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前原一誠 (佐世八十郎)コミュの干城隊と長州緒隊悲話

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やそ(前原一誠)が結成に尽力し、戊辰戦争で指揮した干城隊/干城中隊。
世禄隊とも呼ばれる、大番八組の者を集めた隊です。

大番八組は、大組、八組とも言われる、誇り高き藩主の親衛隊。
戦国の世では、馬廻組、小姓組とも称した。
1000人の馬廻組を、8組に分け、2組を江戸、6組で国を守る。
干城隊の干とは、楯を意味し、藩主の楯となり戦うという意味である。
まさに毛利恩顧、名誉ある侍たちである。

干城隊を含め、その他緒隊の歴史はやそと長州藩の光と影と言えますので、記しておきたいと思います。


--緒隊と干城隊の成立ち--
文久3年(1863)
5月11日、長州藩攘夷を実行。
下関にいた萩藩兵650、長府・清末藩兵300、光明寺党50名が、外国船に砲撃。
しかし6月に入ると、相次ぐ外国船の報復攻撃で、侍が逃げ惑うなど、庶民の失笑を買ってしまう。

そこで高杉晋作は、緒外国からの脅威を侍だけで防ぐのは心もとないと考えた。
藩主の許可を得ると、下関にやってきて、身分を問わず有志の者を集めた。

そして6月7日、結成されたのが、"奇兵隊"である。
それに続くように民兵隊が続々と藩内に誕生してゆく。

有名なところでは、遊撃隊、御楯隊、鴻城隊、庸懲隊、南園隊、第二奇兵隊、八幡隊、集義隊、萩野隊…
その数数百に及び、あらゆる職業の人々が隊を作って武装割拠。

さらに、吉田稔麿の建策を受け、藩は士農工商より下の身分とされてきた被差別部落の者も取り立て、維新団、一新組、上関茶筌隊を結成。
これら民兵を総称して"緒隊"と呼ぶ。

そんな緒隊に、なにくそ!と発奮したのは譜代の侍。
元治元年(1864)2月には、京都進発論が高まる中、出兵する大番八組の者たちへ、"干城隊"の名が与えられた。
これは8.18の政変後の尊攘運動を強固にすべく、久坂玄瑞が譜代の侍にやる気を出させるための一策であった。
久坂は、譜代魂を揺さぶり、藩主が恥ずかしめを受けてるのに、傍観して良いのか!?と焚き付け、戦地へ送ったのだ。

官民問わず、藩全体が武装化するという特異な状況になった幕末長州藩。
吉田松陰の唱えた、草莽崛起論が形になったと言える。


--緒隊の問題点--
当然、緒隊の中には、侍何するものぞ!と、反発心の強い者がいて、侍との軋轢も凄まじかった。

有名な話しでは、文久3年8月16日、17日の【教法寺事件】が挙げられる。
事件は、奇兵隊と大番八組の集まりである撰鋒隊が馬関を守っていた時に起きた。

奇兵隊士が撰鋒隊の宿舎教法寺を襲撃し、病で寝込んでいた撰鋒隊士・倉田幾之進を斬り殺してしまう。
翌日撰鋒隊は報復として、奇兵隊士・奈良屋源兵衛を捕まえ、長時間冷水を浴びせた。
源兵衛はその日のうちに高熱を出し死亡。

この騒ぎの原因を作ったとし、奇兵隊士・宮城彦輔が切腹。
高杉晋作は奇兵隊総督を更迭される。
身分を越えて共闘とは、すんなりいかなかったのだ。

元治元年(1864)4月3日、奇兵隊総管の赤禰武人は、藩に奇兵隊士全員を士分(侍)にするよう嘆願した。
隊士を身分で差別せず、平等に見てほしいということだったが、これは聞き入られなかった。


--最前線に立つ緒隊--
元治元年(1864)7月19日、長州藩兵(緒隊を含む)は、京都で圧倒的兵力の幕府軍と激突し敗退。世に言う禁門の変。

7月7日、長州藩は人員不足を補うべく、被差別部落の者でも取り立てるよう命じた。
もはや、身分がどうのこうの言ってる状況ではなかった。

幕府は7月24日に長州征伐の許しを朝廷から得た。
世に言う第一次長州征伐が発令された。
朝敵になったことで、長州藩は日本全国を敵に回す。

8月5〜8日、下関がイギリス、アメリカ、フランス、オランダによる四国連合艦隊の猛攻を受ける。
奇兵隊、膺懲隊ら緒隊を中心に奮戦したが、各砲台を破壊され、力の差は歴然だった。
しかし民兵でも、訓練を受ければ、侍以上に戦えると自信がついた戦いでもあった。
8月18日、休む暇もなく、今度は幕府軍に備えるため、奇兵隊、膺懲隊が三田尻に転陣する。
もはや緒隊は、長州防衛になくてはならない存在になりつつあった。


--俗論政府による冷遇--
禁門の変、四国連合艦隊襲来、朝敵の烙印、幕府の長州征伐、相次ぐ国難。
それを見かねて、追いやられていた長州藩・俗論派が、萩から山口へ圧力をかけた。
その結果、尊皇攘夷を引っ張ってきた、正義派の要人が罷免され、俗論派が政権を奪取。

元治元年(1864)9月1日、長州藩は藩論を〔誠意恭順〕と決め、幕府と朝廷に謝罪することになった。

10月20日、奇兵隊、膺懲隊が、三田尻から徳地へ移動し、幕府へ平身低頭する藩政府を詰る建白書を書き送った。
翌日、緒隊幹部は萩・政治堂に集められ、最も恐れていた緒隊解散を命じられてしまう。
藩から給与・食料の支給が止められ、緒隊は存続困難な立場に立たされた。

11月4日、藩に武力で圧力をかけるべく、奇兵隊が徳地から山口へ転陣すると、遊撃隊、八幡隊、御楯隊、膺懲隊もこれに続く。総勢700人。

6日、緒隊は本陣の永福寺を、緒隊会議所にし、独自の規則を設けて行動。
緒隊は団結する必要があったのだ。

その頃、やそは11月10日に馬関での赤間関都合役を解任されると、身を隠しつつ緒隊への連絡役をし、食料、武器弾薬の補給などに奔走。

12日、藩は禁門の変の戦犯として、三人の家老に切腹、四人の参謀を斬首に処した。
その首級は幕府に差し出し、恭順姿勢を強調。

2日後、幕府は11/18予定の長州総攻撃の延期を決定。
当面の危機は去ったかに見えた。

15日、奇兵隊の山県有朋は、先月10日に眼病で、総管を退いていた赤禰武人を隊へ復帰させる。
眉目秀麗、弁舌爽やかな赤禰は、緒隊と藩政府との交渉を担う。
同日、緒隊は山口から馬関へ移動。
五卿も功山寺に入り、緒隊の本営も同所になる。

27日、奇兵隊総管・赤禰武人は、参謀・時山直八を伴って萩へ出張し、緒隊存続と、正義派要人の助命を嘆願した。
藩政府の回答は、助命する代わりに、奇兵隊を解散せよとのことだった。


--緒隊、挙兵--
11月25日、高杉晋作が九州から帰国すると、緒隊の説得にかかった。
共に決起し、俗論派を打破しようと言うのだ。
しかし、赤禰が平和的解決に向けた交渉を始めていたため、緒隊は高杉の話しに乗らなかった。

だが高杉は、元治元年(1864)12月16日、やそ、伊藤俊輔、石川小五郎ら、僅かな同調者と遊撃隊、力士隊など総勢80名を率いて、長府功山寺にて決起!
瞬く間に下関を占拠してしまう。
世に言う功山寺決起である。
同日、藩は緒隊へ協力しないよう藩内に布告した。

19日、高杉決起に参加しなかった緒隊は、戦況を見守るべく、馬関から伊佐村へ転陣。

平和解決を望んでいた赤禰は、立場を失くし、責任を擦り付けられてしまう。
命の危険を感じた赤禰は、反論することなく27日になって長府藩の庇護のもと、筑前へ亡命。

28日、藩は毛利宣次郎を総奉行に撰鋒隊1000人を鎮圧軍として派兵。
だが、日が経つにつれ、高杉決起軍に、豪農、庄屋、地主などの支持が増えてゆく。
食料、軍資金の提供を受け、決起軍は勢いづいた。


慶応元年(1865)1月6日、高杉は奇兵隊ら緒隊幹部に手紙を書き、再度決起を促した。
やそは緒隊へ出向き説得に当たっていた。

翌7日未明、緒隊はついに意を決し、絵堂に布陣する藩軍に、戦書を投げ込み、奇襲攻撃をかける。
太田・絵堂の戦いの始まりである。
激戦の末、撰鋒隊を撃退。

戦況不利を悟った藩政府は、1月13日に国中の被差別部落の者に対して、緒隊討伐を命じる賭けに出た。
だが、これは無理があったのか…取立役が何者かに殺害され失敗。


--干城隊再結成--
太田・絵堂の戦後、慶応元年(1865)1月16日、高杉は萩への進撃を即座に主張。
しかし、緒隊の幹部は口を揃えて反対を主張し、山口に一旦退き、萩を包囲すると言う。
高杉は当然面白くない。議論のうえ、渋々折れて緒隊の意見に同意した。

21日、諸隊は山口へ転陣し、湯田に緒隊会議所を設けた。
そして、今後のことは緒隊幹部が会議のうえで決定してゆくことが確認される。

同じ頃、萩では中立派が鎮静会議員(東光寺党)を結成し、内戦の収拾に当たっていた。
民意が決起軍にある今、庶民を敵に回して、国中に大一揆が起きてしまう危険があったからだ。

藩主・敬親は、鎮静会議員の意見を聞き、椋梨藤太ら俗論派の要人を罷免。
これにより、内戦は終結に向かってゆく。

2月14日、緒隊は藩に圧力をかけるべく萩を包囲。
奇兵隊の一隊は萩市内へ侵入し、なんと毛利家の菩提寺である東光寺に踏み込み、駐屯する暴挙に出た。
緒隊による屈辱的な萩包囲は、藩主が山口に移動する4月半ばまで続く。

その時、やそは前述の鎮静会議員176名を母体に、四散した大番八組の者を集め一隊を創設。
護国干城隊と名乗り、干城隊の再興であった。
撰鋒隊二号とも言うべき、毛利恩顧の武士団の復活である。
士分の者はことごとく入隊することになる。


--高杉の思惑--
3月5日、緒隊の力に危機感を抱いた高杉は、4000文字に及ぶ手紙をやそへ送った。
その中で、まず国内は落ち着いたので「土民は農に帰り、商夫は商いを専ら」にすべきと、緒隊を解散し庶民は本来の仕事に戻るべきだと言い放った。

自らが結成した奇兵隊についても
「弟(晋作)も八組士(大番八組)、もとより八組士の強き事を欲し候えば、やむをえず奇兵隊など思い立ち候事にてござ候」
と、身分を問わない奇兵隊結成は仕方なかったと釈明。

さらに高杉は干城隊について期待をかけた。
「このたび干城隊振興に相成り候は、大幸の至りに候。早々干城隊総督英気の士御選びに相成り、緒隊の規律法度も干城隊よりはじまり、緒隊の指揮号令も干城隊総督、政府より請け、会議処へ緒隊の総督を呼び出し申し合わす様相なり…」

干城隊の創設は喜ぶべきことで、緒隊の頂点に据えるべきと考えた。

慶応元年3月15日、 干城隊、
その他緒隊は藩の正規兵としての認可を受けた。

干城隊総督には、禁門の変の責任を取って切腹した、福原越後の養子・鈴尾駒之進(福原良通)を迎えた。
頭取に、前原彦太郎(やそ)

翌16日、緒隊の総督たちは山口政治堂に呼ばれる。
そこで緒隊の定員を1500名と定め新体制が告げられた。

奇兵隊総管・山内梅三郎を干城隊総督見習い、また御楯隊総督・御堀耕助が頭取、慶応三年には木戸孝允が副総督を務めるなど、干城隊への人材強化、権力集中が行われた。当然、緒隊幹部たちは不満を露にした。

高杉は緒隊幹部たちに手紙を送り、「外患内憂互に切迫の時勢」だから「少々の不平は堪忍せよ」となだめた。

さらに内憂は政府と干城隊に任せ、緒隊は外患に専念せよと、幕府との決戦に緒隊の目を向けさせた。

藩主・敬親は、明倫館で干城隊の心得を説いた。
「干城は武士の職掌にして藩屏は我らの天職なり、忠節信義至当を得さるハ我らの失職にして、文武其道を得さるは武士の恥辱とす、其罪皆我等に帰するのみならず、遂に先祖を羞かしむるに至る」


--緒隊の増長止まらず--
高杉の思惑通り緒隊の力を抑えたかに見えたが、実際はそう上手くいかなかった。

干城隊が山口に鎮座するにも関わらず、緒隊は慶応元年5月2日以降、勝手に"御親兵"を名乗って山口に派兵してきた。
押し掛け親衛隊ならぬ、藩に対する監視兵である。

大番八組である井上馨はこの状況に、
「緒隊の兵大いに驕り、統御すこぶる困難の事情ある」と嘆いた。

これには藩主親子も苦々しく思っていた。
閏5月9日、藩主・敬親、世子・広封と支藩の岩国藩主・吉川経幹が協議した時のこと。

吉川は、
「緒隊の者をあちこちに分屯させているが、いずれは解隊させるのか?それとも永くそのままにしておかれるのか?」と問う。

すると藩主・敬親は困惑の表情で黙ってしまう。

代わりに世子・広封が答える。
「緒隊については今更解隊とはいきますまいから、やむを得ず分屯させておきます」

吉川は鋭く突く
「緒隊は攘夷のために取り立てられたわけだが、そういう意味では外夷の憂いはなくなっただろうが…(攘夷戦争が終わった)今に至ってはお困りものではないのか?」

世子・広封
「まことにその通り。しかしながら、ただ今となっては何とも致し方なく、甚だ困っています」

長州藩にとって力を持ちすぎた民兵、緒隊がいかに厄介な存在だったのか分かる。

緒隊の権力は藩外交にも影響を及ぼし始めた。
世に名高い薩長同盟締結。
禁門の変で薩摩と戦った緒隊は、当然同盟に反対した。

やそは藩代表として緒隊の説得に当たったが、奇兵隊士に罵詈雑言を浴びせられると萩に引きこもってしまう。

高杉は奇兵隊の幹部に手紙を出し、同盟に賛成してくれるよう求めた。
そして同盟締結の使節として桂小五郎(木戸孝允)と共に、緒隊代表として奇兵隊から三好軍太郎が京へ上がる。
緒隊が長州藩を代表するまでに力を得たことを証明している。

慶応2年4月、第二奇兵隊の隊士数百人が脱走し、倉敷の幕府代官所を襲撃する事件が起きる。
これには藩も苛烈に対処。
45人(34人が農民)を斬首、高札を立てて見せしめるよう指示を出し、緒隊を威圧した。

藩は復権しつつあった干城隊の武力を背景に、これ以上緒隊の増長は許さぬという姿勢を見せ、4月24日には軍規を厳しくせよと命令した。


--四境戦争--
慶応2年6月、四境戦争(第二次長州征伐)が始まると、緒隊を含む長州藩兵は最新装備を手に、勇猛に戦って幕府軍を各戦線で撃退した。

やそと干城隊は、山口を守り、前線には出なかった。
小倉口参謀の高杉晋作が病に倒れると、やそが奇兵隊、報国隊を率い後を引き継いだ。

戦勝で、 緒隊の増長・傲慢ぶりはもはや手のつけようがなく、厳しく禁令を定めたにも関わらず、奇兵隊士は小倉占領地で田畑を荒らし、傍若無人に振る舞った。

ついには長州藩2ヵ国(周防・長門)のうち1ヵ国をもらってももらい過ぎじゃない!とまで豪語するようになる。
やそは奇兵隊士に散々悩まされつつ小倉占領地での仁政を行うことになる。


--干城隊解体と干城中隊--
慶応3年1月、藩の兵制改革を進める大村益次郎により、干城隊は解体される。
大村の構想は、侍から農民まで、あらゆる階層が所属し、等しい熟練度を持つ緒隊が理想であった。

しかし、慶応3年10月、倒幕同盟に基づく、京阪出兵が近づくと、大番八組の者たちは、緒隊に負けてなるものかと、譜代の意地を見せて干城隊復興を藩主に嘆願。
"干城中隊"の名前を与えられ、志願者のみで再び隊を結成した。
能力構わずこぞって入隊した以前の干城隊と違い、大村の兵学校で学んだ者が、武装し、食料を持ってかけつけた。
干城中隊は、即戦力になる部隊であった。


--戊辰戦争--
緒隊は新たな活躍の舞台を見つけた。
慶応4年(明治元年)に始まった戊辰戦争である。
緒隊は各戦地に派遣され、長州藩兵として大暴れした。

だが、北越では新政府軍が長岡藩家老・河井継之助率いる長岡藩兵に手を焼いていた。
そこでついにやそと、干城中隊に出陣の命令が下る。
大番八組士のみで構成された精鋭部隊は、ついに戦いの場を得たのだ。

6月26日、干城中隊は、萩小畑浦から北越へ出陣。
総督・毛利内匠
副総督兼蔵元役・前原一誠(やそ)
参謀・平岡通義

28日には、越後柏崎上陸。

やそは、7月6日に辞任した山縣有朋の後任として、北越征討総督府参謀に就任。
長岡を中心に、干城中隊は果敢に戦い、奇兵隊に次ぐ戦死者を出した。
9月5日までに、戦傷者は157名にも及んだ。
会津が陥落すると、干城中隊は凱旋帰国。


--切り捨て--
明治2年1月、木戸孝允は、大村益次郎と征韓について議論。
戊辰戦争が終了すれば、緒隊の価値はなくなるので、外征させようと目論んだが、これは実現しなかった。

そして、戊辰戦争が終わると、木戸孝允、井上馨らは役目を終えた緒隊解体を考える。
それは長らく尊大に振る舞ってきた緒隊に対し、ようやく断固たる処置ができる準備が整ったことだった。
木戸や井上にとって、緒隊はあくまで「尾大の弊」なのだ。
尾(庶民)が力を持ちすぎるのは、厄介極まりない。

9月27日、木戸孝允の意向を受けた井上馨が山口に入り、緒隊解体のために動き出す。

そんな木戸の真意とは裏腹に、政府は奇兵隊(556人)、振武隊(435人)を、東京の常備軍に入れるべく、10月8日に山口藩庁へ指令。
それは、やそや大久保利通、広沢真臣の思惑であった。

11月2日、山口藩庁は大番八組士の17歳以上の者に対して、萩と山口の歩兵塾で学ぶことを命じる。
藩知事直属の軍隊に編入したい思惑があった。

4日、諫早作次郎が干城隊軍監に再任され、分散してる大番八組士の再編成を任された。

8日、藩知事・元徳は、出征した5000人の長州藩兵のうち、常備軍定員を2250人にするので、緒隊長官は、兵員を精選して緒隊を合併せよと布令を出す。
緒隊の多くは、精選を過酷な"切り捨て"と位置付けた。


--脱退兵、立ち上がる--
11月14日、遊撃隊が上書を提出。
親兵献納はけっこうだが、戊辰戦争における戦功賞典はどうなってる?
そもそも常備軍精選を行っている緒隊長官は、放蕩・堕落している。
それら長官を更迭するのが先じゃないのか?
そして精選後に残った老兵、傷病兵はどうするのだ?という内容だった。

15日、山口藩庁から新政府へ、奇兵隊と振武隊を引き取ってくれるなら、藩内にいる2000人の常備兵(緒隊)も親兵として、採用して欲しいとの請願が来る。
東京のやそらはこれを承認。

しかし木戸は、やそや藩庁の願いとは裏腹に、その2000人の常備兵を多すぎると判断し、500人に切り詰める考えだった。

24日、井上馨は山口常備軍の監軍、録事に任命され、緒隊の隊長、書記、役付を味方に引き込む。

12月1日、屯所を抜け出した緒隊の脱退兵たちが、三田尻に集結。
たちまちその人数は1,800人に達した。
そのうち1300人が農民、商人らだった。
世に言う脱退騒動が始まった。

6日に提出された、脱退兵たちの上書には「王政は幕政に如かず、薩長は徳川氏に劣る」とあった。

25日、広沢真臣は山口藩知事・毛利元徳宛へ手紙を出し、緒隊鎮撫のためにやその帰国が計画されてることを知らせる。

27日、木戸は、緒隊鎮圧のため、井上馨、杉孫七郎、品川弥二郎と共に三田尻上陸。
木戸は、萩にいる干城隊の武力で鎮圧を目論んだが、一向に動く気配がない。
禄を削られ、恩賞もなく、切り捨てられつつあったのは干城隊の者も一緒で、緒隊と戦って命を落とす気にはなれなかった。
苛立つ木戸は、干城隊が動かないのは、やその差し金じゃないかと疑う。

萩にいた干城隊参謀・諫早作次郎(基清)は、木戸に相談もなく、緒隊と山口藩庁の間を調停すべく、干城隊を利用することを思いつく。


--干城隊の動き--
明治3年(1970)1月8日、諫早は明倫館に武器を持って集まれ!と呼び掛けたが、80余名しか集まらず、山口への出発を取り止める。

12日、山口から上京してきた林万樹多、吉田半蔵が、神田長州藩邸に入り、やそ、広沢真臣、山田顕義の前で、緒隊の緊迫した様子を伝えた。

14日、やそは広沢真臣と、緒隊のことを協議。

20日、木戸からの再三にわたる出兵要請に、奥平謙輔、勝田四方蔵ら干城隊一個中隊が山口へ着陣。
奥平は、百戦錬磨の脱退兵とまともに戦うのは、勝ち目がないと見て、脱退兵と寝食を共にするなど、和やかに過ごし、刺激しないようにした。

21日、脱退兵たちは干城隊が敬親・元徳親子を萩に連れ去ると思い、藩庁を包囲。糧道を絶った。
旧主に公然と刃向かった形になる。

22日、脱退兵40人が、藩庁へ侵入。
旧緒隊幹部の処罰を要求。

23日、藩知事に呼ばれた木戸は、相変わらず干城隊を鎮圧に使うべしと、持論を展開し承認を得る。
藩知事の名を使い、木戸は萩の残ってる干城隊に発破をかけた。


--前原と木戸--
24日、岩国、徳山藩兵が脱退兵鎮圧に出兵開始。

25日、木戸からの度重なる出動要請に、諫早作次郎率いる萩の干城隊主力600名は重い腰を上げ、佐々並に着くが、すでに進路を阻むべく脱退兵が集結し、足止めされる。

木戸は山口の兵力のみじゃいかんともし難く、東京の常備軍投入と、やそ帰国を阻止すべく井上馨を上京させる。

2月5日、井上馨が三浦五郎、正木退蔵を連れて神田長州藩邸に現れる。
もし、やそが帰国し、干城隊をあっさり動かしでもすれば、木戸の面目は潰れてしまう。
そこで、三浦の発案で、やそが帰国すれば、干城隊が脱退兵に加わる!と、元藩主・敬親と、三条実美を脅し、帰国を取り消させた。
この日、馬関の木戸は脱退兵討伐の準備を完了。
翌日攻撃をかける予定になっていた。

三浦五郎の回顧によれば
「前原は鎮圧など出来る人ではない。しかし一種の強情者で、井上(馨)にはそれを止めることはできない。以前前原の配下には、干城隊というのがあって、それがほとんど脱退兵に加わりそうな形勢にある。もし前原が帰れば、それに火がつく」とのこと。

6日、藩知事の召しを受け、干城隊軍監・諫早は、隊を離れ山口へ向かう。
そして、脱退兵の要求通りに藩吏の任免と、褒賞を行うべきだと述べる。
藩知事・元徳は三支藩知事、大参事、脱退兵方の上役を交え協議。
脱退兵たちに対して、このままでは職務は出来ず、皆罷免のうえ、長州は滅びると諭した。

その説得で、脱退兵は降伏の宣誓書を出す。
藩庁はこれで和解は成ったと考え、それを知らせる告知を各地で行い、9日までに武装解除を要求。
応じない者は、緒隊で処罰せよと命じた。
しかし話しはこれで終わらなかった…


--武力鎮圧--
7日夜、藩知事は馬関に集結した木戸率いる常備軍に鎮静を命じる。
暴風雨の影響で、進撃開始を8日に決定したばかりだった。
木戸は、すぐに藩知事宛に親書を送り、緒隊の罪状を考えると、武力鎮圧やむ無しと、あくまで実力行使をする構えを示した。

9日未明、和睦が成ったと寝静まる脱退兵に、常備軍が進軍ラッパを吹き鳴らし、襲いかかってきた。

2月9日〜11日にかけて、木戸に率いられた常備軍と脱退兵は激突。
脱退兵たちは撃退され、藩知事は解放される。
戦後処理は、過酷を極め、死罪
は100人以上を数えた。

藩内に悲話を数多く残して、干城隊と緒隊の歴史はここに幕をおろす。

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