。
また自らの為すところ人意不満なるを知って、刺客の禍身に及ばんことをおそれ、天子の邏卒をもちその身を守る。
天子の左右大臣以下数十人の私人、名は君を奉ずるといいながら、これを幽辱してるに等しい。
天誅許さざるところ、神人同じく憤るところ、忠義の士をもって刃を腹中に刺さんことを欲する者、多年にわたっている。


世に言う前原騒動/萩の乱が始まった。

明倫館を本営とし、門には堂々の【殉国軍】の札を掲げた。
夜には銃器弾薬、食料が運ばれる。
奥平謙輔が軍令を定めた。

須佐育英館より30人あまり来る、総勢は180人。
佐賀の乱の折りの1000人には、遠く及ばなかった。
だが殉国軍には士族だけでなく、零落した小商人、職人、斜陽の旧御用商人まで加わっていた。
世が変わるのを願っていたのは、士族だけではなかった。

夜、諫早党70名は、やそ暗殺を試みたが、危険を察して萩を脱出し、山口を目指す。
やそは奥平左織、山崎昌亮らを追手に使わしたが、逃げられてしまう。


--迷走--
28日、夜を待って山口進撃を開始しようとしたところ、県令・関口隆吉よりの使者として、百村発蔵なる者が来る。
いわく
「熊本は鎮静したから、屯集を解け」とのことだった。
熊本の同志が早くも敗れ去ったとのことだが、その知らせを確めることなく、やそは山口進撃を諦め、北へ行くことを決めた。

「察するに、使者が単身ここに来たのは、鎮台兵が来るのを頼みにしてるからだ。ならば諫早党が背後を伺ってることもあり、今山口を突くのは益なし。徳山からの応援も、成否はわからない。ついに必勝の算なきを考えれば、よってむしろ道を山陰にとり、道塞がれれば戦い、帝の足元に至って、諫めて死ぬことを決心し、萩去るに及んで県令並びに、鎮台士官に贈る書を奥平謙輔に作らせて、四方に伝える」とのことだが…

山口攻撃を諦め、鎮台のない山陰道をたどれば、同志を吸収して勢いを増し、天皇への諫奏できると信じて作戦変更。
鳥取には共立社があり、3000の同志がいることもあり、2隊に分けて向かうことにした。

29日午前2時、殉国軍は明倫館を出撃し、萩から二里の黒川に達する。
だが、山口営所兵が佐々並へ進出したという情報があり、須佐へ駆け込む。

30日午後5時、やそは海上から30余名の同志と共に浜田を目指す。

「実にこのたびの失策は何ともかとも言葉に尽くし難く、皆々姦人佐々木、諫早などの謀に落ち入り、終身の残念この事に御座候、七たび人間に生まれてこの賊を亡し申すべく候」と船内でしたためる。

大時化による船酔いで、午後8時頃江崎浦に入り、陸路の隊と合流。
須佐に着く頃には、300名も加わって、総勢500人に膨れ上がっていた。
だが、またしても作戦変更に出た。

「この時、萩より知らせがあり。無垢の土民を縛し、狼藉を極めていると。これ必ず諫早党の所業に違いないと、憤怒に堪えず。よってまずこれを払い、機に投じて山口を突かんと思い、同夜また乗船、萩に向かう」

再び確めることもせず、萩で諫早党が民を傷つけてるからという理由で、萩帰還を決めてしまう。
しかも、一度諦めた山口進撃を、隙を見て行うというのだ。

その頃、大隊長心得陸軍大尉・諏訪好和率いる一大隊は、山口よりの明木に着いていた。
午後4時、萩では県令・関口隆吉が、諫早作次郎を伴って、第二十区扱所へ仮県庁を設けた。
関口は、やそと奥平の密書を入手し、明倫館にある殉国軍の弾薬破棄、山陰道に向かった殉国軍追討、萩にいる残党捕縛を命じる。
夜、諫早は人夫を指揮し、明倫館の弾薬を、水練池に投げ込んだ。


--戦闘開始--
10月31日、午前3時か7時に、小笠原弥右衛門、水原又市、堺新三郎が逮捕され、この3名の妻子、やそと横山俊彦の妻子を親類預けとして、拘禁される。

明け方、殉国軍は須佐から20艘の小舟で越ヶ浜に上陸。
萩進軍を開始。
奥平左織率いる斥候隊15名は先行し、明倫館にいた少数の山口営所兵と激突し、蹴散らした。
しかし、置いておいた弾薬は破棄されている。
奥平隊は50名ほどに膨れ上がり、弾薬補充のため、沖原製造所を目指して進撃。
途上の大区扱所を奇襲。

県令・関口、諫早、諏訪大尉率いる前衛部隊を金谷の本営に追いやった。
殉国軍本隊は、堂々と街道を行進していたが、奥平左織隊に引きずられる形で、昼飯を食べていた山口営所兵と遭遇戦。
橋本大橋をめぐる攻防になった。
夕刻に、山口営所兵は退却したが、殉国軍にも追撃する余力はなかった。
殉国軍の士気は高く、抜刀し、市中を横行して勝利を声高に叫んだ。

夜も散発的に戦闘が続き、殉国軍は瓦屋と材木屋に放火、萩市中は白昼のようになった。
鎮台兵は、やがて態勢を立て直し猛反撃。殉国軍一番隊の玉木正誼が銃弾に倒れ、吉田松陰の兄・杉梅太郎が長子・吉田小太郎も討死した。
完全武装の軍を相手に、弾薬が欠乏し、殉国軍は刀槍での反撃が精一杯。


--やそ、戦線離脱--
重症の松岡忠を瓦町の蓮池院に残し、前原宅隣家の内藤宅で、やそ、山田頴太郎、佐世一清、奥平謙輔、横山俊彦、小倉信一、有福恂允、馬来木工、冷泉増太郎が、小さな灯を囲み協議。

横山俊彦は「罪を謝罪して切腹しよう」

有福恂允は「兵を集め、最後まで戦うべきだ」

だがやそは、
「切腹も、斬り死にも良い。ただ心残りなのは、挙兵の意義が天下に明白になっていないこと。ここで死んではすべてが、徒労に帰してしまう」

「道はひとつ、ここは一旦脱出して東京へ至り、挙兵の顛末を陳べて、しかる後に誅戮についても、遅くはあるまい」

一同はその案に決した。

小倉信一「大人数は途中警戒が厳しくなる。ならば、有福と萩に残り、同志を見守り、鎮台兵の追撃を防ぎましょう」

協議が終わるとやそは自宅に戻り、両親へ別れの挨拶をした。
夜陰に乗じ、やそ、奥平謙輔、横山俊彦、馬来木工、冷泉増太郎、白井林蔵、山田頴太郎、佐世一清と共に戦線離脱。
松本川から小舟に乗った。
小倉信一、有福恂充が、残った殉国軍を指揮することに。
ほとんどの者は、やその離脱を知らされなかった。


残った殉国軍を指揮する有福は、檄文を執筆

殉国の義徒ヲ申合(セ)、賊臣姦吏ヲ誅伐、国典を引戻シ、人民ヲシテ其処ヲ得セシムルハ士分忠義ノ第一ナリ。
急ニ明倫館講堂(ヘ)集合シテ同心協力有ン事ヲ要ス。
若シ因循猶予シテ武名ヲ汚シ千歳ノ辱ヲ遺ス者ハ即チ可申様候事

十一月 本陣


--諫死への旅--
11月1日、越ヶ浜で船を借り、明け方須佐に上陸。
帆船を雇い、都野津(島根県)に停泊。
船中で、父母に宛て不孝の罪を許して欲しい、妻妾に宛て両親への孝養を頼むとの手紙を書く。

2日、風波激しく、船内に潜む。
日暮れを待ち出帆。

3日、島根半島の小さな漁村、宇竜に着く。
水を求めて、船人を上陸させたが戻って来ず。

4日、村役場の者が、船を訪れ、「用掛の者が、横山俊彦殿にお会いしたいと申されてる。同行願えますか?」と聞いてくる。
横山俊彦は白井林蔵を伴い船を離れたが、福性寺で待ち構えていた警官に暴行を受け、捕まってしまう。


--捕囚残夢--
11月5日、やそが宇竜にいることを知ると、島根県令・佐藤信寛は、一書をしたため、清水清太郎に巡査10人をつけて向かわせた。

佐藤の親書には、
身を預けてくれれば、穏便に東京へ護送する。
さすれば、諫死の志を遂げられるでしょう、とあった。

諫死・・・やそは、その文言で自首を決意。
清水は、やそたちを近くの民家で丁重に扱い、宴も開かせた。
やその表情は穏やかだったという。

萩では、県庁が「明日賊徒に対して総攻撃をかけるので、賊徒に加担しない者は萩を出るように」と布令を出す。

7日、やそたちは縄をかけられず、宇竜より松江に護送される。
沿道にはたくさんの人だかりがあり、中には「あれが越後で年貢を半減にした前原様かぁ」と手を合わせる農民もいた。
この日、松江の監獄に入れられる。

やその日記には、
「杵築の宿にて少し休む。ここらは秋の末、野辺の草木もうちしおれ、虫の音さえ絶え絶えに、雨はますます激しく、二里ばかり日を暮らした。かごを巡羅の提灯が取り囲み、道端には幾千人の人々が、あるいは悲しみ、あるいは怪しみ、まことに晴れやかな囚人であった」
晴れやかな囚人・・・やその澄み切った心が表れている。

萩では、政府軍の総攻撃を受け、明倫館が落ち、殉国軍は壊滅した。

玉木文之進は、松陰の妹に介錯を頼み、先祖の墓の前で切腹。
やその父・佐世彦七は、喉を突いて死のうとしたが、果たせず8日後に死亡。
元譜代・渡辺源右衛門は、妻と姉、12歳の長男、6歳の娘を刺殺し、家に火を放ち自害。
高杉晋作の剣術師匠でもある内藤作兵衛は、(廃刀令が出たにもかかわらず)刀を差して歩いていたため、殉国軍と間違われ射殺される。
このような凄惨な光景が、萩のあちこちで見られた。


8日、やそたちは腰に縄を打たれ県庁にて取り調べ。
やそは政府の悪政を弾劾した。
県令・佐藤信寛は、東京で天皇に諫言したいという気持ちを汲み取り、品川弥二郎らが身柄を引き渡すように言ってきたのを断り、約束通り東京に預けようと政府へ手紙を書く。

だが政府からの指令は、司法卿・大木喬任を山口に向かわせるから、その指示に従えということだった。
ここに、東京での諫死の希望は潰える。


--心は誠に清く候--
17日、やそたちは萩へ移送された。
県令・関口は、それを丁重に迎えると、酒肴を出した。

司法卿・大木は、萩に臨時裁判所を設けた。
清光寺門わきの蔵に幽閉され、家族に遺言を書き、跡目、借金の整理、遺族への心遣い、自分の墓標など細かく記す。

「病に死すも、刃に死すも、死は同じことなり。我は忠義に死すると思い詰め候も、奸吏も我らを賊となりとも盗となりとも言わば言え。心は誠に清く候はば、天地神仏へ対し、いささかも恥ずかしき心、これなく候まま、我ら死に候とても、少しもお悔やみなきよう、一重に祈り候」
やそはそう手紙に記していた。

ある時、獄にいるやその元へ品川弥二郎が訪ねてきた。
そして、やその胸の内を聞き出そうとした。

やそは厳然として言う
「この期に臨んで、何を言うであろう。私は近いうちに松陰先生と、地下で面会するつもりだ。松陰先生がもし弥二のことを問うたら、何と答えればよいだろう。君に伝言があれば私がそれを伝えよう」
品川は号泣し、一語も発することができなかった。

18日、予審開始。

12月3日、山口裁判所の萩臨時裁判所(清光寺)にて判決。
判決文は「其の方儀、朝憲を軽んじ、党与を各所に蝶合し、兵器を弄し、官兵に抵抗し、逆意を逞しうする科により除族の上斬罪申し付ける」

他、懲役48人、除族放免15人、放免388人

午後に、恵比須町の東筋にある、もと成就院跡の牢獄傍の刑場に移された。
白装束に羽二重の装いのやそを筆頭に、山田頴太郎、佐世一清、奥平謙輔、横山俊彦、有福恂允、小倉信一ら殉国軍幹部が刑場へ引き出される。

地面に敷かれたむしろの上で、最後の宴。
生玉子を肴に、酒が酌み交わされる。

そして
「只今より冥土へ参る。何にしても勤王が第一じゃけんのう」とやそは発した。

座に着くと…
詩を朗々と吟じた。

吾、今国の為に死す
死して君恩に背かず
人事も通塞有り
乾坤吾魂を弔うか

享年43歳。

コメント(6)

> 萩風と共に去りぬさん

そだね。
牢獄まで来てくれるなんてさ♪
他の村塾時代の仲間は、誰も来てないんじゃないかな(汗)

やそ、友達少ねーぞ(笑)
> 萩風と共に去りぬさん

病に関する手紙は多いよね電球
一生持病に苦しんだやそ…
金かぁ、金だよね(笑)

やそ関連で病んだのexclamation & question
> 萩風と共に去りぬさん

おぉ〜あせあせ(飛び散る汗)
まさに萩(風さん)の乱だ〜〜exclamation ×2

やそ、荒らぶる萩風さんを見守ってあげてくだされぴかぴか(新しい)

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