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◆日本の神話と古代史と日本文化コミュの卑弥呼とトヨが判明しました!

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卑弥呼とトヨが判明しました。

卑弥呼の最有力候補としては、古くから神功皇后やアマテラス、
垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)、
孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)、
九州説では古田さんの筑紫君の祖「甕依姫」(みかよりひめ)など、
いろいろありました。
最有力候補は箸墓古墳の被葬者とも言われる倭迹迹日百襲媛命でしょうか。

が、私の説はどれでもありません。
しかしながら何だそういう事だったのかとなります。

長くなるので以下に私の説を書きます。

コメント(59)

よく教科書で見る、古墳時代の豪族の勢力図だと、
http://www.hamajima.co.jp/rekishi/shiryo-katsuyo/12.pdf
纏向のあたりは、「大王」か「大伴」となりますが、
3世紀の前半には、物部の勢力下にあったということですね。
の〜じさん

ちょっとそのリンク開けないので分かりませんが、
神武から欠史八代までは宮も墓もおおよそ奈良中部から西部にあったはずです。
玲 さん

>?鴨氏一族は、九州王朝からどの様なルートで葛城入りした…とお考えでしょうか?

鴨氏でも地祇系だと思われますので、九州から来たとは思ってません。

ヒメタタライスズ媛の父親の事代主は三輪山の大物主でもあるという話もありますし、
銅鐸から考えても祖先は出雲から来たのではないでしょうか。

>?葛城を選択した要因は【銅鐸のみ】でしょうか?…他にヒントとなる要因があるのでしょうか?

御所市高天、つまり高天原の麓だったのもあると思います。

>?卑弥呼が大和・葛城入りをしていたならば、それなりの【痕跡や伝承】が葛城の地に有りそうに思うのですが、何かありますでしょうか。

日本国の初代皇后ヒメタラライスズ媛の墓も分からないし、痕跡が少なすぎますね。

>鴨氏一族の流入後、東の麓に三輪・物部一族が…という経緯を考えておられるのでしょうか…

3世紀前半には物部はいたけど三輪氏は祟神天皇の4世紀以降みたいですが、もともと三輪山にいた鴨氏の同族なのでしょうか、よくわかりませんね。

>(個人的な私の)卑弥呼は九州にいる!九州から卑弥呼が出るはずがない…巫女なんだから!という考えです

卑弥呼=アマテラスだとお考えですか?
なんだなぁ…
かなり興味深く拝見してたんですがねぇ…(苦笑)

ミヤーンさん

はじめまして、楽しく読ませていただきました。新鮮でした!

とゆーことは、アマテラスは卑弥呼よりも、よっぽど昔にいた別人?
魏志倭人伝(邪馬台国)を原点にせずに考えると、
アマテラスやスサノオの古代日本って、どんなだったのでしょうね〜
>>[26]

自分は神武実在説で、それ以前はもはや神話の世界ですけど、
アマテラスまでは一応5世代前みたいですね。

当時の平均寿命は30代前半ですね。
平均世代間は18年から20年でしょうか。
アマテラスが実在したなら2世紀初めくらいでしょうか。


◎鹿児島県志布志市の京ノ峯遺跡です。
http://www.mura-saisei.jp/yattiku/10MATSUYAMA/matumeguri/bunkazaimap/sub13.html

よく見ると、円形周溝墓に陸橋がついてて前方後円墳のルーツのような感じです。
やはり南九州には何かありそうですね。
面白いの見つけました。
http://www.kuu-kikaku.jp/rekishi/tennou-ichiran.html

神武の死後、タギシミミ(手研耳命または多芸志美美命)が執政となってます。
ということは、皇位はヒメタタライスズ媛が持っており、
つまりヒメタタライスズ媛が女王となります。

短い間だったでしょうが、【日本最初の女王】はヒメタタライスズ媛であったのです。
時代性を考えても彼女が卑弥呼であったのはもう確実だと思います。

魏志
「ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(唯有男子一人給飮食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設)」

この”彼女のもとに出入りをしていた、ただ一人の男子”こそがタギシミミであったと思われます。
では何故、魏志に夫婦と書かれてないのか。

血が繋がってないから良いとはいえ、
神武の日向時代の息子、つまり義理の息子と結婚したなど、
今もそうですが、当時も大いに恥ずべきことであって、
日本側は中国側にそんないきさつを説明しなかったのだと思います。
素晴らしい。

ただ、応神元年を基準にすると、七枝刀が送られた年の神功52年と、
銘文から解読された泰和○年を泰和四年として369年、
西晋の泰始四年として268年、または南宋の泰始四年としての
468年に合わないんですよね。

私は神功52年を369年とみているのですが、それでも少しの誤差があります。
悩ましい限りです。

もうひとつ。
稲荷山鉄剣銘文に記された辛亥年が471年とし、獲加多支鹵大王(ワカタケル)
=雄略天皇とすると、書記の記述が正確であるということになります。
応神元年が390年とするには、雄略から6代遡るまでに120年の差異が出てきます。
この差異の修正はわずか6代ではかなり難しい。

鍵は神功皇后の時代をどう見るかなのでしょうが、あまりに資料が不足しています。
失礼

>29の泰和○年は泰○四年の間違いです。

泰○四年年を泰和四年として369年、
と訂正お願いします。
単なるスマホの操作問題ですが、
長くなるので、以下に…
の、以下がどこにあるのか分からなくて、見られません。
残念(T_T)
>>[32]

最初から表示 全てを表示

って出てませんか?
>>[33] 出ました!ありがとうございました(⌒▽⌒)
☆かおり☆ さん、良かったです。

>>[29] デボラ・シモンズさん

よく日本書紀の編纂者は神功皇后を卑弥呼に比定したので、
60年で一周の干支を2運繰り上げたと言われますね。

その結果、4世紀中頃〜後半の神功皇后が3世紀前半になり、
周辺の各天皇の年齢が間延びしてグダグダになって、
グダグダついでに神武天皇を辛酉革命の紀元前660年に持っていったのでしょうか…

でも根本的な疑問があります。

神功皇后を卑弥呼に間違えるでしょうか。
時代が全然違う事が分からなかったのは変です。

というわけで自分はまた変な逆説を考えてます。
最近は変な説しか考えません。

「仮説」
日本書紀編纂に強い影響を与える人物の中に、
「ヒミ」という名称や「鬼道」というキーワードから、
卑弥呼が初代皇后ヒメタタライスズ媛だととっくに気付いてる人物がいて、
しかしながらその人物は自分の血族ではないヒメタタライスズ媛が魏志に「女王」と書かれてる事を快く思わず、
自分の血族である神功皇后を強引に卑弥呼に持って行き、
さらに神武を紀元前660年に持っていけば、
当然、皇后であるヒメタタライスズ媛もその時代になりますから、
後世の人間は誰もヒメタタライスズ媛が卑弥呼だとは気付かなくなる。

つまり本当の卑弥呼=ヒメタタライスズ媛を途方もない過去の時代に葬り去ったというわけです。

その「犯人」の見当もついてます。

石上(物部)麻呂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E9%BA%BB%E5%91%82

おじゃる丸は可愛いけどこの男は可愛くない。

右大臣から左大臣、そして最高名誉職・太政官。
大出世ですね。

一般的にこの人物は古事記編纂に強い影響力があったと言われてますが、
日本書紀にも強い影響力があったと充分考えられます。
神功皇后の5代前の開化天皇の母親が物部氏の欝色謎命ですから、
神功皇后は物部の血族となります。

状況証拠は揃ってるわけです。
>>[35]

太政官「石上まろたり」ですか。
真実はわかりませんが、竹取物語ではおバカさんですね。

仲哀天皇の崩御が200年2月6日で、応神天皇の即位が270年というのは不可解です。
仲哀天皇の死ぬ直前に性交渉があったとして、後十月十日で生まれた応神天皇は、
70歳で即位したことになります。
実に70年の間、大王がいなかった。

その間、神功皇后が大王の代わりをしていたとすれば、
景初2年やら3年やらが200年から270年の空白期にぴったりはまります。

これは当然、作為的ですね。

神功皇后を卑弥呼にしようと少しづつずらしていたと考えられます。

この神功皇后は実在の人物でしょうか。
不思議です。
>>[36]

ちょっとお世話になってる方のHPから借用させてもらいます。

http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/hougyonenn.gif

これを見ると古事記の天皇没年の方がよっぽど信用できると思われます。

古事記の没年を台風の予想進路のように見ますと、
自分には神武没が3世紀前半あたりに見えるので、
卑弥呼=ヒメタタライスズ媛説にますます自身を持っております。

日本書紀は18代反正天皇あたりから何だかグダグダになっていき、
最後の神武は何だかもうヤケクソになってますね。
>>[37]

ご紹介いただいたHPの第3章、海部氏系図、尾張系図は
私も調べようとしたのですが、原本の写しを手に入れることが
できませんでした。

大倭姫の説も時代が欠史八代の開化天皇あたりとすると、
またまた不可思議です。

もう一度、考え直してみます。
>>[38]

系図をやりはじめると、
樹海を彷徨うがごとく、
やれ誰と誰が同一人物だなどと推定し始め、
果ては自分で系図を作り始める人も出てくる始末で、
自分は一切ノータッチで行きます。

自分は卑弥呼を初代皇后と見てるので、
これはもう実に単純明快で楽です。
少し前に話題になりましたが、新潟の畿内系「城の山古墳」の発掘で、
4世紀前半の祟神天皇時代の四道将軍の実在がほぼ確実になってきました。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120906/art12090616460003-n1.htm

四道将軍の実在が確実となると、
四道将軍の一人、大彦命の父親である8代孝元天皇、
同じく吉備津彦の父親である7代孝霊天皇も実在したことになり、
戦後言われてきた2代〜9代天皇は実在しなかったという、
「欠史八代」説が否定されることになります。

誠にめでたい事です。

さらにもう一つ、邪馬台国畿内説での卑弥呼の最有力候補、
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)も成り立たなくなります。

なぜなら魏志に年齢が「長大」と書かれた卑弥呼が3世紀中頃に亡くなってます。
当時の平均寿命は30代ですから40代、50代の人もまぁ普通にいたでしょう。
したがって長大とはかなり高齢の70代あたりであったと推定し、
卑弥呼の生年をAD180年と仮定します。

畿内説者の言うようにモモソヒメが卑弥呼であるとした場合、
そのモモソヒメの兄が四道将軍の一人、吉備津彦であるので、
その吉備津彦を仮にモモソヒメより2歳年上としてAD178年生まれとしましょう。

そして祟神天皇が四道将軍を派遣した年をAD300年としたら、
吉備津彦はなんと御歳122歳となります。
介護ヘルパーを付けたという屁理屈も成り立たないし、
これは絶対ありえません。

したがって卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命は成り立ちません。
また九州説のアマテラスは神武の5代前なのでこれも成り立ちません。

残るのは初代皇后・ヒメタタライスズ媛だけとなります。

誠にめでたい事です。
>>[40]、

欠史八代があったかもしれないというのは凄いことですね!興味あります。
>>[41]

右や左という言い方は好きではありませんが、
どうも皇国史観で右にぶれた振り子を、
戦後は左に戻そうとし過ぎたのか、
初代神武や2代〜9代天皇、
そしてヤマトタケルもそうですが、
何でもかんでも非実在とされてきて、
実在を言えば恥ずかしいという空気もあったようで、
あげくは太安万侶まで非実在とする人まで現れ、
墓誌の発見で見事に否定されました。


ここでも別トピで、神武が南九州から来た隼人系だと、
ごく当たり前の一般的な事を言ったなら、
一部の人から珍説扱いを受けましたが、
神武と共に大和入りした大伴は大豪族として実在、
また橿原の久米という地に大久米命を祀る神社があり、
神武即位の宮に九州時代の后まで祀られてるなら、
当然、記紀の記述は正しいであろうとなるわけです。

そういうわけで自分はアマテラスもスサノオも実在したと思ってます。
>>[42]、

自分はそれ程詳しい訳ではないのですが、他の地域の伝承や神話との比較で考えると、やはり古事記にも何らかの歴史的事実が背景にあるのではという形で考えた方がいいのではないかと最近思うようになりました。しかし、キリスト教文化圏であれ程聖書が重んじられているのに、日本で古事記が軽んじられているのは残念です。しかし、今年は成立1300周年記念だとかで盛んに本が出版されていて、喜ばしいと感じます。
>>[44]

伏見稲荷は宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ)が主祭神ですね。
豊受大神=トヨウケヒメと同一神なのでしょうね。

スサノオの子の豊受大神がで魏志のトヨであり、
時代が3世紀中頃となると、
神武天皇が4世紀になってしまいますね。

祟神と神武が同一人物ならありえるかもしれませんが、
最古の古墳が今や3世紀代になってますので、
ちょっと無理なような気がします。

3世紀後半といわれる箸墓古墳をヤマトトトソモモソヒメの墓だとしたら、
4世紀前半の祟神の2世代前なので、おおよそ合いますし、
各豪族の系図から見て祟神より推定6世代前の神武は、
やはり2世紀後半〜3世紀ではないかと…
邪馬台国比定地および卑弥呼一覧

http://inoues.net/waj.html

神功皇后はもちろんですが、天照大神も神武3世紀後半説がありえないので無理だと思います。
畿内説の倭百日日倭姫命も前述のように時代が合いません。

というか一人も初代皇后の名前を出してません。
一人くらい出してても良いと思うのですが…

一番鋭いと思うのは鳥越憲三郎さんの「物部氏一族」で、
本を読んでないのであくまで推測でありますが、
これは祟神天皇没年干支「戊寅」を258年と見ておられ、
祟神の祖母である物部氏の欝色謎命あたりを卑弥呼と見ておられるのでしょう。
しかしながら祟神天皇没年は四道将軍との関係などから、
やはり318年が有力なので今では無理があるかと思われます。

坂田隆「卑弥呼をコンピュータで探る」の結果、卑弥呼を「倭姫命」って…

この人はハゲですか?

倭姫命は11代垂仁天皇の皇女ですから4世紀でしょう。
どんなコンピュータ-を使ってるのでしょうか。
OSはWindows 1.0でしょうか?
ハゲ頭から湯気を出しながら計算したのでしょうが、それでもこんな結果が出るわけない。

自慢じゃないけど自分はダイソーで買った電卓でパチパチ計算し、
応神天皇以前の天皇平均在位「11年」を弾き出しました。

だいたいこんな人達に限って2千円近くもするボッタクリの本を出してて、
こんな本を2千円で買うなら、もう千円出して檀蜜の写真集「私の奴隷になりなさい」を買うほうがよっぽど有益です。

とは言え、卑弥呼が誰かをはっきり言ってる人はまだ誠実な方で、
山尾幸久や上田正昭のような左巻きは卑弥呼が誰かさえも言ってない。
学者さんは最大公約数を出すのが仕事なのに、それさえも出せない卑怯な「保身」と言えるでしょう。
>>[47]
このトピの上の方でも書きましたが、
纏向遺跡は、出土土器の3分の2を伊勢・東海系、北陸・山陰系が占めます。
それが何故なのか、ぜひともその謎を学者さんに説明して欲しい気がします。

この時期(3世紀前半)に東海や北陸・山陰平定に関わった人物は、
物部氏の祖・ニギハヤヒの子であるウマシマジしかいません。
実際、石川県加賀市の分校マエ山古墳は3世紀代の纒向型前方後円墳です。

したがって纏向遺跡は邪馬台国の首都ではなく「物部幕府」であろうと思われますが、
まぁ自分がいくら言ってみたところで何の影響もないし、むなしいですね。
>>[53]

桜井市立埋蔵文化財センターだと思います、多分。
大神神社の前ですね。
http://www.city.sakurai.nara.jp/shisetsu/shisetsu07.html

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