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◆日本の神話と古代史と日本文化コミュの邪馬台国九州周旋説

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皆さんはじめまして。

アメーバブログで金谷さんという方が掲載している九州周旋説は、これまでの様々な説がそれぞれ抱えていた矛盾を一挙に解消していると思います。

魏志倭人伝がきれいに解読されていて、興奮してしましました。

「邪馬台国九州周旋説」で検索するとヒットします。

皆さんの感想をお聞かせいただきたいのと、金谷さんがどのような方かご存知の方がいらっしゃれば教えていただきたいです。

コメント(10)

読んできました、
デパート行ったら
まずエレベーターで一番上まで上がって、
各階見ながら降りてくるみたいなw
興味深かったです!
ありがとうございます!

九州周旋説、どうでしたか??
すごくないですか??


と、ちょー興奮してしまいました(笑)
はじめまして
ご紹介のブログを少し読んできました。
魏志倭人伝の記事の解釈のひとつですが、あくまで、たくさん考えられる中のひとつに過ぎないと思われます。この説が現実味を帯びるためには、本末転倒のようですが、先に邪馬台国の位置を特定する必要があるでしょう。やはり、中国史書とは別のところからも根拠を集めてこないと無理でしょうね。
この説は、

伊都国を佐賀市あたりとし、
放射説をとり、
邪馬台国を、女王国という大きな連合国を構成する国々の一つ、

としてしています。

突飛な説に思えるかもしれませんが、いずれも無理なく説明できていて、他のどの説よりも説得力があると思います。
これを基に宮崎県都城市あたりを発掘してほしいぐらいです…


邪馬台国に至る最後の行程は、陸行一月、ですから、当時の最先端の乗り物であった船を使うより、道無き道を歩いた方が行きやすい所であるはずです。
すなわち南九州の海岸から遠い地…
初めまして。

横槍を入れるようですが。魏志倭人伝の内容のみでは到底比定地を定めるのは不可能なんじゃないですか?
陳寿さん自ら旅をした訳ではないですし、何人もの異なる人達の復聞きから行程を割り出したものの可能性も充分考えられます。

『投馬国迄水行20日。女王国迄水行10日。陸行一月』とありますが、出雲に寄った後にその足で大和に行った、としても合理的に可能な行程表になります。
又は豊前から瀬戸内海を海路で10日、明石海峡を避けて、播磨辺りから陸路で約一月で大和に寄ったとしても充分合理的なものに為ると思います。
そして明時代の中国地図を観れば分かりますが、随分と不正確極まりないものです。
邪馬台国や卑弥呼を記す資料や手がかりは、魏志倭人伝しかないので、魏志倭人伝を可能な限り正確に読み砕くことが、邪馬台国を読み解くる唯一の手段です。

それには、その魏志倭人伝に記載してあることは正確であろうという前提でとりあえず読むことがまず必要かと思います。


今のところ、九州周旋説ほど、素直に読んでいる説を見たことがありません。

一方で、魏志倭人伝に記述している方角を軽視している説をとっている人がとても多く見られます。
具体的には、伊都国は糸島半島にあっただろうという考えから、末盧国から北東又は東に伊都国があったという説がとても多く見られます。
魏志倭人伝は、東南陸行、と記しているのにもかかわらず。

また、方角の話だけでなく、もし、糸島半島周辺を目指すなら、もっと近くまで船で向かうはずです。なのに、魏志倭人伝では、東南陸行、となっています。


魏志倭人伝が不正確又は誇張があるとする具体的根拠が分かれば、それを踏まえて解釈し、それが分かるまで、魏志倭人伝の記述がある程度正確なものだとして解釈した時に、もっと合理的な読み方があるならば、知りたいですし、議論したいです。
>>[006]

例えば未知数X、Yの連立方程式を解くには最低でも二つ以上の確実な条件が必要になります。魏志倭人伝では此の条件が不足していると言わざるを得ないと思います。故にその解が無数に出来てしまうのですよ。多分陳寿さんの表現不足か知識の不足によるのでしょう。
又邪馬台国の位置は魏志倭人伝では帯方郡より一万二千余里とありますが、簡単な算術で割り出すと帯方郡から末羅迄で一万里になります。残りが二千里ですから、これだと九州北部の範囲内に留まります。決して九州南部都城市迄は届かないと思いますよ。あせあせ(飛び散る汗)
魏志倭人伝では、卑弥呼が死んで径百余歩(150〜160メートル)の大きな塚を造った、とありますが九州には此の様な墓が見当たりません。此れが九州説の最大の弱点にも為っています。
そして記紀の編者も魏志倭人伝については詳しく認識していたと思いますよ。彼等編者達は当代一流の知識人で文学的才能豊かな政治家だったと思います。そして日本書記の付文にも邪馬台国について“魏志には…云々”の一文も記載されています。又径百余歩の直径を持つ箸墓古墳の被葬者には『ヤマトトトヒモモソヒメ』(海部氏系図にあり)と云う女性名を挙げています。
誇り高い彼等にとっては中国の史書魏志倭人伝は日本について余りに醜く描かれていて到底容認出来ない、無視したい対象だったのでしょうね。
しんさん、ポッキーさん
>邪馬台国や卑弥呼を記す資料や手がかりは、魏志倭人伝しかない
のは確かですが、旅程の読み方についてはすでに議論が出尽くしており、それでも答えが多数並立せざるを得ないのですから、旅程にのみから現状以上に絞り込むことは不可能です。

あとは、邪馬台国に関する他のいろいろな記述から考えていくしか有りません。一つは卑弥呼が葬られた塚の形状ですが、これにしてもここでいう「一歩」が何mなのか、複数の説があって確定していません。大きくとれば最大級の古墳となるわけですが、小規模だった可能性もあります。径と有るからには円墳であろうと思うわけですが、これについてもはっきり書いてあるわけではありません。
>>[009]
そうですね。

更に言えば、『記紀』と各地に残る神社の伝承の分析も進めるべきです。もっと言えば、紀元前後の東アジアの政治状況、其れに繋がる民族移動そして彼等の習俗等も鑑みての判断もあれば尚確実な検証が出来ると思います。『記紀』の信憑性についても尚政治的理由から粉飾も多いですが、私達の先祖に当たる編者達は日本(大和朝廷)の正史を編纂していると云う矜自も有った筈です。決してデタラメのみを記述した訳では無いと想像されます。古代の神々の想いを基礎に科学的且つ合理的な判断しながら『記紀』について再考分析する姿勢が重要に為ると思います。でないと建国史である日本古代史が空白のままになりかねないと思います。

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