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関西発、城郭・史跡散策コミュのお城に行きました(奈良編)

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大和郡山市の筒井城です。戦国期に大和国を統一した筒井氏が14世紀中旬にはここに築城していました。写真は2009年2月末の発掘調査の現地説明会です。

今年は南北朝時代からもうこんな深い堀が築かれていたのが分かったそうです。

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宇陀市の口今井城跡です。白山神社の背後ということで社殿の裏から登ろうとしてみましたが、夏の激しいブッシュ状態ではちょっと無理。もう少し西側から登ったらよかったみたいですね。遺構には到達できなかったですが参考サイトによると秋山氏の勢力圏。松永久秀軍と戦う時に使われたかな?
参考
http://blog.goo.ne.jp/gfi406/e/591a75fb251ad34e20cfa25bf0d31bba
場所
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%99%BD%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@34.503902,135.93308,620m/data=!3m2!1e3!4b1!4m2!3m1!1s0x0:0xf70272509ffacb90
宇陀市の茶臼山城です。とりあえず写真だけ。
宇陀市の茶臼山城跡です。山頂部が主郭で山頂直前に堀切も見られました。筒井順慶の伊賀攻めとの関わりがありそうです。
http://blog.goo.ne.jp/gfi406/e/e4f226f30680b3c2faa6a41a8087486a
宇陀市の芳野上城跡です。城主芳野氏は「宇陀七人衆」「宇陀三将」に数えられ鎌倉時代にはこの地で活躍していたようです。南北朝時代には北朝方に。戦国時代には筒井氏家臣、そして蒲生氏郷について転戦していたようです。
 桜葉神社から背後の山に登りますが、今日は宇陀水分神社の祭礼の日。上社の女神を迎えにこの地向いの寺まで宇陀水分神社の男神が迎えにくるしきたりになっていて、ちょうどその時間帯でした。
場所
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%AE%87%E9%99%80%E5%B8%82%E8%8F%9F%E7%94%B0%E9%87%8E%E6%9D%B1%E9%83%B7%EF%BC%92%EF%BC%94%EF%BC%96/@34.4669458,135.9901009,783m/data=!3m1!1e3!4m6!1m3!3m2!1s0x0:0xf70272509ffacb90!2z55m95bGx56We56S-!3m1!1s0x6006b0cfdcbef653:0x6deb80d58f51bd84
宇陀市の芳野下城跡です。芳野上城から連続した居館部なのか別城になるのか判断の難しいところがあります。場所を示した民家の西側の山で金毘羅宮の遥拝所の石碑があり、その裏に堀切遺構があります。
場所
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%AE%87%E9%99%80%E5%B8%82%E8%8F%9F%E7%94%B0%E9%87%8E%E4%B8%8B%E8%8A%B3%E9%87%8E%EF%BC%99%EF%BC%93%EF%BC%95/@34.4627682,135.998859,284m/data=!3m1!1e3!4m7!1m4!3m3!1s0x6006b0cfdcbef653:0x6deb80d58f51bd84!はんだ2z5aWI6Imv55yM5a6H6ZmA5biC6I-f55Sw6YeO5p2x6YO377yS77yU77yW!3b1!3m1!1s0x6006b09571302111:0xbf2f432ba4e09200
曽爾村の八辻城跡です。在地武士桃股三田氏の城で永禄年間に北畠具教により落城したと伝えられます。説明板のあるところから登っていくと東屋のある広い居館部に出ます。茂って見えにくいですが当時は見事な屏風岩が見えていたでしょうね。もっとも伊勢本街道の押さえるための築城だったでしょうけど。
八辻橋バス停の南側に東屋があり、そこが八辻の森の登山口になってます。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%AE%87%E9%99%80%E9%83%A1%E6%9B%BD%E7%88%BE%E6%9D%91%E6%8E%9B+%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%9C%AC%E8%A1%97%E9%81%93/@34.4954973,136.1064477,17z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x6006af6262d9de89:0xbbadf8bc47f81a8c
曽爾村の掛城跡です。公民館と寺院の背後を登っていきます。北側に堀切のようなものを見つけましたが、墓地の造成の破壊もありそうに思いました。向かい側に八辻城があるので出城のような働きの城だったのかと思います。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%AE%87%E9%99%80%E9%83%A1%E6%9B%BD%E7%88%BE%E6%9D%91%E6%8E%9B%EF%BC%97%EF%BC%92%EF%BC%96/@34.4996593,136.1139539,19z/data=!3m1!4b1!4m7!1m4!3m3!1s0x6006af6262d9de89:0xbbadf8bc47f81a8c!2z5aWI6Imv55yM5a6H6ZmA6YOh5pu954i-5p2R5o6bIOS8iuWLouacrOihl-mBkw!3b1!3m1!1s0x6006af5fdbab5f41:0xa6dcaedf740f9433
 曽爾村の今井城跡です。城主不明ですが、北に鎧、兜岳。南に曽爾高原をのぞめる村一番のビュースポット。現在は観音像が立ちここに至る東海自然歩道が奥香落山荘内を縦貫しております。

場所
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%AE%87%E9%99%80%E9%83%A1%E6%9B%BD%E7%88%BE%E6%9D%91%E4%BB%8A%E4%BA%95%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%93%EF%BC%97/@34.5178987,136.1259468,19z/data=!3m1!4b1!4m7!1m4!3m3!1s0x6006af6262d9de89:0xbbadf8bc47f81a8c!2z5aWI6Imv55yM5a6H6ZmA6YOh5pu954i-5p2R5o6bIOS8iuWLouacrOihl-mBkw!3b1!3m1!1s0x6006af4923a1718b:0x5e3c3386922abc1e
御杖村の秋葉城跡です。伊勢本街道牛峠の北側の山のピークに城跡がありました。伊勢北畠氏に関係があるのでしょう。
参考
http://blogs.yahoo.co.jp/jyamasiro/43906461.html
https://www.google.co.jp/maps/search/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%AE%87%E9%99%80%E9%83%A1%E6%9B%BD%E5%BE%A1%E6%9D%96%E6%9D%91%E8%8F%85%E9%87%8E/@34.494839,136.1864914,3a,75y,307.22h,90t/data=!3m4!1e1!3m2!1s2WF9Q0k4YkXFGN9vdsFF7Q!2e0
 天理市の福住中定城跡です。東山内の有力国人、福住氏の本拠で1434年にはここに城館を築いていたという記録が残っています。また1481年には越智、古市氏に対抗するべく改修している記録があります。写真は出廓の社殿です。
 参考
http://blog.goo.ne.jp/gfi406/c/2d897f1a1e1ad309093795f7c9fc6a49
天理市の福住井之市城跡です。1481年に山田氏と組んだ越智、古市氏が築城し、その後福住氏が持ったものと考えられています。
 西廓との間の堀切遺構は松永久秀軍が攻めよせた1570年ごろのものと思われます。また入り口の民家には「殿屋敷」「馬場」の小字名が残るそうです。
参考
http://blog.goo.ne.jp/gfi406/c/2d897f1a1e1ad309093795f7c9fc6a49
香芝市の雲門寺城跡です。1569年に松永久秀が片岡氏を攻めたときに使われたと思われます。
畝状竪堀が見事に残ってます。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%AE%87%E9%99%80%E9%83%A1%E6%9B%BD%E7%88%BE%E6%9D%91%E6%8E%9B+%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%9C%AC%E8%A1%97%E9%81%93/@34.5739518,135.6792937,1972m/data=!3m1!1e3!4m2!3m1!1s0x6006af6262d9de89:0xbbadf8bc47f81a8c
 桜井市の小夫城跡です。在地武士小夫氏の城だったようですが、小夫氏は足利幕府の討伐対象になったり、1481年には沢、秋山、片岡氏に攻められ退去したり、1491年以降は筒井氏と対立して越智氏を匿ったり1565年には大宇陀の秋山氏と共に松永久秀から離反、攻められ落城するなど、戦乱の多い地域でもありました。遺構は単郭が一般的な在地武士の城にしては規模も大きく,松永久秀軍の使用、改修があったのではないかと思われます。
参考
http://blog.goo.ne.jp/gfi406/c/0e0896afc193c76a070791a25e62ca1e
 天理市の岩掛城跡です。天理市山田地区を本拠とした山田氏の城で、1566年に松永久秀方の多田氏から奪還した記録があります。1571年の辰市合戦(筒井順慶と松永久秀の戦い)で城主山田順清が討ち死にし、改修途上の未完成な遺構になっています。

小学校跡うぃ利用した山田公民館背後の山ですが、未完成な上に倒木やブッシュに覆われ、わかりにくさを感じました。

参考
http://blog.goo.ne.jp/gfi406/e/55725d272a40b13cc929d03d9ae35123
奈良市都祁の馬場城跡です。山田山城、山田新城とも呼ばれ、山田道安(順貞)ゆかりの城のようですが、1573年に順貞も死去。それによってか未完成状態なのかもしれません。主郭には石組遺構もあり非常に大規模な山城です。
参考
http://blog.goo.ne.jp/gfi406/e/04cadfccd0797a22dd3ccfda857f4fd0
天理市の藤井城跡です。すっかり竹に覆われておりますが、土塁など残されています。この場所は「殿屋敷」と呼ばれているそうです。
http://blog.goo.ne.jp/gfi406/e/68c93171d3640d7ccde4c835f49a48ac
五條市の牧野城跡です。城主だった牧氏は「太平記」によると城主として牧野上野房聖賢の名があります。堀切遺構がないので城跡とするに否定的な見方もあるそうですが小字が「城」だということで城跡認定でいいと思うのですが。石碑はもはや見えにくくなってますね。北に向かうと金剛山方面です。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92633-1215+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%AE%87%E9%99%80%E9%83%A1%E6%9B%BD%E7%88%BE%E6%9D%91%E6%8E%9B+%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%9C%AC%E8%A1%97%E9%81%93/@34.3749364,135.6789574,250m/data=!3m1!1e3!4m2!3m1!1s0x6006af6262d9de89:0xbbadf8bc47f81a8c
 五條市の大沢寺は守護大名畠山氏の家督争いの続く中、1513年に畠山義英軍がここに籠り宇智郡衆、伊都郡衆と戦ったと「三箇文書」に記録があるそうです。山岳寺院の城塞化の1つだったのでしょう。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92637-0081+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E4%BA%94%E6%A2%9D%E5%B8%82%E4%B8%8A%E4%B9%8B%E7%94%BA%EF%BC%96%EF%BC%95%EF%BC%91/@34.3798293,135.6665506,550m/data=!3m2!1e3!4b1!4m7!1m4!3m3!1s0x6006af6262d9de89:0xbbadf8bc47f81a8c!2z44CSNjMzLTEyMTUg5aWI6Imv55yM5a6H6ZmA6YOh5pu954i-5p2R5o6bIOS8iuWLouacrOihl-mBkw!3b1!3m1!1s0x6006d411e74569c1:0xc6af8009f8841ee6
香芝市の送迎山城跡です。東側に畝状堀があり、松永久秀が片岡氏を攻めた頃のものかと思われます。
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奈良県と大阪府の境目の尾根に築城された七郷山城跡です。石塔の立つ東西に二重堀切があり、その守りの堅固さは松永久秀軍の築城ではないかと思われます。

https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92637-0081+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E4%BA%94%E6%A2%9D%E5%B8%82%E4%B8%8A%E4%B9%8B%E7%94%BA%EF%BC%96%EF%BC%95%EF%BC%91/@34.5631269,135.6634128,15z/data=!4m7!1m4!3m3!1s0x6006af6262d9de89:0xbbadf8bc47f81a8c!2z44CSNjMzLTEyMTUg5aWI6Imv55yM5a6H6ZmA6YOh5pu954i-5p2R5o6bIOWbvemBkzM2OeWPt-e3mg!3b1!3m1!1s0x6006d411e74569c1:0xc6af8009f8841ee6
 奈良市の鉢伏山城跡です。城主古市氏は春日大社御祭で流鏑馬をする武士団の中になく、京都との流通を把握することで勢力を伸ばし、筒井氏と争い、応仁の乱以降、畠山義就側に立っていました。畠山義就の死後は筒井側に抑えられ、没落しますが、鉢伏山城は筒井氏側と戦った際の隠れ城として使われ、まだ巨大な畝状竪堀群の存在はその後松永久秀側が使った可能性もあるのではないかと思います。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92630-8414+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B8%82%E9%89%A2%E4%BC%8F%E7%94%BA/@34.6590765,135.8786957,15z/data=!4m2!3m1!1s0x6001379f06b73e19:0x84d7cfa93f7215ae
奈良市の椿尾下城です。城主の椿尾氏は興福寺大乗院方の衆徒で当初は古市氏に従っていましたが、後には筒井氏につくようになりました。笹やぶが激しく主郭には入れず。

https://www.google.co.jp/maps/@34.6339334,135.8703719,570m/data=!3m1!1e3
 奈良市の椿尾上城跡です。天文年間に筒井順昭が築城、1559年に松永久秀によって筒井城が陥落した後、筒井順慶もここに逃れていました。「筒井氏の山の城」とされています。 
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92630-8405+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B8%82%E5%8C%97%E6%A4%BF%E5%B0%BE%E7%94%BA+%E5%9F%8E%E5%B1%B1/@34.6327016,135.8833654,2211m/data=!3m1!1e3!4m2!3m1!1s0x60013637a2128065:0x2590ec1dc1bd7232
橿原市の耳成山は1506年8月3日、幕府方赤沢朝経が多武峰に籠る大和衆を攻めるために築城したとされています。山頂部は確かに曲輪が造られていますね。https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92637-0081+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E4%BA%94%E6%A2%9D%E5%B8%82%E4%B8%8A%E4%B9%8B%E7%94%BA%EF%BC%96%EF%BC%95%EF%BC%91/@34.526003,135.7680287,13z/data=!4m7!1m4!3m3!1s0x6006af6262d9de89:0xbbadf8bc47f81a8c!2z44CSNjMzLTEyMTUg5aWI6Imv55yM5a6H6ZmA6YOh5pu954i-5p2R5o6bIOWbvemBkzM2OeWPt-e3mg!3b1!3m1!1s0x6006d411e74569c1:0xc6af8009f8841ee6
 桜井市の外鎌山は後醍醐天皇吉野入りに協力し、南朝方で活躍した戒重西阿の詰め城で西阿は1341年、ここで討死したそうです。山頂には曲輪が段状になった南北朝期の遺構が残されています。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92637-0081+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E4%BA%94%E6%A2%9D%E5%B8%82%E4%B8%8A%E4%B9%8B%E7%94%BA%EF%BC%96%EF%BC%95%EF%BC%91/@34.5186485,135.8087124,13z/data=!4m7!1m4!3m3!1s0x6006af6262d9de89:0xbbadf8bc47f81a8c!2z44CSNjMzLTEyMTUg5aWI6Imv55yM5a6H6ZmA6YOh5pu954i-5p2R5o6bIOWbvemBkzM2OeWPt-e3mg!3b1!3m1!1s0x6006d411e74569c1:0xc6af8009f8841ee6
御所市の峯山百体観音北尾根の先端は南禅寺跡で堀切遺構があり、山岳寺院の城塞化(峯山城)の可能性が考えられるとのことです。南禅寺には空海、楠木正成の来訪伝説もあるそうです。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%B3%AF%E5%B1%B1%E7%99%BE%E4%BD%93%E8%A6%B3%E9%9F%B3/@34.3981448,135.7141958,17z/data=!3m1!4b1!4m13!1m7!3m6!1s0x6006d411e74569c1:0xc6af8009f8841ee6!2z44CSNjM3LTAwODEg5aWI6Imv55yM5LqU5qKd5biC5LiK5LmL55S677yW77yV77yR!3b1!8m2!3d34.3798293!4d135.6665506!3m4!1s0x6006d22d7457f475:0x63ad4aa54d3f5382!8m2!3d34.3981404!4d135.7163899
 天理市の菅田城跡です。平安時代には東大寺領菅田荘でしたが、鎌倉時代には興福寺領となり、14世紀には北朝方に味方した菅田盛弘の名前が残っています。また戦国時代には菅田豊春の名前が残り筒井氏の影響下にあったと思われます。現在は京奈和道の下に埋もれてしまってますが、外周の濠跡や、集落の道幅の変化に名残が残ります。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92632-0087+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%A4%A9%E7%90%86%E5%B8%82%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E5%8D%97%E8%8F%85%E7%94%B0%E7%94%BA%EF%BC%93%EF%BC%90%EF%BC%93/@34.5975201,135.7901503,17z/data=!3m1!4b1!4m13!1m7!3m6!1s0x6006d22d7457f475:0x63ad4aa54d3f5382!2z5bOv5bGx55m-5L2T6Kaz6Z-z!3b1!8m2!3d34.3981404!4d135.7163899!3m4!1s0x600131071d94a837:0xf356cc8b82c14bbd!8m2!3d34.5975157!4d135.792339
天理市の苣原城跡です。城主は苣原氏と思われます。集落の南側の山に遺構があります。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92632-0022+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%A4%A9%E7%90%86%E5%B8%82%E8%8B%A3%E5%8E%9F%E7%94%BA%EF%BC%93%EF%BC%94%EF%BC%90/@34.5846845,135.8919473,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x6001359b299dc143:0x3ce799dbfd8ba539!8m2!3d34.5846801!4d135.894136
下市町の御坊峰城跡です。戦国期の下市には願行寺を中心に一向一揆の勢力がありましたが、1578年10月、筒井順慶がこの地を平定し、戦後処理に築いた城と思われ、「多聞院日記」に「下市一城構、人数入置」と書かれているのはここの可能性が高いです。現在畑と雑木林になっている中に名残が残されています。

https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E4%B8%8B%E5%B8%82%E5%BE%A1%E5%9D%8A%E5%B3%AF%E5%9F%8E/@34.3707526,135.7836156,459m/data=!3m2!1e3!4b1!4m13!1m7!3m6!1s0x6001359b299dc143:0x3ce799dbfd8ba539!2z44CSNjMyLTAwMjIg5aWI6Imv55yM5aSp55CG5biC6Iuj5Y6f55S677yT77yU77yQ!3b1!8m2!3d34.5846801!4d135.894136!3m4!1s0x6006cfa163147e8d:0xfcbdb819a841116f!8m2!3d34.3707526!4d135.7854913
生駒市の高山城跡です。中世には鷹山荘と呼ばれ、城主は清和源氏の流れを組む鷹山氏でした。応仁の乱以降は古市氏、松永久秀入国後は松永氏と結んでいました。天正年間に筒井氏に攻められ落城しました。鷹山氏からは東大寺を復興した公慶が出ています。
https://www.google.co.jp/maps/place/高山城址/@34.7563914,135.7177511,480m/data=!3m1!1e3!4m13!1m7!3m6!1s0x6006d22d7457f475:0x63ad4aa54d3f5382!2z5bOv5bGx55m-5L2T6Kaz6Z-z!3b1!8m2!3d34.3981404!4d135.7163899!3m4!1s0x6001187b5fd12f79:0xde44abb5b177db22!8m2!3d34.7562213!4d135.7190634
橿原市の鳥屋城跡です。橿原高校東側の丘で春日神社と前方後円墳があり、古墳の南側が堀切遺構のようになっています。城主不明ですが、松永軍の越智氏攻めか越智氏の支城の1つだったのか?https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92634-0822+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E6%A9%BF%E5%8E%9F%E5%B8%82%E9%B3%A5%E5%B1%8B%E7%94%BA%EF%BC%94%EF%BC%92%E2%88%92%EF%BC%91%EF%BC%93/@34.4764594,135.7780754,19z/data=!4m13!1m7!3m6!1s0x6001359b299dc143:0x3ce799dbfd8ba539!2z44CSNjMyLTAwMjIg5aWI6Imv55yM5aSp55CG5biC6Iuj5Y6f55S677yT77yU77yQ!3b1!8m2!3d34.5846801!4d135.894136!3m4!1s0x6006cd3c82f9e827:0x2c7d66a754368bb0!8m2!3d34.4764572!4d135.7786253
高取町の観覚寺城跡です。高取城の守りに適した地で。向かいの子嶋寺の丘と双方で高取城への進入を防いでいたと思われます。この地に勢力を伸ばす越智氏が筒井氏と対立していた1516年には使われていたものと思われます。
https://www.google.co.jp/maps/search/+%E8%A6%B3%E8%A6%9A%E5%AF%BA%E5%9F%8E/@34.4526222,135.796938,17z/data=!3m1!4b1
子嶋寺の裏山にも城郭遺構があります。道を隔てた観覚寺城とは連携して防御にあたっていたものと思われます。
https://www.google.co.jp/maps/search/+%E8%A6%B3%E8%A6%9A%E5%AF%BA%E5%9F%8E/@34.4526222,135.7947493,1293m/data=!3m1!1e3
>>[392]

私も1カ月前攻城したのですが、写真左の登り口から主郭の間に屋敷郭の様な土塁付きの平地(写真)があったのと
もう少し管理されていたら主郭の奥にも山裾に向かって曲輪がありそうなのですが確認出来なくて残念だった様な
こらからダニがピーク見たいですから(;^_^A
>>[389]
谷部が堀の名残でしょうか?
2020/03/18の画像です。
>>[394]  私は1年ほど前に行ったのでやはり、ダニが嫌な時でしたね。
>>[395] ここは農地ですもんね。畑が連郭式の城に見えますね。
>>[397]
はい、大きな郭が2,出入り部に小郭もあった感じです。
生駒市の応願寺は萩原城址とされています。城主不詳ですが、暗峠奈良街道を押さえるにはいい位置だと思います。https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%BF%9C%E9%A1%98%E5%AF%BA/@34.6661774,135.6992593,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x60012476edc56fe7:0x8fe56a717530b352!8m2!3d34.6661096!4d135.7014651
宇陀市榛原区葛神社背後に山辺中城跡があります。背後の尾根の先端を堀切で断ち切っています。城主不詳ですが山辺氏ではないかと思われます。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E8%91%9B%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@34.553446,135.9788849,16z/data=!4m5!3m4!1s0x6006b37be6f11479:0x1808093e7a609ef3!8m2!3d34.5530357!4d135.9854945

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