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◆日本の神話と古代史と日本文化コミュの実在の初代天皇は?

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実在の初代天皇は誰からかについて、諸説ありますが、皆さんの意見を聞かせていだだければと思います。

欠史八代は本当にいなかったのか、崇神天皇=神武天皇説はどうなのか、継体天皇の問題をどう考えるのか、などについてなど、いろんな話題を自由に議論していただきたいです。

コメント(222)

>>[178]

>杵築大社(きづきたいしゃ)

う〜ん・・・
もしかしたら、「きつき」かもしれない。
「きつきのおおやしろ」

叩かれたくないけど、突っ込んでみました〜
>>[181] つくぢ⇒つくじ⇒つくし もちろん想像ですが。あくまで可能性ですが。
筑紫がツクヨミノミコトが建国したとすれば、大いにありうると考えられます。ですから科学知とまでは言えないと断っています。歴史知的に了解できるということです。
>>[181]
魏志倭人伝に記載されている国名を考えれば、八世紀の大和朝廷が美称化に踏切ったか、理解出来るのではないですか?例えば『伊邪国』『不邪国』『鬼国』等々、原ポリネシア語の発音など到底美しい発音とは言えないと思います。
そして原語の意味等、八世紀の漢字文化に慣れた編纂者には、到底理解できなかったと思いますよ。其処で原語(マオリ語)の『ツクチ』から→『ツクシ』への変換は等は容易い作業だったと思いますね。大部分語感に頼っていた、と思いますよ。勿論原語の一部は遺していますが。

大阪には生駒(イコマ)山地があります。これなど魏志倭人伝記載の邪馬台国の役人名『イキマ』から発生した言語だと思います。又投馬国の役人名『ミミナリとミミ』は奈良盆地の地名として『耳成』『耳なし』として残っています。
仮に奈良盆地が元々出雲の拠点だったとすれば、投馬国は出雲国と云う事になりそうです。
語源については、よく分かりませんが…発音は難しいですね。

とまれ、初めに音があって、後で適当に漢字を当てはめたと考えたら、後世にその漢字をいろいろに読むことはあるかもしれない。

発音の地方差
出雲地方では、「つ」の音は、「つ」のままで「づ」「ず」にはなりません。「川津」→「かわつ」
一時野球で有名だった江の川高校のある江津は、「ごうつ」。
そして、石見地方の山口県寄りの地域では、「津」は、「ず」と読む。
水津→すいず 川津→かわづ

というわけで・・・地域差は結構あると思います。
そうそう、安来節で有名な安来。古い人によれば、「やすき」だと。つまり、「やすきぶし」
島根半島にある有名な潜戸(くけど)は、加賀ですが、読みは、「かか」ならぬ「Qua・Qua」です。
出雲大社も、どう聞いても「いつも・たいしゃ」に聞こえたり・・・
>>[186]
そうですね。地域差は結構有ると思います。
筑の字は、北部九州ではこれを「つく」と読む地名は自分は見たこと有りません。
筑紫平野も正式には「つくしへいや」なんでしょうが、地元の人間はほぼ「ちくしへいや」と言ってます。

これが関東や近畿では、アツさんが例に出してくれた筑波や、他にも筑馬と言う地名も有り、「つく」と言う地名も幾つか有ります。

因みに、えいじさんが書かれていた杵築大社ですが、大分には杵築市(きつきし)と言う土地が有り、自分の中ではきづきよりもきつきの方が馴染み深いです。

次いでに言えば、原と言う字も九州の地名では、「はる」と読む場合が多いです。
こういった違いが方言の影響なのか、元の語源の由来に関係しているのかは分かりませんが、地域によって差があると言うのは面白いですね。
>>[185]
発音と言うか、当てられている字が何か嫌ですね(笑)
まあ、そもそも当時の漢字はそう言った字が多かったと言うのを何年か前にどこかのコミュで見たことは有ります。それが事実かどうかは定かでは有りませんが。

ポリネシア語かどうかは、自分にはよく分かりませんが、縄文人として古代の日本に先住していた人の中には南方系の人も多く居たでしょうから、もしかしたら南方の言葉が由来になった地名も有るかもしれませんね。
>>[188] 南方由来ということなら「つくし」を「月神」の意味に解した坪井九馬三という人がいるそうです。この人の評判はどうでしょう。私はこれから調べてみようかと思っています。忙しくて手がつけられないで居ます。

私は倭人は任那・加羅を拠点に対馬・壱岐に進出、そこから日本海の制海権を握って、倭人三国を建国したとみていますが、それ以前は中国の沿海州にいたらしいのです。南洋とも交流があった可能性はありますね。
物部氏    三上氏   忌部氏       久米氏  大伴氏 中臣氏  皇室  

宇摩志麻治 彦伊賀都   天富         大久米     道臣 天種子  1神武
彦湯支    天夷沙比止 彌麻爾支      布理祢     味日 宇佐津臣2綏靖3安寧
意冨祢    川枯彦     和謌富奴      味耳       稚日 御食津臣4懿徳
出石心大臣 . 坂戸毘古   佐久耳        五十真手   大日 伊賀津臣5孝昭6孝安
大綜麻杵   . 国忍富     阿加佐古   . 久米大人  角日 梨津臣  7孝霊8孝元9開化
伊香色男.  .大加賀美   玉久志古     押志岐毘古 豊日 神耳勝  10崇神
十市根    鳥鳴海    多良斯富   . 七拳脛    武日 大鹿島  11垂仁12景行
胆咋       八倉田    麻豆奴美足尼  祢久良支   武以 臣狭山  13成務14仲哀
.五十琴    室毘古    佐岐大人足尼 伊与足尼  佐彦 雷大臣  15応神
.伊呂弗    比賀多    多比古足尼    加志古     山前 大小橋  16仁徳


しつこいようですが、崇神天皇から神武天皇まで5世代です。

6世紀前半の継体天皇から4世紀前半の崇神天皇まで10世代で約200年。

1世代20年弱としても、神武が2世紀後半から3世紀です。
纏向遺跡始まりの時代と合います。

◎そして神武世代に卑弥呼がいます。

誰なんでしょうね?あっかんべー
もはや一人しかいませんが。

やすいゆたかさんには華麗にスルーされ、
倉西裕子さんには(自分の思い過ごしかもしれませんが)掲示板で削除されました。

多分、自分が正しい事を言ってるからだと自惚れてます。
>>[190] 邪馬台国大和説をとるなら、西日本は統合されていたことになりますが、景行天皇まで筑紫遠征の話はありません。磐余彦はニニギの一夜妻の子の孫で、彼らの一族は王宮で大王として君臨し、施政を行っていたというお話は全く残っていません。むしろ農山村や漁村で暮らしていた地方豪族という感じで、ニニギから認知はされたものの、分家にすぎなかったと考えられます。ですから四世紀半ばまで西日本の倭国統合は実現していなかったので、邪馬台国は九州説の方が説得力があります。
 それに卑弥呼を記紀の登場人物に当てますと、時代が合わなかったり、祟り神の御杖代が同時に大王だったりしてしまいます。
>>[191]

>西日本は統合されていたことになりますが
>ですから四世紀半ばまで西日本の倭国統合は実現していなかったので

いえいえ統合されていると思います。

畿内の弥生土器の最終段階(3世紀ちょうどあたりか)のものや、
その後の庄内式、布留式と言った土師器が、北部九州からも出ます。
布留式(3世紀後半か)にいたっては大量に出るので、
やがて在地の土器が消えていくようです。

これらがちょうど卑弥呼の時代です。

ただ逆にそれ以前、奈良では墓に副葬品がなく、
また鉄器がほとんどなかったはずなのに、
突然、高塚の古墳が現われ、鏡や剣、大量の鉄器などが埋葬され始めます。

直接的には瀬戸内集団のようですが、
その瀬戸内集団は弥生後期に鏡など北部九州系の影響が強くなります。

これはちょうどニギハヤヒの説話と合います。
瀬戸内と言えばニギハヤヒに伴い、播磨に降りた播磨物部、
または吉備の対岸の四国に降りた三野物部を思わせます。


で、景行天皇の九州遠征は熊襲征伐でしょうから
それを4世紀前半としたら、宮崎の日向高屋宮と、
西都原古墳群の前方後円墳発祥の時代が合いますので、
何も問題はないと思います。

つまり卑弥呼の時代には西日本は統合されてたということだと思います。
>>[192]  前方後円墳、土器や鉄器などに共通性があるのは倭人文化としての共通性ではないでしようか?

倭人三国は交流がありますし、高天原経由で半島文化が入ってきますし、海原倭国が水運を担当していました。三貴神が三倭国を建国したという仮説に立てば、倭人三国が独立していても、文化圏としては共通性は説明できます。

要するに文字史料の伴わない考古学では決定的なことはいえないということです。
>>[190]  ついでに質問いいですか?百襲姫のことですが、なぜ孝霊天皇の娘で三世紀半ばで死んだ筈の百襲姫が崇神天皇四世紀初めの10年の記事で箸墓伝説になっているのですか?頭の中がこんがらがって困ります。
>>[193]
>倭人三国
>三貴神が三倭国を建国した

三貴神については分かりませんが、
出雲系のヒメタタライスズ媛(卑弥呼)、
南九州から皇統となる神武、
北部九州からニギハヤヒの三系統なら大賛成です。

なかでも、当初、一番力のあったのは外威となった出雲系・三輪氏だと思いますが。

どちらにしても、それらは2世紀後半から3世紀のことでしょうから、
畿内説ということにはなりますが。


>文字史料の伴わない考古学では決定的なことはいえないということです。

自分は逆に文献史というのは、その時の権力者によって書き換えられたと思ってます。

たとえば記紀でニニギとホアカリが兄弟もしくは親子となってるようですが、
これは、実は全然別系統だったのを、
太政官・石上麻呂が力によって皇統と同系にしたのではないかと思ってます。
(別系統だという根拠はDNAですが。)

あの藤原 不比等でさえ、自分の祖・天児屋命を皇統と同系にはできなかったのに、
それを出来た石上麻呂は相当なワルではなかったかと思ってます。

というわけで、考古学こそ本命だと思ってますが、
まぁ文献史も考古も両方見てたらいいというだけの話なのですがほっとした顔
>>[194]

それは通常の畿内説者に聞いてください。
自分は卑弥呼=モモソ媛ではないと思ってますから。

もしモモソ媛なら崇神治世まで生きてますから、
その没年は4世紀近くになりますね。

ならば3世紀中頃に死んだ卑弥呼ではないですね。

箸墓古墳建造開始時期は出土土器から3世紀中頃にはギリギリできるようです。
しかしそうなっても、箸墓古墳は卑弥呼の墓かもしれないが、
4世紀近くに死んだモモソ媛の墓ではないとなります。

で仮に箸墓古墳建造開始時期を3世紀後半にもってくると、
モモソ媛の墓にはなります。が、
3世紀中頃に死んだ卑弥呼ではないとなります。

で、裏技で、崇神没年を干支を1週繰り上げて258年としたら、
モモソ媛=卑弥呼にはなり、箸墓がモモソ媛の墓にできます。

が、今度は卑弥呼(モモソ媛)の10年後に死んだ崇神の墓らしきものが見当たりません。

どっちにしても卑弥呼=モモソ媛という通常の畿内説は破綻してます。
だいたいモモソ媛は皇女であり女王ではありません。

◎そこで登場していただくのが「初代皇后」しかいなくなるわけです。
>>[197]

『月』の読み方について。上古音では現在の月(つき)を『つく』と発音していた。
しかし、美称化の後に月を『つき』と発音する様に為ったのだと思いますね。尚『月読命』『月夜見命』の神が活躍していた古い時代には、『つくよみのみこと』発音されていたのでしょう。

但し、筑紫の場合は月と違って『ちくし』『つくし』の新旧両方の発音が残ったのでしょう。恐らくは、後代に筑紫が筑前と筑後に分かれた事が影響したのだと思います。つまり『つくぜん』『つくご』よりも『ちくぜん』『ちくご』の語感が良いからだと思います。こんな訳で、『ちく』『つく』の発音が共に使用されてきたのでしょうね
>>[195]
記紀は国史ですよ。
そして国史は物部氏や藤原氏以外の豪族達も読むべき対象であった筈です。
しかも皇統云々と云う重要な問題については、簡単に改竄などできなかった筈です。異論が出てそれこそ大変な騒ぎに為ったと思いますよ。
記紀記載のニギハヤヒの言葉として、『天神の子は多いのだよ…云々』とあります。つまり皇統の血は繋がってはいるが、王位に着けなかった皇子の一人がニギハヤヒだったと理解すべきです。故に大和朝廷も彼を遠祖とする物部氏の主張である『天照国照…』の偉大な神明を暗に認めたのだと思いますよ。
彼こそ、尾張に鎮座している熱田大神です。間違いないでしょう。
白鳥と為って天に昇ったヤマトタケルは火明の末裔建稲種命の影です。

又崇神が直接接触したのは、卑弥呼女王の二代目トヨだと思います。彼女は265年晋に朝貢しています。
モモソヒメと箸墓の由来を崇神紀に記載したのは、卑弥呼の最後を紹介紹介しただけだと思いますよ。また箸墓古墳に続いて造成された、立派な大王墓桜井茶臼山古墳こそニギハヤヒの墓だと思います。尤も私は初代ニギハヤヒは更らに古く列島進出を果たしていたと思っています。彼は大和から大陸に繋がる海を求めて移動した後、丹後地方を拠点に東国開発をした人物です。
>>[200]
>立派な大王墓桜井茶臼山古墳こそニギハヤヒの墓

自分の年代感と大きく違ってるので答えようがありません。
>>[203]

古書通ですね。何でもご存知で。
>>[015]

日本人の皇統に繋がるルーツは相当古く迄遡って探索されています。列島に国家らしき組織が出来上がったのは、一世紀辺りからではないでしょうか?現在の国会に当たる政治の中心地として、近江地方の伊勢遺跡が該当するのではないかと思います。此処には祭儀場を中心に直径200メートルの円周上に等間隔に約30個の棟持ち柱付き建造物が建てられています。此れが魏志倭人伝記載の倭国連合の始まりだと思います。魏志には“倭国は男王朝の時代が7、80年有った…”とあります。この時期の政治の中心地だった可能性があります。倭国連合の区域は、北九州から中国近畿、そして関東迄の相当広い区域で有ったと思われます。此れが所謂謎の古代出雲王朝だと思います。二世紀後半迄続きますが、倭国大乱を経て卑弥呼女王擁立後は王都を大和に移動したのではないでしょうか?中心的有力豪族として、出雲族、天孫族、そしてニギハヤヒ率いる狗奴国連合でしょうね。此の辺りの政治模様として描かれたのが、記紀神話だと思います。倭国大乱の真因は天孫族の急速な勢力増大でしょうね。此れが記紀神話のイザナギとイザナミの夫婦分かれ(イザナギの黄泉路帰り)として描かれているのだと思います。『イザナミ曰く“私はこれ以上国を創りたくない。しかし貴方は(イザナギ)他所から沢山の人々を招いている…”イザナギ曰く“我々は以前は小さな勢力だった。しかし、今は違う…云々”この問答の最中に菊理姫が何やらイザナギの耳元で囁き、イザナギは大いに納得します。』此れが後に卑弥呼女王擁立の端緒に為ったのだと思います。
>やすいゆたかさん
筑紫の月神信仰を唱えるのならば、月地の名前は必ずしも必要ではないのはないでしょうか?
筑紫地方の月読信仰を集めたほうが、余程説得力があって、話が早いと思います。いかがでしょうか?
>>[206] もし筑紫の月讀命信仰ご存知でしたらご教示ください。大王家祖先神を月讀命から天照大神に差し替えたので、月讀命信仰もアマテラス信仰に改変されたり、消去されているのでなかなか残っていないのではないでしょうか。九州には月読系の神社は五つもないでしょう。
>>[207]
そしたら、やはり、無いものを捏造するわけにはいかなくなるので、結論が最初に来てはいけないような気がしますね。

例えば、壱岐などに月神を祀る信仰があったといいます。
どなたかもおっしゃられているように、海人族は航海のため、星や月の観測技術も長けていたでしょうから、
そうした流れで信仰があったのは自然なことにうつります。

海人族連合でしたら、壱岐、対馬、筑紫などの関連性から、月神信仰が何らかの形で影響しあっていた可能性も考えられるのではないでしょうか?海人族のそれでは、宗像三女神などが話題によく上がるので、そのバリエーションについてお考えになられても面白いのかもしれません。

私は九州地方はあまりにも遠くて、文化圏としてどのようなモノが存在しいたのかとか、皆様から聞く範囲での知識くらいしかありませんが、日本語の発音から、地名を推察することくらいしか出来ません。(中国や半島の影響もあるので、それも正しいとは言い切れません。)

>>[208]  六世紀末まではほとんど文字史料がないわけです。それで歴史は口誦伝承されてきました。それは歴史物語の世界です。七世紀になり天照大御神を主神・皇祖神に差し替える大神道改革がなされたので、その線で最初から天照大御神が主神・皇祖神であったかに伝承を改変して、文字化されたわけです。そのことを解明するには文字化された歴史物語の矛盾点を解明して、元の形を復元するしかないわけです。

 三貴神と「御寓の珍子」といずれも対等の建国神のようにいいながら、天照大御神にだけプレゼントをしています。それも天照大御神を体現する鏡でなく、月讀命のシンボルである勾玉を贈っているわけです。元の形は当然天照大御神に鏡、月讀命に勾玉、スサノヲに剣だったはずで、それぞれ大和倭国、筑紫倭国、出雲倭国の神宝だったはずです。それで「三種の神器」が集まると大八洲の覇権という流れになるのですから。
 天照大御神が勾玉をもらったことにしたのは、スサノヲとの宇気比の相手を天照大御神にさせるためで、物実である勾玉の持ち主にしてしかも、勾玉なので女神にしたのです。月讀命と差し替えたので性転換までさせられたということですね。

 壱岐の月神神社にはいろんな疑義もあるようですが、三貴神はイザナギの子なので本拠は壱岐にあって、壱岐から天照大御神は河内・大和へ、ツクヨミは筑紫へ、スサノヲは海原倭国の後継者になる予定が、ネグレクトして追放された、それで筑紫に渡り、月讀命と夫婦になっていたけれど荒くれていたので追放されたわけですね。それで出雲にいって建国した。こういう三貴神をめぐる三倭国伝承が元々はあったのではないかということです。それがどこまで史実の反映かは分かりませんが、このことが頭に入っていることで、七世紀以降の改変によるごまかしに惑わされない見方ができるのではないかということです。
>>[209]

少し疑問?

月読命の神名はイザナギの禊の後に、ほんの僅か神名のみが登場して終わっています。そして記紀ではその後何らの活躍の跡もありません。何故でしょうか?彼は三貴神の一人であり、且つ筑紫を支配すべき重要な王であるにも関わらず、ですね?
>>[211] ポッキーさん それは実は月讀命こそスサノヲと宇気比をして忍穂耳命を生んだ大王家の祖先神とされてきたのが、七世紀始めの大神道改革で、天照大御神に差し替えられてしまったからなのです。祭祀場もほとんど天照大御神に差し替えるか閉鎖するか選択を迫られたと想像されます。
 三種の神器も三貴神誕生の場面で、アマテラスに鏡、月讀命に勾玉、スサノヲに剣だった筈が、アマテラスにだけ鏡でなくて勾玉を授け、女神だったことにして性転換までしているわけです。それはスサノヲとの宇気比をアマテラスがしたことにするためですね。月讀命の物実は勾玉のはずなのに、誕生で勾玉がアマテラスに上げたことに改変されたので、月讀命のご神体まで勾玉ではなく、鏡にされています。

>>[214]

しかし良くわからない。
何故に月読命を無視して迄、新たに創った女神、アマテラスを登場させなければならなかったのか?と云う理由ですね。太陽神(アマテラス)の性転換までして、神道改革をしなければならなかったその動機です。
それとも貴方は伊勢内宮の祭神が元は月読命だった、とでも云うのでしょうか?そして月読命は即ち物部氏の遠祖『天照国照天火明櫛玉ニギハヤヒ尊』だったとでも?
そして仮にニギハヤヒだったとしても、何故彼の大王墓或いは御陵すらも無いのでしょうか?
又普通太陽神は男性であり、月神こそ女性であるのが、普通ですよね。しかし神話の構成はこの様に為っていない事も謎です。何故記紀神話に登場するアマテラスを最初から男神では無く、女神と設定しなければならなかったのか、その理由も明らかでないのが、不思議です。
>>[215] 天照大神にはあらぬ誤解が多いですね。それは全国のアマテル神社のほとんどはニギハヤヒ系でアマテラスを古い時代には祭っていなかったからです。その事情を考えないで、アマテラスをだから新しい神だと決めつけてしまっている人が多いのです。
 倭人三国の建国神話が口誦伝承としてあったのだけれど、七世紀に主神・皇祖神をアマテラスに差し替えた結果、初めからアマテラスが主神・皇祖神であったことにすべて改変させられてしまったのです。それで物部氏には太陽神はニギハヤヒのみを祭るように限定し、アマテラスの祭祀は古代には物部氏が祭れなくなったので、全国の古いアマテル神社のほとんどはニギハヤヒ信仰なのでアマテラスか新しい神であるかに現代の研究家に誤解されているのです。
 それは三貴神による三倭国建国という元の形を見落とした結果です。

 ポッキーさんツクヨミがニギハヤヒだという根拠はなんですか?ニギハヤヒは「かけ上る太陽」だと一般的には解釈されています。
 
 アマテラスとツキヨミは、宇気比の場面で差し替えられたので、スサノヲの相手は女神になければならず、そのためにイザナギはアマテラスに鏡でなくて勾玉を授けたことにし、女神にしてスサノヲと宇気比をさせ、ツクヨミの息子忍穂耳命をアマテラスの子だったことにしているのです。それは当然、皇祖神をツクヨミからアマテラスに差し替えるための大改変です。
初代・近現代天皇制の真相: http://gold.ap.teacup.com/tatsmaki/24.html
>>[218]

明治天皇が大室寅之祐とやらに摩り替えられたのか?

自分は違うと思います。

写真を見る限り全然似てません。
特に目と目の間の鼻根のあたりが違います。

やはり明治天皇は父親である孝明天皇(画像右)にそっくりです。

特に「うけ口」の部分などは親子だなぁと思わせます。

だいたい摩り替えるとして、側近の口をどうやって封じたのでしょう。
そんな事、無理にもほどがある。

明治天皇が大室寅之祐であるという説は、
一時、朝鮮総連がネットで流してましたのでご注意ください。
>>[219]

まだこんな、とっくに論破された陰謀論を信じる人いるんですね。
思考停止してるんでしょうねぇ・・。
>>[220]

陰謀論も日ユ同祖論もいまだに信じてる人が多いようですね。
皇紀2674年?

ユダヤではなにが?

みかどはガド族がどうたらこうたら、、(?)

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