ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

現代人にも通用する仏教思想コミュの042-禅問答の危うさ

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 (続き・・・)

 頓悟禅は、六祖慧能から始まっているんですが・・・もともと達磨禅師が禅の持っている大きな特徴を備えているわけでしてね。
 達磨さんの話の中で、中国に渡ってきて後・・・二祖となった慧可が「心が乱れてどうしようもありません。どうか、師よ。私の心を静めてください。」と願う下りがあります。すると、達磨さんが、「それならば、その心を出してみよ。私が静めてみせる。」と、言います。もちろん「心を探してみましたが、どこにもありません。」と、答えるんですね。すると、達磨さんは、「私は、おまえの心を静めたぞ。」と、言うんです。

 まさに、禅問答ですね。(^_^)v

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 もし、釈尊が生きておられて同じ質問をされたらどうか?おそらく、心が乱れている原因はどこか喝破されて、原因を取り除けば悩みもなくなるとアドバイスされるでしょうねぇ。(^_^)v
 そこが、禅宗には欠けている部分なんですね。なんもかんもが不立文字!言葉で表すことができない。ただ座れ!何か?必ず何か悟るものがあるだろう!なんてね。そこでおしまいとなりかねないところがあります。
 禅問答には、その微妙なすり替えともとれる面があるんです。悟りを言葉で表せないものととらえて、なんとく曖昧なものにしてしまう部分があるんですね。

 たとえば、達磨大師がインドから来た理由は?と、問われて・・・「庭前(ていぜん)の柏樹子(はくじゅし)」(庭の柏の木だ!)と言ったりします。または、仏教の大意とは?と、問えば・・・「一指頭禅(いっしとうぜん)」と言って、指を一本天に向けて立てて見せるようなこともしますね。何を聞かれても、指を一本立てるんですね。(^_^;)

 すなわち、言葉で表せないないものだ・・・そういうことを、一生懸命説明するのが禅宗なんですな。確かに、深遠な悟りを言葉で表せないことも事実でしょう。しかしながら、その難しい仕事を一生かけてやられたのが釈尊の一生であったことを思えば・・・これは、禅宗というのはいわゆる「誤魔化し?」と、言われても仕方がない面があるんです。言葉で表せなくても良いのだと開き直っているように見えても仕方がない面があるんですね。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 慧能という方は、実に意表を突くのがうまかったタイプの人だったらしくて・・・弘忍の下を去ってしばらくは、まかないのバイトをしながら生計を立てていたらしいんですが、だいぶほとぼりが冷めてきて・・・久しぶりに慧能が故郷・広州の寺に戻った時、境内に刹幡(せっぱん)という吹流しのような大きな幡(旗)が掲げられていました。この幡は、寺で説法や講義を行なうときに掲げられます。その幡が動くのを見上げ、二人の僧が言い争っています。一人の僧が「幡動。動くのは、風ではなく幡である。」と主張し、もう一人の僧は「風動。幡が動いているのではない、動いているのは風だ。」と言い張って、お互いに譲りません。それを聞いた慧能が「風が動くのではない、幡が動くのではない、貴方の心が動いているのです。」と言ったんですな。

 これは、「非風非幡」(ひふうひばん)といって禅宗の有名な公案です。(^_^)v


 まぁこれを批判的に言ってもしょうがないんですが・・・良くいるでしょ。田舎のおじさんが、時々人がはっとするような言葉を言って驚かすような人がね。その才能によって、けっこうみんなから博識だ!とか?言われて尊敬される人がね。だからといって、そのおじさんが悟っている人かと言えば・・・必ずしもそうではない。(^_^;)
 禅宗の公案禅の名手には、そういうところがあるんですね。なんか、解らないけれど凄いことを言っているような気がするとか?自分には理解できないが、この人は凄い人じゃないか?とかね。(^_^)v

 それは・・・ある意味禅宗の特徴でもあり、良い面とよろしくない面も共存しているところがある。誓願には、そう思えるんです。(-_-)

 (続く・・・)http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=46724181&comm_id=4273190

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

現代人にも通用する仏教思想 更新情報

現代人にも通用する仏教思想のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング