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◆日本の神話と古代史と日本文化コミュの◆「葵祭」、下鴨神社の御蔭祭(御生神事)

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◆「葵祭」、下鴨神社の御蔭祭(御生神事)

◆◇◆「葵祭」、下鴨神社の御蔭祭(みかげまつり・御生神事)

 五月十二日 京都市左京区の下鴨神社などで、「葵祭」の前儀として、「御蔭祭(みかげまつり・御生神事) 」が営まれた。「切芝の儀」では、下鴨神社の境内を古式ゆかしく行列が巡行し、王朝絵巻さながらの優雅な「東游(あずまあそび)」の舞いが披露された。

 上賀茂神社の御祭神「賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)」が出現したといわれる比叡山山麓の御蔭神社(京都市左京区上高野)から、御祭神の荒御魂(あらみたま)を下鴨神社まで迎える。総勢百人の神職や奉仕者は、正午に御蔭神社で神事を行った後、道中の一部を徒歩で巡行しながら下鴨神社をめざした。

  狩衣(かりぎぬ)や烏帽子(えぼし))など華やかな装束に身を包んだ一行は午後三時半、白い神馬の背に御祭神の荒御魂(あらみたま)を安置して、下鴨神社境内の糺の森をゆっくりと進んだ。この後、下鴨神社境内の糺の森(ただすのもり)で荒魂を迎えた喜びを著す「切芝の儀」があり、雅楽に合わせて「東游(あずまあそび)」の舞いを奉納した。

◆◇◆御蔭神社の御蔭祭(みかげまつり・御生神事)

 御蔭神社の社地は、太古鴨の大神が降臨された所と伝えられているところから御生山と呼ばれており、東山三十六峰第二の山である。

 さらにまた、太陽のただ射す所、即ち、御蔭山とも呼ばれそれに因んで社名ともなった。天武天皇六年(六七七)、山背國司が造営したと伝えられる賀茂神宮は、御蔭神社であろうとの説があるとおり、この地は古代から山背北部豪族の祭祀の中心地であり、近隣には数々の遺跡が存在する。

 御祭神は、本宮の賀茂御祖神社(下鴨神社)の御祭神の玉依媛命、賀茂建角身命、二柱の荒魂を奉祀されている。
 
 毎年、賀茂祭(葵祭)に先だって、五月十二日には、御蔭祭(みかげまつり・御生神事)が当神社で行われる。当日は、神馬に錦蓋を飾り、神鈴を付け、鉾、太刀、弓、槍などの御神宝を捧げ持ち、社殿には阿礼(あれ)を掛ける。

 数多くの供奉者は葵桂をかざし、本宮を進発した行粧は、この社に到着する。社前において、午の刻、御神霊は神馬に移御になり、本宮の賀茂御祖神社(下鴨神社)に遷御になる。途中、総社における路次祭、御本宮契の神事等が行われる。



スサノヲ(スサノオ)

コメント(3)

「葵祭」、御阿礼(御生)祭と賀茂祭

◆◇◆御阿礼祭(御生神事・ミアレ神事)、五月十二日 夜

 五月十二日夜、京都市北区上賀茂本山の上賀茂神社(賀茂別雷神社・かもわけいかづち)で、五月十五日行われる京都三大祭の一つ 「葵祭」の前儀・御阿礼祭(御生神事・ミアレ神事)が営まれた。御蔭祭同様、新しい神霊を迎える儀式である。

 深夜、葵を身につけた宮司以下の神職が御阿礼所に設けられた神籬(ひもろぎ)の前で饗饌の儀を行い、奉幣の後、阿礼という榊の枝に神霊を遷した(秘儀のため非公開)。

◆◇◆御阿礼祭(御生神事・ミアレ神事)、御神霊をお迎えする秘事

 御阿礼神事は、上賀茂神社(賀茂別雷神社・かもわけいかづち)の祭祀中最も古く、且つ最も厳重な神事で、葵祭(賀茂祭)に先立ち、御神霊をお迎えする秘事である。

 往時は斎王が神館に伺候され、神主以下が奉仕した。今も古儀のまま、一灯をも許さない浄闇の裡に、宮司以下が神事を行なう。この秘事は神秘で、何人の参拝も許されない。

 御阿礼神事は、上賀茂神社の北約八町の丸山の山中、御生野の地に一定の地を画し、御生(阿礼)所という神籬(ひもろぎ)を作り、 ここに神を迎える秘儀である。

 榊に遷された神は摂社棚尾社と遥拝所に迎える(本社・賀茂別雷神社には阿礼木(榊)の神幸はないん。社殿はこの祭りが出来てからのものと考えられる)。

◆◇◆御阿礼祭(御生神事・ミアレ神事)の起源伝承

 平安時代以降、賀茂祭(葵祭)といえば、王権の祭りとしての賀茂祭を指していた。しかし、それ以前の時代においては、賀茂祭は別の祭りのことであったと見られてる。即ち、賀茂神社の御阿礼祭である。

 御阿礼祭は平安期の前には賀茂祭の前、中午日から数日間行われており、起源も古く遡る。

 賀茂祭は、自然界からの神の送迎や神誕生の神事が含まれておらず、常設の神殿、神の常住を前提とした昼間に執り行われた王権の祭りであるのに対して、御阿礼祭(御生神事・ミアレ神事)は、自然界からの神の送迎や神誕生の神事を含み、神の来訪を待ち仮設の神殿に神を迎え入れ、五穀豊穣を祈念する、自然との繋がりを強く持つ山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・カモ県主の祭りであった。

 日本の古い信仰では、神は常設の神殿に常駐しているのではなかった。日頃、神は自然界におり、春と秋の祭日に人里を来訪した。

 奉斎する側は、神を自然界から仮設の小神殿に迎え、篤くもてなし、神に祈願した後、神を再び自然界に送り返した。

 祭りが終われば、仮設の神殿も取り壊すというものであった。こうした神祭りのあり方は王権の祭りである「賀茂祭」とは、著しく異なるものである。

 私たちが知る上賀茂神社を舞台とするの「葵祭」には、王権の祭りとしての「賀茂祭」と上賀茂神社としての御阿礼祭(御生神事・ミアレ神事)があるのだ。

◆◇◆御阿礼祭(御生神事・ミアレ神事)、『山城国風土記』逸文

 『山城国風土記』逸文には御阿礼祭の起源伝承が語られている。「玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢(火雷神)、川上より流れ下りき。乃(すなわ)ち取りて、床の辺に挿し置き、遂に孕みて男の子を生みき(別雷神)。・・・」と記され、この説話をもとに毎年神事が行われていたことが想定される。

 それは、神話学の松前健氏が指摘されているように「水辺に聖なる矢を立てて、神がその女性に依り付くという神事」(古代信仰と神話学)であったのかもしない。

 すなわち、丹塗矢に象徴される神(火雷神)と玉依日売に象徴される巫女(女性神職・斎祝子)との神婚(聖婚儀礼)によって別雷神が誕生する(御生・ミアレ)という神事があったとみてよいであろう。

 そして、別雷神が鎮まっているのが、上賀茂神社(賀茂別雷神神社)の神体山の神山(こうやま)であったのだ。

 また、飯島吉晴氏によると、神婚(聖婚儀礼)は夜に行われ、昼間は秩序や論理が重視される時間帯なので、神婚(聖婚儀礼)は行われないと指摘している(歴史と芸能・祭りと夜)。

 古代においては、真夜中に御阿礼祭の神婚(聖婚儀礼)が行われていたと考えらる。近世以降は、神婚(聖婚儀礼)は行われておらず、御阿礼所から神幸が実施されるだけであったが、それでも御阿礼(御生・ミアレ)の神事の時間帯だけは古い形が受け継がれたようだ。

◆◇◆御阿礼(御生)祭(御生神事・ミアレ神事)の目的

 『山城国風土記』逸文には「天の下国拳(こぞ)りて風吹き雨零(ふ)りて、百姓含愁(うれ)へき。その時、卜部、伊吉の若日子に勅して卜へしめたまふに、乃(すな)ち卜へて、賀茂の神の祟りと奏しき。・・・祭祀を為して、能く禰(ね)ぎ祀らしめたまいき。因りて五穀成就(みの)り、天の下豊平なりき。」と記されている。

 上賀茂神社(賀茂別雷神神社)の御祭神は「賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)」との名のように、雷神である。

 雷には、雷電を稲妻・稲光・稲つるびと呼ぶように、育成中に稲が雷の来訪により稲穂を実らせるという信仰があった。京都盆地の雷多発地帯は比叡山から賀茂をへて松尾に至るあたりといわれている。

 賀茂の地では、カモ県主一族によって五穀豊穣を祈願するため雷神が祀られていたそうである。

 御阿礼祭(御生神事・ミアレ神事)とは、真夜中、神婚(聖婚儀礼)により神(別雷神)が誕生し、神は仮設の神殿に祀られ、昼間には神前で走馬がなされた後、神山(こうやま)に帰るという一連の儀式を通して、五穀豊穣を祈念して雷神を祀るところにあったのだ。

◆◇◆御阿礼祭(御生神事・ミアレ神事)、新しい形態の神迎えの儀式

 『年中行事秘抄』の「賀茂旧記」には「各吾に逢はむとするに、天羽衣・天羽裳を造り、火を炬(た)き、鉾を撃(ささ)げて待て。又、走馬を餝(かざ)り、奥山の賢木(さかき)を取り、阿礼を立て、種々綵色(さいしょく)を悉(つく)せ。又、葵・楓(桂)の蘰(かずら)を造り、厳に飾りて待て。吾、将に来たらむ。」と記されている。

 別雷神は、再び逢いたいとする玉依日売に、夢の中で告る。神出現の数々の手段が教えられ、玉依日売もそれに随って神を祀ったという。

 神婚(聖婚儀礼)が衰えていく中、新しい形態の神迎えの祭りが十世紀頃には登場してくる。現行の御阿礼祭(御生神事・ミアレ神事)には神婚(聖婚儀礼)はなく、御阿礼所からの神幸が中心的神事になってしまった。


スサノヲ(スサノオ)
学生時代(同志社)下加茂神社の裏側に下宿していました。
今、懐かしく思い出しています。
 あの頃、古代史をやるなんて、英文科の私は夢にも思いませんでした。感無量です。

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