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前原一誠 (佐世八十郎)コミュの前原騒動(萩の乱)その壱

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やそ(前原一誠)と言ったら、前原騒動(萩の乱とも呼ばれる)を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
このトピでは、兵部大輔を辞任し、萩へ帰郷してから義挙に至るまでの、一連の流れを追ってみようと思います。


-- 帰郷 --
やそは戊辰戦争後、東京で政府高官(参議・兵部大輔)となり、職務に励む。しかし、信濃川分水事業の凍結、維新の功労者たる緒隊への武力鎮圧など、政府の政策に強く失望した。
さらに、政府内での理解者は、西郷隆盛と広沢真臣くらいで孤立していた。

体の不調、政府内での孤立、政治方針の不一致から、兵部大輔を辞任。
明治3年末(1970)に東京を離れ、萩へ帰郷した。
その帰郷も、やその影響力を恐れた木戸孝允、山口の権大参事・久保断三、杉孫七郎らの猛反対に遭っただけでなく、帰路に刺客を放たれたと噂される不穏なものだった。

帰郷後は、毛利家・藩政に関わりつつ、畑を耕し、多くの書籍を集め、読書をし、詩を詠み、絵を書いたりして過ごす。
だが、心休まるはずの郷里も、当初はかなり窮屈だったようだ。 監視され、不快極まる思いをした。

知友に宛てた手紙には、
「身の上すこぶる嫌疑多く、五尺の微躯ついに容れる所なし。今よりは後は、山林に老死の外なしと決心し候。何分当節の様子にては、寸歩も外出し候ては、相すまざる勢に相成り、唯泣血まかりあり申し候」とある。


-- 暗殺未遂 --
帰郷まもない明治4年(1971)1月9日夜。
読書をしていると突然6発の銃撃を受けた。
幸い無傷だったが、動揺は大きかった。
同じ日に政府内で数少ない理解者だった参議・広沢真臣が、暗殺されるという衝撃的な事件が起きる。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=58211764&comm_id=5102831

下手人を捕まえられない東京の官吏への憤りは強まった。


-- 趣味に生きる --
そんなやそを慕い、多くの人々がやって来る。
84石横山彦七の子・横山俊彦に、七卿用掛の時に知り合い、政府出仕を断って家塾を開いた有福恂允、そして脱退騒動の残党たち…
周囲の期待とは裏腹に、"剣を売り牛を買おう"と詠み、幼き頃のように農耕で生きてゆくと、畑仕事に精を出し、政治には関わらない日々を送る。
「私は百姓だ、金輪際世上のことには関わらぬ」と人々に語った。


-- 佐賀の乱 --
帰郷して3年が経った明治7年(1874)2月1日、元秋田県令・島義勇率いる憂国党、元参議・江藤新平の征韓党が挙兵し、"佐賀の乱"を起こす。
政府は山口県の士族を集め、援軍を向かわせることを考えた。
そして県令・中野梧一が、奥平謙輔の献策を聞き、やそに募兵のために力を借りることになった。
中野は萩のやそを訪ね、説得に当たる。
やそは何度もこれを断ったが、中野の再三の申し出により承諾。

9日、自らの名声を武器に、檄文を書いて明倫館で募兵。
瞬く間に1000人を集めた。
これを編成すると"護国軍"と名付け、萩の明倫館講堂を軍議所とした。
県からは役人も来て会計を担当。武器や食料は広島鎮台から送られてきた。
だが、やそはなかなか出兵する気配がない。

2月11日、県庁に勤める勝間田稔が、やそに宛てた手紙には…
「佐賀では江藤らの募兵日々進み、至急出兵させ鎮定しなければ、大事になる」とあった。
同月27日、軍権を得て、佐賀に自ら赴いた内務卿・大久保利通からも、中野に宛てて出兵要請が来る。
護国軍中に在った元干城隊参謀・諫早作次郎、福原又一がやそに、
「この兵をもって、すぐに西へ向かい官軍と戦えば、四国九州の志士たちが応じ、皆立ち上がる。一挙に事を成すべし!」と詰め寄った。

やそがそれを断ると「ならば兵を貸してくれ」と諫早らは言う。

やそは「200人なら授けよう」と言ったが、諫早らは憤慨し、同じ考えの岡部富太郎、岸本孫三郎と共に、山口へ出て中野と協議しようと考えたが、彼らは県庁の勝間田稔に逮捕されてしまい、禁錮刑にされる。

やその考えは、
「郷土を守るために兵を募ったのだ。万が一、佐賀の者共が来ても、郷土を侵させはしない。しかし、もとはと言えば、俗吏が士族を軽視したから起きたのだ」

「佐賀の乱は、官兵の行動が速やかなので、すぐ鎮圧されるであろう。だが、第二の乱も起きる可能性があるから、兵を温存したい」

山口県は、護国軍に、5円〜10円を与えて解散させることに。
やそはそのまま解散させるのはもったいないと感じ、萩・明倫館内に集議所を設け、5、6人を泊まり込みで在中させ、新聞・雑誌を置き、同志たちが繋がりを深める場を作った。
出兵こそしなかったものの、やそは政府に対して、予期せぬことに力があることを示した形になる。

-- 木戸の警戒 --
木戸孝允は、一連のやその姿勢を危険視するようになった。
木戸の日記には
「米田虎雄、山田顕義の書状持参。書状中に、山口県の募兵、約に背き、期に至るも発せず、大いに不都合なりと。前原一誠らの趣旨齟齬するものありと伝聞せり。実に欺くべきなり」

そして、伊藤博文に「前原を放っておいては危ない」と告げた。それは、長州藩時代からやそをよく知っている木戸ならではの危機感だった。
木戸はやそを封じ込めるべく、策を2つ考える。
まず、やそに組する萩士族の懐柔。
それから、やそを萩から追い出すというものだ。


-- 木戸の山口入り --
明治7年7月4日、台湾征伐に反対し、参議を辞任した木戸は三田尻に現れる。
9日に山口に入ると、権令・中野梧一や腹心を集め、山口県から台湾征伐に参加する者が出ないよう根回しをした。それから士族たちのくすぶる不満を解消すべく、懐柔策を出す。
時代が変わり、身分制度が撤廃されると、士族も何かしなければ食っていけなくなりつつあった。
木戸は具体的な救済案を示した。

山口県は勧業局を設け、帰農や商いを奨励し、土地の払い下げや、内職、桑や茶の栽培を指導。
毛利家から2500石を割いて、資金援助をし、士族の新事業を助けていく方針を示す。
窮乏にあえぐ士族を支援することで、彼らを引き付けて、やその元に集うのを防ぐことにもなった。
木戸の旅寓には、その恩恵に預かるべく士族たちが殺到した。


-- やそ、山口へ --
7月14日になって、ついにやそも木戸の前に姿を見せた。
そして、事の成り行きを見守るため、しばらく山口に滞在することにした。
やそは、士族を助けたい一心で、借財をしてまで支援を行っていた。
木戸の救済案に興味を示し、それを具体的に聞くべく、自ら山口へ出てきたのだ。
もちろん木戸の狙いなど、知るよしもない。

16、17日も木戸を訪ねた。

19日午前10時、今度は木戸からやそを訪ね、5時間半に渡って話し合う。
やそは、「何分様々な人間がいること故、誤解、誤伝やらがあるとは思うが、疑わしきことがあるなら、遠慮なく詰問して欲しい」と、木戸へ歩み寄りを見せる。
そして、今までのわだかまりの原因と、萩士族の向かう道を話し合い、2人の意見は一致したという。

20日、やそは伊勢華らを伴い再び木戸を訪ねた。
この会談に満足したのか、21日木戸に会ってから萩に戻った。

8月15日に木戸が萩入りすると21、23日、9月6日と再び会談を持ち、2人は打ち解けたように見えた・・・。


-- 復職のすすめ --
木戸は会談の中でやそに対し、それとなく再び官途に就くよう要請した。
やそはそれを好意と受け取り、前向きに考えた。遠方の東京に出てしまうと、老衰した両親が心配になることもあり、京阪近郊の地方官の職に興味を示す。

それを受け、9月に入ると、木戸は伊藤博文らと謀り、やそを萩から切り離すべく手配を始めた。
やそは、奈良県令職を希望したが、残念ながら着任者が既にいた。
伊藤は、代わりにと小田県(岡山)令の職務を斡旋。だが、やそは一枚の任命書が郵便で届くだけの権威のないやり方に小田県(岡山)令 をも断ってしまう。やその想像では、いったん東京へ呼ばれて天皇から直に任命されると思っていた。
「朝廷の衰えもここまできたか」と友人・佐々木男也に手紙で記している。
その佐々木も山口県庁での冷遇に耐えていたが、やそに便乗して木戸のもとへ駆け込んだ。
佐々木も40近くになり、今さら一から農業や、商いをする気にはなれなかった。

しかし、再び官職に就くことへ父・彦七と玉木翁の反対ならびに各地の藩政府士族が続々と来訪し、彼の心を揺さぶっていた。
10月2日、中津の人久保益らが来訪。

11月5日、長崎県人・松岡忠貫が来訪。

11月12日、青森県人・七戸不二郎が来訪。

11月22日、高知県人・大石円、池知重利が来訪し、父・彦七ならびに玉木翁列席。

そんな状況化で諫早作次郎は、木戸へやその動きを密告する役を担っていく。
12月14日、諫早は同志50名と共に、萩の金崎屋に木戸を招待。そこで、今後何事も木戸へ協力することを申し出たのだ。

12月17日、木戸は萩を離れるにあたって、士族たちを河内屋に招いて別れの宴を催した。やそにも招待がきたが出席せず、医師の岡田謙道のもとへ行き酒を飲んでいた。結局、その後も明け方まで飲み木戸を避けていた。


-- 上京 --
明治8年(1875)1月、木戸は山口を去ったが、やそに上京するよう催促が来る。
だが、両親が病に倒れていたので動けなかった。

2月、復職の朝命、士族たちの期待、持病に悩み、酒で紛らわす日々が続いていた。

2月8日、松陰の兄・杉民治相手に役人と政府への怒りを酒でぶちまけた。

3月、連日の胸痛に悩まされる。そんな中、やそは萩明倫館の一部に読書場を作って、規則を定めた。読書場は、やそが子弟教育のために建てた学舎だった。
18歳以上が入学でき、西洋の訳書、和漢、古書、日用に至る幅広い書を読ませ、算術を学び、大なる知識を得る場とされた。

権参事・吉田右一が訪ねて来て、やそが上京しないことで木戸、伊藤、井上が肩身の狭い思いをしてると告げられ、ついに4月10日に東京に向かうと手紙で知らせた。
しかし病は回復せず、期日になっても動けず、木戸と伊藤博文に書を送り、持病で出発できないと釈明。それ以上に上京を決意したことで同志たちに大きな動揺が起きていた。
14、15日には同志が集まり、進退について意見が交わされた。
やその枕元では、奥平謙輔をはじめ、萩の士族たちが「政府の甘い餌に乗ってはいかん!」と、激論が飛んだ。

5月24日、心配した旧主・毛利元徳が見舞いに訪れ、卵一箱を頂戴。

6月18日、政府は浅草本願寺で開催される地方官会議のため20日までに上京せよと各地方官に触れを出す。やそは官民一体の政治の表れとこの動きを評価していた。これに乗り遅れまいと意を決し、一度は断った小田県令の職に就くべく上京を決意。20日を萩出と定めた。

20日、やそは横山俊彦、岡田謙道を伴い萩を出発。見送りは50名近くにのぼった。
中には、脱退騒動のおりの兵卒11名もいた。この日は山口に入り、友人・佐々木男也を訪ねる。佐々木はやその上京を喜んでいた。

21日に三田尻で一泊し、海路東京を目指した。

7月6日、大阪に立ち寄って毛利元徳の長子・元昭(11歳)に謁見。

同月10日夜に横浜の宿に着いた。


-- 東京での日々 --
12日午後、5年ぶりに東京の土を踏む。さっそく姉・増の子である国司仙吉と木戸を訪ねた。
木戸は、やそに時勢の変遷を説いて、4月25日に設置されたばかりの元老院の議員(元老院議官)となって働くことを勧めた。
やそは東京で働く気は毛頭ない。小田県令の職に就くのではなかったか!?話しが違うと、承諾せず。国司仙吉からも説得を受けたが、心は動かなかった。

東京の光景はやそを憤慨させるだけだったようだ。
17日に、新富町の宿から、弟・一清に手紙を書いた。
「木戸を議長として、先月来開催されていた地方官会議は、本日終わる。内容はまったく書くに堪えず。一笑するに足る。木戸の顔を見ると、すこぶる得意気であるが、釜中の鮮たるを知らず、哀れむべし」

「東京の光景は何とも筆舌し難い。外夷は跋扈し、大蔵の財政はまったく欠乏、しかるに釘まで西洋から買い入れてる。東京など人間がただ軽薄になるばかり。萩で学問をしたいので帰国したいが、他の意見も聞いてみる」

東京に失望しつつも、諸氏との交流は活発だった。
木戸の他、左大臣・島津久光、薩摩・内田政風、元会津藩士・永岡久茂、元干城隊士・伊藤退蔵、土佐人・大石円、越後の豪農・大橋一蔵らと会談を持った。

島津久光とはかなり気は合ったようだ。久光から在京を勧められた。

その後も、22日には旧藩主・毛利元徳を訪ね、23日には、越後の片桐譲之が訪ねてきた。

24日は、意気投合した永岡を訪ね、政府の政策批判に花を咲かせる。

30日に永岡から、政府の密偵に見張られてると忠告される。東京や横浜の空気に馴染めないやそは、帰郷を考えた。


-- 憤慨し、帰郷 --
8月に入っても、諸氏との交流に時間を費やした。

8月7日、諫早作次郎ら5名が帰郷し、萩で征韓論支持を主張し同志を募集。
それに同調した萩の元干城隊・第一大隊、第四大隊の者が集まった。
表向きは征韓論支持派とのことだが、裏の顔は木戸の意向を受けた、反やそ運動を目的にしていた。

8日、乃木希典が訪ねてくるが、やそは不在だった。

9日、木戸孝允が訪ねてくるが、やそは不在だった。

10日、やそは乃木希典を訪ねるが、陸軍省に行って不在。この日は、伊藤博文が訪ねて来て、泊まり込みで在京を懇願される。

11日は海江田信義が来て、在京を懇願された。

だが、やそが希望した地方官職も、いつの間にか立ち消えになってしまい、失望だけが広がっていた。
共に上京した同志・横山俊彦に、その思いをぶちまけた。
「小田県令にするからと、地方官会議に呼びつけておきながら、一旦上京してみれば、今度は東京で元老院議官にすると言う。手元に置いて、監視しようと企んでいる!何のために上京したのか分からない」

8月13日、やそは東京から横浜へ戻る。

8月14日、ついに横浜から乃木希次、玉木正誼らを伴い東京丸に乗船。無断で帰国の途についてしまった。
木戸と伊藤はそれを知ると、大阪の中野梧一に帰郷を阻止するよう命じたが、巧みにかわした。
18日には無事に三田尻に着き、2人曳きの人力車でさっさと萩へ帰還してしまった。

木戸はすぐさま監視体制を強化、県役人、諫早党に行動を詳細に報告するよう指示を出す。

8月28日、県役人・木梨信一から木戸宛に手紙。
「前原先生突然の帰県。去る18日三田尻に着くと、2引人力車で、山口に音沙汰なく駆け抜け、萩に帰り、同夜乗船の者が山口に帰ってきての話しから、はじめて知ったようなことです。いったいどんな気やら、佐々木男也もまったく呆れ果て、愛想を尽かしておりました」

9月14日、やそは政府へ手紙を書き、母の病が平癒しないので今回の朝命は撤回して欲しいと嘆願し10月4日になって政府よりそれが許された。再び自由の身となったのである。

10月5日、県役人・吉田右一から木戸宛に手紙。
「私、先日萩へ参り、前原に対し、突如帰県した不始末についてとことん尋ね、出仕をすすめましたところ、『実は5、6年引きこもっていて、東京の様子を目撃したところ、とても、このたび県官はもちろん、まして奉勤するなど覚束なく、当惑してたところ。老母病の知らせが来たので、急に出発した次第。いささかの不平あるわけでもありません』と繰り返し申します故、この上は致し方ないと存じます」

やそは建前上、母の病で帰郷したと政府へ弁解したが、木戸が監視の手を緩めることはなかった。


-- 木戸の決意 --
やそが萩へ帰郷すると、全国から士族たちが訪ねてくるようになる。
彼らを通して、やそは反政府勢力が予想以上に大きくなっていることを知る。

11月8日、秋月から益田静方が訪ねてきた。

11月25日、木戸孝允より杉孫七郎宛に手紙。
「お手紙にて、萩の近況うけたまわったところでは、帯刀の連中、だんだん増長しているよし。前原が帰萩後、尻押ししているものと見えます。昨年より苦労したことも無益となり、甚だ残念です。しかし諫早党もいることゆえ、決して前原一党のほしいままにはしておかぬつもりです」

12月10日、徳山から飯田端、田中七四郎が訪ねてくる。

12月15日、東京から越前の長谷川保基、肥後の麻生直温が訪ねてくる。

そんなやそ周辺の動きは木戸に筒抜けだった。

◆前原騒動(萩の乱)その弐
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=55982003&comm_id=5102831

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