ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

関西発、城郭・史跡散策コミュのお城に行きました(三重編)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
三重県も近畿地方ですもんね。

でも小生、かつて松坂城、伊賀上野城、名張陣屋、桑名城の訪城記録がありながらもアップできそうな写真を持ち合わせておりません。

ここは三重県民、または訪城経験の豊富な方々にお願い致します。

なおここは詳細な構造論を論議するコミュを狙ってはおりません。

お出かけついでに「ここがお城だったか!」ということが分かるようなレポートがありがたいです。

またはビギナーさんの素直な感想なども楽しみにしております。

コメント(144)

伊賀市の北の城です。城山城の北側すぐのピーク付近で関連性はあると思われます。

https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92518-0101+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%B8%82%E4%BE%9D%E9%82%A3%E5%85%B7+%E4%BE%9D%E5%90%8D%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@34.7363085,136.1401464,600m/data=!3m1!1e3!4m7!1m4!3m3!1s0x6006ad486b493811:0x7a73ee27d0370ce5!2z44CSNTE4LTA3MzQg5LiJ6YeN55yM5ZCN5by15biC6buS55Sw77yR77yR77yX77yW!3b1!3m1!1s0x600156b002c97fbd:0x50ea8c457b008dd7
 伊賀市の狭間城跡です。城山城、北の城と合わせて三主の城と呼ばれ、いずれも城主不明ですが、その近さから同一城主のものかと思ったりもします。高い土塁は有事(天正伊賀の乱)時に使われた名残なのでしょうか?
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92518-0101+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%B8%82%E4%BE%9D%E9%82%A3%E5%85%B7+%E4%BE%9D%E5%90%8D%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@34.7363085,136.1401464,600m/data=!3m1!1e3!4m2!3m1!1s0x600156b002c97fbd:0x50ea8c457b008dd7
 紀宝町の京城(みやこのじょう)跡です。関ヶ原の戦で西軍側だった堀内氏善が新宮城から逃れ、ここに潜んだ時期があったそうです。豪雨のため墓地になった跡地にしか入れず。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92519-5835+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E5%8D%97%E7%89%9F%E5%A9%81%E9%83%A1%E7%B4%80%E5%AE%9D%E7%94%BA%E5%A4%A7%E9%87%8C%EF%BC%91%EF%BC%94%EF%BC%98%EF%BC%90/@33.7822993,135.9854763,796m/data=!3m1!1e3!4m7!1m4!3m3!1s0x0:0x0!2zMzPCsDUzJzMyLjYiTiAxMzbCsDA2JzUyLjUiRQ!3b1!3m1!1s0x60066c0e477e9e79:0x19dc5a68b092a298!6m1!1e1
 熊野市の赤木城跡です。「倉谷家文書」に1588年、豊臣秀長の北山攻め後、築城した」とあり、藤堂高虎が1595年まで北山代官としてこの地の北山一揆を鎮圧したり木材の切り出しをしていた時期にあたるのではないかとされています。三方の尾根に郭が築かれ横矢掛や折れ曲がった虎口に特徴があります。また目立つところの石垣は立派です。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E8%B5%A4%E6%9C%A8%E5%9F%8E/@33.8950953,135.9501374,591m/data=!3m2!1e3!4b1!4m2!3m1!1s0x600666effcd03f97:0xda75e4a5922becac!6m1!1e1
 明和町の竹神社は斎宮城跡です。城主は野呂三郎勝手なふるまいが目立ち処罰されたとのことですが、この地自体が古代斎王の居館跡(内殿)にあたるそうで、堀跡などが残されていたので使いやすかったのではないでしょうか。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%AB%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@34.5370334,136.6166127,595m/data=!3m1!1e3!4m13!1m7!3m6!1s0x600666effcd03f97:0xda75e4a5922becac!2z6LWk5pyo5Z-O!3b1!8m2!3d33.8950909!4d135.9523261!3m4!1s0x0:0x8b768a7c49989331!8m2!3d34.5372742!4d136.6186246
熊野市の花知神社は竹原八郎屋敷跡で1331年には護良親王をこの地に迎えていたそうです。土塁が見事ですね。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E8%8A%B1%E7%9F%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@33.9632722,135.9755705,17z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x9d38f87932e0cd0b!8m2!3d33.9645717!4d135.9765172
 玉城町の田丸城跡です。北畠親房が吉野と伊勢大湊をつなぐこの地を押さえるために築城したと考えられ、その後織田(北畠)信雄が城主となって改修し、石垣造りのものになったと思われます。1619年には紀州藩領となり紀州徳川家家老の久野氏が城主になりました。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%9F%8E%E5%B1%B1%E5%85%AC%E5%9C%92/@34.4866886,136.62695,15z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0x9d38f87932e0cd0b!2z6Iqx55-l56We56S-!8m2!3d33.9645717!4d135.9765172!3m4!1s0x0:0x53e63bbda7632736!8m2!3d34.4908531!4d136.6279292
津市の津城跡です。織田信長の弟、信包が築城し、1608年からは藤堂氏が藩主となりました。本丸以外は埋められてしまっております。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%B8%B8%E4%B9%8B%E5%86%85/@34.7178464,136.5068194,17z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0x9d38f87932e0cd0b!2z6Iqx55-l56We56S-!8m2!3d33.9645717!4d135.9765172!3m4!1s0x60040cd06b2b34cb:0xc46927ecc32c7c0b!8m2!3d34.7179434!4d136.5075382
 津市の贄崎砲台跡です。1863年に築造されました海に6門、南北端に5門の大砲を備えていたそうです。現在は青果市場と福祉会館が建っていますが北端に土塁の名残が残っているようです。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%9D%92%E6%9E%9C%E5%BA%97/@34.713533,136.5191567,273m/data=!3m1!1e3!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0x9d38f87932e0cd0b!2z6Iqx55-l56We56S-!8m2!3d33.9645717!4d135.9765172!3m4!1s0x600472d5ce95e263:0xd20b40b71deadda4!8m2!3d34.713533!4d136.520251
 津市の西浦砲台跡です。こちらは津藩の荷揚げ場のあった場所だそうですが、大砲まで置かれたどうかは不明だそうです。現在は市町村会館が建っています。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E5%B8%82%E7%94%BA%E6%9D%91%E8%81%B7%E5%93%A1%E5%85%B1%E6%B8%88%E7%B5%84%E5%90%88%E7%A6%8F%E7%A5%89%E4%BF%82/@34.725478,136.5094099,274m/data=!3m2!1e3!4b1!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0x9d38f87932e0cd0b!2z6Iqx55-l56We56S-!8m2!3d33.9645717!4d135.9765172!3m4!1s0x60040cc9414e24d3:0x31a9bc30d36c2f77!8m2!3d34.725478!4d136.510508
名張市比奈知の下山甲斐守城跡です。下山氏は伊賀66人衆の筆頭格でしたが、1578年下山平兵衛が織田信雄の味方につき、1579年には信雄に伊賀攻めを勧めています。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92518-0413+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E5%90%8D%E5%BC%B5%E5%B8%82%E4%B8%8B%E6%AF%94%E5%A5%88%E7%9F%A5%EF%BC%91%EF%BC%96%EF%BC%99/@34.6190954,136.1320646,523m/data=!3m2!1e3!4b1!4m5!3m4!1s0x6006ab7e768f345b:0xdefad21aa0cd41d7!8m2!3d34.619091!4d136.134252
名張市奈垣の下山甲斐守城跡です。下山甲斐守一族の下山重長がいたのではないかとされます。少し西側には北畠具親城があり協力関係にあったのかもしれません。
https://www.google.co.jp/maps/place/Unnamed+Road,+%E5%A5%88%E5%9E%A3+%E5%90%8D%E5%BC%B5%E5%B8%82+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C+518-0505/@34.5912396,136.1516312,512m/data=!3m1!1e3!4m13!1m7!3m6!1s0x6006ab7e768f345b:0xdefad21aa0cd41d7!2z44CSNTE4LTA0MTMg5LiJ6YeN55yM5ZCN5by15biC5LiL5q-U5aWI55-l77yR77yW77yZ!3b1!8m2!3d34.619091!4d136.134252!3m4!1s0x6006abddfbbb9315:0xcf7e09f912050f66!8m2!3d34.5918715!4d136.1521833
名張市の北畠具親城跡です。北畠具親は織田氏に滅ぼされた北畠具教の弟で再興を目指してここにも立てこもったことがありました。しかし再興叶わず毛利氏を頼って落ち延びていきます。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92518-0504+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E5%90%8D%E5%BC%B5%E5%B8%82%E7%A5%9E%E5%B1%8B%EF%BC%92%EF%BC%91%EF%BC%92%EF%BC%94/@34.5912414,136.1414813,514m/data=!3m2!1e3!4b1!4m13!1m7!3m6!1s0x6006ab7e768f345b:0xdefad21aa0cd41d7!2z44CSNTE4LTA0MTMg5LiJ6YeN55yM5ZCN5by15biC5LiL5q-U5aWI55-l77yR77yW77yZ!3b1!8m2!3d34.619091!4d136.134252!3m4!1s0x6006abe56b9edd2b:0xca3a21656e7ccdad!8m2!3d34.5912371!4d136.1436304
三重県志摩市の越賀城跡です。城主越賀氏は藤原氏の末裔を称し、志摩十三地頭の一人でした。1558年から70年にかけて九鬼氏と対立抗争もありましたが、最後に配下になりました。岬の先端に築城されてましたが、現在は農地になっています。
https://www.google.co.jp/maps/place/休憩所/@34.2555576,136.7921407,308m/data=!3m2!1e3!4b1!4m5!3m4!1s0x6005a853af92700d:0x5ec9e8f587fe65c9!8m2!3d34.2555554!4d136.7932465
三重県志摩市の和具城跡です。城主青山氏は志摩十三地頭の一人で1568年から70年にかけて九鬼氏と戦いましたが、その後従い、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いにも参戦しました。関ヶ原の戦後には九鬼嘉隆が和具で自害したと伝わります。現在は多くが住宅地になっています。
https://www.google.co.jp/maps/place/和具城跡/@34.2547767,136.8072135,306m/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x6005a83847970235:0x664621fd08c71f67!8m2!3d34.2543366!4d136.8076251
度会町の長原城跡です。長原神社の背後の山が城跡で主郭部には城主だった大崎玄蕃守の碑と祠が祀られています。防御は北側に難く南側が甘いですが南側の領地では領民に慕われていたのかもしれません。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%95%B7%E5%8E%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@34.4300601,136.5730903,18z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x600446158a31bda7:0xa09cb66b82fd8f29!8m2!3d34.4300601!4d136.5741846
三重県多気町の五箇篠山城跡です。勢和図書館の向かいに登山口があり、手軽に登れるようになっています。1343年に仁木義長が南朝勢を攻撃していた時に落城した城の1つとして名前が挙がります。
 また本能寺の変の後に北畠氏再興を企てた北畠具親が1583年正月にここに籠りましたが、2日ほどの戦闘で落城しています。西側の眺望が非常に良くなっています。ttps://www.google.co.jp/maps/place/%E4%BA%94%E7%AE%87%E7%AF%A0%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E8%B7%A1/@34.4600764,136.4525773,15z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x600446158a31bda7:0xa09cb66b82fd8f29!2z6ZW35Y6f56We56S-!8m2!3d34.4300601!4d136.5741846!3m4!1s0x60043eeea6ef0347:0x16794da0f776b09!8m2!3d34.4616112!4d136.4635366
度会町の一之瀬城跡です。城主は愛洲氏。南北朝期には後醍醐天皇の皇子、宗良親王を吉野からここに迎え、皇子は東国へと向かったということがあります。城は一之瀬神社周辺と西側にも山城があり、山城は北側に合計6条もの堀切を掘るなど堅い防御をしています。織田軍の伊勢侵攻に対したものかもしれません。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%B8%80%E4%B9%8B%E7%80%AC%E5%9C%B0%E5%8C%BA+%E5%85%AC%E8%A1%86%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%AC+%E3%81%B2%E3%82%81%E3%81%97%E3%82%83%E3%82%89/@34.3511863,136.5885524,617m/data=!3m1!1e3!4m12!1m6!3m5!1s0x600446158a31bda7:0xa09cb66b82fd8f29!2z6ZW35Y6f56We56S-!8m2!3d34.4300601!4d136.5741846!3m4!1s0x60044955bf4a08af:0x516e6faebc059be6!8m2!3d34.3512483!4d136.5897969
松阪市の阿坂城跡です。北畠満雅が足利将軍に反旗を翻した時に白米で馬を洗ったという伝説から白米城という名もあります。また羽芝秀吉の軍勢が伊勢侵攻で陣取ったこともあるそうです。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E9%98%AA%E5%B8%82%E5%A4%A7%E9%98%BF%E5%9D%82%E7%94%BA/@34.5991681,136.4616958,3a,75y,90t/data=!3m8!1e2!3m6!1sAF1QipO1Vq7-hrLuUi1O4TKa0KKxBNHYmZghTv0ALnBf!2e10!3e12!6shttps:%2F%2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipO1Vq7-hrLuUi1O4TKa0KKxBNHYmZghTv0ALnBf%3Dw129-h86-k-no!7i5472!8i3648!4m8!1m2!2m1!1z6Zi_5Z2C!3m4!1s0x600413958ee228a5:0x88f265f94f1e1b01!8m2!3d34.6000428!4d136.4729592
三重県松阪市の高城跡です。阿坂城の出城の1つです。
参考サイト
https://sites.google.com/a/onodenkan.net/lie-dao-cheng-zhi-ji-xing/mieken/gao-cheng-song-ban
三重県志摩市の波切城跡です。築城は川面氏と伝えられますが、14世紀半ばには九鬼氏が城主となり九鬼義隆が生まれた地としても有名です。現在は大王崎灯台の撮影名所となっています。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B3%A2%E5%88%87%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E5%9F%8E%E5%9D%80%E5%B1%95%E6%9C%9B%E5%85%AC%E5%9C%92/@34.2764048,136.896754,312m/data=!3m1!1e3!4m12!1m6!3m5!1s0x600446158a31bda7:0xa09cb66b82fd8f29!2z6ZW35Y6f56We56S-!8m2!3d34.4300601!4d136.5741846!3m4!1s0x6005060674a09b93:0xa9c0a44a049fb6ae!8m2!3d34.2757598!4d136.8982885
津市の渋見砦跡です。築城年代は定かでないが永禄期に乙部藤政により築城。織田軍の侵攻に備えていたものと思われます。1570年に織田信包に攻められ落城したとされています。現在は住宅地の公園になっています。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B8%8B%E8%A6%8B%E7%A0%A6%E8%B7%A1%E5%85%AC%E5%9C%92/@34.7339279,136.4936788,310m/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x60040d35156e3c5f:0xb9392684a62e6b9d!8m2!3d34.7338924!4d136.4947575
御浜町の尾呂志学園の運動場は尾呂志城跡になります。長享年間に入鹿荘を領した山本氏の次男が尾呂志の地頭となって尾呂志氏を名乗り、永禄年間に慶閑が築城し、堀内氏の配下となっていたそうです。運動場には城の七つ石と呼ばれる大岩が立てられています。
https://www.google.co.jp/maps/search/%E5%B0%BE%E5%91%82%E5%BF%97%E5%AD%A6%E5%9C%92/@33.8544507,135.9736987,2449m/data=!3m1!1e3
熊野市役所の北側の山が木本要害山城跡です。城主不明ですが有馬氏の城だと思われます。https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92519-4323+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%B8%82%E6%9C%A8%E6%9C%AC%E7%94%BA%EF%BC%93%EF%BC%93%EF%BC%96%E2%88%92%EF%BC%93/@33.8891781,136.0990889,612m/data=!3m2!1e3!4b1!4m12!1m6!3m5!1s0x600670ef0ada1b83:0x1e0487039a4886f7!2z5b6h5rWc5bu66Kit!8m2!3d33.893253!4d136.10655!3m4!1s0x600670fa7b366181:0xea45fe8f93743ab9!8m2!3d33.8891781!4d136.1012618
熊野市の有馬本城跡です。産田神社神官の榎本氏が有馬を名乗るようになり、この地の城主となりましたが、堀内氏の熊野統一の中で堀内氏に飲み込まれていきました。安徳寺の南一帯が城址で1444年に有馬忠親が築城したといわれます。
https://www.google.co.jp/maps/search/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%9C%AC%E5%9F%8E/@33.8797311,136.079848,162m/data=!3m1!1e3
熊野市の海岸寺が口有馬城跡です。堀内氏善が築城途中で関ヶ原の戦いが起こり、未完成だったそうです。石垣が一部残っているそうです。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B5%B7%E5%B2%B8%E5%AF%BA/@33.8791432,136.0875057,324m/data=!3m1!1e3!4m12!1m6!3m5!1s0x600670464873c965:0x46c01b6369efa2dc!2z55Sj55Sw56We56S-!8m2!3d33.880649!4d136.0783468!3m4!1s0x60067053f6d5fd4b:0xef311a210f59996b!8m2!3d33.8791323!4d136.0894053
紀宝町の檜杖城跡です。檜杖庄司が築城したといわれています。山麓に庄司家の家があり、その背後の山が城跡になっています。
https://www.google.com/local/place/rap/edit/location?rg=true
☆山全体に広がる攻めの城
三重県名張市短野本陣山 梅ヶ丘の奥の給水塔の先
伊賀 筒井順慶城 見学し易いです。
写真は登り口と 主郭手前の虎口土塁

PS、のぶさん、三重県版 1から全て見させて貰って 伊賀上野の澤(東・西)や海岸線付近のお城とか意外に行けてないお城が有って参考にさせて頂きました。
>>[132] 読んで頂いてどうもありがとうございます。伊賀市の川東地区は沢氏城他に10か所ほどの城が集中しているなかなか興味深い地域でした。志摩半島の城は岬の先端に築かれてるものが多いですね。しかも大王崎のような景勝地が戦国時代の城跡になってたりします。
 最近ななか関西一円をまたにかけるような城めぐりができないので、和歌山県とその近所で細々とまわっています。
 松阪市の大河内城跡です。1415年、北畠満雅が足利幕府への備えとして築城し、弟の顕雅を入城させた。以後大河内城主は多気の北畠宗家を助ける筆頭の立場であった。
 1569年8月23日から10月3日まで、織田信長の伊勢侵攻に対し、伊勢国司、北畠具教らが多気の霧山から大河内城に集結し、抵抗。織田信雄を北畠氏の当主とすることで和睦するという激戦の起こった地です。本丸には400年記念碑が立てられ、西の丸の間には堀切が掘られ、各郭には神社がおかれていました。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%90%88%E6%88%A6%E5%9B%9B%E7%99%BE%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E7%A2%91/@34.5258264,136.4724783,17z/data=!4m13!1m7!3m6!1s0x600413958ee228a5:0x88f265f94f1e1b01!2z44CSNTE1LTIzNDIg5LiJ6YeN55yM5p2-6Ziq5biC5aSn6Zi_5Z2C55S6!3b1!8m2!3d34.6000428!4d136.4729592!3m4!1s0x6004158ec799ad4d:0x3c1f1392ab37e262!8m2!3d34.5272621!4d136.4727584
 
津市の戸木小学校は戸木城跡です。木造具政が隠居所として築かれました。1584年の小牧・長久手合戦で秀吉方蒲生氏郷らの軍勢が攻め寄せる中北畠信雄が秀吉と和議を結ぶまで籠城してました。小学校に説明版が設置されています。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B4%A5%E5%B8%82%E7%AB%8B%E6%88%B8%E6%9C%A8%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1/@34.6697802,136.4507202,15z/data=!4m13!1m7!3m6!1s0x600413958ee228a5:0x88f265f94f1e1b01!2z44CSNTE1LTIzNDIg5LiJ6YeN55yM5p2-6Ziq5biC5aSn6Zi_5Z2C55S6!3b1!8m2!3d34.6000428!4d136.4729592!3m4!1s0x60040dc5f159fe0b:0xd0ae6042065e7f4f!8m2!3d34.676161!4d136.452731
津市久居の宮山城跡です。木造氏の出城でしたが1584年の小牧・長久手合戦では戸木城を攻める秀吉方武将の付城の1つになっていました。敏太神社の背後を頂上まで登りますが、複雑に入り組んだ土塁の中に神社がおかれています。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@34.6825713,136.4458266,17z/data=!4m13!1m7!3m6!1s0x600413958ee228a5:0x88f265f94f1e1b01!2z44CSNTE1LTIzNDIg5LiJ6YeN55yM5p2-6Ziq5biC5aSn6Zi_5Z2C55S6!3b1!8m2!3d34.6000428!4d136.4729592!3m4!1s0x60040d1236ea68c3:0x6343b8eed1d9f546!8m2!3d34.6825669!4d136.4480153
三重県熊野市の伝和気城跡です。地元では城跡と認識され、堀内氏の侵攻を防ぐために地元の武士が築いたとされていますが、御本神社の境内ではないかとの説もあります。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%92%8C%E6%B0%97%E5%9F%8E%E8%B7%A1/@33.8075431,135.876036,375m/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x600643988eed10ad:0x824f119fb4fe724f!8m2!3d33.8074517!4d135.8769694
四日市陣屋跡です。慶長5年(1600年)徳川家康が水谷光勝を四日市の代官に任じて天領を管理させ、1603年に築城。光勝は本能寺の変の際の神君伊賀越えで家康を助けた1人でした。 享保9年(1724年)大和郡山藩の松平吉里の領地となるが、享和元年(1801年)には再び天領となり、以後は多羅尾氏が代々代官を世襲した。案内板には当時の絵図が残っていて堀に囲まれた様子もわかります。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E9%99%A3%E5%B1%8B%E8%B7%A1/@34.9704685,136.6242026,740m/data=!3m1!1e3!4m12!1m6!3m5!1s0x60038f6910c2af83:0xc99db85639d74bcc!2z5Zub5pel5biC6Zmj5bGL6Leh5qGI5YaF5p2_!8m2!3d34.9704641!4d136.6263913!3m4!1s0x0:0x6a67ab2823d927d6!8m2!3d34.9708431!4d136.6268339

伊勢市の村山砦跡です。標柱の説明文によると文明十八年(一四八六)、宇治と山田が争った際国司北畠氏と手を組んだ宇治に対し山田側は御師村山武則を大将としてこのあたりの高台にこもって対抗したとあります。
宇治は内宮、山田は外宮のそれぞれ門前町で神宮の主導権を掌握したい山田(大将:村山武則)VS宇治(援軍:伊勢国司・北畠政郷)、という状況でした。
村山はこの砦を拠点に宇治に対抗した。北畠政郷は山田を焼き討ちにした。『宇治山田市史』下巻(昭和4)の「村山武則」の項によると、武則は皆を励まし家族並に同志を率ゐて奮闘したけれども、腹背の包囲に術尽きて、外宮宮域に逃げ込み、再び打って出たが、勝算のないことを知って御殿に火をかけて切腹した。時に同年十二月廿二日、年三十二と称せられて居る。
 外宮を外宮に仕える者が焼いてしまうという事件でした。実際の砦跡は標柱の場所より西の寺の墓地あたりまもしっれませんね。https://www.google.com/maps/place/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E7%A0%A6%E8%B7%A1/@34.4903863,136.6926656,17z/data=!3m1!4b1!4m6!3m5!1s0x60045aec104cb2bd:0x415f7bdcb53410a0!8m2!3d34.4903819!4d136.6952459!16s%2Fg%2F11fy8zzgn1?authuser=0
多気町の笠木館跡です。築城者、築城時期は定かではないようですが、北畠氏一族の坂内氏の館と考えられます。寛正年間(1461〜66年)、坂内具能(ともよし)がこの地を知行してる史料があるようです。また、文明十五年(1483年)には国司北畠政勝の弟の坂内房郷の名も史料にはありようです。永禄十二年(1569年)、織田信長は大河内城に北畠具教を攻めますが、和睦の条件として信長の次男の信雄を具教の養子に入れました。その際、具教、具房親子は笠木御所に退去したと「信長公記」にあるようです。天正四年(1576年)、具教は三瀬館で信長の指示で信雄の手のものに誅殺され、この時の笠木館の主である坂内兵庫頭具義も田丸城で殺されました。館は台地の南北に東西500メートル。南北400メートルの範囲で広がり、郭数で40程度、井戸だけでも20程度あるそうです。説明板は南側道路沿い民家の横にありました。この周辺を中屋敷というようです。
https://www.google.com/maps/place/%E7%AC%A0%E6%9C%A8%E9%A4%A8%E8%B7%A1/@34.4918639,136.5804985,17z/data=!4m6!3m5!1s0x600441e8ff01cf73:0x99b5dab41e856cbb!8m2!3d34.4918595!4d136.5830788!16s%2Fg%2F11h4vv_cz0?authuser=0
御浜町の川瀬城跡です。城址碑の西側の山中にあります。取りつきは風伝トンネル東口の手前にある旧道を登ってすぐに見える墓地の反対側から山に入ります。ピークを目指していけば城址に。使用された可能性のある石や高く築かれた土塁があり、在地武士(尾呂志氏)が見張りの城にした可能性よりも堀内氏や藤堂氏の影響が及んだ頃に街道の交通を押さえるために使用された可能性も考えられます。https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%B7%9D%E7%80%AC%E5%9F%8E%E8%B7%A1/@33.8605124,135.9736382,750m/data=!3m1!1e3!4m6!3m5!1s0x600669eb804bfffd:0x8c1461fea5dc33f0!8m2!3d33.8595636!4d135.9765511!16s%2Fg%2F11h8r8qw1b?entry=ttu
御浜町の上野青年クラブ(赤い屋根)のある台地が尾呂志古城跡です。「古土居」と呼ばれていました。尾呂志城から南へ。駐在所と上野青年クラブの間が境界で台地の先端の地形を利用して築城されたものでしょう。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E9%9D%92%E5%B9%B4%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96/@33.8540976,135.9784877,750m/data=!3m1!1e3!4m14!1m7!3m6!1s0x600669eb804bfffd:0x8c1461fea5dc33f0!2z5bed54Cs5Z-O6Leh!8m2!3d33.8595636!4d135.9765511!16s%2Fg%2F11h8r8qw1b!3m5!1s0x60066f66e20a09b5:0xaf082e37015ddcb5!8m2!3d33.8528863!4d135.9811774!16s%2Fg%2F11j1sjwlty?entry=ttu

ログインすると、残り105件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

関西発、城郭・史跡散策 更新情報

関西発、城郭・史跡散策のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング