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讃岐忌部コミュの忌部の考古学的アプローチ

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調べていて、なんか気になる古墳は下記の2つです。


・御本祖古墳

所在地:三豊市豊中町大字笠田竹田974番地(忌部神社所有地)
形式:前方後円墳(413平方メートル)
築造時期:不詳

地元では「御本祖さん」と呼んでいるようである。
讃岐忌部氏の祖神、手置帆負命を祀る忌部神社の古記録にも、その存在が記されている。
名前からすると、この地に最初に来た讃岐忌部の先祖(始祖)の墳墓ではないかと思われる。

発掘調査が数回されているが、築造時期や被葬者はわかっていない。


・野田院古墳

所在地:善通寺市善通寺町野田(大麻山山上)
形式:前方後円墳
築造時期:3世紀後半

大麻山(標高617m)の北西、約405mの高地に所在する盟主的古墳。
阿讃特有の積石塚墓・古墳のひとつである。
周辺にも積石塚の塚・古墳が存在し、「有岡古墳群」を形成している。
被葬者は、讃岐平野に最初に現れた豪族の首長と考えられている。

香川県でこのような積石塚古墳が集中するのは、当該地域と高松市の「石清尾山積石塚」古墳群(同3世紀)だけとのこと。

ちなみにその他、県内の積石塚古墳は、前2世紀(弥生中期)の成重遺跡(東かがわ市白鳥)、1世紀の稲木遺跡(善通寺市)、3世紀の鶴尾4号墳(高松市)、丸井古墳(さぬき市前山)がある。



どちらの古墳も、今後の調査研究が楽しみです。電球
写真は、野田院古墳。

コメント(12)

古墳からのアプローチは地味な作業ですが、面白いですね。
山川町の忌部山古墳群は忌部氏と直接結びつける資料が出てないのでなんとも言えませんが、忌部氏の勢力範囲を考えるとちょっと小さいのと円墳であるところが気になります。(この辺りはさすがの林氏もちょっと苦しい説明をしていますね)
御本祖古墳が讃岐忌部氏と関係しているのは位置的にもほぼ間違いないでしょうね。
その外考古学的根拠はありませんが、個人的には善通寺の磨臼山古墳(大きくはありませんが前方後円墳でした)が忌部神社と同様に磐座とセットで存在しているので、讃岐忌部の本丸ではないかと思っています。
ちなみに磨臼山古墳から出土した石棺(市役所に展示している)は国分寺鷲ノ山産角閃安山岩が使われていていて、地名と共に忌部の匂いがプンプンします。
しかしそもそもの前提として讃岐忌部の入植年代をいつ頃に設定するかという問題があって、これは邪馬台国論争や神武東征等の未解決問題とリンクして底無し沼状態に陥いるので頭から煙が出そうになります。
磨臼山は、スリウス山と読むんですね。出土した石棺は割竹形。。

安山岩は硬質ですから、当時の加工技術がうかがい知れますね。
HPでは確認しました。実物見てみたいです。


アララトさん仰るように、入植年代はいつ頃だったんだろう、と言うところから遺跡を調べてみました。

たぶん2000年以上前のことだと考えていますが、実際はどうなのでしょうか。
空海そらうみさん
鷲ノ山石の石棺は鷲ノ山麓にある石舟天神社にも展示してあります。
(安山岩質でもわりとさくい岩質でした)
入植年代はほんまに頭が痛いところですが、入植の経路は二通り考えられると思います。
まず第一に林氏の説明通り阿讃山脈を越えて阿波から来るルート。(これはかなりはっきりしていて、休憩したところまで言伝えが残っています)
そしてもう一つは仮に神武東征が歴史的事実だった場合、東征に沿って土着したルート。(瀬戸内各所にある忌部関係の地名の分布を考えると当然想定されても良い?)
アララトはこの二つのルートが混在していたのではないかと思っていますが、かなりアバウトな感じで割り振ると、神武東征ルートだと300年前後、阿讃越えルートだと400年前後に想定されるのではないでしょうか?
そもそも手置帆負命という御神名からして海洋民の特質を有しているので、瀬戸内ルートを外すわけにはいかないのではないかと思います。
アララト岩海(veeten)さん

ご紹介ありがとうございます。石舟天神社のは、刳抜式石棺なんですね。
これも今度見に行ってみます。
調べると、鷲ノ山石は安山岩質凝灰岩とのこと。だったらそんなには硬くないですね。

ルートが2つ混在というのは本当ぽい感じがします。人は何でも1つに絞りたがりますが。。
時代は案外新しいなぁという印象です。皇紀2669年というくらいですので。

ひとつ気になるのは、伊予にも忌部の足跡が残っていることです。
林先生も調査で訪れていると、そんな話を聞きました。
砥部町には麻生、松山市には上総町、道房という地名もあります。
忌部氏は伊予にも渡来、あるいは移動していたのではないでしょうか。
空海そらうみさん

伊予における忌部の足跡は把握していませんが、東予と西讃は昔から行き来があったので何らかの足跡は残っているかもしれませんね。
中央構造線が吉野川から海岸線を抜けて佐田岬まで走り、南側には三波川帯の緑泥片岩が分布しています。
山川町にある忌部のま立岩(緑泥片岩)と同様の立岩が伊方にもあって、林氏はそれを指摘していましたね。
ただこれは地名の相似と同じで、根拠には乏しいのではないかと思います。
基本的に伊予の場合は大山積系河野水軍の勢力範囲なので、足跡は部分的なものになるでしょう。
余談ですが高知で紙漉きやってるみーちゃんが河野姓で、河野水軍が没落した時に伊予の山間部に落ち延びて紙作りを生業とした事例があったと言ってました。
河野繋がりだと高瀬の麻集落にも河野一族が代々住んでいますが、これは大水上神社の祭神が大山積であったからではないかと思います。

アララト岩海(veeten)さん

伊予の足跡については、よしのさんたちが調べていますので、また聞いてみます。
もっといろいろあるみたいでしたよ。
よしのちゃん
見ていたらコメントお願いしま〜す。
光だまり庵 たかしです。
伊予の忌部の足跡は以前林先生と一度調査しただけですが、
忌部は今治の宮崎にある梶取ノ鼻に上陸したのではないかと言っていました。

その近くに御崎神社があり、香取神社が合祀されていました。
社殿には「香取神社は現在の地より少し離れた所にあったが、災害の為に崩壊し、現在の場所に移った」とありました。

その前に広がる海を斎灘(いつきなだ)と言います。
近くに高山磐座という斎場がありますが、この磐座は林先生曰く、ちょっと忌部とは違いますね。という見解でした。

そこから15分ほど車で行った波方町には多々羅という場所や真名井神社がありますが、忌部の決め手になるものは発見されませんでした。

全く根拠はありませんが、波方(なみかた)の隣に阿方(あがた)という地名があります。
阿方+波方=阿波の方になります。語呂あわせですみません(笑)。

瀬戸内海の弓削島は忌部だと林先生はおっしゃっていました。
弓と言えば讃岐忌部ですよね。
今治は高虎が築城する前は今張(いまはる)と言っていました。
張は弓偏なので讃岐忌部と関係があるのかな?

今治は古、小千国と怒麻国の二国の大きな勢力下にあったり、藤堂高虎が築城のおり、巨石狩が行われたりしため、忌部の磐座などの足跡が消されています。

また、今治には国府が置かれていましたが、その跡地が何処にあるのかもいまだ解っていない位、古代の形跡はかき消されています。

松山の北条は風早郡が昔あり、一大勢力が繁栄して、最近の調査で新城山の山頂にペトログラフが発見されました(日本ペトログラフ協会吉田信啓氏)
大洲は神南山、冨士山周辺に古代祭祀場所があったり、三崎付近にも巨石の古代祭祀場所があります。

どれも、それぞれ違った勢力があるようで、阿波忌部・海部などと関係があったのかこれからの調査が待たれます。

愛媛には謎が多いです。

謎といえば、愛媛の県名になっている愛比賣命の事もよくわかっていません。

解る事があれば教えてくださいませ。
光だまり庵さん
コメントありがとうございます。
やはり伊予における忌部の足跡の特定は資料不足でむずかしいですね。
古事記では四国のことを伊予之二名島と表記しているので、おおまかに剣山系(阿讃)と石鎚山系(伊土)で大きく文化圏が分かれていたものと思われます。
河野水軍に伝わる予章記によれば、中国南部の越国との交流もあって倭の水軍の末裔ではないかと思われますが、これも中世に完成されたものなのでかなりの脚色が見受けられ不明確な部分が多いです。
忌部の可能性としては地理的にも東予の山間部あたりからかなと思いますがどうでしょうか?
光だまり庵さん、アララト岩海(veeten)

コメントありがとうございます。
文字通り、乗りかかった船(手置帆負)ですので、伊予も調べていきましょうよ。
生まれ故郷なので、やっぱり愛着あります。
空海そらうみさん
しゅらしゅしゅしゆ〜(笑)。
アララト岩海(veeten)さん

わかりました。笑

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