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◆日本の神話と古代史と日本文化コミュの渡来人とは何なのか

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私はネットをはじめて十数年になりますが、
以前から気になってると言うか、この人たちは何を考えてるのだろうと思わせるのが、
とにかく異様に渡来系を持ち上げる人たちの多さです。

騎馬民族説者はさすがに少なくなってきましたが、
スサノオは渡来人、
神武天皇は渡来人、
崇神天皇は渡来人、
応神天皇は渡来人、
継体天皇は渡来人、
天武天皇は渡来人、
蘇我氏は渡来人、
藤原氏は渡来人、
ずっとこんな話を聞いてきました。

が、ほとんどガセです。

数千年前に来た弥生人は縄文人から見れば渡来系ですが、
彼らは倭人の本流なので、今では渡来系とは言えません。

したがって主に古墳期以降が渡来系の定義なのですが、
まぁ渡来系と言ってもピンからキリまであり、
東漢氏や秦氏の一部のように高い地位に就いた人もいたのは当然ですが、
半面、被差別の地位になった渡来系の例も複数知ってます。

しかしなぜか渡来系を買い被って持ち上げる人が多いのは、
これはなんでしょう、いまだ敗戦コンプレックスなのでしょうか、アホなのでしょうか。

で、こういう事を言うと、おまえは右翼だと訳の分からない反論をされるわけです。

もういい加減にしていただきたいわけです。

コメント(497)

>>[456]
>大八洲の初期国家が封建制度だったという根拠を中高生にも分かるように示して下さい。

そもそも、やすいさんのお考えが全くつかめません。
日本史上、一番長く続いた政権、江戸幕府でさえ、268年です。
300年と持っていない。。。

初期政権が卑弥呼の伝説の時代、3世紀中後ごろとしても、紀元前まで遡るまでの長期政権など望むべくもないのですよ。。。

当時の日本の手本を出して、相当するものを見るのは、至って論理的です。

やすいさんのように、主観をいくつ積み上げた所で、それは俗説にしかなりませんし、歴史ではありません。
>>[458]

何を議論しているのかお分かりですか?初期国家が封建制度だったというのなら、封建制度を定義して、それをあなたが考える大八洲での初期国家に適用して説明して下さいと言っているのに、そのことにはどうして返答されないのですか?

私は、月讀命が壱岐から海下りして筑紫倭国を建国し、それがいつまで続いたかは分かりませんが、その途中に王朝の交代があったかどうか分かりません。筑紫倭国の場合は四世紀初めに熊襲に滅ぼされて語り部がすべていなくなり。伝承がなくなったのでに二世紀後半から三世紀半ばの卑弥呼政権が同じ王朝かどうか断言できません。

いずれにして月讀命―忍穂耳命ー邇邇藝命の時代の初期国家は神政政治の国家とは思いますが、それが封建制度の国家であったという説明する材料は持っていません。

卑弥呼政権も氏族共同体の連合国家とは言えても、封建国家とは言えないでしょう。そういう説明にはまだお目にかかったことがありません。
>>[459]
>初期国家が封建制度だったというのなら、封建制度を定義して、それをあなたが考える大八洲での初期国家に適用して説明して下さいと言っているのに、そのことにはどうして返答されないのですか?

違います。そもそも、cadさんは初期国家は封建制的ではない、律令からだと仰っていて、それを現代的国家観の定義としています。

議論をわかっていないのはやすいさんの方です

やすいさんは初期国家という、ダブルミーニングを使って、話をごまかしているに過ぎません。

少なくとも何世紀から何世紀の間を初期国家と定義するか?が他の方と安いさんでずれてしまっています。

現代的な考古学の解釈ではヤマト王権以前、大まかには卑弥呼の前後の時代を初期国家としてみなしています。

その時代には、少なくとも、やすいさんが描いているような国家観ではないことが伺えます。科学的にも。
>>[459]
伝承上も臺與が継いでるので、氏制度前の話です。
>>[460]
あなたはこう発言したばかりですよ。

[453] inbidi
2017年10月16日 14:26

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>>[415] やすいゆたかさん
初期国家が封建国家ではないとは、お笑い草です。
封建国家の意義を全く理解されてないとしか。。。

周代には確立されていますし、日本での輸入もそれを基本的に見本としています。

「違います。そもそも、cadさんは初期国家は封建制的ではない、律令からだと仰っていて、それを現代的国家観の定義としています。」一体どこに書いているのですか?

「初期国家」だから最初の頃の国家でしょう?日本で律令ができたのは七世紀ですよ。それ以前には国家はなかったということですか?

中高生が読んでも何を書いているか通じるように書いて下さい。
>>[462]

邪馬台国は封建制度だというお考えですか?それ以前だから国家ではないということですか?
>>[463]
ひとつずつ
やすいさんは封建制度成立論争をご存じなく語られています。
現代では律令は封建制度の一種として数えられています。
昔の話ならいざしらず。。。中高生的な歴史認識です。


https://kotobank.jp/word/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6-627435
>封建制成立論争
封建制度・封建社会研究は、戦後日本史学のメーンテーマであったが、1950年代には封建制成立の画期をめぐる「封建制成立論争」が闘わされた。その論争のなかで、日本における封建制度の成立を、鎌倉幕府の将軍―御家人(ごけにん)間の主従制からとらえる伝統的な考え方が批判され、社会構成理論に基づき、基本的な生産関係・階級関係に着目する諸説が提起された。それは大別して三説に整理される。
>「初期国家」だから最初の頃の国家でしょう?日本で律令ができたのは七世紀ですよ。それ以前には国家はなかったということですか?

小国家は縄文・弥生期には出来ていたと考えられていますが、それは今で言うと村や郡程度の集まりです。
氏制度などとは異なるものという指摘は既になされています。

現代的な解釈では日本に大概的な一つのまとまりとして国家が出来たと考えられるのが、纏向遺跡前後としているということです。

しかしながらそれは律令以前の国家観ですので、
やすいさんがご想像のような姿ではなかったとは断言できます。

明治以降の男尊女卑に偏った史観になったのは、薩長などの一部の勢力が西洋合理化の元行われたもの。

やすいさんの感覚はそうした明治以降の常識的感覚でしか考えられておりませんので、
家長制度を前提とした国家観は、やすいさんのおっしゃる初期国家というのは、間違いです。

>>[465]

{それは大別して三説に整理される。

一つは、荘園(しょうえん)制を封建制度の具体的な展開形態とみる説である。荘園制下の農民は、身分としては名主(みょうしゅ)・小百姓(こびゃくしょう)などの階層差を含むが、範疇(はんちゅう)としてはともに小農民であり、それを支配する大土地所有者としての荘園領主は封建領主にほかならないとみるのが、その基本的論理である。

二つは、荘園制下の小農民経営はなお安定した生産力水準に到達しておらず、家父長的奴隷制関係を広く随伴する過渡的性格の濃厚な存在であること、また荘園制下の支配階級諸層たる本家(ほんけ)・領家(りょうけ)・預所(あずかりどころ)・下司(げし)などの職(しき)の重層的な関係は、知行の一形態であるとしても、軍役関係を欠く点で封建的主従制とは規定できないこと、他方、南北朝内乱を契機とする荘園制の解体過程で、小農民経営の進展とそれを基礎とする農民上層の小領主化、それらと上級領主との間における主従制の形成が並行的にみられること、などの理由から、14世紀以降を封建制度の本格的展開とする見解である。

また三つは、16世紀末に至るまで小農民経営の体制的展開は認められず、太閤(たいこう)検地によって家父長的奴隷制が最終的に否定され、小農民経営を権力基盤とする幕藩制社会が封建制度に基づく封建社会として初めて確立するとみる見解である。

 このような三説を軸として、封建制成立論争は、実証・理論両面から深められていったが、論争は共通の結論に到達する形で決着したとはいえず、それぞれの問題点が明らかにされるにしたがって、封建制成立の画期というより、日本封建社会の特質のほうに多くの関心が向けられるようになった。[永原慶二]]

一つ目は、平安時代から本格化した荘園制が封建制だという捉え方です。
二つ目は、荘園制ではまだ封建制度とはいえない、14世紀つまり鎌倉時代にはいってから封建制度が確立したとする説です。
三つ目は、太閤検地によって封建制度が確立したという説です。

「現代では律令は封建制度の一種として数えられています。
昔の話ならいざしらず。。。中高生的な歴史認識です。」
とおっしゃいますが、永原慶二先生は「律令」が封建制だとはどこにも書いておられません。 inbidiさんは永原慶二先生の間違いを指摘されるのですか?
>>[467]
> inbidiさんは永原慶二先生の間違いを指摘されるのですか?

やすいさんの引用は、我が国の封建制度が中世からとされる昔の議論についての問題点を上げている箇所です。

最初から読めば、西欧的フューダリズムが狭義の意味での封建制度の始まりとして捉えられており、
永原慶二先生もその後の箇所で
>中央集権性の強い律令(りつりょう)制国家を前提として展開する日本の封建社会では、在地領主層の自立割拠的な領域支配の形成が困難で長期的過程をたどったこと。

としており、律令国家が前提として封建社会の始まりである事を示唆なされております。

一部を切り貼りしての編集は事実の歪曲にあたり、
非常に詭弁が強いものとなってしまっておりますよ?

また、その後に書いてあるように、
>中国
> ここでは周(しゅう)封建制度とよばれる政治組織について述べる

周時代に封建制度が確立されており、日本がそれを後追いで輸入したことがわかるシステムが書かれています。

纏向遺跡の時代に仮にこうした封建制度の代替制度が日本に根づいていた場合、律令の輸入すら必要なかったことになりますからね。。。


>https://kotobank.jp/word/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6-627435
日本封建制度・社会の特質
「封建制成立論争」は主として小農民経営の成立という生産様式に基本的視点が据えられる形で展開されたが、その後、権力論・国家論的視点が導入されることによって、日本の封建社会の構造的特質としては、およそ次の諸点が注目されるようになった。
 第一は、中央集権性の強い律令(りつりょう)制国家を前提として展開する日本の封建社会では、在地領主層の自立割拠的な領域支配の形成が困難で長期的過程をたどったこと。第二には、それと対応して、在地領主層による農民支配が、ヨーロッパにみられるような私的隷属身分としての農奴制的形態を本格的に展開させず、一律的な「百姓」身分支配として行われたこと。第三に、第一、第二と関連し、律令国家の中央支配階級であった公家(くげ)・大寺社が荘園制的大土地所有者として中世にもその地位を維持し、鎌倉幕府も荘園制的領有秩序を前提とする政策をとり、鎌倉時代を通じて公武権力の結合による集権的な国家体制が続いたこと。第四に、中世後期になって在地領主層の領域支配が漸次進行し、大名領国の形成に向かうが、織豊(しょくほう)政権・幕藩体制のもとでふたたび集権的政治・国家体制が強化されること。以上の傾向をさらに要約すれば、日本においては概してヨーロッパのそれに類似した主従制が形成されたが、国家体制・身分制などの側面においては個別の領主制的支配が国家的に規制され、集権的傾向の濃厚な封建制度が展開したといえるであろう。[永原慶二]
>>[467]
まずは理解してから、それからです。
詭弁をそうしてまで相手を批判なされたいというお気持ちが先走っていて、
内容の理解が伴っておりません。

相手が何を言いたいのかをきちんと判断してからにしてください。
また、持論の説明責任はやすいさんにあります。

部分部分で間違った根拠のもと理論を構築なされてしまっておりますので、
批判が多くついてしまう場合ほどご冷静にお考えくだされば、
議論として、相互に実のある内容になるのではないでしょうか?

やすいさんの断定には、根拠という根拠がありません。
今日的な歴史の理解の仕方からも遠のいている結果ですので、
より新しい知識の更新は、どのような方にも議論の前提として必要かと思います。
>>[464]
>邪馬台国は封建制度だというお考えですか?それ以前だから国家ではないということですか?

まずは封建制度そのものをご理解いただいた上での回答となりますが、

邪馬台国は領域国家に分類されるものと思います。
もちろん律令以前ですので、封建制度はなかったものと思います。
簡易的な刑罰に当たるものは存在していたかもしれません。
それが宗教的な戒律的なものであったかどうかは、可能性の話でしか無く、
物証や断定は出来ないはずのものです。

そもそも、宗教観というものは、生まれ育った環境に根付いた社会背景の一種ですから、それを本当に理解しようとしても、外野の生育環境にあったものが理解仕様も無いはずのものです。

例えば、西洋のキリスト教圏の方の理解の仕方と、我が国内のキリスト教徒の方の理解の仕方では、信者の方には申し訳ありませんが、社会背景が全く異なるので、理解度や理解の仕方には若干の微差が出てきてしかるべきものです。

それをわかったように断定してしまうのは、あまり謙虚な態度とはいえなくなってきます。

時代を超えて、宗教観を比較する時は、現代的な感覚で恣意的な判断を下すべきではありません。私たちはその時代に生まれその時代の価値観を共有することは不可能なのですから、必ずそこには齟齬が生まれます。

物証から推察できる範囲を超えてはいけないのです。
科学的であれ、文献学的であれ、歴史学的であれ、
それが一線であり、論理的思考と言うものです。

三段論法のホップの段階で間違い躓いていたら、その後に積み重ねたものが全て間違いの上に立つ間違った結論になってしまいます。
基礎こそ大事です。
>>[468]
永原慶二先生という人は私より23歳ご年配で、残念ながら inbidiさん のような律令国家が封建制だというようなぶっ飛んだ発想はありません。

「中央集権性の強い律令(りつりょう)制国家を前提として展開する日本の封建社会では、在地領主層の自立割拠的な領域支配の形成が困難で長期的過程をたどったこと。」

日本の律令は形式的には江戸時代まで続いていまして、それで日本の封建制形成は律令によって影響されたということを指摘されておられるのです。そうした中でも荘園という形で在地領主が形成されますが、それは自立するのが難しいので、権門勢家に寄進して管理するという形で封建的な関係が出来てくるのが平安時代の荘園制です。

>>[471]
中世の封建制という従来通りの考え方のみであれば、周代の律令制を封建制とは呼べなくなってきますね?

>残念ながら inbidiさん のような律令国家が封建制だというようなぶっ飛んだ発想はありません。

残念ながら、今日的な定義では、やすいさんの歴史観のほうが、様々な点で、逸脱されていらっしゃるかと。。。

やすいさんが永原慶二先生の言を無理に曲解なされているとしか言えません。

封建制度が「日本」に「根付いた」のは鎌倉時代ですが、
封建制度の前生、荘園制度は「発祥」は「奈良時代」と古く、「律令制度下」のもと「始まって」おります。
この事実を永原先生もご存知だったからそうした発言になっているのでしょうね。。。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92
>日本の荘園
「荘園 (日本)」を参照

日本における荘園とは、奈良時代に律令制の下で始まり、羽柴秀吉による太閤検地によって終わりを告げる、権力者の私有地を指す。時代ごとに形式が異なる。
>>[472]
私は立命館大学の学部は日本史学専攻でした。学生が恒例で夏休み中に日本夏期講座を主催したりしていまして、日本クラスの運営委員長をしていたこともあり、夏期講座活動にも取り組んでいました。古代・中世は専門外でしたが、講座活動のおかげて当時の封建制度成立に関する論争なども関心がありました。当時は、永原慶二先生(写真左)やもっと若手だった20歳代から既に論客だった安良城盛昭先生(写真右)が脚光を浴びられていました。

服部之総先生から安良城旋風と呼ばれて、彼の太閤検地論が話題になっていたのです。つまり封建制度論争は純粋な封建制度は太閤検地で成立したという、なんと16世紀末まで中世荘園制を「家父長制的奴隷制」と規定し、古代的な残滓が大きいとする説が脚光を浴びていたのです。律令制度の開始期に封建制度の成立を見るような説はありませんでしたし、現在も無いと思います。

>>[474]
やすいさんが仰っているのは、国内限定の日本史の場合だけに限った話ですよね?

>律令制度の開始期に封建制度の成立を見るような説はありませんでしたし、現在も無いと思います。

西洋のカロリング朝下の封建制度や周代の封建制度は、海外の世界史では当たり前の話です。

律令前の時代に国家がなかったとは言いません。
ごく小規模の邑にあたるような集団はあったでしょう。

しかし、やすいさんがお考えのように、律令後の世界観のような国家観は
律令後に初めて培われるのであって、
それを律令以前に求めるのは、時代錯誤ということになります。

私は日本史も世界史も取っていたので、
日本史の原点が世界史にあり、その相関関係にて、日本のあり方を再定義すべきだという事を言っているのです。

その場合、やすいさんのお話は、当時の中国にもなかったような、宗教観、国家観の話をされてしまっているので、時系列としてその国家観はおかしいということを言っているのです。
当時は情報伝達が今のように加速度的に広がるような世の中ではなかったですから、数十年、あるいは百年単位で日本は中国からは遅れています。

日本史の中になかったことをなかったコトにしてしまい、当時の世界情勢下の影響を無視したお考えに結果的になってしまっているのは、残念です。
>>[474]
やすいさんが専門教育を受けていることには疑問をはさみませんが、
かといって、今日的な歴史への拒否感などもしばしば感じられてしまいますので、
その点はあわせられたほうが、良いかと。
特に言葉の定義や、世界観など。

何度か質問出ていますが、
やすいさんの初期国家とは、
何世紀から何世紀頃の、
どういった機構を持った
どういった集団規模のものをご想像でしょうか?

中央集権的な国家観を想定でしたら、律令後、ですね。
ヤマト王権初期においても、それは過渡期である可能性が高くなってきていますので。(教科書的に大和朝廷の言葉がふさわしくなくなってきている理由の一つになります。古墳の発掘や年代測定によって、かなりそのへんの認識が前世紀とは感覚が変わってきてしまっているのも事実です。)

ですから、知識の更新や、世界史的な見方をおすすめしています。
拒否するのはご自由です。
しかし、それには現代的な科学的根拠を持った説に通じるような
科学的根拠が必要になってしまいます。(実際は科学的根拠が乏しく、前時代的な価値観が淘汰されてきています。)
トピ主さんが寛容なのを良いことに、ちょっとトピ主題からずれ過ぎな理論になって来ていはしませんかね?

両者、おっしゃりたいことは分かりますが、どちらも聞く耳を持たない話になってるような気が致します。

そろそろ、ケリを付けて元の論議に戻られた方が良いと思っているのは私だけでしょうか?
>>[475]
「西洋のカロリング朝下の封建制度や周代の封建制度は、海外の世界史では当たり前の話です。律令前の時代に国家がなかったとは言いません。
ごく小規模の邑にあたるような集団はあったでしょう。
しかし、やすいさんがお考えのように、律令後の世界観のような国家観は
律令後に初めて培われるのであって、
それを律令以前に求めるのは、時代錯誤ということになります。」

西洋の歴史を語る時は、古代帝国→中世封建国家というように歴史段階を捉えます。古代ローマ帝国ではご承知のように法律が発達していました。ゲルマン人とかフランスに限定しては捉えないようですね。

律令前の国家は、周の封建制の前に殷の大規模な国家があったことはよく知られており、夏王朝にしても伝承でしかないと考える人は少ないですね。小規模な邑などではありません。時代錯誤などというのはとんでもない事になります。

「やすいさんがお考えのように、律令後の世界観のような国家観は律令後に初めて培われるのであって、それを律令以前に求めるのは、時代錯誤ということになります」
一体何を指して言われているのか見当が尽きません。初期国家の現人神による建国は律令後にみられるようなものでは全くありません。

「やすいさんのお話は、当時の中国にもなかったような、宗教観、国家観の話をされてしまっているので、時系列としてその国家観はおかしいということを言っているのです。」

大八洲における建国は中国を模倣してなされるものではありません。そう言えば私の学生時代も「東アジア文化圏」みたいなのを強調されて、なんでもそこから説明しようとする人がいましたが、もちろん重要な観点ですが、倭人が制海権を握って、大八洲に入植し、建国するという場合は、そこに固有の困難や逆にメリットがあったでしょうし、たくさんあった倭人国家をどう倭人通商圏にまとめ上げてコントロールするかに高海原や海原(壱岐・対馬)の固有の役割があったわけで、これらを踏まえないと説明がつきません。

倭人は元々中国の沿海地方にいて、中国の水運・漁業だけでなく農耕技術も持っており、また朝鮮半島の南端部を拠点にしていたので、内陸部から伝わる金属技術なども伝えることができました。この圧倒的な文化・技術・武器などの差を利用して、大八洲を開拓するのですが、倭人の人数は限られていたので、縄文時代からの先住民や倭人より先に入植していた渡来人などを組織する形で国家形成を行ったのです。その際に宗教的な威力を示すことが極めて有効であったということですね。この説明は、別に新奇な説明ではない、普通の説明だと思いますが。
>>[451]
>記紀がそこの話をどういう事情て改変して今の記紀伝承の内容になったのかの説明が欲しいですね

記紀は100歳を超える途方もなく長寿の天皇にみられるように、
意図的に時代をずらしてます。
何かを隠すように時代をずらしてます。
何を隠したか、それは中華への朝貢という不名誉な史実だと思ってます。
特に後漢書東夷伝の倭国王帥升、107年に自ら海を渡って謁見してます。
後漢・安帝の前でひざまずき土下座したでしょう。
日本の国史編纂にあたり、これはもっとも不名誉な事であったでしょう。

10代崇神が4世紀初頭から前半の可能性が高まってきました。
この帥升と、崇神から15代前のスサノオが時代的に合います。

7世紀の朝廷が、帥升がスサノオと分っていたなら、
スサノオのいた時代、またスサノオのいた高天原の場所、
ともに隠すでしょう。

スサノオのいた高天原は実際は大和朝廷初現の地・葛城にあった。
それを知っていた7世紀の朝廷が、記紀編纂の際、
「九州にあったのかも」と臭わすように隠した、潤色したという事です。
須佐之男命が高天原にいたというのはどういうことでしょう。記紀では三貴神の一柱ですから、生まれたの「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」で禊です、海原つまり壱岐・対馬が拠点の仕事をするように言われたのに泣いてばかり追放され、姉つまり天照大神に報告に高天原に行ったとなっています。そこで宇気比をしますそれで居座ったということですね。でもしばらくいてそこをまた神逐ひされたということです。そこから讃岐に行って、オオゲツヒメを殺したということですが、これは穀物神話で開墾したということでしょう。そしてやはり水運も仕切っていたと見られ、出雲に行ったときに高志勢力に支配されていたのを八岐大蛇を退治して、出雲倭国を建てたとなっています。

ただ私に言わせれば三貴神は大八洲に建国する建国神「御宇の珍子」だから、天照大神が高天原にあげられたことはありえず、宇気比をしたのも宗像三女神を先ず産んでいるので、月讀命が建国した筑紫ではないか、宇気比の相手も月讀命ではなかったかと思います。天照大神には御杖代という神の花嫁があてがわれるのですから男神であった可能性が高いですね。

奈良の各地に須佐之男を祀る神社がありますが、それは大国主命が三輪山に都を置いたけれど奇襲作戦で出雲帝国の勢力は倒されて、奈良の周辺の山地に逃げて隠れ住んだのです。そして宇摩志麻治命が武御雷軍を撃退するときに協力したわけで、そういう関係で、大国主と須佐之男を祀る神社が山間部にたくさんあるわけです。
>>[478]
>小規模な邑などではありません。時代錯誤などというのはとんでもない事になります。


やすいさんの世界史赤点レベルですけども大丈夫ですか?

http://manapedia.jp/text/563
>封建制

まず、古代中国の土地制度のおこりとして、封建制があります。これは西周で施行されたもので、支配者の周王が一族や諸侯に適用したのがはじまりです。
周王は一族や諸侯に対し、主君への忠誠や軍役、貢納の対価として、封土という土地を与えました。封土は世襲制によって受け継がれました。
また、周王や諸侯は、その家臣であった卿・大夫・士という家臣に対し采邑という領土の一部を与え、同じような義務を課しました。
この封建制の特徴は、地方分権的で血縁関係を基にしていたというものでした。

この西周の封建制は、中世ヨーロッパの個人的契約に基づく封建制とは異なります。

この制度は、次第に地方の力が強くなり、各諸侯が覇権を争う春秋戦国時代へのきっかけとなります。
>>[481]

>{小規模な邑などではありません。時代錯誤などというのはとんでもない事になります。}これは殷や夏が小規模な邑ではない、広い部族連合国家だと言う意味ですよ。
それに赤点だと言いながら、どこが間違っているかを言わず、周の封建制の説明をされるのでは、全く応答になっていません。
キャッチボールをするのなら、暴投はやめて下さい。
http://www.y-history.net/appendix/wh0203-101.html
漢字間違い訂正
>>[478] やすいゆたかさん
>[倭人が制海権を握って、大八洲に入植し、建国するという場合は、そこに固有の困難や逆にメリットがあったでしょうし、たくさんあった倭人国家をどう倭人通商圏にまとめ上げてコントロールするかに高海原や海原(壱岐・対馬)の固有の役割があったわけで、これらを踏まえないと説明がつきません。]

そういった征服史観は戦後の左翼反動によるものであり、
根拠がなかったことがはっきりしています。

また、DNA研究により、大陸からの伝搬時期がよりはっきりしてきています。
やすいさんは海外からの入植を非常に短いスパンでしか見えていないので、
既に科学的にやすいさんのご想像の説は完全に否定されてしまっています。

http://jomonjin.info/archives/504
>図


>[倭人は元々中国の沿海地方にいて、中国の水運・漁業だけでなく農耕技術も持っており、また朝鮮半島の南端部を拠点にしていたので、内陸部から伝わる金属技術なども伝えることができました。]


全く違います。初期の入植は4万年前ほど遡り縄文系です。
彼らがボートピープルとして移動距離が長かったことが証明されています。

また、中国沿海地方からの渡来は、6000年ほど前から4500年ほど前の寒冷期による長江文明の崩壊により、徐々に南下移民がでています。
金属技術が中国で一般化するのは、戦国、春秋時代になりますので、それよりも1700年以上ほど後ですね。。。
鉄が一部の特権階級の持ち物ではなく、一般の農民のものとなるまでは、漢代
紀元前2世紀後、まで経ってからです。武帝が塩・鉄・酒の専売を国家が専有することを決めていますので、普及はこの時代ですね。
http://www.y-history.net/appendix/wh0203-101.html

初期弥生系渡来人に伝えることは出来ません。
だからこそ、弥生中期までは輸入に頼り、生産に踏み切れなかった事実があります。



[この圧倒的な文化・技術・武器などの差を利用して、大八洲を開拓するのですが、倭人の人数は限られていたので、縄文時代からの先住民や倭人より先に入植していた渡来人などを組織する形で国家形成を行ったのです。その際に宗教的な威力を示すことが極めて有効であったということですね。この説明は、別に新奇な説明ではない、普通の説明だと思いますが。]


全くの妄想です。
初期渡来系弥生人と縄文人の混交は紀元前10世紀、今から3000年ほども前になり、その頃には中国にあったのが周です。

やすいさんの時代区分が恐ろしく古く、全く事実に対応していません。

少なくとも永原先生信仰も程々にしないと、失敗しますよ?
彼は2004年に亡くなっていますが
纏向が再発見注目し出されたのは、2008~2009年になってからです。
日本史、特に初期のヤマト王権との繋がりを強くしたこの時代の遺跡の発見は
既に多くの事実を塗り替えています。

やすいさんはこの遺跡の存在を完全に無視した前世紀のお考えに固執されるあまり、科学的進歩に取り残されてしまっておいでです。
>>[482]
>[どこが間違っているかを言わず、周の封建制の説明をされるのでは、全く応答になっていません。]

中高生レベルの日本語読解力があれば、

采邑が地方の村単位の小さな連合国家であったということが理解できるはずです。



>[これは殷や夏が小規模な邑ではない、広い部族連合国家だと言う意味ですよ。]

全く違います。
封建制の出だしは殷であった可能性も残りますが、
確立されたのが、周です。

紀元前一世紀の漢書では100余り
魏志倭人伝で3世紀前後には30余り
の国に分かれています。

国といっても中国ほど国土が広くなく、更には、法制度もまだの日本
弥生寒冷期に入ったとはいえ、灌漑技術輸入前の日本でさほど稲作に適した土地が少なかった当時を考えると、東北をほとんど含めないで30分裂以上していた一つ一つは、せいぜい今の価値観で言うと、村以下というのが妥当です。



>キャッチボールをするのなら、暴投はやめて下さい。

いえ、根拠のない想像で補ったものはもはや歴史ではありませんので、
コミュの方針にあっていない発言をなされているのはやすいさんの方です。

残念ながら、やすいさんは、時系列を誤っております。
世界史も、高校レベルの知識があれば、☓がつくお答えです。

半島からの移民が日本を支配したなどという考えは捨てたほうが良いですよ?
韓国も建国を紀元前に持って行きたがっていますが、
中国王朝の朝見に百済の国名が出てくるのは3,4世紀になってからと、日本のヤマト王権の少し前と殆ど変わりません。
もっと以前には一地方として、日本と半島をほとんど区別すること無く、東夷としょうしていたので、
魏志倭人伝が東夷伝の中に含まれる構造で書かれています。

稲のプラントオパールの研究結果で、DNA的には現生種の輸入は日本から半島へというのが確定しています。
コレが何を表しているかというと、生育北限が日本と半島の境にあったということですから、
寒冷期にあって、半島が日本以上に栄えたなどということは、成り立たないのですよ。環境学的に。
O系遺伝子は4000年ほど前から徐々に流入してきていますが、この頃はまだ半島の遺伝子と大差なかった。
しかし、定住した稲作民と、南下した騎馬民族との間でも争いが起こり、半島はほとんど住めたもんじゃなくなってくる。。。
きっちりC系の遺伝子が日本との差異として出てきており、大きな流入はモンゴル帝国の南下と時期を同じくしている、、、
日本は元寇失敗していますので、流入を免れている、
そういった事実があります。

また、前方後円墳の半島への進出も、日本で形成されてから、その後です。

半島から経由して文化が渡ってきたかもしれませんが、必ずしも半島が日本よりも先んじていた方というと、大陸で異民族と接していたために、長い安定を築けなかったことから、古代では日本の進出を許しているのであり、矢印が全く逆ですよ。
>>[487]
【采邑が地方の村単位の小さな連合国家であったということが理解できるはずです。】
与えられた封土は公邑と呼ばれ、諸侯が分封した領地は「采邑」と呼ばれました。
これが采邑制です。ですから采邑は地方の領地であり、個々の采邑の規模はいくつかの集落の集合でしょうが、そういう領地が数百、数千と集まったのが封建国家です。

【紀元前一世紀の漢書では100余り魏志倭人伝で3世紀前後には30余りの国に分かれています。】
「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すと云う。」
これは倭人がたくさんの国に分かれて半島から大八洲に住んでいたということです。
三貴神が河内・大和、筑紫、出雲などに代表的な国を作っていたわけです。その他にもたくさんあったということでしょう。

魏志倭人伝には「末盧国四千余戸、伊都国千余戸、奴国二万余戸、不弥国千余家
投馬國五萬餘戸、邪馬壹國七萬餘戸」とあり大規模な連合国家が出来ていたことが分かります。


>>[489]

やすいさんの論は根拠が無いです。
遺跡から発見される遺骨の単位面積あたりの人数と、当時の海進の土地面積と耕作適地の計算によると、
縄文時代26万(ピーク)、弥生時代紀元前1000年ごろで60万人(ピーク)です。
100以上に別れていたら、せいぜい数千人、現在の村程度の人数です。

http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20110907/283253/?P=2
> 26万人いた縄文の人口が、8万人まで激減し、まもなく迎えた弥生時代。再び人口は増加に転じる。海の向こうから持ち込まれた稲作の技術が、全国に拡大。食料供給量がアップして、それに合わせるかのように、またたく間に人口を押し上げたのだ。

 そんな「正のスパイラルによって」、紀元前2300年から紀元前1000年までの約1000年間で、8万人まで落ち込んだ人口はおよそ8倍の60万人まで伸びていく。



・場合によってはもっと低い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
>鬼頭宏 紀元前900年 75,800人

8万人弱を100で分けたら800人程度。。。

書誌への記述は自己申告ですから、人口総数を一つの村単位に当てはめることで、大きく話を盛って伝えた、ということでしょう。
この時代の数字は一桁二桁ごまかしがなされているケースが多いですので、真に受けるほうが、どうかしています。。。



・寒冷期後で統計に残っているものからの推察

江戸のマンダー小氷期による寒冷期後の
朝鮮併合時1910で朝鮮1300万人程。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE
>1910年 13,128,780人  (1312万人)

当時の日本
>1910年 50,984,840人 (5098万人)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

朝鮮半島の面積 220,800 km²
日本の面積 378,000 km²

単位面積あたりの人数(1910年)
朝鮮 59.4600543478人=約60人
日本 134.880529101人=約135人

倍以上ですね?

安いさんは現在の産業革命以降の人口爆発後の世界でお考えだから、
たくさん住んでいただろうなどとおっしゃいますが、
実は当時は人数はそれほど住んでいません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%88%86%E7%99%BA


・寒冷化による東北から関東への移動、東日本から西日本への移動傾向は認められます。

http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_04_01kannreika_gamotarasita_jyoumonnhoukai.html
>縄文時代の人口は、縄文中期にピークに達している。それも95%以上が東日本に偏在した。その東日本(東北を除く)が冷涼化・寒冷化による森林の生産力の低下で、人口が半減してしまった。特に中部の山岳地域では3分の1以下に激減した。
 その一方で注目に値するのは、東日本に較べて極めて人口密度の低かった西日本で、低レベルながら人口が“倍増”したことである。特に四国などは、200人から2,700人へと13.5倍の規模に膨れ上がっている。また九州は実数においてほぼ5,000人に近い大幅な増加を示している。


http://feb27.sakura.ne.jp/world_history33.html
普通に考えれば、4200年ほど前の長江文明の寒冷化、崩壊による南下と言っていますので、
長江が緯度的には、日本の九州最南端とほぼ変わらない事を考えると、
日本でいくらか暖流があり、温暖な環境であることを差し引いても、
当時かなり厳しい環境だったことがわかるはずです。

やすいさんの論は科学的根拠がありません。
ヤマト王権初期の国家像に対して、非常に個人的な幻想をいだいておいでですね?


>>[443]
>前方後円墳という形巨大古墳化していたったことをどう宗教的に説明するのかという問題でしょう。

そもそもが、前方後円墳の形についての議論でしたから、巨大化の議論への論点ずらし、回避が行われています。詭弁論法です。

古代において、祭祀具や王墓が巨大化していくのは、権力の誇示、技術革新による巨大化可能になっていく過程があります。。。。
エジプトでも、階段ピラミッドから三大ピラミッドまで過程を踏んでいます。
イースター島のモアイも、初期は非常に小さかったものが、各村の対抗意識で巨大化競争になっていきますね。。。
前方後円墳が巨大化していったのは、各地の王を名乗る部族の競争友とれますから、天皇家の律令以前の世界では一党独裁のような強い権力ではなかったということでしょう。。。

>それをcadは祖先信仰や首長霊の増幅とは関係がないということがおっしゃりたいのですか?

祖先信仰の性質が、そもそも、やすいさんのなかで醸成された、個人的理想像ということです。その上に国家論を語られているので、非常に脆い、論理となっております。

>それに代わる説明としてどういう説明をされているのですか?
>いろんなところから引っ張ってこられても、何が言いたいのか通じません。

農奴との関連についてのお話ですが、
周代の封建制と関連してきます。
前方後円墳の話が一段落したら、ゆっくり。
世界史を取っていない方に説明するには、非常に長い話になりますので。

やすいさんの世界史からの引用は部分部分でしかお話されていないので、全体的な流れ、原因と結果という因果関係が無視されており、
それが日本にどのように取り入れられていったかという過程を無視したお話となっております。

自分は、前方後円墳が巨大化することは、単に鉄の供給量が増えたからだと思ってます。
土を掘り起こすには鉄具が不可欠ですからね。

あと4世紀頃から巨大化してきた古墳が、5世紀になってさらに巨大化しますが、
これは秦氏の役割が大きかったと思います。
応神天皇の頃に突然大量の難民がやってきた。
農地と言っても大方すでに耕されている。
彼ら大量の難民の仕事として大古墳の造営があったのではないかと思ってます。
まぁ早い話が土方ですね。
工事の責任者、今でいうゼネコンは出雲系・土師氏で間違いないと思われます。
百舌鳥古墳群の一角に今も堺市土師町という地名が残ってます。

5世紀前半に、吉備に全国4位の造山古墳ができます。
また日向の西都原にも九州最大の「男狭穂塚」「女狭穂塚」ができますが、
造山古墳は仁徳の妃であった黒日売かその父親の吉備海部直、
「男狭穂塚」「女狭穂塚」も仁徳の妃で美人の誉れが高かった日向髪長媛かの父親の諸県君牛諸井で間違いないのではないかと思います。
他に該当する被葬者は全くいないと思われます。

一説では秦氏は養蚕、製鉄、酒造り、土木に優れた技術を持っていたとも言われてますが、
絹は卑弥呼の時代からあるし、酒造りも製鉄も秦氏以前からあるし、
少し買い被り過ぎではないかと思われます。
戦後、敗戦コンプレックスからなのか、
やたら渡来人を持ち上げる風潮がありましたが、その時に言われた説でしょう。



選挙や何やらで週末時間をかけられずすいませんでした。

やすいさんがご入用であれば、
世界史と日本史との対応を、私なりに説明させていただきたく思いますが、
いかがでしょうか?
必要ないようであれば、トピを専有してしまう恐れもありますので、ご遠慮申し上げますが?

スルーであれば、それで構いません。
失礼しました。
>>[492]
>単に鉄の供給量が増えたからだと思ってます。

私も、巨大化の要因の一つとしてその通りと思います。
権力の内外への誇示も、鉄供給量増も、
相乗効果、車輪の両輪のような関係にあったと思いますので、
ミヤーンさんの説とも特に矛盾する事を主張してはいないつもりです。
「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!

日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?

http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html?page_no=4

引用
第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。
「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」

気になった記事ですので古いですが投稿しました^^;
>>[495]
第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。

意味わからんですね。
>>[495]
日本語祖語を生み出したとされる「海の民」と弥生以降の大陸系渡来民を分けるのは良いことだと思いますし、遺伝子の研究結果と文献しの研究結果の溝を埋める発見だと思います。矛盾なく説明できるように成ってきましたので、
従来の価値観に拘泥されてしまう方がいらしたら、時代に取り残されていくのかも知れませんね。。。

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